ラッコちゃんは男の趣味が悪い 男の趣味が悪いとは思っていた。あのホリデーの一幕から今に至るまでずっと。
フロイドに言わせれば、カリムの“男の趣味”は海の中でも陸の上でもなかなか見ない具合に最悪の部類だ。いったい誰が、知らぬ間に自分を洗脳して失墜させようとした男を、冷たく暗い砂漠の果てに飛ばした男を、お前なんか大嫌いだと言い放つ男を、変わらず隣に置くだろうか? カリムは今でもその男に愛と信頼を寄せて、友達になろうと励んでいるらしい。まあ、なんておバカなラッコちゃん、とフロイドは思い続けている。
「えっ、あれ、フロイド!?」
まあ、なんておバカなラッコちゃん。適当なノックから間を空けずにドアを開けて、目の前の状況を理解するまでおおよそ5秒。フロイドは再びそう思うに至った。
形のいい尻を覆うように散りばめられる、到底甘噛みでは付かないような赤黒い歯形。太ももの内側には見るもおぞましい内出血の痕。その跡を伝ってシーツに垂れているのは、間違いなくアレだ。
そういえば今日は、部活にすっかり飽きてしまって、制止の声を聞き流しながら体育館を飛び出したのだった。お気に入りのラッコと遊ぼう、なんてったって「カリムに近づくな」と口うるさいのは幸いにも体育館にいることだし。軽い気持ちでスカラビア寮の最奥のドアを開いて、このような光景が広がっているとは誰が予想がついただろうか。
「ラッコちゃん、マジで男の趣味わっりいね」
ラッコちゃんは男の趣味が悪い
このラッコ、マジの方の男の趣味も悪いだなんて。
フロイドは、丸出しにした尻に薬を塗ってやりながら、カリムの嗜好の徹底っぷりに舌を巻いた。
「性癖やっべえ彼氏だね。どこがいいの?」
「うーん、顔がかっこいい、とこ……」
「ふーん」
もういいよ、と恥ずかしがるのを聞こえないふりをして、内ももに伝う白濁を拭きとってやる。
「ウミヘビくん、このこと知ってんの」
「ううん、内緒にしてるからジャミルは知らない。脱がなきゃわかんねえところならバレないって言われてるし」
「ふーん」
バレたら彼氏殺されるんじゃない、とは敢えて言わなかった。
華奢な体を仰向けに転がして、内ももの内出血にも薬を塗ろうとするが、カリムは足を閉じたまま開かせない。
「イヤだ?」
「イヤだ、だって恥ずかしい……!」
「うん、じゃあやんないね」
薬を塗りこむ代わりに、丸出しの下半身に毛布を掛けてやる。するとカリムは目をしばたかせ、心底嬉しそうに笑う。
「フロイド、いいやつだなあ」
「へえ、オレがいいやつ?」
「ああ、ほんとだぜ!」
ふくふくと笑って隣に座るフロイドにすり寄ったカリムは、そのまま力を抜いて体を預けた。
「ラッコちゃんの彼氏、『イヤ』って言ってもやめてくんないんでしょ」
「……何でわかるんだ?」
驚きで丸くした瞳をフロイドの方に向けるので、フロイドはため息を吐きながら丸い鼻の頭をつまんでやった。
「ラッコちゃんの『イヤ』、ちゃんと聞いてくれるやつと付き合いなよ」
「うーん、でも、あの顔が好きなんだ……」
ほんっと男の趣味わっ……まで喉から飛び出しそうになって、何とか飲み込んだ。つまんでいた鼻の頭を、とりあえず撫でてやった。
「何でそんなヘンタイ野郎と付き合ったの」
そんな言い方しないでくれと眉を下げてから、カリムはへらりと笑った。
「オレのこと好きだって、可愛いって言ってくれるのが嬉しくて」
* * *
オレってちょっと男の趣味が悪いのかも。カリムは、最近そう思い至るようになった。
カリムにとってこの世で一番大切で大好きな人間といえば、己が従者に置くジャミル・バイパーだ。しかし、カリムにとって一番大切で大好きでも、ジャミルにとってはそうではなかったらしいことは、件のホリデーで身をもって思い知らされた。
「自分のことを裏切った男をどうしてそばに置き続けるのか」と、周りから何度も何度も言われた。そう言われたって、好きなものは好きなのだ。内心でどう思っていようが、一番そばで守り続け、人生に安心をもたらしてくれることに対する喜びは、カリム以外の誰にもきっとわからない。
でもやっぱり、自分を失墜させようとした男のことを今も好きでいるのは、ちょっとおかしいのかも、とはカリム自身もどこかで感じていた。
カリムの日々に安心をもたらしてくれたのがジャミル・バイパーなら、ドキドキをもたらしてくれたのが例の男、フロイドに言わせれば“ヘンタイ野郎”の彼氏だ。
入学式で目が合って、タイプだなあと思ってにっこり笑って見つめ返したのが全ての始まり。可愛いね、好きだよと迫られるままあれよあれよと彼氏になり、カリムの何もかもの“はじめて”をあげた。何とも素敵な顔から発せられる「可愛い」と「好き」がたまらなく気持ちがいい。あの顔と甘い言葉さえあれば、少し痛いことくらいは飲み込めてしまえた。本当は、あんまり痛いのはイヤだけれど、お願いして聞いてもらえたためしがないので。「可愛い」と「好き」をもらうために、ほんの少し耐えれば良いだけだ。
カリムはそう思っていたが、どれだけ好きであろうとできる我慢には限界があるらしい。
いつも通り、ジャミルが何かしらの用事で寮を空ける時間にカリムの彼氏は寮長室にやって来る。抱きしめられて、キスをして、今日もかっこいいなと思って、たくさん触り合いっこして、それから。
「今日さ、首絞めてやろうか」
言われてすぐに、心底イヤだと思った。痛いのは我慢できても苦しいのは無理だと、体が拒否している。幼少期からの服毒の思い出が、カリムの体を震わせた。
「い、イヤだ……」
震える声は、すぐにシーツに吸い込まれた。いつものように「ほんの少し我慢すればいいだけだから」と頼まれても、いつも通り覚悟を決めることができない。シーツに押さえつけられる顔が苦しい。体の震えが止められない。首元を撫でる手を振り払いたくて仕方がない。
「やだ、イヤだよ……」
喉から絞り出した声はあまりに頼りなく、寮長室の重たいドアが勢い良く開けられた音にほとんどかき消された。
「ラッコちゃん、今日寮長会議だよー。金魚ちゃんがカンカンだから呼んで来いってアズールに頼まれたぁ」
そういうことだから、と突如入室したフロイドが顎で出て行けと示せば、カリムの彼氏は「そういうのは先に言っとけよ」と悪態をつきながらしぶしぶ部屋を後にした。
「今日、寮長会議だったのか? オレすっかり忘れてて、」
「んーん、噓だよ」
「へ?」
ゆっくりと上半身を起こしたカリムの赤くなった鼻を、フロイドが優しい手つきで撫でる。
「オレ、『イヤ』って言って聞いてくれるやつと付き合えって言ったよな?」
いつの間にかカリムの両目から流れ落ちていた涙の筋を、フロイドはついさっき鼻を撫でたのと同じ手つきで拭った。
「ラッコちゃん、震えてんね。ギュってしていい?」
「……そんなこと聞かれたの始めてだ」
してやる、じゃなくて、していい、なんだ。カリムは考えている間に、すでに両手を伸ばしていた。
「うん、ギュってして」
ベッドの上で二人で転がって、ぎゅうぎゅうと抱きしめ合った。フロイドのおかげでカリムの涙も止まってめでたしめでたし。それで終わればよかった、が。
17歳のカリムの体は正直だ。中途半端に触り合いっこしてしまったせいで、体が熱くて仕方がない。フロイドっておっきいな、あったかいな、手もおっきいんだな。自分に触れる一つ一つを意識し出すと、思わず熱い息が漏れ出る。「落ち着いた?」と聞かれる間も、足を擦り合わせるのをやめられない。背筋をつう、と撫でられてついに「あっ」と声を出してしまった。
「フロイド、撫でられるの、今ダメだ……」
「ダメ? じゃあやめんね」
温かな体がすっと離れていくのを感じて、擦り合わせていたはずのカリムの足はすかさず開かれ、フロイドの腰をぐっと引き寄せる。無意識のうちに動いて、そして言ってしまう。
「イヤだ、やっぱりやめないで……?」
カリムの足に捕まったフロイドは、心配で染めていた顔色を一気に塗り替え、無邪気な子どものように口角を上げてみせた。
「はは、スケベなラッコ」
突然、色の乗った声で吐き捨てられて。でも相変わらず鼻の頭を撫でる手つきは優しくて。色っぽさと優しさに同時に溺れることが初めてのカリムは、一瞬にして脳を溶かした。
「うんそう、オレすけべだから、だからしたいよ……フロイドはイヤだ?」
「うん、やだ」
「……ええ!? なんでぇ?」
止まったはずのカリムの涙が、今度は違う理由で再び流れ始めた。フロイドはまたしても、割れ物に触れるように涙を拭う。
「ヨシヨシ、ラッコちゃん」
「ちゅうはダメ? ちゅうもイヤだ?」
「うん、ダメ」
「フロイドぉ~」
欲に支配された頭で必死にフロイドを求めるも、愛玩動物を相手にするような対応で躱されて、カリムはさらに涙を流す。それをフロイドは飽きずに拭い続ける。
「あのねえ、そういうのは好きなやつとするもんだから」
「オレ、フロイドのこと好きだよ」
「あのヘンタイ彼氏より?」
「それは、ええと……」
「じゃあイヤ」
「えっ、あ、待って、フロイドぉ」
腰をホールドする足に手を掛けられて、カリムはイヤイヤと捕まえる足に力を込める。するとフロイドはそれに素直に従い、引き寄せられるままカリムに覆いかぶさった。
「なあ、やっぱさ、ちゅうしよっか」
艶っぽい表情が間近に迫り、カリムの脳はさらにとろけていく。
「うん、する……」
「じゃあ、あのヘンタイ彼氏よりオレの方が好きって言って」
ほんの一瞬、カリムの脳内にあの素敵な顔がよぎる。確かにあの人のことが好きで心底タイプ、なんだけど、でも。優しい手つきで頬を撫で上げられれば、カリムはもう目の前の男のことしか考えられない。
「フロイドがすき、フロイドの方がすきだ……」
言い終わって一息つく間もなく、唇がちゅうと吸われる。引っ付いて離れて、吸われて吸って。たったそれだけが気持ちよくて、カリムは自ら舌を差し出した。差し出したそれはいつものように噛み付かれることなく、ただ優しく吸われるだけで、ただ気持ちいいだけのキスは初めてだった。
「苦しくない? ダイジョーブ?」
「うん、きもちい、気持ちいいよフロイド、もっとして、いっぱいしよ?」
カリムは、気遣うように頬を撫で続けていたフロイドの手を取り、自分の胸元に置いた。
「もっとしたいの?」
「うん、いっぱいしたい……」
「じゃあオレのこと彼氏にして」
「…………え?」
「恋人じゃないやつとすんの、陸じゃフツーのことなの?」
「いや、だいたいは恋人とするもの、かな……?」
予想外の台詞をぶつけられてとろけたカリムの頭はだんだんと醒めてゆくも、まだうまく考えることができない。
「じゃあオレと付き合お? オレのことイヤ?」
「そんな、フロイドのことイヤなわけない、けど」
「オレの何がダメ?」
「いや、何もダメじゃないぞ? でも……」
「オレ、ラッコちゃんのこと大好きなのに」
「えっ」
目と鼻の先のフロイドの眉が悲しげに垂れたかと思えば、カリムの胸の上に置かれたまま大人しかったはずの手が、頬にしたのと同じように優しく撫で始める。カリムの脳は海に溺れて、再び溶け始める。
「ラッコちゃん、オレが彼氏はイヤ?」
「えーと、ううん、ヤじゃない……」
「イヤじゃないんならいいよな?」
目の前のゴールドとオリーブが欲望をちらつかせてめらめらと燃えていることにようやく気づいて、カリムの脳はついにぷつんと焼き切れた。
「うん、フロイドのこと、彼氏にする……!」
燃えるオッドアイが弓のように曲がって、受け入れられた喜びを見せつける。
「はー、マジで可愛いね、ラッコちゃん」
大好きだよ、と耳に吹き込まれて、カリムは体を震わせて喜んだ。目前に迫る唇に吸い付くのに必死で、とろけた脳はやはりカリムにうまく考えさせてくれなかった。
「やっぱラッコちゃん、マジで男の趣味わりい」