びっくりしちゃう風見発端は、組織の幹部のひとりに風見の面が割れたことだった。
警視庁の小さな会議室。ブラインドを下ろした窓辺に立った降谷から淡々と事実を告げられて、風見は青ざめた。NOCリスト流出事件の際のことだという。あの時はリスクを取っても風見が動くほかなかった。
「不可抗力だ」
「連絡役を変えるのが最善かと」
当たり前のことを言ったのに降谷に睨まれて、風見は思わず半歩下がった。降谷との接触はかなり気を使っているが、万が一にも公安の刑事と一緒にいるところを見られたら、彼がどんな目に遭うか。
「君を降ろす気はない。そうだな、ロミオトラップにかかったことにしよう。君には申し訳ないが」
「ロミオトラップ」
「そう。君には安室透に惚れて警察内部の情報を横流ししている倫理観の欠けた公務員になってもらう」
安室が警察内部の情報を得るために堅物の刑事を篭絡した。二人が接触するのは、風見を通して警察内部を探っているため、ということにする。
「なるほど。分かりました」
「君はいいのか? 僕の潜入が続くあいだ、恋人を作れないぞ」
「もとよりそのつもりですから」
乾いた笑い声が出た。この多忙な中、恋人を作って関係を維持するなんて器用な真似、できる人間がいるとしたら、それこそ降谷くらいではなかろうか。
「それならいい」
自分で提案したくせに、降谷はどこか不満げだった。
ロミオトラップに引っかかった間抜けな警察官という設定になってから、風見の生活は少しだけ変わった。飛田という偽名で安室透のテリトリーに入ることが増えたのだ。米花町にも何人か知り合いができた。それはどうなのかと思うが、風見は降谷のように目立つ容姿をしているわけでもないから、刑事として知り合いに出くわすことがあっても、他人の空似で誤魔化せないこともないだろう。
安室透の自宅に招かれたり、ふたりで食事に行くことも増えた。今までは人目を忍び、他人を装った接触しかしてこなかったから、初めは違和感もあった。だが降谷の様子を直接確かめられる機会が増えたことは、連絡役としては素直にありがたい。
その日も安室宅に呼び出された。降谷に依頼されていた資料をまとめ、二十時過ぎには退勤した。真冬である。空気はキンと冷えていた。車に乗り込むとすぐにエンジンを掛け、フロントガラスが温まるのを待った。ダッシュボードに入れていた子犬用のジャーキーの存在を思い出し、鞄にしまう。先日ホームセンターで見かけて、つい買ってしまったのだ。人間用のジャーキーとほとんど見分けがつかない。美味しそうだった。値段は少し高かったが、無添加、塩分カットも謳われていたから飼い主も許してくれるだろう。あの仔犬には、骨ガムを貰った恩がある。
出迎えてくれた降谷はエプロンをしていた。風見が安室透のために用意したモヘアのセーターも相まって、いつもより雰囲気が柔らかく感じる。
「お疲れ様。今日は豚汁だから食べていけ」
「ありがとうございます」
仕事の資料の他にジャーキーを持ってきたことは軽く咎められたが、一切れだけという条件で、仔犬に与えることが許された。
彼は相変わらず聡明で、お座り、伏せ、お手、おかわりの一連の指示のあと、「よし」の合図を待って風見の手からジャーキーを咥え取った。お気に召したらしい。あっという間に平らげて、おかわり、とキラキラした目で見つめられたが、すぐ近くに怖い飼い主がいるので、風見の一存ではどうすることもできない。
「ごめんね、もうおしまい」
分かったというような澄ました顔をして、でも風見の膝に前足を乗せてくれるのが可愛い。真っ白の毛並みは手触りが良くて、ずっと撫でていたくなる。
エプロン姿のまま紙の資料を捲っていた降谷に追加調査を言い渡され、指示を頭に叩き込んだ。犬は呑気に大きな口で欠伸をしている。
「緊張感がない」
犬のことかと思ったら、どうやら風見のことだった。降谷を見ると、じとっとした目でこちらを見ていた。慌てて居住まいを正す。
「いや、すまない。今は寛いでもらって構わないんだが」
降谷は思案げに眉間に皺を寄せた。風見は首を傾げる。
「君は僕に篭絡されたっていう設定だったな」
「はい」
「全然そう見えない」
「それは」
まずい、のだろう。確かに、身を滅ぼす恋をしている人間は、好いた人の隣でラーメンスープを飲み干したりしない気がする。風見には降谷の前で演技をするという発想がそもそも無かった。
降谷は風見のほうに手を伸ばす。ネクタイの結び目に指が引っかかった。喉がヒュッと鳴る。いつぞや腕を捻りあげられた時のように、今度は首を絞められるかと身構えてしまった。
「怖がらなくていい」
降谷の声色がほんの少し甘くなる。篭絡とは、そうか、具体的にはこういう……。風見が考えている隙にネクタイが解かれ、降谷の顔が眼前まで迫っていた。尊顔に呼気が当たってしまいそうで、息ができない。唇が触れる寸前、降谷が微かに笑った。
「顔、真っ赤だ」
頬を手で挟むと、確かに熱い。胸の中で心臓が暴れている。風見はこの上なくびっくりしたのだ。降谷に、キスされるかと思って。
「分かったか、君と安室透はこういう仲……君、大丈夫か?」
「はい! 大丈夫です、もちろん。では、今日は帰ります」
「いや、夕食……」
降谷は言葉を切って、溜息をついた。
「すまん、やり過ぎた。君に少し意識して欲しかっただけなんだが、セクハラだな」
「いえ、ご指導大変参考になりました。これからは、いっそう、あの、しょうじんを」
心臓がまだうるさい。胸が苦しくて、すぐに立ち上がれそうになかった。顔も熱い。横隔膜が痙攣する。吃逆かと思ったら、漏れでたのは嗚咽だった。一緒に涙腺も馬鹿になってしまって、めちゃくちゃだ。風見は自分の口を塞ぐことしかできなかった。
降谷はそんな風見の様子を見て、更に動揺している。大の男がいきなり泣きだしたのだから当たり前だ。だがこれは、驚きすぎて身体が過剰反応しただけで、決して傷ついたとか恐ろしかったとか、そういうのではない。風見は大丈夫ですと伝えたくて、降谷の声がニットの裾をそっと引っ張って、そうしてから、この仕草はまるで縋っているようだと気付いてしまった。
何もしない、と断ってから、降谷はそっと風見の身体を抱き寄せた。ぎくしゃくと降谷の肩に頭を預けると、子どもをあやすようにゆっくりしたリズムで背中をなでてくれた。強張った身体から徐々に力が抜け、呼吸も脈もいつも通りに戻ってゆく。
「悪かった」
「いえ、こちらこそお見苦しいところを」
降谷の胸に手をついて身体を離すと、降谷にもう一度、ごめんと謝られて、いたたまれない気持ちになる。
(このあとかざみは降谷さんを意識しまくっちゃって、結果めちゃくちゃロミトラに引っかかってる感が出て、みんなに「このふたり、ただごとじゃない…!」って思われちゃうし、そしかいごもぎくしゃくしちゃうけど、なんやかんやあって付き合うけどふるやさんがぜんぜん手を出してくれなくてかざみがぐるぐる悩んだりするんじゃないかな!?)