夜来たりなば朝遠からじ 思えば、今日は何一つとしてうまくいかなかった。
課題が終わらなくて夜更かししたせいで、今朝は寝坊した。グリムも自分も深い眠りに就いていたようで、5分おきに掛けていたはずのアラームをすべて聞き流してしまったらしい。
大急ぎで1時間目の教室に滑り込んで一息つく間もなく、昨晩の夜更かしの原因となった課題を寮に置いてきたことに気付いた。トレイン先生にはこってり絞られて、今日の分の課題が2倍に増えてしまった。
ようやく迎えた昼休み、生活費が底をつきそうなのでバゲット付きの日替わりスープ──言わずもがな食堂で提供されるメニューで最安値だ──をトレイに乗せてよたよたと歩いていると、誰かの脚につまずいて、スープをひっくり返してしまった。よりにもよって、名前も知らない上級生のステーキランチの真上に、コーンスープをぶっかけてしまったのだ。お詫びにステーキランチ代を渡して、その代わりに自分の分の昼ご飯は無し。グリムの昼ご飯のツナ缶を分けてもらおうとしたものの、ツナ缶はすでに彼のお腹の中だった。
そして今。空きっ腹で気がそぞろになっていたのが悪かったのだろうか──A組B組合同の錬金術の授業で、盛大に失敗した。グリムに手渡された薬剤がレシピと違っていたらしい。手に握らされるまま確認もせず投入して、窯の中から黒い煙が立ち上がるのを眺めて、魔法の使えない自分が対処できるわけもなく──間もなく小爆発が起きて、教室中に煤がかかった。窯に一番近いところにいた自分はというと、爆発で髪はチリチリ、肌はヒリヒリ、一着だけだと学園長に買ってもらった実験着はビリビリに。皆に笑われながらクルーウェル先生に説教されて、週末の補習を言い渡された。
「子分、お前もうちょっとしっかりするんだゾ」
授業終わり、ため息とともに吐き出された一言。いつもなら、何とも思わないような一言だ。はいはい、なんて流したり、グリムも確認不足でしょ、と反撃したり、自分たちにはよくある会話だった。
でも、今日は何かがダメだった。確かに今日は何もうまくいかなかったけど、それは今日に限った話ではない。今までに、もっとダメな日だって何度もあった。でも、今日は──
「そうやって全部こっちのせいにするの? だって魔法が使えないんだもん、できっこないよ! もう無理、もうやだ!」
自分とグリムは片付けるのも他の皆より時間が掛かって、いつも実験室を出るのが一番遅い。もれなく今日も、汚してしまった教室中を掃除していたので、自分たち以外には誰も教室に残っていなかった。今日はグリムだけを残して、実験室から走り去った。
*
一昨日、授業でペアになったクラスメイトに言われた。
「お前は魔法が使えないのに、どうして“ここ”に居るんだろうな?」
そんなの、自分が聞きたいのに。この“学校”に通いたくて通ってるわけじゃない。好きでこの“世界”に来たわけじゃない。
先週、エースとデュースが話していた。
「聞いてよ、こないだ電話で父さんがさあ──」
「そういえば僕の母さんも、ホリデーで帰省したときにな──」
いいな、皆、家族がいるの。本当は自分にだって家族がいるのに、会えなくなってしまった。
どうして自分は、“ここ”に居るんだろう。
トイレの洗面鏡──それも、用事が無ければ来ることなんてほとんどない、資料室の奥にあるトイレの、だ──に問いかけても、答えが返ってくるはずもなく。とりあえず顔に付いた煤をどうにかしようと、水道水でゴシゴシと顔を拭う。顔を上げれば、目を凝らすと見える程度には薄くなった顔の煤と、相変わらずチリチリの髪と──あれ、ここの壁ってこんな柄だっけ?
トイレの壁の柄を気にしたことなんて今まで一度も無いけれど、この柄はどう見ても。
「ま、魔法の絨毯……のレプリカ、くん!?」
振り向けば、鏡越しに見た通りの豪華絢爛な柄を携えた絨毯が、居た。
「どうしてこんなところに……」
「……」
返ってくる言葉はなくとも、四隅に付けたフサフサがしょんぼりと垂れ下がっている、ように見える気がする。
いつの間に日が沈んでいたんだろう──開け放たれた窓からは、まん丸で大きな月が見える。あの夜のように、この子に乗って夜空を散歩なんて出来たら、きっと気持ちがいいだろう。
「もしかして、カリム先輩に夜の散歩を断られた、とか?」
その通り、と言いたげに、フサフサのうちの一つがビシッとこちらを指す。どうやら正解らしい。
「散歩にぴったりの夜だもんねえ」
「♪♪♪」
「カリム先輩は寮長だから、きっと急用でも入ったんだよ」
フォローを入れると、魔法の絨毯のレプリカくんは悩むように体を波打たせる。すすす、と近付いてきたと思えば、フサフサで頬っぺたを撫でてくる。多分、「君はどうしてここに」と聞かれている。
「オンボロ寮に、帰りたくなくて」
もちろん返事は無い。でも、それがむしろ心地よく感じて、ぽろぽろと心の内を零してしまう。
「グリムと喧嘩しちゃって。それに、勉強にはちっとも着いていけなくて、時間がいくらあっても足りないし、家族に会いたくて、でもどうもできなくて。家事だってしなきゃいけないし、お金だって全然足りなくて……いや、全部今日だけの話じゃないんだけどね」
零れ始めたら、止まらくなってしまった。フサフサは相変わらず頬っぺたをくすぐり続けていて、何も言わない。何も言わないでいられると、また零れてしまう。
「……ねえ、カリム先輩じゃなくて、自分と夜空の散歩なんてどう?」
いつもならこんな提案は絶対にしない。きっとスカラビア寮の人たちがこの子を探すのにてんやわんやだろうから、と寮までこの子を送り届ける。でも今日は、何かがダメだから。いつもみたいにはどうしても出来なくて、どうしても誰とも会いたくなくて。
言うが早いか、フサフサに手首を引かれてつんのめったかと思えば、上品な布地に受け止められる。浮かぶ月に向かって窓をくぐり抜ければ、夜の冷たい空気が首元をくすぐる。
夜の学園は、まるで誰もいないみたいに静かだ。
*
星空がきらめいて、まるでダイヤモンドみたいだ。
雲の上をしばらく飛んで、明日のこともこれからのことも考えずに居られた。
ぐきゅるぐきゅる。
──考えずに居られたのは、ほんの短い間だった。
「お腹空いた……」
そういえば、今日は昼を食べ逃していたのだった。
「グリム、晩ご飯どうしてるかな」
心配せずとも、棚の中から勝手にツナ缶を取り出して食べているとは思うけれど。
「そうだ今日の課題、グリムと一緒にやらなきゃ」
だんだんと、日常に意識が向いていく。ダイヤモンドに見えていたきらめく星空が、なんだか米粒に見えてきた。
「でもまだ、帰りたくないな……」
ぽつりとまた零れた言葉に応えるように、絨毯は徐々に空を降りていく。そのままくり抜き窓から鏡舎に忍び込み、各寮に繋がる鏡に沿ってくるくると回り出す。
「え、ここに行きたいってこと?」
環状に配置された鏡の前を一通りぐるりと飛んで、ハーツラビュル寮へつながる鏡をフサフサで頻りに拭う。まずはここからどうでしょう、と誘われている気がする。
「そうだね、まだ帰りたくないし……行っちゃおーう!」
お腹が空いて仕方がないのに、課題がたっぷり待っているのに。やっぱりどうしても、まだ帰りたくない。
*
鏡をくぐり抜けて空を向かって上昇すれば、見慣れた、でも少しおかしな建物が眼下に広がる。
「まずはハーツラビュル寮だね」
消灯時間前だからだろう、一際大きな窓からは明かりが点いているのが見える。絨毯に乗ったまま窓辺にそろりと近寄れば、中から話し声が聞こえた。
「あー、トレインの課題きっつ!」
「ようやく終わった……」
エースとデュースだ。今日課されたたっぷりの魔法史の課題を終わらせたらしい。彼らとは同じクラスなので当然自分にもその課題は課されていて──しかも他の生徒の2倍の量だ──、グリムが既に手を着けているとも思えない。この世界のことをろくに知らない1人と1匹で、深く複雑な魔法史に挑むなんて、あまりにも気が重い。
「あいつら、ちゃんと課題やれてんのかな」
「心配だな。マジカメも既読にならないし、電話も出ない」
「せっかく寮長巻き込んで勉強会しようと思ったのになー」
「ローズハート寮長にはまた別の日に頼もう」
そういえば、着の身着のままで実験室を飛び出したせいで、自分がスマホを置いてきたことにようやく気が付いた。
再び鏡舎に戻り、絨毯は休む間もなく次の鏡をくぐる。砂が風に運ばれる微かな音がする──サバナクロー寮だ。寮に近付けば、水浴び場の滝の音がより大きく聞こえてくる。
「待ってください、ラギー先輩!」
叩き付けられる水の音をかき消すように、大きな声が聞こえた。
「何スかジャックくん、付いてきたってレオナさんのお下がりはあげないッスよ」
どうやら、レオナ先輩のお下がりの制服を抱えて歩くラギー先輩の後ろを、ジャックが追いかけているらしい。
「あの、実験着1着だけでも貰えませんか」
「実験着だけ? んー、まあそんだけなら、はいどーぞ」
「ありがとうございます!」
「なに、筋肉育てすぎてパッツンパッツンになったとか?」
「いや俺じゃなくて、監督生が……」
突然自分の名前が挙がって、絨毯の上でびくりと体が震えた。
「監督生くん?」
「あいつ、一着しか実験着持ってないのに、今日の錬金術ですげえ汚しちまってて」
「あの子にあげるんだ。へー、優しいじゃん」
頭をワサワサと撫でられたジャックの、「別にそういうんじゃないんで!」という大声が夜空に響き渡る。
そういえば、実験室を出ていってから今まで、煤まみれの実験着を着たままだった。ビリビリに破れた裾を見たときには絶望したけれど、どうやら次の授業には真っ当な実験着で参加できるらしい。
絨毯は続いてポムフィオーレ寮の鏡をくぐる。
健康志向のポムフィオーレ寮生は夜更かしなんてほとんどしないので、夜の長電話なんて以ての外だ──ポムフィオーレらしくない美意識の低さを誇る、あの彼を除いては。
「うん、ヴィルさんはむったど厳すくてさ」
聞きなれない方言は、エペルのものだ。恐らく早寝の同室を起こさないよう、バルコニーに出て電話をしてるらしい。電話の相手はおそらく家族の誰かだろう。
「あのさ、りんごがっぱ送ってほすいんだげど。うん、監督生サンとグリムクン。めぇってしゃべってぐれぢゃーはんで、まだ渡すてんだ」
りんご、送って、監督生、グリム、渡す──聞き取れた単語はそれだけだが、内容は理解できた。
そういえば今日、お昼の食堂でスープをひっくり返したあと、エペルからりんごの話を持ち出されたのだった。実家からりんごが大量に送られてきて、何人で分けても捌けないから助けてほしい──そう言われて、ぜひお願いしたいと返事をした、のだけれど。
返事を聞いたエペルの花が咲いたような笑顔を思い返す。このことを今すぐグリムに伝えたいと思った。
絨毯が次にくぐったのは、ディアソムニア寮の鏡だった。
鏡をくぐるや否や、静かな空に大きな声が響き渡る。
「若様ーーーーーーー!!!!!!」
自分にとってはよく聞くものだけれど、この子にとっては全く聞きなれない規格外の声量らしく、驚いた絨毯が突如急降下を始める。
「わあっ!?」
「お前は、オンボロ寮の監督生!」
箒に乗ったセベクの目の高さまで降りてしまって、あっさり見つかってしまう。
「その絨毯はどうした!? 魔法具じゃないのか?」
「カリム先輩のとこの子なんだけど、色々あって……」
「そのボロボロの実験着は!?」
「錬金術の授業で失敗しちゃって……」
「そのさっきから鳴ってる腹の音は!?」
「お昼からずっと何も食べてなくて……」
「だからその浮かない顔なのか?」
「えっ」
そういえば、授業終わりから誰にも会っていないのだった。言及された顔をなんとなく触ると、洗い流せていなかった煤が手に付いた。
「実験着を貸してみろ」
「いいけど、何に使うの?」
「いい洗剤をオクタヴィネルから仕入れている。僕なら真っ白にできるぞ」
「…………へえ。でも、真っ白にしたところで、ビリビリに破れてるんだよ? もう着れないじゃん」
「このくらい、縫製すれば元通りだろう。僕はお前と違って魔法が使えるからな」
「あーはいはい、どうせこっちは魔法が使えないですよ」
あまりにも自信満々に言うので、言われるがまま実験着をセベクに手渡す。明日になればもう1着手に入れられそうだけれど、多いに越したことはないので黙ってお願いすることにする。
「ふん、新品同様にして返してやるぞ」
「分かった分かった。で、これは何?」
実験着を渡すと同時に、エナジーバーを差し出される。
「若様のお姿が見えないのだ。寮をくまなく探してもいないのだから、きっとお前の寮に居るに違いない。実験着とそれは駄賃だと思って、マレウス様にお戻りになるよう説得してくれ」
「え、セベクが迎えに行けばいいじゃん。何で自分が?」
「すぐに戻らなければ、リリア様が明日の朝食を寮全員分作り出してしまいそうなんだ。全員で止めなければ……」
「それ、そんなにまずいことなの?」
「…………それに、悔しいが僕よりお前の方が若様と水入らずな話ができるのだろう。頼んだぞ、人間」
すぐにでも寮に戻りたいのか、エナジーバーを無理やり握らせて、こちらに背を向ける。
「あ、待ってセベク、ありがとう! ツノ太郎のことは任せて!」
「礼はいらん、お互い様だろう」
セベクがもう一度こちらを振り返ったと思うと、マジカルペンを振る。頭に違和感を感じたので手を当てたところ、チリチリに縮れていたはずの髪の毛が、いつも通りに戻っていた。
「え、うわ、すっごい! 魔法だ!」
「魔法が使えず困っているのなら、魔力を持った人間を上手く使えばいいだけだろう。人間のくせに、魔法が使える使えない程度の些細なことでいちいち騒ぐな。軟弱なくせに協力しないのがいけないのだ、人間は」
「……斬新な視点だね」
「それに! 若様の前にあのようなふざけた髪型で現れてくれるな! 分かったな人間! 腹を鳴らさぬようそれも食え!」
今度こそ、セベクは寮に向かって飛び去った。
とりあえずセベクの言いつけを守って、持たされたエナジーバーを食べることにする。チョコレート味が体に染み渡って、毎晩寝る前にゴーストたちが淹れてくれるホットミルクが飲みたくなった。
「……絨毯のレプリカくん、自分はそろそろ帰ろうと思うんだけど」
フサフサを振って了承の意を示した絨毯は、鏡舎に繋がる鏡に向かって上昇した。
鏡舎からオンボロ寮まで飛ぶと、緑色の光はすぐに見つかった。
「人の子か、珍しいものに乗っているな」
「色々あって。ねえ、セベクが心配してたけど、戻らないの? リリア先輩の朝ごはんがどうとか言ってたけど」
「…………では僕もそろそろ帰ろうか」
「ええ、つまりどういうことなの?」
「知らない方がいいこともある。人の子も帰るといい。お前の相棒も待ちくたびれていることだ」
ほら、とツノ太郎が指差す方向を見上げると、寝室の出窓のそばでスヤスヤと眠るグリムの姿が見える。
「……待っててくれてたの、かな」
「住み着きのゴーストたちもウロウロと徘徊していたぞ」
「本当?」
「ああ、お前の家族のようなものだろう? まだ生まれたばかりで好奇心旺盛なのは良いが、あまり心配は掛け過ぎるなよ」
「うーん、家族ではない、気がする。自分の本当の家族は、ずっと遠くにいるからさ」
「そうか。血縁でなくとも、家族は多ければ多いほど良いと思ったのだが、人の子は違ったか」
「……家族みたいにあったかいとは、思う」
「ならそれでいい。ほら、顔を上げろ。煤が付いたまま帰っては心配させるだろう」
ツノ太郎に頬っぺたを撫でられて、夜風に長い間当たっていたのであろう指が冷たい。
「人の子よ、お前は生まれたてのわりに生き急ぎ過ぎている」
「いや、別に生まれたてじゃないし」
「夜の校舎を散歩しているときに聞こえたのだが、クルーウェルとトレインがお前のことを褒めていた。勉強熱心だから育て甲斐があると。あいつらもまだ生まれて間もないせいで情熱がありすぎるのだ、もう少し長い目で見て育ててくれと頼んだ方がいいのではないか?」
ツノ太郎は緑色の光に包まれて消えてしまった。
*
帰るのを渋る背中を押して、絨毯がオンボロ寮の入り口まで連れてきてくれた。
「そうだよね、君ももう帰らなきゃだよね。今日はありがとう、楽しかったよ」
握手のつもりで右手を差し出すと、向こうからはフサフサを差し出されたので優しく握った。
お互いに待ってくれている人がいるはずだから、帰らなきゃ。
再び鏡舎に向かって飛んでいく絨毯を見送って、ようやくオンボロ寮のドアを開ける。
「どこに行ってたんだい、お前さん!」
「ああもう、心配させないでおくれよ」
玄関に足を踏み入れるや否や、壁を天井を抜けてきたゴーストたちに囲まれて、ぎゅうぎゅうと抱きしめられた──実際は、抱きしめてくれる腕が通り抜けてしまったのだけれど。
「グリ坊が待ちくたびれて寝ちまったよ。お前さんもさっさと寝ちまいな」
通り過ぎたキッチンには、もう冷めてしまっているだろうミルクの入ったマグカップが置かれたままだった。
「ただいまー」
小声で声を掛けてみるも、返事はない。忍び足で部屋に入ると、外から見た通り、グリムは出窓でスヤスヤと眠りに就いていた。自分のベッドのそばには、実験室に置きっぱなしにしていたはずのカバンが置かれていて、枕の上ではスマホが通知を光らせている。グリムが小さな体でカバンを引きずって帰ったのか、それとも誰かに頼んだのか──寝顔に問いかけても答えは返ってこないので、また明日聞いてみることにする。
「あれっ?」
思わず声が出た。スマホのそばに、教科書とノートが開かれている。これはもしかして、もしかするんだろうか。
小走りでベッドに飛び込んで、開かれたノートを確認する、が。
「……あー、やっぱりか」
3問目でつまずいてしまったらしい。20ページほどあるうちのたった2問、挑戦はしたようだ。
「エースとデュースに頼んで、ハーツラビュルで勉強会だな」
スマホのロック画面に並ぶ着信とメッセージには、これまた明日返事をすることにする。
「明日からまた頑張ろうな、相棒」
鼻提灯を膨らませているグリムの鼻をツンとつつくと、「子分、早く帰ってくるんだゾ……」とうにゃうにゃ寝言が漏れたので、思わず笑いが零れてしまう。
そのままベッドに連れていくために出窓から抱き上げると、部屋の中を空高くから照らす満月が目に入る。周りに散らばる星はやはり、ダイヤモンドのように綺麗だと思う。
「何であれが米粒に見えたりなんかしたんだろう……」
空腹とは恐ろしいものだ。
ともかく、エペルから貰える絶品のりんごと、ジャックから貰えるお下がりの実験着と、セベクから貰える新品同様らしい実験着と、エースとデュースから貰えるであろう「何で昨日電話出なかったんだよ!」──それらのことを考えると、明日がなんだか楽しみに思える。
口の端が勝手に上がるのを感じながら、グリムのビロードのような背中を撫でていると、瞼がだんだんと落ちてくる。手のひらから伝わるぬくもりに心までが温まるような気がして、そのまま瞳を閉じた。
もう少し“ここ”で頑張ろうと、目は閉じたままに手元のぬくもりをぎゅうと抱きしめた。
また、“ここ”での朝が来る。