冷たい男「ほら、もっと近くに寄ればいい。そのように離れていては拭きづらいだろう」
ぴんと伸ばしてクリームを拭っていた手をぐいと引かれる。世間はきっとこれを黄金比のパーツ配置と呼ぶのだろう、と確信できるほど整った面が目と鼻の先に迫って、監督生は場違いにも懐かしい気持ちになった。
目の前の美丈夫の鼻先が触れるほどに近寄ることは、特に監督生に緊張や驚きをもたらさない。なぜなら少し前までは、その近距離が2人のスタンダードだったから。しかしそれを懐かしく思うのは、馴染みはあれどご無沙汰であったから。
煌めくライムグリーンを、相変わらず綺麗だなあと呑気に見つめてていた監督生の頬に、整った鼻筋が擦り寄せられる。
「わ、ちょっとやめてよ! 鼻はまだ拭いてなかったのに……」
突如として頬へ擦り付けられたクリームは、パーティーグッズらしい人工的な匂いとベトベトした感触をもって監督生に不快感を与える。
「おや、それは悪いことをしたな。しかし困った、僕のハンカチーフはもうクリームを拭えないようだ……」
思ってもいないくせに申し訳なさそうな表情を湛えるのを見て、監督生は眉間に皺を寄せる。申し訳なさそうに眉を下げながらライムグリーンの瞳がちらりと動くのを追うと、監督生の視線は自分が握った、もとい握らされたハンカチにたどり着く。確かに、ハンカチはどこもかしこもヌトヌトとしており、これ以上クリームを拭きとる元気はなさそうに見える。いや、しかしこれは。
「もー、ツノ太郎が急に腕引っ張るからでしょ!」
そう、目の前のこの人が急に腕を引いたりするから、その拍子にハンカチにクリームが塗り広がってしまったのだ。せっかくこの小さなハンカチを上手く使って拭いていたのになあ──監督生は小さくため息をつく。
そもそも今日のツノ太郎ははしゃぎすぎだ、と監督生は振り返る。パイ投げがあまりに楽しかったのだろうか、受け止めたパイのクリームを複数人の寮生が魔法で拭い取ろうとするのを、彼は丁重に断っていた。魔法で消してしまうのは味気ないとかどうとか言って、そこまでは良かったのだ。全身で受け取った幸運のギフトを、噛みしめながら自分で拭いでもするのかと思えば、談話室の隅っこで冷え切った揚げ物をつついていた監督生の方を振り向いて一言。「拭ってくれ」──全ディアソムニア寮生が見つめる中で、よりにもよってご指名をいただいてしまった。インタビューの名目でパーティー会場に訪れていた、ディアソムニア寮生でもなんでもないオンボロ寮の監督生が。この状況で断りもできず、だからといって嬉々として受け入れられるわけでもない。「どうしてあいつが選ばれた?」と言いたげな雰囲気をひしひしと感じるし、何より分かりやすくセベクが悔しそうにハンカチを噛んでいるのが視界の端に映る。セベクはただ自分の役目だと思っていたから悔しがっていたのであろうが、ほかの寮生たちはきっと違う。彼らの遠慮のない視線はまざまざと監督生に問いかける──「どうして我らがマレウス様を袖にしたあいつが、クリームを拭うという大役に選ばれた?」と。
しかしそれは至極当然な疑問であった。彼らの尊敬する長であるマレウスは、いかにも気まずそうな表情を浮かべるオンボロ寮の監督生を、かつては燃えさかるロウソクから流れ落ちる蝋と同じくらい熱い視線をもって見つめ、リリアお手製のショッキングピンク色のコーンスープと同じくらい甘い言葉で撫でていた──なんてったって“元カレ”なので。
「もー、どうするの? クリーム付けたまま部屋帰る?」
鼻先が触れるほど近づいてしまったから、まるであの頃──純粋に好き合ってお付き合いをしていたときのように、監督生は甘ったるく問いかけてしまった。かつて「お前が『もー』と言って頬を膨らます様子は愛らしい」とのたまったとおり、久々に耳にした監督生の「もー」に、マレウスは満足げな笑みを浮かべる。
「そうだな、せっかくだからこのまま部屋に戻ってベッドに入ってしまおうか」
監督生は、クリームの拭い残しをくっつけたままベッドにいそいそと潜り込むマレウスを想像して、顔を青白くさせた。
そんなことはダメに決まっている。監督生はマレウスの部屋のビロード製寝具の肌触りを思い出し、それにクリームが塗り広げられるのを想像して体中に鳥肌を立たせた。もちろん聞いたことはないが、きっと彼の国の職人──人ではなく妖精であろうが──が腕によりをかけてこしらえた一級品に違いない。なんたってあの肌触り──この世のものとは思えない、元の世界でも触れたことのないような滑らかさを、今でも思い出せるのだ。あのとびきり素敵な寝具に生まれたままの姿で寝そべると、雲の上にでもいるような気持ちになる。頭によぎるのは、背中に触れる心地よい冷たさと、火照った体を撫でまわす氷のごとく冷え切った大きな手。それらは監督生をまさに“天国”へ押し上げて──
あれ、自分は今何を考えた?
少し前まで通い詰めていた部屋に思いを馳せていたのから監督生が意識を取り戻すと、目の前でクリームまみれの顔がこてんと首をかしげている。早く拭いてくれと言わんばかりに、ベトベトになったハンカチを握っている方の手首を揺らしながら。
あ、これはちょっと、ダメかもしれない。
手首に絡む指の冷たさを急に意識してしまって、監督生の思考が一気に“夜”に傾く。
「どうした、顔が赤いぞ」
心配の色を帯びたマレウスの瞳が監督生のそれを覗き、もう片方の冷たくて気持ちのいいもの──手首をつかんでいない方の手が、監督生の赤らむ顔を撫でる。撫でてしまった。
もーダメだ、と監督生は心の中で独り言ちる。
*
そもそも、別れた理由は何だっただろうか? そうだ、件の天国のようなシーツの上で何も纏わないまま抱き合っている最中、ついに言われてしまったのだった──「僕はお前と祝言を挙げる。できないのなら茨の谷には帰りたくない」と。監督生は熱の昇った頭を急速に冷やして現実に立ち返った。大きな図体の割にのんびり屋だったり、たった2つ年上のわりにすぐ拗ねたりするけれど、彼はれっきとした一国の王子様なのだ。
「学生の間だけのお付き合いだって、茨の谷の人たちと約束したんでしょ?」
「……嫌だ」
強い力でぎゅうと抱きしめられて、「ぐえ」と汚い声が出た。それと同時に、雲ひとつなかったはずの夜空を雷の光と音が切り裂いた。部屋の外には、寮生たちがわらわらと廊下に飛び出てきた気配が。
ああ、このわがままプリンスとお付き合いを続ければ、きっと世界規模で大変なことが起こってしまう──監督生は確信し、幕引きは今このときだと心に決めたのだった。
ただのお友達に戻るまでにはかなりの苦労を要したが、終わってしまえばいい思い出だ。今でもたまに、オンボロ寮の庭先のベンチで話をしたりはする。時々、別れを惜しむように手を握られて、その手を握り返したり、握り返さなかったり。喧嘩別れをした訳でもないのだから、愛しい気持ちだけは、未だ心に残ったままなのだ。自分はいつか元の世界へ帰る身だからとか、相手は一国の王子様だからとか──学生の身分でいる間だけはそういう諸々をすべて取り去っていいのなら、監督生はあの大きな体でぎゅうと抱きしめてほしいと思っていたし、あの冷たい手の温度を全身で感じたいと思っていた。結局友達関係に戻ったあとも、その冷たくて気持ちのいい手や、のんびり屋で子どもっぽいところがどうしようもなく恋しくて──監督生は、約束もなしにオンボロ寮のベンチに座って待ち続ける夜をやめられないのだった。
*
その大好きな冷たい手が、再び監督生の頬まで上ったのは久しぶりだったから。少し前までの幸せな時間に思いを馳せていて、すぐに気が付かなかった。頬を滑る、温度の低い手よりもさらに冷たい何か──頬を撫でた手はそのままに、マレウスが顔を寄せ、自ら監督生に移したクリームを舐め取ったのだ。突然の感触に監督生が固まっているのをいいことに、冷たいそれは何度も彼の頬を撫で、そのうち吸い付く感触も加わった。
ああ、気持ちがいい。このままあの素敵なすべすべシーツに背中を預けられたら、きっと最高の夜になるのになあ。
「もーダメ」になってしまった監督生は、腰を抱く腕に身を任せ、そのまま背中からビロードの海に飛び込んで──そして気付いた。
「あれ、ここツノ太郎の部屋!?」
ディアソムニア寮談話室での人目を気にしながらの触れ合いは、監督生の知らぬ間に二人きりの密なものになっていたらしい。いつの間に使われていた空間移動の魔法に、魔力の察しが悪い監督生は驚くことしかできない。
頬の次は両手を捕まえたことでご機嫌なマレウスは、久方ぶりに自室のシーツに沈む元恋人を見て笑みをさらに深める。
「今日は気分がいい。このまま寝てしまおう」
「えっ、ダメ、シーツが汚れる!」
「しかし、僕のハンカチはもうクリームを拭うところがないぞ」
ほら、とクリームでどろどろになったハンカチを見せる顔は、眉は下がって口角が上がって──つまり悪戯っ子そのものである。いつとはなしに取り上げられていたクリームまみれのそれがマレウスの尻ポケットから出てきたことについては、監督生は見ない振りだ。
「ツノ太郎が大人しく拭かれてくれないからじゃん……」
「ふふふ、ではお前のハンカチを使うのはどうだ?」
「もー、わかってるくせに!」
悪戯っ子の吊り上がった口の端から、鋭い牙がチラチラと見え隠れする。マレウスはすべてわかっているのだ──監督生の数少ない手持ちのハンカチはすべて、今日に限って日当たりのいい窓辺の一等地に室内干しにしてあることを。このわがままプリンスは、今日も今日とて護衛たちの目を掻い潜ってオンボロ寮の周りを朝散歩していたらしい。
さて、背中に感じる心地よい感触と、手首に巻かれる指の気持ちの良い冷たさと、今にもシーツについてしまいそうなクリームと、“元カレ”という肩書き。監督生の脳内でそれらはぐらぐらと揺れて、もちろん均衡が取れるはずもなく。
「さあ、どうしてくれよう?」
「じゃあ、新しいハンカチ取ってきて。ほら、そこの棚から魔法でひょいっと」
「……」
「さっきは大掛かりな魔法使ってたくせに!」
「もう疲れた」
「もー、嘘じゃん……」
「お前についたクリームは僕がすべて拭ってやったぞ。今度はお前が僕の残りを拭うのが道理だろう?」
ほら、どうだ!とでも言いたげな満足顔に、監督生は大きく息を吐いた。さすがは僕様何様マレウス様。色々考えるだけバカバカしくなり、どうにでもなれ、と監督生はついにマレウスの顎に残ったクリームに顔を近づける。ぺろりと舐めとったそれはお世辞にも美味とはいえず、さすが投げられるために生まれただけある、と思いながらごくりと飲み込んだ。舐めとる際にかすかに触れたクリームの向こう側の皮膚は、やはり日常的に触れていた頃と変わらず、頬ずりしたいほどに冷たく心地よかった。ひやりとした感触をもう少し味わいたくて、今度は頬に舌を伸ばそうとして──目前に迫るライムグリーンの奥が滲んで揺らめいているのに気付いた。
目は口ほどに物を言う、とは正にこのことか。揺れる瞳は「お前に触れられて嬉しい」と雄弁に語っている──少なくとも今この瞬間、一番近くでその目に見つめられる監督生にはそう思われたのだ。
監督生は、熱視線に応えるように、頬を舐め取ろうとした舌をそのまま半開きの唇まで運んだ。数度唇を舐めてから、中途半端に開いた口の中へ舌を差し込めば、肌より一段と冷たい舌に迎えられる。絡めて絡まって、口の中が注がれた冷たさでいっぱいになった頃、2つの唇はようやくお互いを離す。口の端からどちらのものかわからない唾液が垂れているのを拭わないまま、冷たい鼻梁が監督生の耳にぴとりと宛てられる。吐息までが冷たい気がして、息の吹きかかる感触に、監督生は思わず腰を震わせた。
「今夜だけ、たった一晩だけでいい。誕生日に欲しいものがある」
*
はて、付き合ったきっかけは何だっただろうか?
『お前が卒業したあとは茨の谷へ来ることを許そう』
『身を寄せる場所が無いのだろう。僕の城へ来ればいい』
『僕と祝言を挙げれば、お前は一生生活に困ることはないだろう』
お付き合いすらしていない相手にぶつける言葉にしては重い、重いよツノ太郎、と困った挙げ句、監督生はリリアに相談するに至った。すると、『学生の間だけでもあやつに青春を味あわせてやってくれんかのう』と逆に頼まれてしまい、あれよあれよと卒業までの期間限定のお付き合いが始まってしまったのだった。
いや、その説明では少し語弊があるか。自分はいつか元の世界へ帰る身だからとか、彼は一国の王子様だからとか──今の間だけはそういう諸々をすべて取り去っていいのなら、監督生はあの大きな体でぎゅうと抱きしめてほしいと思っていたし、あの冷たい手の温度を全身で感じたいと思っていた。つまり、何もかも全く違った2人ながら、お互いのことを一等気に入っていたのだった。『僕をお前の彼氏にすることを許そう』と嬉しそうに笑ったマレウスを、監督生は事あるごとに思い出しては、あまりのおかしさに腹をよじったものだ。
*
監督生は無意識のうちに、自分に覆いかぶさる大きな背中を抱きしめていたらしい。耳のそばで「ぐぶぅ」と呻く声がした。
シーツに鼻を押し潰されているこの人は、訳あって今は監督生の恋人ではない。もう恋人関係ではないが、マレウスは今でもこんなふうに──現状は両目ともシーツに押し付けられているが──監督生のことをとろけた瞳で見つめてしまう。もう恋人関係ではないのに、監督生は自分のものではないシーツに背中を預けて、広い背中を掻き抱いている。とてつもなく大きいものを背負った、離さなければならない背中をどうしても離したくなくて、胸に、というか全身に抱いてしまっている。
しかし、今日はマレウスのお誕生日なので。今夜だけ、たった一晩、将来のどうのこうのとか、何も纏わずにこの人と抱き合いたい。リリア先輩、このワンナイト、あなたがツノ太郎に味わってほしかった「青春」に入りますか? ──監督生がまたもぐるぐると頭の中で考えを巡らせていると、鼻の先に本日何度目かの冷たい感触が訪れる。監督生の腕が緩んだ隙に、マレウスはようやくシーツと距離を取ることができたらしい。
「お前の誕生日プレゼントはこれで終いか? まだあるんじゃないのか?」
子どものように頬を膨らますマレウスに、監督生の絡まった思考はようやく解けた。解かれてしまった。
鼻先へのキスは、恋人時代の“合図”だった。
ああやっぱり、もーダメかも。子どもみたいなこの人が、自分とは違う冷たい皮膚の温度が、自分を見つめる炎のような燃える緑が、恋しい。
「もーだめ、ねえ、おねがい……」
火照る体を冷えた手で撫でて冷ましてくれなきゃ、熱視線でもっと溶かしてくれなきゃ、まともにものを考えられない。ぷちぷちと自分のシャツのボタンを外して、監督生はビロードの海に思考を飛ばした。
なんてったって“元カレ”なので。監督生の「もー」でマレウスは下がった口角を上向きにし、ひんやりとしたシーツに監督生を縫い付けて、冷たくて熱い愛をたっぷりと注ぐのだ。たった一晩、今夜だけは。