特別な調味料がひとつ、あるだけでいい(蜜柑)「おはよう、山姥切……隣座るぞ」
「おはよう偽物くん。構わないよ」
朝、彼らは自然と同じテーブルに座る。それは山姥切長義がこの本丸に配属されてから続いていることだった。長義の「偽物くん」呼びも変わらないが、国広の何か言いたげな表情のまま言い返さないのも変わらないことだった。
国広は自分の膳を置いて、先に食事を始めていた長義を見る。今日の献立のメインは焼き秋刀魚だ。旬の秋刀魚は脂がよく乗っていて口に含めば甘さが広がるので、国広が好きな献立だ。
そしてそれは、目の前の男も同じで。皿の上はもう半分以上その身が食べ尽くされている。長義が大々的に「秋刀魚が好きだ」と言ったことはないが、表情が綻んでいることから好物である事は容易に読み取れた。
「山姥切、秋刀魚食べてくれないか?」
「え? どうしたんだよ。こんなに美味いのに」
「今日はちょっと……食欲がないんだ」
「ふぅん……わかった。ならもらって上げるよ」
秋刀魚が乗った皿を渡す。喜ぶ表情を浮かべる長義を見て、国広は胸のうちがきゅうと縮こまって、そのままちゃぷりと幸福に浸される心地を覚えた。好物の秋刀魚を食べる以上の幸いだ。何もまだ食べていないのにお腹いっぱいだと思えた。
密かに失恋してからというもの、些細なことで長義を喜ばせることが国広の日課になっていた。いくら仲がいいとは言え、言葉でも態度でも存在でも国広が長義を笑わせられることはもともと少ない。会話をすれば長義はよく黙ってしまうし、行動を起こせば「余計なことをするな」と眉間に皺を寄せてしまう。
しかし、国広がほんの少し我慢するだけで長義は幸せに笑ってくれる。
「体調が悪いなら内番とか仕事とか、変わってあげてもいいけれど」
「気にするな。朝に弱いだけだから」
「そう。あまり無理はするなよ」
「ありがとう」
長義は柔らかく笑って、それから新たな秋刀魚に箸を入れる。骨を境に肉が解されていく。丁寧に、大切にその身を崩していく。
もしも、と国広は夢想する。
この焼き魚のように、隅から隅まで長義にこの恋心を暴かれることがあればそれは幸福なのではないか。美味しいところだけを食べてもらって、長義にとって不要な骨だけは捨ててもらう。それができたら、この死ぬだけの感情にも意味が持てるのではないか。
長義は「美味しいよ」と国広に礼を言う。
国広は「よかった」と長義に笑いかけた。
もっと望んでもいいのに、というのは審神者から国広への言葉だった。この本丸の初期刀である山姥切国広は欲というものが薄かった――というわけではなく、諦め癖があった。
誰かが同じものを欲しがれば少し考えた後に譲るし、欲しいものがあるかと聞かれれば手間をかけるからと何も答えない。だからこそ、というより必然的に。国広が己の本歌である山姥切長義への恋心を自覚したときも。
「……バレた? そうなんだ、好きな刀がいるんだよ」
そうやって、誰かについて語る横顔があまりにも綺麗だったから。国広は、この恋が叶わないのだと言葉を呑んで腑の中に落とすことができたのだ。
嘘がバレなければいつか本当になるという。
幸か不幸か、この本丸で山姥切長義と山姥切国広は仲がよかった。
*
さて、この恋心を美味しく食べてもらうために国広はいろいろな方法を試すことにした。かといって心臓を取り出してはいどうぞと差し出すわけにはいかない。そんなことをすれば、長義どころか審神者まで白目を剥いてひっくり返ってしまうだろう。
ではどうするか。好きなものを食べるときの長義は眉尻を下げて優しく笑みをうかべる。おそらく無意識にされているその表情が、国広は好きだった。だから長義にその顔をさせ続けることこそが、目的を達成したことになるのだろうと考えたのだ。
幸いにも、山姥切長義には想い忍ぶ相手がいる。だからその相手と結ばれた瞬間を「ごちそうさま」にしようと決めていた。食べ終わった後の片付けは、行き場の無くなったこの恋心の後始末など、国広自身がすればいいのだから。
いつものように近侍部屋での仕事を終えたその日の夜、国広は軽食と飲み物を持って廊下を歩いていた。キシキシと音を立てる床は国広ひとり分の音しか響かせない。皆寝静まっているか、夜戦に出かけていないためだ。そんな静かな夜だが、月は美しく虫の声も綺麗で国広は全く寂しさを感じていなかった。
国広は口元をほころばせながら目的地の前で足を止める。その部屋の戸が少しだけ開かれていた。
これもいつものことだ。耳を澄ませば、本のページを捲るような音が聞こえてくる。部屋の中には部屋の主しかいないのだろう。まるで自分を待ってくれているかのようなこの状況に、胸の内がきゅうと甘く鳴いた。
「ーー山姥切」
そっと声をかければ、内側から「入っておいで」と返ってくる。国広は戸に手をかけて、部屋の中に入っていく。
「今日も仕事だったのかな? お疲れ様」
「山姥切もだ。また黙って書類を捌いただろう」
「暇だったからだよ」
「しなくていいと言っているのに」
長義は国広の追求を躱しながらも、部屋の戸をぱたんと閉めてしまう。そうするとこの部屋の中は本当にふたりきりになる。国広は浮き足立った心地になった。
長義はいつも部屋の戸を少しだけ開けて、夜を過ごしている。国広がそれに気がついたのは失恋する前のことだった。当時はわけが分からなかったがし、今となってはその理由が分かる。恋しい相手を待っているのだ。通りがかったときに声をかけてくれないだろうか、用事があって訪れてくれないだろうか、そういう期待からだ。
けれど、国広が知る限りその願いが叶った日はない。国広が訪れるようになった今でも、もとより本丸の隅に位置する長義の部屋の前を誰かが通りがかることさえないのだ。
「俺がしたいからしてるんだよ。それに、そうすればこうしてお前が礼を持ってきてくれるだろう?」
「現金だな、あんたも」
「否定はしないよ。で、今日のメニューは?」
「おにぎりだ」
小鉢と飲み物をテーブルに配膳していく。
「その……今日はどうだったんだ?」
ごちそうさまと手を合わせて、機嫌良さそうに笑うから聞いてみた。
「今日も会話ができた。仲がいいねと主にも言ってもらえているよ」
「あんたのことだから責めて責めていくのだと思っていた」
「待つ楽しみもあるんだって、教えてもらったからね」
「そうか」
長義は頬杖をつきながら、穏やかに笑う。これで夢の中でも会えたら完璧なのだけど、という言葉には会えるといいなと上の空で返した。
羨ましいことだと国広は思う。今日国広が長義と話したことと言えば、畑当番の最中でだけだ。秋だというのに久しぶりに気温が高くなり暑かった。このままじゃ内番もままならないなと、お互いにふざけてホースの水をかけあった。
結果びしょ濡れになり、ふざけるなとふたりして怒られる羽目になったのだ。
そのときの長義の顔をよく覚えている。長義にしては珍しく、唇を尖らせて誰が見ても拗ねていた。偽物くんが悪いんだと言うので、山姥切も悪いと道ずれにしてしまったのだ。
それから二振りでくだらない言い合いになり、国広は死ぬほど後悔した。
「山姥切。今日は楽しかったか?」
「ああ、楽しかった。とてもね」
ありがとう、また明日、と山姥切が笑う。国広も同じようにまた明日と笑った。
*
この日の夜も国広は廊下を歩いていた。昨日とは違い空には薄ら雲がかかっている。肌寒さに身を縮こまらせながらも、国広は長義の事を心配していた。
なにせ秋の夜は冷えるのだ。いつも開いているあの戸のせいで、いつか風邪を引かないだろうかとか。寒がりのくせに薄着を好むものだから、寒い寒いと震えていないだろうかとか。……鼻先をほんのり赤くした長義はどんな顔で、どんな声で出迎えてくれるのだろうかとか。
そんな長義が身体の芯から温まれるように、京極の脇差の協力も得て今日はうどんを作ってきた。長義の好きなものをこれでもかと具材にしたから、間違いなく喜んでくれるという自信が国広にはあった。温かいね、と口元を緩ませてくれたらそれだけで充分だからこそ、指先にだって絆創膏を貼るほど頑張ったのだ。
どきどきと跳ねる心を抑えながら国広は足を進めた。視線の先では戸が開いているのが見える。その光景にますます国広は嬉しくなる。いつものように、名前を呼ぼうと足を止める。息を吸い込めば、肺に冷たい空気が広がっていく。
「――やま、」
声が喉で引っかかってでてこない。
部屋の中に、今日は先客がいたのだ。
聞こえてきた長義では無い声に、国広は膳を取り落としそうになるも咄嗟に持ち直す。そっと耳を澄ませば内側から聞こえて来るのはふたりぶんの笑い声だった。戸の隙間から見える光景は、何を話していたのだろうか、肩を震わせて笑っている長義の姿。
まるで心臓が止まってしまったかのような衝撃だった。だって、国広が部屋に居ても長義はこんな風に笑うことは一度もなかった。
「ああ、好きだよ。もう、どうにかなってしまいそうなくらいね」
おまけに優しい声色でそんなことを言うものだから、国広はまるで折れてしまったかのような心地になった。視線を落とせば湯気を立てるうどんが視界に入る。
ここに来るまではこの真心が長義を幸せに出来ると思っていたのに、今ではこの料理が酷く霞んで見えてしまう。
だから、自然と一歩後ずさった。
もともと、約束などしていないのだ。ただただ国広が、勝手に長義の部屋を訪れていただけで。ただただ国広が、長義を自分の手で喜ばせたいと思っていただけで。いつも長義が国広のすべき仕事を攫ってくれるから。そのお礼にと理由をむりやりつけて押し掛けていただけで。
最初から、この部屋の中に招かれるべき相手は国広ではなかった。
それだけだ。
息を潜め、気配を消して踵を返す。なるべく音を立てないように厨へ駆けた。衝撃で波打つ汁が手の甲にかかる。痛い。熱いはずなのに、身体の芯は氷のように冷え切っていた。
たどり着いた誰もいない厨は薄暗い。そのせいで国広は躓いてしまい、膳のものを全てひっくり返してしまった。切り落とされたような痛みが手の甲に走る。手首を握り込んで身を丸めた。
こんなとき、長義なら「どうしたのかな」と国広に声をかけたのだろう。だって、この本丸における長義と国広は不仲ではないのだ。長義は国広のことを「偽物くん」とは呼ぶが、仲間として扱ってくれる。初期刀として一目置いてくれている。
けれどそれが、国広にとって辛かった。
優しくされる度に、自分にもチャンスがあるのかもしれないと甘い夢を見た。自分も望んでもいいのかもしれないと淡い期待を抱いた。
今、身体が引きちぎられそうなほど傷むのは、失恋している身だというのに望んでしまった罰なのだろう。調子に乗りすぎてしまったのだ。
だからこそ、こんな思い長義は知らないままでいい。長義が知ってしまえば間違いなく気を遣うだろう。優しいからこそ、ごめんねと言ってくれるかもしれない。それはあまりにも、長義にとっても国広にとっても辛すぎる。だからこそ、そんな感情を抱いた上で成就はしてほしくなかった。
「……」
国広は机に手をついて立ち上がる。雑巾を掴んで、汚い物を落とすように何度も床をこする。びしゃびしゃに塗れてしまえば、それを捨てて。二枚目の雑巾で拭いて、また捨てて。器と膳は流しに置いて、ゴミ袋をきつくきつく縛った。
これは明日捨ててしまう。誰にも見られない時間に、そっと燃やしてしまおう。そう決めて、机に突っ伏す。
手も心も目元も、どこもかしこも痛くて。明日になれば長義の幸せを心から祝福できるようになっていればいいのにと心底願いながら。鼻を啜ってから国広はゆっくり瞼を落とした。
寒さで凍えてしまうほどだったのに、夢の中は穏やかなほど温かかった。痛くて痛くてしょうが無かった手が、まるで誰かに握ってもらっているように温かかった。さっきまでのことは夢だったのかもしれない。
もう望まないと思ったのに、そうだったらいいと願ってしまう。朝起きたらそこは自室で。急いで身だしなみを整えて、長義の隣にいつものように座るのだ。そうしたらいつものように出迎えてくれて、好物を食べる長義を見て幸せを噛み締めて――でもそれは、長義の恋はまだ叶っていない世界だ。
「おはよう偽物くん」
「………、……?」
目が覚めたら、そこにいたのは長義だった。国広はまだ夢見心地の頭で視線をゆっくり動かす。自分の部屋では無い。時計はまだ、おはようには早い時間だった。
それに、長義が国広の手に触れている。そこで初めて国広は自分の手の甲が酷く冷たいことに気がついた。長義によって氷が当てられているのだ。またいつのまにやら何かを塗られていた。
「こんな暗いところで料理なんかするから火傷するんだよ」
「……やけど」
身体を起こすと頭に鈍い痛みが走る。目元も引きつるような違和感がある。
「昨日はね、楽しくなかったよ」
「え?」
あんなに笑っていたのに? と言いかけた言葉を国広は呑み込んだ。
昨晩は確かに、好きだと誰かに言っていた。聞き間違いではないのは、手の甲の痛みが証明していた。あの日は長義にとって最も幸いであるはずの日だ。そして今日は、その幸福が続いているはずだ。
なのに、どうして長義は今、国広の手を大事なもののように扱っているのだろう。
「……どうしたら、楽しくなるんだ」
自然と口から出ていた。
「その手が治ったら、俺のいちばん好きなものを作ってよ」
「いちばん好きなもの……?」
「治るまでは軟膏を持って近侍部屋に来ること」
「???」
「じゃあまたね」
そうやって長義が満足そうに言うものだから、国広も反射的にまた、と零していた。
*
それからは、長義に火傷の世話をされながら必死の情報を収集する日々だった。なにって、長義のいちばん好きなものが分からなかったのだ。
国広とて、好物はある程度知っている。それがだいたい国広の好物を被っているからこそよく覚えているのだ。だが、いちばんと言われると首を傾げた。一緒に食べる朝餉のときも、ほぼ毎日押掛けていた夜食のときも「これがいちばん好きなんだ」と零したものはなかった。
きっと国広が知らないだけかもしれない。そう期待していろんな刀に聞くも、皆が一致して知らないと言うのだ。あの日長義の部屋にいた刀剣でさえ、知らないと言ってのけた。
むしろ、あいつは食べるのが嫌いだとも。
もちろん長義自身にも聞いてみた。だけど、
「教えないよ。でもお前にしか作れないものだ」
というだけでヒントすらも教えてくれない。夜食に持っていったメニューを羅列しても「好きだよ」「美味しかった」と褒め言葉を並べ立てるだけで、最終的には聞いている国広の方が恥ずかしくなってしまった。
今日も手の世話をされながら、国広は長義の部屋を眺めていた。
自分の部屋とは違う雰囲気の部屋は、いつ来ても落ち着かない。
この期間、ほとんど長義の事ばかり考えて見ていた。長義はそれを不快に思うこともなく、視線が合う度に柔らかく目を細めてくれたのが幸いだ。しかしいくら見ていても分からない物はわからなかった。
いっそ高級な肉や海鮮でも取り寄せようかとも思ったこともある。しかし長義の「国広にしか作れないもの」というヒントが、それでは不正解なのだろうという結論に至らせたのだ。けれど、国広に作れるものは皆が作れるものだ。誰かが作った物ではなく、国広が作った物。
「そろそろわかった?」
「……全く分からない」
「へえ。俺は楽しみにしてるよ」
そう言いながら国広の触れる手は優しい。長義の甲斐甲斐しい手入れのおかげで火傷の跡はすっかり綺麗になってきていた。手入れ部屋に入ればすぐに回復するのだが、こうでもならなければ休息しないからと長義と審神者が首を横に振った。もちろん、悪化しそうであればすぐに手入れ部屋に入るという話でだが。
「この調子なら、刀ももう握れるかな」
「ああ。仕事も任せっぱなしですまなかった」
「暇だったからいいんだよ。お礼なら今夜、楽しみに待ってる」