サマーバケーション「あっちぃ」
鬱陶しいほどの蝉の合唱。刺さるほど痛い陽の光。体中にまとわりつく湿気が不快で、五条は顔を顰めた。こんな日に外へなんて出るなんて正気の沙汰とは思えない。任務でなければ絶対に出るもんか。汗でべったりと貼りついたシャツの首元を持ってパタパタと動かしてみるも、暑い空気がほんの少しかき回されるだけで、いいことなんて一つもなかった。
情報収集が主だったから、昼間の人通りが多い時間に動くしかなく、それなりに目立たないように服装もいつもより身軽にシャツとジーパンにスニーカーとサングラスで無難にまとめている。と言っても、身長と髪と目の色のせいで結局目立つので、たいした意味はない。
今日はこれ以上の収穫は見込めないだろう。特級呪物の回収が今回の任務で、万が一封印が解けていたときのための保険という名の嫌がらせで五条に振られた。無理無理、今日は無理。伊地知に車を回させようとスマートフォンを尻ポケットから取り出すと画面は真っ暗でうんともすんとも反応しない。電池が切れている、なんて、最強にあるまじきミスである。
「伊地知、マジビンタ」
何かのせいにしたくて、とりあえず、伊地知のせいにすることにする。一応、緊急時の待ち合わせ場所として指定したファミレスが徒歩十分のところにあることを思い出し、進路を定めた。
閑静な住宅街で歩を進めていると、小さな塊が生垣の向こうから飛び出してきて、五条の足にぶつかって転げた。身長の半分もないというのにそのあまりの勢いに五条の足も一歩下がった。呪力も敵意も感じなかったから、油断はしていた。暑さで少しボケていたかも知れない。それでも、五条を一歩でも後退させてたのだから、この謎の物体の勢いもなかなかのものである。
「う~」
転げた物体が唸るのを聞いて、その隣にしゃがみ込んだ。
「大丈夫?」
麦わら帽子を被り、虫取り網とカゴを持ち、タンクトップに半ズボン。夏休みの子どもの見本のような少年が、琥珀糖のような瞳を潤ませながらも天に輝く太陽よりも眩しい笑顔を見せる。ニカッと音がしそうな笑顔の口元、白い歯が輝いている。
「へいき!」
子ども特有の少し高い声で元気よく答えた少年の口から白い前歯がころんと落ちる。スローモーションのように落ちた歯を少年は黙って拾い上げた。
「え、え、前歯、今ので折れた? ウソ」
「だいじょうぶ」
慌てる五条の顔を覗き込み、眩しい笑顔がほんの少し曇る。やはり、痛いのだろうか? 口を開く前に、少年は自分の頭上の麦わら帽子を手に取ると、五条の色素の薄い髪を隠すように落とした。ぶら下がっているゴムを顎に引っ掛ける徹底ぶりだ。おそらく少年にとっては少し大きめの、五条からすれば少し小さめの麦わら帽子がしっかりと縫い留められたことを確認してから、少年は五条の手を取って立ち上がった。
「きて」
少年に引きづられるように歩み出す。黙って歩く少年の明るい色の汗に濡れた髪と旋毛が小さく揺れている。汗で湿った熱い小さな手のひらをなぜか振り払う気にはなれなかった。
少年に着いて入ったのは古い日本家屋だった。門から入ってぐるりと庭へ周り縁側まで来ると、ぐいぐいと手を引っ張って座らせられる。木陰になっていて涼しい。スニーカーを脱ぎ捨てて沓脱石の上に転がすと、開け放った障子の奥へ入っていってしまった。
木陰の涼しさにほっと息を吐く。思ったより、夏の日差しにやられていたのかも知れない。
カラン。
涼しげな音に振り返ると、少年がお盆を持って戻ってきた。そろりそろりと歩く足取りが少し危なっかしい。五条の隣にそっとにお盆をおろす。二つのガラスコップには氷と麦茶がたっぷりと注がれていた。
「のんで」
少年の小さな手に寄って、五条の頭から麦わら帽子が取り払われる。水滴のついたコップを取り、口をつけると思ったより喉が渇いていたのか、あっという間に空にしてしまった。少年は顔からだらだらと垂れた汗が縁側の古い木目に染みを作ることも構わず、五条のことをじっと見ている。
「お前も飲んで」
「うん」
小さな手には余る大きめのガラスコップを両手でしっかりと握って、こくり、こくりと水分が喉を通るさまを見ていた。五条の隣に腰掛けて、足をぶらぶらと揺らしながらも、その琥珀はじっとこちらを伺っている。
「何?」
ハンカチなぞ持ち歩いていなかったので、シャツの裾を捲って少年の顔に垂れる汗をゴシゴシと拭ってやると、やっぱりニカリと太陽のように笑った。前歯がなく、すきっ歯だ。血もついているように見えて、眉間に皺が寄る。
「お前、歯が折れたとか」
「おれる? わからんけど、ぐらぐらしてたからぬけた。にほんめ」
「あー、乳歯か」
そういえば、自分も子どもの頃にそんなことあったような? これくらいの年齢だっただろうか。あまり覚えていないけど。
少年は先ほど抜けたばかりの小さな白い乳歯をポケットから取り出し、手のひらの上で転がした。
「ここ!」
大きく口を開け、抜けた場所を教えてくれる。ピンクの歯茎の中で赤くなっていて、その奥に小さな白い粒が見えた。永久歯が生え始めているのだろう。誇らしげに見せてくれるので、思わず指先で突いてみると、柔らかい剥き出しの肉の中に固い部分。知らない人間に口の中を触られているというのに、少年は警戒することもない。ただ、くすぐったいのか、身を捩ってキャッキャとはしゃぐ。特に子どもに興味のない自分でもこれだけ人懐こい子ならかわいいと思う。珍しい普通の人間らしい感情にこちらもくすぐったい気持ちになった。
「にーちゃん、なげて!」
縁側の下を指差して、少年が握っていた白いエナメル質を五条の手のひらに落とした。上の歯が抜けたら床下へ、下の歯が抜けたら屋根の上に投げるということだろう。他人の歯など気持ちいいものでもないし、わざわざ触りたくもないが、やはり嫌悪感はなかった。
「自分で投げたら?」
「おれ、このあいだ、なげたから」
抜けたばかりのまだ歯茎が赤くなっている隣には白い歯が生え始めていた。永久歯というにはまだ小さいから抜けたばかりで生えかけなんだろう。
ピンポーン
チャイムの音と、「おーい、」と少年の名を呼ぶ声が聞こえた。
「じーちゃんかえってきた! まってて!」
ぴょんと元気よく立ち上がってとたとたと縁側を走っていく。
「まっててね!」
振り返って念押しすることも忘れない。心配するなというようにひらひらと手を振ってやる。木陰は涼しいが、体はだるい。暑さに少しばかりやられているらしい。少しだけ、と自分に言い訳をして、ごろりと横になる。目上にさっきまで少年の体の一部だった小さな固い白い歯をかざす。手のひらで包んで額に当てると目を閉じた。
*
「先生、寝てんの?」
愛し子に声にゆっくりと瞼が持ち上がる。あれ? ここどこだっけ? パチパチと瞬きを繰り返すと、虎杖が二カリと笑った。太陽のような笑顔。地下室で並んで映画を観て、それから。任務続きで疲れて眠っていたかも知れない。彼の隣はよく眠れるのだ。
温かい体温を抱き寄せる。筋肉がきれいについた、五条よりは小さいけれど、ずっしりと重い身体。命の重み。命の温かさだ。
ふと思いついて、虎杖の口に指を入れる。人差し指と中指で丁寧に歯列、舌、頬の内側、上顎と順番に撫でていく。戸惑いつつもされるがままの口端から、ぽたりと涎が垂れた。舐めとってから、口腔に舌を差し入れると、んん、と、隙間からくぐもった喘ぎ声が漏れる。指で触れたところをもう一度順番に優しく撫でて、最後に前歯と歯茎をことさら丁寧に舐め上げる。以前にも触れたことがあるような気がして、遠い記憶を掘り起こすように何度も何度も触れると、涙目の虎杖が背中に回していた手で強く叩くので仕方なく解放した。
「まてって」
舌足らずのその声にやはり何か思い出せそうで思い出せなくて、虎杖の手を握ろうと開いた自分の手のひらから、ころりと白い小さな小さな塊が落ちて、二人の間に転がった。