にゃんにゃんにゃんのひ「伊地知が呪われて猫になったって聞いたんだけど!」
勢いよく開かれた扉から放たれた大音量に七海は眉間のシワを深くした。左腕に抱えている後輩が一瞬飛び上がり、この場から離れようとするのを腕に力を入れてぐっと引き留める。
「こら、逃げない。五条さんも無闇に大きな音を立てないでください。伊地知君が驚く」
件の後輩――伊地知潔高は扉に背を向けようと七海の腕の中でじたばたともがいていた。腰から伸びた黒い尻尾が大きく膨らんでいる。
確かに、やって来たのが五条だと知ったところで安心感を覚えるどころか厄災だと思ってしまう気持ちはよくわかる。七海はそれなりの憐れみを込めて伊地知の頭をポンポンと撫でた。
「うわーホントに耳と尻尾生えてる。ウケるね」
室内に入ってきた五条が伊地知の顔を覗き込む。オモチャを見つけた子供のような明るい表情を目の当たりにして、伊地知は弱々しくミィ……と鳴いた。
五条はポケットからスマートフォンを取り出すと伊地知に向けて構えた。室内に響き始めたシャッター音に七海は深い深いため息を吐く。大きな手のひらで伊地知の顔を隠してやると、五条は不満そうに口を尖らせた。
「で、二人ともなんでこんなにくっ付いちゃってんの」
ここは呪術高専東京校の医務室である。備え付けの長椅子に腰掛けた七海は、自身の左ももの上に伊地知を乗せてその腰を抱いていた。
「目を離すと逃げようとするんですよ」
「ふうん?」
七海がこの場に居合わせることになったのは偶然だった。午前中に手配された任務を早々に終え、昼食を摂ってから業務報告のため高専に訪れたところに、人をひとり抱えた伊地知がバタバタと駆け込んできたのだ。
伊地知の背でぐったりと脱力していた男性――おそらく呪術師――を代わりに担いで家入の元へ急ぎながら、七海は隣を駆ける伊地知の姿から目を離せずにいた。彼の頭には髪と同じ毛色の獣の耳が生えていて、スラックスの内側から飛び出した尻尾が背中でゆらゆらと揺れている。
「伊地知君。何があったんですか」
「にゃにゃにゃにゃん…にゃあ……」
喉を押さえて項垂れた伊地知に、七海はサングラスの奥で目を見開いた。
家入の見立てと伊地知との筆談から、伊地知の猫化は祓除予定だった呪霊の影響で間違いないだろうということになった。担ぎ込まれた術師は幸い命に別条はなかったものの、背中の深い傷による多量出血で意識が混濁している。その傷に残された残穢と、伊地知の耳や尻尾から微かに漂う呪力とが一致していた。
ひとまず術師の回復を待ち、現場の話を聞いてから対策を練り直すことになった。上への報告は家入がやってくれるということで、七海と伊地知が処置室を出たとき、伊地知が動いた。七海に向かって深々と一礼したあと、踵を返して走り出したのだ。
とはいえ一級呪術師の七海相手である。不審な動きを察知した七海はほぼ反射神経で伊地知の首根っこを捕まえた。抱え込みがちなこの補助監督のことだ、迷惑がかかるとかなんだかんだと理由をつけて一人になろうとしたのだろう。ちゃらんぽらんで他人に仕事を投げがちな五条もどうかと思うが、頼らないのも問題だ。それに、伊地知にかかった呪いがこの後育たないとも限らない。手荒になってしまうことを多少申し訳なく思いながら、七海は伊地知を医務室へと放り込んだ。
捕まえられた拍子に一瞬首が絞まった伊地知は飛びかけた意識の中で、こんな情けない姿を大人オブ大人の七海さんに見られるなんて一刻も早く穴に入るか逃げ出したい、それに現場にいた自分がせめて中間報告書くらい作っておかないと……と思いながらほろりと涙を流したのだった。
「じゃあ伊地知は喋れないだけで判断能力はあるってことね」
「ええ。ですが多少精神は引っ張られてるみたいですね」
そう言いながら七海が右手に持っていた猫じゃらしを左右に振ると、それに合わせて伊地知の頭がぴこぴこと動いた。眼鏡の奥の瞳が爛々として夢中になっていることがわかる。
「完全に猫じゃん。あとでムービー撮らせて」
「嫌です」
「伊地知に言ってんの。で、その呪霊は今どうしてるって?」
「消息不明です」
「はあ?」
「窓からの情報です。現場…猫屋敷には戻っていないと」
とある住宅街に佇む、猫屋敷と呼ばれる民家に巣食う呪霊の祓除。これが今回2級案件として術師に与えられた任務だった。
猫屋敷は主に悪臭のため近隣からの通報が相次いでおり、行政介入として区役所や保健所が何度か訪問を試みたが、屋敷内に足を踏み入れた職員がことごとく行方不明になることから高専に調査依頼が来たのだった。屋敷には元々中年女性が暮らしていたはずだが、ここ半年間は姿を見ていないという。
消えた飼い主、増えていく猫。調査の結果、呪霊の関与が認められ、祓うことになったわけだが……。
「予想以上に強大化した呪霊に歯が立たず、負傷した術師が帳から飛び出してきたそうです。伊地知君が彼を車に運び入れたところで屋敷から出てきた呪霊に襲われ…」
「そこでやられた」
「ええ。車で逃げたものの、しばらく追いかけてきたそうです。なんとか撒いて帰ってきたと」
「やるじゃん伊地知」
五条が歯を見せて笑う。
「それが一時間程前の話です。そこから呪霊は姿を見せていません。まだ彼らを探しているのか…」
「寝ぐらを変えたのかもな。猫だし」
「有り得ますね。猫屋敷には呪霊どころか、猫一匹見かけなくなったと聞いています」
七海はギリッと奥歯を噛んだ。呪霊が移動したとなると一から捜索することになる。結果的に二級呪術師には荷が重い案件だったわけで、移動先で何が起こるかを想像すると胃の腑が重くなる心地がした。
「七海、なーなみ」
「は」
「考え込むのはいいけど、手元。伊地知目ぇ回してるから」
「…え」
気が付くと伊地知が七海の腕にぐったりもたれかかっていた。いつの間にか猫じゃらしを高速でぶん回していたようだ。
「じゃ、迷い猫探しに行きますかー」
五条は両腕を上げるとぐぐっと伸びをした。天井に手が付きそうだなと七海は一瞬思って、いやそんなことを考えている場合ではないと首を振る。
「私の話聞いてたんですか? 闇雲に探しても労力の無駄遣いです」
「だから伊地知抱えて待ってるって?」
「術師の容態は安定しているそうですし、目覚めるのも時間の問題でしょう」
ふたりの会話が聞こえているのか、目の前の猫耳がぴくぴく動いた。伊地知のためにも早急に解決すべきと理解してはいるが、これが失われるのは少し惜しい気がして、七海は耳の根本に高い鼻を埋めた。
「吸うな吸うな。オマエ疲れてんね? …あー、校舎裏に棲み着いてた野良、昔可愛がってたもんな」
五条がニヤニヤと薄ら笑いを浮かべる。
「なんで知ってるんですか」
「そりゃあ天才五条様はなんでも知ってるさ」
昔の後輩が一瞬動揺している隙に、五条はするりと七海の腕の中から伊地知を連れ出した。チッと七海が舌打ちする。
「へえ、ホンモノだ」
「ニャッ!」
五条は伊地知の猫耳と尻尾を無遠慮に触った。耳の先から尻尾の先まで、確かに伊地知自身の呪力が巡っている。ハリボテではないようだ。
五条との距離感が突然縮まって伊地知は怯えた。なんだか上機嫌で、こわい。そう思っていたら脳が痺れるようないい香りがして、身体の力が抜けていった。
「ふにゃ…?」
「おー覿面だねー」
うっとりした表情で五条の胸に伊地知が身を寄せる。
「マタタビは卑怯では?」
上着のポケットからサシェを取り出してひらひらと見せつけながら、五条は満面の笑みで伊地知の顎下をくすぐった。ゴロゴロと喉が鳴る。
「これどこから鳴ってんの。伊地知気持ちいい?」
「五条さん!」
「七海こわーい。これ手放したくない気持ちはわかるけど、明日朝から僕の出張があるんだよね」
「は?」
「伊地知には同行してもらわないと」
「彼でなくてもいいのでは?」
「コイツじゃないとつまんないだろ。代わりに七海が来てくれんの?」
「お断りします」
「そう言うと思った。だからほら、探しに行くよ。猫」
「しかし情報が…!」
思わず七海が立ち上がる。
「そういうの得意なヤツがいるでしょ」
サシェをしまって、五条が指差した先は。
「ニャニャ!?」
「伊地知君…?」
「だって当事者でしょ。事前調査したのもオマエでしょ? 呪霊が移動しそうな場所、心当たりないの」
「…!」
何かを閃いた表情で伊地知はごそごそと自身の上着の内ポケットを探った。スマートフォンを取り出して、地図アプリを立ち上げる。文字を入力しようとしたところで……指が止まった。
「何々、どうした…あー」
「なんですか…ああ…」
伊地知が手のひらを見て落ち込んでいる。その指先にはピンク色のそれがあった。
「肉球ねえ…あープニプニ…」
「タブレットとペン借りてきます」
そう言って七海が廊下を駆けていった。そして医務室に残されたふたり。
「七海が帰ってくるまで色々触っていいよね?」
「ニャン!?」
伊地知はぶんぶんと首を振るが、聞いてもらえそうもない。七海さん早く帰ってきて、伊地知は心からそう願うのだった。