盛夏の戻橋「来てしまいました」
青い空、入道雲。窓の外から見えるアスファルトには陽炎が立っていて、常ならば不快な熱気がむわりとまとわりつくのだろうが今は全く感じなかった。聞こえてくるはずの蝉の声は校内放送に掻き消されて私の耳には届かない。
『校内に呪霊が侵入。教員は学生の安全を確保した後速やかに呪霊を捜索、対応してください――』
緊迫感をまとった声がそう繰り返す。
もしかしなくてもその呪霊とは私のことだろう。姿かたちは昔のままのようであるし理性も保っているつもりだが、分類上はそうなるのだと突き付けられて少し落ち込んだ。それをいち早く学内に伝えたのが目の前にいる元後輩なのだから尚更だ。私の顔を見て一瞬驚愕した彼は、数歩後ずさって距離を取るとスマホを手にして緊急連絡を始めた。通話しながら強い視線で私を睨みつけてくる。
「あなたは誰ですか」
電話を切るなり低い声でそう言うと、上着の内ポケットから呪符を取り出した。彼から初めて向けられる敵意に胸のあたりが痛くなるような、そんな錯覚を覚える。
確かにあっさり信用されてしまっていたら彼の危機感のなさに説教したくなるところだ。とはいえ何と説明したら信じてもらえるだろうかと言葉を選んでいると、背後から能天気な声が響いてきた。
「うわ、呪霊が入ってきたって聞いたけど七海じゃん。おひさー」
「ご無沙汰してます」
「え…」
振り返るまでもなかったが一応振り返ると、最強こと元先輩の五条悟が立っていた。彼は私の頭の先から足先(しっかり足があるのでやはり幽霊ではないのだろう)までじろじろと見て、ふうん、と鼻を鳴らした。
「それ、オマエの魂に巻きついてんの?」
「そのようです」
魂の知覚。正直かなり不本意だが、例のツギハギ呪霊の言葉が、あの時奴に壊された私の肉体から自身の魂を救い出したのだった。
「ど、どういうことですか…」
話に付いていけない伊地知君が焦燥しきった顔で尋ねる。
「七海は肉体を失ったけど、魂だけ残ったってワケ。自覚を持ってね。で、今はお盆でしょ。この時期は大気中の呪力が濃いからねー。アイツの魂にそれがまとわりついて、"視える"ようになってる」
「ええ。まさかこうなるとは思いませんでしたが…」
「普通だったらならないけどね。すごーーく大事な忘れ形見があるんだろ」
そう言いながら目隠しをずらした五条さんが青い瞳でこちらを見た。何かを見極めるような、試すような視線だ。
「万が一自我がなくなったら…分かってんな?」
「勿論です」
三人の間に一瞬緊張感が走り……それを壊したのは五条さんの明るい声だった。
「じゃあ僕行くからゆっくりしてってよ。あー、今の時期目がチカチカして頭痛くなるから最悪」
遠ざかる五条さんの背中を見送って、再び伊地知君と二人きりになった。
「な、なみさ……」
「はい。伊地知君」
会いたかった。そう言おうとしてぐっと堪えた。一方的にいなくなった人間の台詞ではないと思ったからだ。
元々血色の悪い伊地知君の顔色はほんの少し赤みを帯びていた。そして何かを我慢するように唇を引き結び……肩が小刻みに揺れ始める。
「なな、」
彼の眼鏡の奥の瞳がみるみるうちに潤んでいったかと思うと、それはあっという間に決壊した。ぼろぼろと大粒の涙がこぼれ出す。
「う…、あ……っ!」
片手を眼鏡の下に滑り込ませて、伊地知君は声を上げて泣いた。しゃくり上げながらたどたどしく喋る彼が何を言っているのか聞き取りたくて距離を縮める。
「ひ…っ、なな、ななみさんにっ…うっ、お礼、ずっと、言いたくって…っ、でも…!」
「…伊地知君」
とうとう立っていられなくなった彼は膝を折って廊下に座り込んだ。私も一緒にしゃがんだけれど、やり場のない両手が彼の周りをさまよう。今すぐ肩を抱いて慰めてやりたい。けれどももう彼に触れられないのだという現実を突き付けられるのが怖かった。ここに来てすぐは顔を合わせて話せるだけでもと思っていたはずなのに、と自嘲の笑みが浮かぶ。
「七海さん、」
すると逆に彼の両手が私の方に伸びてきて……私の左腕をぎゅうと掴んだ。
「「………えっ」」
まさか。咄嗟に右手で伊地知君の肩に触れ……触れられた。
一瞬呆けた伊地知君の顔がさらに歪んで、私の方に倒れ込んでくる。それを両手で抱きとめながら天を仰いだ。残念ながら彼のぬくもりはわからないけれど、ああ。
そしていつの間にか私たちは高専の優秀な呪術師の面々――全員が臨戦態勢である――に取り囲まれていて、これは誤解を解くのに時間がかかりそうだと私は覚悟したのだった。
「落ち着きましたか?」
「おかげさまで…」
ソファに身体を投げ出しながら弱々しい声で伊地知君が言った。その目元には温タオルが当てられている。
伊地知君を助けようと集結した面々を説得するのは本当に大変だった。事情を知っている五条さんは別れた後任務に出てしまっていて、連絡が取れたのは二時間後。虎杖君のおかげで話を聞いてもらえたものの……。
フー……と深く息を吐くと、伊地知君の肩がびくりと震えた。タオルを外して私の方を見る。彼の目元はすっかり赤くなってしまっていて、もっと早くに対処すべきだったと内心舌打ちをした。
ここは伊地知君の自宅だ。私の処遇について高専で話し合った結果、ひとまず今夜は彼のところで過ごすことになった。何かあれば五条さんを頼ること。本人のいないところでその縛りが交わされ、私たちは家路についた。
どうやら私は自由意思で物体に触れるかどうかを選べるらしい。魂と呪力でできたこの身は基本的に実体がないが、触れたいものには呪力で触れるという感じだ。そしてこの帰り道でわかったのは、一般人から私の姿は見えないということ。動揺の残る伊地知君を車で送ろうと思ったが、対向車の運転手が引きつった顔ですれ違っていくのを三度見て、やめた。車が無人で走っていたと噂になるのはよろしくない。
「本当に…七海さんなんですよね」
「ええ。五条さんのお墨付きです」
私の姿を目に焼き付けようとしているのか、先程から伊地知君に強い視線で見つめられて少し落ち着かなかった。隣に座ってくださいと言われてソファに腰掛ける。魂ひとつぶんの重みしかないので座面は凪いだまま。伊地知君はずっと私の顔を見ているから至近距離で目が合った。その瞳が意外と茶色いことに今更気が付くなんて。
「お盆が終わったら消えてしまうんでしょうか」
寂しそうに呟くものだから、また彼に触れたくなってしまう。
「見えなくなるだけで消えはしません。元々ずっと君たちのことを見ていましたし」
「えっ!?」
「手出しできないのが非常に歯痒かったですが…君が今まで無事で本当によかった。よく頑張りましたね」
充血が残る彼の目に再び涙の膜が張る。
「すみません、泣かせるつもりでは…」
ほろほろと頬を伝う涙がきれいで、つい手が伸びた。痩けた頬を両手で包んで親指でそれを拭うと、伊地知君が驚いた顔で目を瞬かせる。
そう、ずっと近くで見てきたのだ。10年以上前から。もう会うこともないと思っていた時期もあったが、結局戻ってきてまた彼を見続けて、肉体を失った今でさえも。真面目で努力家で少し気が弱くて、けれども人一倍芯の強い伊地知潔高という人間からずっと目が離せないままでいる。
できない約束はしない質だ。明日の命もわからない我々だから、大事な人を失うのも、相手に失わせるのも二度と味わいたくなくてこの気持ちはずっと胸にしまっていた。臆病だと言われればそれまでだが、それだけは譲れなかった。
それがどうだろう。肉体を失ってもなお、彼に触れることができるなんて! 私の心は驚きと、喜びと期待に満ちていた。私にされるがまま頬を撫でられている伊地知君は顔を赤らめていてとても愛らしい。このまま、感情に赴くまま、伊地知君と共に過ごすことができたら……。
「君が好きです。私と交際してもらえませんか」
素直な言葉が口から出た。
「え、ええっ!?」
「こんな風に君にまた会えるのなら、もっと前に言っておけばよかった」
クソ、と小さく呟く。
「ええと、その…」
伊地知君は口元を押さえて狼狽えている。耳たぶの赤さが目についた。
「私にはあまり時間がありません。君の返事が聞きたい」
「いや、でも…」
「その気がなければ断ってもらっても構いません。無理強いしたいわけじゃない。まあ引き続きアピールはしますが」
「ほ、本気ですか」
「冗談を言う状況ですか」
「ですよねえ…」
しばらく目線をうろうろ彷徨わせると、伊地知君はまっすぐ私の顔を見た。
「お気持ちは嬉しいです。が、亡くなっている方とお付き合いするのはちょっと…」
ごにょごにょと語尾が小さくなる。眉尻が下がって明らかに困惑した表情だった。
「…懸案事項はそれだけですか」
「え」
「肉体がないとはいえ、こうして君に触れます。一緒に食事は摂れないかもしれませんが、共に過ごすことはできる」
私は伊地知くんの右手を握った。見ると手のひらが少し濡れていて、汗ばんでいることがわかる。
「工夫すれば二人で外出するのも可能でしょう。一般的な恋人関係と何ら変わりはないかと」
「で、でもお盆が終わったら会えなくなっちゃうじゃないですか」
「来年の8月にまた戻ってきます。というか君から視えないだけで私は24時間そばにいます」
「それはそれでプライバシーが」
「会話できないのは確かに私も寂しいので…伊地知君、私の携帯を持ってますね?」
伊地知君の体がビクッと跳ねた。
「どうしてそれを」
あの夜、スラックスのポケットに入れたままだったスマートフォンを彼が密かに持ち帰ったのを私は知っている。一緒に回収されたナマクラは呪具として高専預かりになったが、スマホの方は遺品として還す先がないまま倉庫に収められていた。それを伊地知君はここに持ち帰ったのだ。
数日間はスマホを眺めては涙をこぼして、しかしある時思い立ったようにクローゼットの奥へとしまい込んだそれは、まだ彼の部屋に眠っているはず。
「電源を入れておいてくれれば、私の番号にかけると繋がります」
「うそ」
「試してみますか? いつでも話せるわけですから、遠距離恋愛みたいなものです」
「えええー…」
「それに将来君の寿命が尽きたとしても、いつまでも一緒にいられますよ」
とうとう伊地知君は両手で顔を覆ってしまった。そのままぽつりと呟く。
「私、丸め込まれてません…?」
「別にいいのでは?」
「いやでも…ううっ、もうちょっと、一旦考えさせてくださあい…」
「期限は今週中です。それまでここに泊めてもらってもいいですね?」
「えっ七海さんずっといるんですか」
「おはようからおやすみまで君の隣にいてもいいんですよ」
「いやいやいやそれはちょっと!」
ぐぐ、と顔を近付けると胸元を押し返された。
「まだいいって言ってませんから! 待って!」
「はい。楽しみに待っています」