江家の晩餐(含光君の恋文・番外編)江家の晩餐
雲夢・蓮花塢の大広間にて。
こじんまりと、静かな宴が行われていた。
雲夢は国の中央に属する。辛・酸・甘、麻辣、清淡など、各地の味覚や製法を取り入れた独特の食文化が自慢だ。新鮮な山河の素材に薬膳効果のある山菜を加え、最大限のもてなしに厨房は大わらわ、春節のような賑わいだった。
だがしかし。
「……」
「……」
「……」
春のすがすがしい夜風が流れる大広間では、少しも晴れやかでない男達が三人、円卓に向かって座していた。
江宗主・江晩吟。
この宴を用意させた本人だが、少しも客をもてなす様子がない。もてなすどころか、苦虫を嚙み潰したような表情で、無言のまま卓を睨んでいる。恐ろしくも美しかった紫蜘蛛・虞夫人を彷彿とさせるような形相だ。宗主の低気圧に慣れた家僕たちも身をすくめ、(なにか不備があったのでは)と互いの顔を見合わせている。
仙督・藍忘機。
仙門百家の頂点に立つこの男にも、愛想という物が一切見受けられない。いつも通りの無言・無表情で座したまま、卓上の献立書きをじっと見つめている。あまりにも見目麗しく、あまりにも動きが無いので、まるで端正な仏像のようだ。近寄りがたいが、思わず手を合わせたくなる。
そして夷陵老祖・魏無羨。
つねに騒動の中心にあり、極めてにぎやかなこの男も、なぜか今宵は非常におとなしい。何か懸念でもあるのか、珍しく自分の思考に沈んでいるように見えた。明るく人懐っこい印象が消え去ると、意外なほど繊細な顔かたちの美しさが浮き彫りになる。まるで別人のようだ。
三者三様、黙したまま卓を見つめている麗しい男たちに、家僕は恐る恐るといった態で給仕を始めた。まずは飲み物――藍忘機には恩施玉露を、宗主と魏無羨には野蓮酒を。三人は目を合わせず、黙ったまま乾杯をする。あまりの居心地の悪さに家僕たちは(ひぇぇ)とすくみ上り、あっという間に空になった杯に酒を注ごうとするが、宗主に
「良い。下がれ」
と断られ、これ幸いと退室した。
入れ替わるように前菜が五品ほど、所せましと円卓に並べられる。すると香りに刺激されたのか、ようやく魏無羨の意識が浮上した。
「……おぉっ?」
おそらく彼の好物、しかも普段はあまり食べられない品なのだろう。
「すごい! ご馳走じゃないか!」
子供のように目を輝かせ、にわかに料理に手を伸ばす。手放しで喜ぶ客人の様子を見て、家僕たちも少しばかりほっとした。
魏無羨はうまいうまいと賑やかに。
残る二人はひたすら黙々と。
江晩吟は客人に目線をやらないまま、ただ一人酒を飲み、皿をつつく。いくらなんでも無作法が過ぎるのではではないかと、家僕がハラハラするほど尊大な態度だ。
しかし一時辰(約二時間)後。宴の様子は一変した。
静かなのは藍忘機のみ。
魏無羨と江晩吟はすっかり酒に酔い、くだらぬ因縁をつけあいながら、叩いたりつねったり、幼稚な喧嘩を繰り返している。
ここ二十年、つねに不機嫌で人を寄せ付けなかった宗主がはじめて見せる、子供じみたやり取り。ポカンと口を開けて眺めていた家僕らに頼み、藍忘機は小卓を借りた。
喧騒が激しくなる義兄弟達から少し離れ、藍忘機はひとり静かに筆を執る。
三月十六日 夕餉 蓮花塢にて
夷陵老祖狂の原因であった蓮の妖を昇華し、ほどなく禁言が解ける。二日ぶりに口が開き安堵した。しかし引き続き、筆記による感情表現の修練は続けたいと思う。
江宗主の用意した品は、いずれもおまえの好物であったようだ。夢中で頬張る様子がいとおしい。
思えばこれまで、あまり食について意識した事がなかった。いつも供されるまま、感謝はするが、その味や見た目について観察するのは初めてだ。家僕らに聞いた調理法と、おまえの発言を参考に、出来る限り記録しておきたいと思う。
はじめに前菜が五皿。
●大根の糟蛋かけ
わずかな柑橘の香りを感じる薄切りの大根漬けに、糟蛋という黒っぽい物が刻んで乗せられていた。
牡蠣油のような濃厚な旨味と甘味、そして複雑な香り。大根のさわやかな舌触りと、ねっとりした糟蛋がよく合っている。おまえは隣で唸り、
「うまい……!」
一口食べては首を振って悶えていた。
「糟蛋なんて何年振りだろう。あー、酒が進みすぎる……!」
「……それは何より」
口は開けど、義兄弟ふたりの目線はこの時点ではまだ交わらない。独り言のような会話が続いた。
「でも、なんで大根なんだ? 俺が大根苦手だって知ってるくせに、嫌がらせか?」
「うるさい。大根は消化を促し食欲を増進させる。最初に食べれば薬効がある」
「糟蛋だけで良いのになぁ」
ぶつぶつ言いながらも、糟蛋とやらを食べる手は止まらない。
わたしの皿に糟蛋を盛り、そっとおまえに寄せた。
作りかた
大根は柑橘の汁・陳皮・香味で塩漬けし、薄切りに。糟蛋(ザオタン)は卵を酒粕と醤に漬け込み二年間発酵させる。これは買った方が早そうだ。彩衣鎮で手に入るかどうか。
●牛肉の鱠・醢かい和え
生の牛肉。ねっとりした旨味、酸味の強いタレ。
わたしは(奇妙)と感じたが、おまえはものすごい勢いで口に頬張り、
「これこれ! 醢かいのこの酸っぱさが牛に合うんだよなぁ。あー本当に酒が止まらない……!」
と喜んでいる。これも皿に盛り、そっと寄せると
「ん、ありがとな」
わたしの目を覗きこみ、小声で囁いた。……前触れなく、それはしないで欲しい。
作りかた
新鮮な牛肉を良く切れる包丁でひと口大に切る。醢かいは生肉を麹と塩で発酵させた調味料。
雲深不知処では新鮮な牛肉を入手できない。この献立は外で探そうと思う。
●血旺
新鮮な鴨の血を固めた物。
ネギと薬味がふんだんに散らされ、ごま油で和えてある。
まったく臭みも無く、噛めばパチンと口の中で弾けた。血とはこれほど美味なのか。新鮮な食感と濃厚な旨味に驚く。
おまえはひたすら「うまい!」を連呼し、ますます酒が止まらない様子だ。酒量が少し心配になる。
作りかた
鴨や豚など、生き物を捌く際に迸る血を甕に集める。生命を無駄にせず、薬膳として活かすために作られたらしい。血に塩を加え、加熱して豆腐状に固める。香味とごま油を多めに使うと良い。
●花生芽
落花生ともやしの炒め。
子供の小指ほどもある、もやしの太さに驚く。
「この食感! もやしがクッタリじゃなく、ポリポリしてるだろう? 花山椒も合うんだよなぁ」
はっきりした食感と、花山椒。あまり野菜を好まないおまえも食が進むようだ。これならば雲深不知処でも作れるだろう。
作りかた
太もやし、皮をむいた落花生、千切り人参をごま油でさっと炒める。強火で短時間。塩と酒、花山椒で調味し、最後に少し蒸し焼きにする。仕上げのごま油をまわしかける。
●鴨首肉の煮込み
あからさまに首だと分かる形状。
おまえも江宗主も、手掴みで齧りつく。骨のまわりを上手に食いちぎるおまえ達は、おそらく無意識なのだろうが、まったく同じ食べ方をしていた。最後にぺろりと指を舐めるしぐさまで。――少し、目のやり場に困る。
わたしも手掴みで齧ってみた。固いかと思われたがほろりと肉が外れ、上品な旨味が広がる。粗野に見えて、これほど品の良い味わいがあるとは不思議な食べ物だ。しかし辛い。
わたしがひとつを食べ終えるまでに、おまえ達は骨の山を築いていた。
食べたは良いが、手の汚れに戸惑う。舐める訳にも、かといって食事の最中に席を立つ訳にも行かない。両手を中途半端に掲げて固まるわたしに、おまえは笑いながら手水で手巾を濡らし、汚れた指を拭いてくれた。江宗主はぎょっとしていたが、――わたしは嬉しかった。
おまえは甘え上手だが、それ以上に、甘やかすのが上手だ。よく子弟たちの面倒を見ているが、褒めて、笑わせ、うまい加減に甘やかす。相手を満足させるが、依存はさせない。その匙加減が絶妙で感心する。
作りかた
新鮮な鴨の首を一時辰ほど浸水。数回流水で洗い流し、湯で一盞茶ほど茹で、香味とタレでことこと煮込む。
●竹の子と猪肉の炒め
旬であろう、やわらかな孟宗竹の筍と、脂の乗った猪肉(豚肉のこと)。
唐辛子と醤で炒めてあり、辛いが美味。
「タケノコと豚って、どうしてこんなに合うんだろうな? 無敵の組み合わせだと思わないか?」
なるほど、竹の子単体だとさして好まないおまえも、肉と共に供することで食が進むのだと知る。本日はじつに学びが多い。
作りかた
筍を下茹でし切り揃える。香味で下味を付けた豚肉と共に、なかば揚げるように炒める。
●白身魚とセリホンの蒸し物
大きな淡水魚が丸ごと蒸され、熱い香味油がかかっている。ふんわりと柔らかく蒸し上がっており美味。赤、緑、黄の野菜が添えられ、彩も美しい。
「なぁ、この青いの何だっけ。ピリッとしてて旨いやつ」
問われて首を振ると、給仕がセリホンだと教えてくれた。辛子のような刺激がある。白身魚は姑蘇でも同種の物が入手できるはずだ。セリホンは姑蘇でも取れるだろうか。
作りかた
淡水魚は下処理して良く洗う。塩漬けし発酵させてセリホンを刻み、燻製肉、干し椎茸、筍、鶏だし、香味と共に強火で蒸す。熱い香味油をまわしかけ、野菜の千切りで彩を添える。
●紅焼甲魚
すっぽんの煮込み。
ぶつ切りの亀から良い出汁が出ている。醤で煮込まれ、とろりと柔らかい。添えられた椎茸もうまみを吸っており絶品だ。
「うまいなぁ、とろけるなぁ」
頬を紅潮させ、心底嬉しそうに頬張る。微笑ましい。もっと食べさせたい。
子供のように素直に喜ぶおまえを横目に、江宗主の頬も少し緩んでいる。だいぶ酒が回って来たようだ。
作りかた
すっぽんは下処理をし、香味と共に湯通ししておく。鍋に油を敷き、新たな香味と筍、干し椎茸を炒める。ひと口大に切ったすっぽんと鶏だしを加え、醤など好みの調味料で煮込む。とろみを付け、ごま油で仕上げる。
●甘藷と粉蒸肉
「甘藷もいいけど、これ、じゃがいもやカボチャで作ってもうまいんだよ」
なるほど、肉のうまみを甘藷(さつまいも)が吸っており、香味ともよく合う。肉は薄いがとても柔らかい。おまえは意外と芋類が好きなのだと気づく。
そろそろ腹がくちて来た。
作りかた
竹のせいろに甘藷を敷き、米粉をまぶした豚肉を乗せて蒸す。唐辛子、山椒、青みを彩りよく散らす。
●ザリガニの油含め煮
春から夏によく取れるというザリガニを香ばしく調理。辛いがうまい。
「これこれ! 海老もうまいけど、ザリガニの方が肉厚で、歯ごたえがプリプリしてるのが良いんだ。味は海老、歯ごたえはザリガニって感じだよな」
豪快にむしゃむしゃと、手づかみで食べている。わたしも同様にしてみたが、やはり手の汚れが気になった。手水のありかはもう分かっていたが、先ほど同様、中途半端に手を挙げて少し待つ。おまえはニヤニヤ笑いながら、
「藍兄ちゃんはいくつなのかな?」
とからかい、また手巾で拭いてくれた。
江宗主の顔色が悪くなるが、見ないふりをする。
作りかた
ザリガニを泥抜きして塩茹で。下処理してから乾かす。多めの牛脂を熱し、香味と共に油に入れて含め煮にする。皿に取り、熱いうちに辛いタレを一気にかける。
●キジと香椿の炒め
香椿は姑蘇でも良く食する山菜だ。
えごまのような香りと苦みがキジと合っている。山でキジを見るたび、目の色を変えて捕えようとするおまえの気持ちが少し分かった。これは実に美味だ。
「キジは喰ってもうまいし、捕るのも面白いんだよ。なぁ江澄、俺はキジ捕り名人だったよな?」
「ん……修練を、さぼって、捕っていた」
「何だよ。お前だって、うまいうまいって喰ってただろうが」
まだ目を合わせようとはしないが、少しずつ会話が増えて来た。江宗主の口調が怪しくなり、とげとげしさが薄れている。
作りかた
キジは下処理をし、ひと口大に切る。塩など好みの調味料で下味を付け、粉をまぶす。香椿と共に油で揚げてから、味をからめるように炒める。
●羊肉の麻辣煮込み
非常に辛い。
地獄のような色合いを見ただけでぎょっとし、口に近づけた時点で無理だと悟ったが、どうにかひと口咀嚼する。やはり……わたしには厳しい。
「藍湛、ムリするなよ――ってお前、すでに口が真っ赤じゃないか!」
何がおかしいのか、おまえはゲラゲラ笑いながら、それでも新しい手巾を濡らしてわたしに手渡してくれる。
口を拭いてはくれないのかと少し待ってみたが、目のはしで江宗主の紫電がバチバチと暴れ出したので、仕方なく手巾を受け取った。江宗主はかつて見た事がないほど酔っており、目が据わっている。とても手合わせをしたい状態ではない。
作りかた
羊肉を下処理し、酒に浸す。香味、酒、水を煮出し、羊肉を入れる。唐辛子、花山椒、辣油など調味料を加えて煮る。
●なずな饅頭
助かった。これが正直な感想だ。
さして辛くなくたいへん美味。
なずなは姑蘇でも良く食しているが、こうして牛脂と和えるとまるで肉のそぼろのようだと驚く。
「春の味だよなぁ。師姉がよく作ってくれた……」
ぽつりと寂しそうに零すおまえに、姑蘇で何度でも作ってやりたいと思う。それこそ懐かしむ間もないほど、頻繁に。
作りかた
まだ春浅いうち、根ごとなずなを採取。茹でて刻み、干し椎茸と筍の刻みを同量合わせ、塩、醤、牛脂、牡蠣油、好みの香味にて味を調える。マントウの皮で具を包み、せいろで一盞茶ほど蒸す。
●ガチョウの肝の蓮根はさみ揚げ
腹がかなり苦しい。しかしこれも美味。
「蓮根の歯ごたえがいいだろう? 強めの火でさっと揚げるとこうなるんだよ。肝はとろっと、蓮根はシャキッと。実に旨いな!」
「おまえ……、作ったこともないくせに、えらそうに……」
「俺は作ったこと無くても、師姉が作るのをずっと見てたんですぅ」
くだらない言い合いをしながら、姑蘇ではさほど食べないおまえが、信じがたい量を食している様子に驚く。やはり今宵は、江宗主がおまえの好物ばかりを用意してくれたのだろう。
「おまえは、うまいからって、飲むように食うな。ちゃんと、噛め……」
呂律がまわらない江宗主が、こうなって初めておまえと目を合わせ、説教をしている。
そこにはわたしの知らない彼がいた。長いあいだ心無い言動を繰り返し、とことんおまえを傷付けて来た江宗主とはまるで別人のようだ。おかしな表現だが、我が子のしつけに口うるさい母親のように見える。
おまえは「あーはいはい」とうるさそうに返事をしているが、――頬はゆるみ、目は嬉しげだ。
これが、江晩吟とおまえの本来の姿なのだろうか。少しばかり混乱する。仲が良かった頃の二人を思い出そうとするが、……魏嬰。おまえの事しか思い出せない。
作りかた
ガチョウの肝を下準備し、調味液に浸す。卵液をくぐらせ、輪切りにした蓮根で挟む。調味した卵液とあらびきの粉、もしくは白ゴマをまぶし、多めの牛脂で揚げる。強火で短時間。熱いうちに塩を振りかける。
●蓮根と骨付き肉の汁物
これについては言うまでもない。
おまえも江宗主も、無言のまま、大切そうにれんげを口に運ぶ。
「……」
誰も何も言わない。
このほろりと蕩ける骨付き肉が、ほくほくした蓮根が、滋養に満ちたやさしい味わいの汁が。おまえ達の心に染み入るのが分かった。これが江厭離殿の味なのだろうか。姑蘇でも再現できるよう精進したい。
作りかた
骨付き肉をよく洗い塩漬けにする。一晩おいてまた良く洗う。水と香味で肉を茹でこぼす。灰汁が尽きたらまた洗い、油でさっと揚げる。綺麗な鍋に肉、酒、酢、水、香味、戻した干し椎茸を入れ茹でる。肉が柔らかくなってから蓮根を切り、鍋に加えて弱火で煮る。塩と好みの香味で味を調える。蓮根は煮過ぎない。器に盛って青みを散らす。
●豆皮
おこわの卵包み揚げ。
蓮花塢に泊まると、いつもこの豆皮が供される。屋台で売っている事も多い雲夢の名物だ。
だがしかし、さすがに苦しい。汁物でいっそう腹が膨らみ、もはや限界だ。給仕に頼み、明日の朝餉にいただく事にした。
おまえもいよいよ満腹なのか、箸を横に置き、フラフラの江宗主をしきりにからかっている。なぜか既視感を覚えて――納得した。姑蘇でおまえが景儀をからかう様子と良く似ているのだ。
思えば、景儀と江宗主には共通点がある。打てば響くような反応があり、口も手も素早いところ。当たりはきついが芯は優しいところ。
おまえが景儀を構い倒すのは、姑蘇で他に丁々発止できる相手がいないせいかと思っていたが、無意識に江宗主と似た反応を懐かしんでいたのかも知れない。そう思えば、なんとも切なかった。
献立書きには、まだ
●青ねぎの熱干麺
●杏仁酪
●蓮の実のお汁粉
が残されていたが、これらも給仕に頼み、朝餉に回してもらう事にした。江宗主が用意してくれたおまえの好物だ。あまさず食べて欲しいし、わたしも口にして記憶しておきたい。
――ここまで書き記すうちに、おまえたち義兄弟は更に杯を重ね、ほとんど子供に戻ったような有様だ。呂律の回らない舌で、わぁわぁと喧嘩をしている。
姑蘇ではありえない。以前のわたしなら喧騒に耐え切れず、眉をひそめてこの場を去っていただろう。しかし今、この情景に喜びを感じている自分がいる。
おまえが心から愛する蓮花塢で。
仙師の命である金丹を譲り渡すほど大切に想っている、江晩吟と。
片や全身全霊をかけて呪い、片や口に出せない想いを抱えて負い目を感じ。
長年険悪を極めていた関係性が、いま変わろうとしている。
おまえは一見わがままに振舞うが、実際はつねに他者を優先し、自分の幸せを積極的に掴もうとしない。
それが生来の気質なのか、過酷な幼少期に植え付けられた諦観なのか、江家で身につけた処世術なのかは分からない。
しかしそんなおまえが今、口ではぎゃあぎゃあと喧嘩腰に、しかしその目は嬉しげに、幸せそうに潤んでいるのを見ると。
蓮花塢に、江家に、そして江晩吟に。
私的な感情を越え、ただ感謝したくなるのだ。
――紙が尽きた。続きは客間にて。
(つづく)