言わない男『あいつら、別れたんじゃなかったっけ?』
『でもほら、見ろよ。手なんか握りあっちゃってさ。ヨリ戻したんじゃねえの』
獣人属の生徒たちのようによく聞こえるわけではないけれど、右から左から、喧騒の中で自分たちに向けられるヒソヒソ話はしっかりと耳に届く。聞こえる噂話と手首に巻き付く熱、両方のことで頭がいっぱいで、心臓が散り散りになってしまいそうだ。
なのに、まるで僕の心臓がはじけ飛びそうなのが見えているかのようなタイミングで、今度は耳元に直接ヒソヒソ話が届く。
「もしもし? 僕の声、聞こえてます?」
握られたたままの僕の手首がゆっくりと、でも力強く引かれて、吐息が耳をかすめた。突然のことに驚いて振り向いてしまえば、思っていたよりもずっとそばにスカイブルーの色を見つけて飛びのきそうになる。でもやっぱり、手首の拘束がそれを許してはくれなくて、空色の瞳は目と鼻の先で僕を見つめ続けている。
「い、今は聞こえてます……」
「ああ、それならよかった。僕との会話がつまらないのかと」
「いえ、そういうわけでは……ないんですけど」
こんなに力強く握られてて、逃げられるわけないでしょ。とは口に出さなかった、というか出せなかった。
手首を握りしめていただけのはずだった白魚のような指は、するりと指の間に絡む。
『お、やっぱり元サヤか』
『なーんだマジでそうなのかよ。リア充うっぜ』
『自分の誕生日パーティーで見せつけるとか、寮長クラスはやることがちげえわ』
『インタビューにかこつけてイチャイチャしやがって、職権乱用かっての!』
ヒソヒソ話は相も変わらずしっかりと聞こえてしまう。耳に入れたくないものほどよく拾ってしまうなんて、人間の耳はよくできてるなあ、なんて現実逃避をしてみる。でも今は、自分たちをからかう噂話よりも、頭の片隅で必死に繰り広げる現実逃避よりも、今目の前にあるきれいな顔と手をすっぽり包む人肌の温かさを意識しすぎてしまう。
だって、僕たちって数か月前にお別れしませんでしたっけ、アズール先輩?
「あなたにとって一番有用な人間は僕だと思うんです。いかがでしょうか」
バイト代欲しさにモストロラウンジで働いた日、みんなが帰ってしまったあとのバックヤードでそう言われたときの衝撃は、きっと忘れないと思う。
「いかがでしょうか、とは……」
「魔法の使えないあなたがこの学園で平穏に過ごすためには、何かしらの後ろ盾が必要では? 悪い話ではないと思うのですが」
「……?」
話の趣旨がつかめない僕のことをしばらく見つめて、アズール先輩は大きく息を吐いた。ゆっくりと僕の左手を掴む右手が震えていたような、そうでもなかったような、しっかりと思い出せないけれど。
「僕とお付き合いを。……恋人として」
ただ、掴まれた手の熱さだけははっきりと覚えている。
確かに悪い話ではないと思った。同時に、断ったらどうなってしまうのだろう、いったい何が起きるのだろう、とも思った。
「好き」とは言われていない。ただ、有用な人間だ、とだけ。つまり、この話には確実に裏があるはずだ。僕と付き合うことで、アズール先輩に何かしらの得があるのだろう。僕にとって同じだけの得かは分からないけれど、僕に訪れるメリットは──寮長と付き合ってるなら、ちょっかいかけるのやめとこうぜ、と思う生徒が増えるとか? 正直、それだけでも十分すぎるくらいありがたい話だった。断ったあとのことと、得られるメリットとを脳内で天秤にかけて、僕の心は決まった。
「よろしくお願いします」
すでにぎゅうぎゅうと握られていた手を握り返して初めて、アズール先輩が珍しく手袋を外していることに気が付いた。
そういう始まり方をした関係だったから、まさか本当に好きになってしまうだなんて、ちっとも思っていなかった。
だって、あの人はやっぱり、恋愛面でもかなりマメだった。
学業と経営と、かなり忙しいはずなのに、毎日の連絡を欠かさなかった。僕の想像の中のアズール先輩は「恋愛なんかに現を抜かしている暇はないので」とか言いそうだったけれど、実のところ、この世の全ての物事に対してマメなタイプなのかもしれない。朝と夜の挨拶や日々の何でもないこと、ちょっとした噂話とか、送ってくれたり返してくれたりすることが嬉しかった。「恋愛なんかに現を抜かしている暇はないので」じゃないんだな、「今日のトレイン先生、襟元にコーヒーのシミが付いているのでぜひ見ておいてください」みたいなことも教えてくれるタイプなんだ。
少しでも時間が捻出できれば、会いに来てくれた。かっちり着込んだ寮服でオンボロ寮のくたびれたソファに座っている姿が不釣り合いでなんだかおかしいな、と笑えていたのは最初だけだ。グリムもゴーストも出払った二人きりの空間で、肩を寄せて、耳打ちをして、くすくすと笑い合って──いつしか、帰ってほしくないと思うようになってしまった。手を握って、頭を撫でられて、そのまま頬に手を添えられれば穴が開きそうなほど見つめられる。揺らめく空色が綺麗で、恥ずかしくて目を逸らしたいのに、目が離せなかった。一度だけ、帰り際の彼に「帰らないで」とこぼしてしまったことがある。しばらく間が空いた気まずさに、なんちゃってと付け加えようと顔を上げた僕の頬に、ちゅうと吸い付く感触。また来ます、と去っていったその顔をしっかりと見ておけばよかった。
あの人は僕との付き合いにも手を抜かなかった。でも、ただそれだけだ。
僕のことをすっかり骨抜きにしてしまったくせに、手をつなぐ以上のことをしてくれなかった。おかげで僕は、あの日に貰った頬への感触を何度も思い返すだけ。これってどう考えても、恋してる人の行動だ。
思えば、彼のオーバーブロットのときから、なんとなく好印象──彼が悪行を働こうとしたのは分かっているけれど──を持っていた。彼のバックボーンに触れて、どこかほかの生徒たちに対するものとは違う感情を持っていたと思う。
やっぱり、打算だけで付き合ったのかな。今のところ、自分と付き合うことでアズール先輩が得られるメリットがイマイチ分からない。だからといって聞けもしない。もしかしたら本当に僕のことが好きなだけかも、なんて一握りの希望を自分から消しにいくなんてできっこないから。
ただ恋をしているだけの幸せな時間に、終わりが見え始めた。
「もしかして、ほかに好きな人間が出来ましたか?」
片思いのまま付き合うのは辛いという本心は伝えなかった。「なかなか会えない恋人はちょっと」とか「僕より仕事の方が大事みたいですし」とか、その場しのぎの適当な説明をして別れを告げると、想定していた反応は返ってこなかった。へえそうですか、ではさようならと一蹴されるか、自分と付き合う旨味──それが一体何なのかは未だに分からないけれど──を惜しんで引き止められるか、どちらかだと思っていたけれど。
好きな“人間”だって! まるで海に居た頃の語彙で喋るアズール先輩がらしくなくて、ほんの少し面白かった。
「……いいえ」
「そうですか。……よかった」
ああ、ぽそりと呟かれた「よかった」が、心から安心しているように聞こえてしまって良くない。彼の子ども時代のエピソードを聞いたときのような、かわいい人だなと思う気持ちがまた膨らんでしまう。
「楽しかったです、アズール先輩とたくさん話せたの」
「ええ、僕もです」
また浮かび上がりそうになる気持ちを振り払うために、まるで何にも気にしていない振りをして思い出を振り返る。アズール先輩もまた何も気に留めていないような顔をしていて、安心するような、がっかりするような。
言い出しっぺのくせに別れがたくて、何も言えずに、だからといってその場を去ることもできずに、床を見つめる。すると、知らないうちに制服のジャケットを握りしめていた僕の指が、アズール先輩の白くて長い指に絡めとられた。手が持ち上げられるのと同時に、僕の視線も自然と上がる。持ち上げた視線の先で、まるで商談相手を前にしているかのように真剣な顔をしたアズール先輩がじっと僕を見つめていた。
「必ず」
「?」
あれ、握られた手がこんなにも熱かったのは、いつだったっけ? そうだ、確かアズール先輩が僕の手を取って、言ってくれたんだった。
「必ず、男を磨いてあなたを振り向かせます」
握る手の熱さも強さも、「お付き合いを」と言われたときとまるで同じだ。アズール先輩は、やっぱりいつもの黒手袋を着けていない。僕は、力の抜けた手がゆっくりと彼の口元に持っていかれるのをぼうっと見つめているだけだ。ふに、と触れた唇の柔らかさでようやく現実を認識して、自分でも驚くくらい肩を跳ねさせてしまった。連動して大きく震えたせいで離れてしまった手を、おやおやだなんて顔で見つめて、そのまま視線を僕に移す。
「…………え?」
というか今、この人は何て言った?
アズール先輩は硬直する僕を見て、少年のようにひとしきり笑ったあと、長い脚の大きな一歩で僕にぐいと近づく。
「それまでどうか誰のものにもならないで、僕の天使」
まるで初めて貰ったラブレターみたいに思い出しては幸せなため息をついていた、あの感触がもう一度僕の頬に贈られた。
去り際にその頬を撫でた手はやっぱり熱くて、僕はそのまま一番近くにあった窓ガラスにおでこをつけたまま、しばらく動けなかった。
別れ際にもっと好きにさせられたのが悔しいくらいなのに、その後のアズール先輩の猛攻は止まらなかった。寧ろ、付き合ってたときよりも露骨になったかもしれない。
元々、付き合っていることは周りに隠さずにオープンにしていたけれど、別れたあとも彼氏面──この場合は元彼面?──を続けるから、まあ困った。廊下で偶然すれ違えば、こっそりと、でも周りにはしっかりバレる程度に手を振られる。おまけに、小さな犬とか猫とかに向けるみたいな優しい微笑み付きで。二学年合同の錬金術では、先輩後輩同士でペアを組むとなればいつの間にかそばにアズール先輩がいて、何も言わなくてもペアになっていた。実際、彼は優秀だし教え方も上手かったけれど、付き合っていた頃みたいに自然と距離が近づいてしまうのが照れ臭かった。
僕の誕生日には、大きな花束と、麓の町で有名なケーキ屋さんのバースデーケーキがオンボロ寮に届いた。きっとブランドものだろう花瓶も一緒に届いていたのが、気が利きすぎて怖いくらいだ。ケーキボックスには美しい筆跡を乗せたカードが添えられていた。
『僕の天使、生まれてきてくれてありがとう
隙間風荒ぶ部屋であなたが凍えていないか心配で、夜も眠れません
今日という素晴らしき日に、どうかこの手紙を読んでいる間だけでも僕のことを考えて
──だって、僕ばかりが毎夜あなたのことを考えているのは不公平でしょう?
どうか今夜は温かく、寂しい思いをなさらないよう
あなたの良き友人(恋人でないのならせめてこう呼ばせて)
アズール』
読み終えた途端、どこからともなく現れたブランケット──これもまたブランドものだと思う──が僕の肩にふわりと舞い降りた。あの多忙なオクタヴィネル寮の寮長が、別れた恋人への手紙に魔法で小細工なんかしちゃって、一体どういうつもり? なんて考えるより前に、グリムが鼻を利かせてケーキを取り出し始めたので、ゴーストたちも交えてささやかなお茶会を開催したのだった。
ゴーストたちにおやすみを言って、グリムが寝息を立てたのを聞いてから、例のブランケットを胸に抱いてベッドに沈んだ。花束を生けた花瓶がベッドサイドテーブルに鎮座するのをじっと見つめて、僕はようやく気づいた。アズール先輩ってもしかして、本当に僕のことが好きで付き合ってたの? 付き合っていたころのあれこれと別れてからのあれこれを照合して、恐る恐るこの結論に達した。
両思いかもしれない嬉しさに肩を震わせてすぐ、すでにお別れしてしまった現実を思い出して溜息を吐く。
「ちゅーのひとつもしてくれなかったなあ」
かつて頬に触れた彼の唇の感触を忘れないように、もう何度目になるのか、頬をゆっくりとつついてみる。その感触が一度も自分の唇に訪れなかったことが、ずっと気になっていた。好きは好きでも、ペットとかそういう類に向けた愛情なのかもしれない。もう一度大きくため息を吐いて、ブランケットに顔を突っ込んだ。
「……一回くらい、好きって言われたかった」
ブランケットの長い毛足の向こうに彼のコロンが香るような気がして、思いきり抱き込んでみた。一人きりではないのに、寂しい夜だった。
僕の誕生日が過ぎれば、アズール先輩の誕生日がやってくるまであっという間だ。僕が今日すべきことはただ一つ、今まで通り、ただ誕生日を迎えたアズール先輩にインタビューをすればいいだけ──だったのに、どうしてこうなった。
「もしもし? 僕の声、聞こえてます?」
はいもしもし、僕たちって数か月前にお別れしませんでしたっけ? だなんて、本人には言えないけれど。
「い、今は聞こえてます……」
「ああ、それならよかったです。僕との会話がつまらないのかと」
「いえ、そういうわけでは……ないんですけど」
きれいな顔が目と鼻の先で僕を見つめて、時々耳元で何か囁いては微笑みかける。
はあ、無理だよこんなの。だって、僕はもうとっくに先輩のことが好きになってしまっていて、今もこんなに好きなのに。
そうやって、握られた手が汗をかくことばかり気にしていたからかもしれない。いつの間にか談話室を後にして、アズール先輩に肩を抱かれながらオクタヴィネル寮の廊下を歩いていることに、自分でも驚いた。「先ほどのインタビューでお話したコインのコレクション、ぜひ僕の部屋でご覧になってください」と、そういえば言われたような。
ドアを開けた先輩に続いて、部屋に入った。まるで海の中にいるようなインテリアに心は躍るものの、同時に暗い影が差す。付き合っている間ずっと、彼がこうやって自室に招待してくれたことはなかった。別れて初めて招かれて、彼の好みも、趣味のコイン収集も、ようやく目にすることができた。様々な色の感情に飲まれて黙ったままだったことにようやく思い立って、そういえばドアのそばで突っ立ったままだった彼に振りむく。
「あの──」
「実績は作りました」
「……え?」
「マーケティングが功を奏したのか、季節限定メニューが立て続けにヒットしまして。業績も右肩上がりになったので、思い切っていくつかシステムを導入したんです。いやあ、アウトソーシングっていいものですよねえ。業務効率が改善されたおかげで従業員の雑用は減り、支配人である僕も以前より時間が作りやすくなりました。人件費も削減されたので、開発面により多くの投資をできるようになったんですよ。企画に当てられる資金は多ければ多いほどいいですから」
「へ、へえ……」
アズール先輩、急によく喋る。話の中盤でようやくモストロラウンジの経営についての話だと分かったものの、さっきまで廊下で話していたのはそういう話題だったっけ。
「もちろん、学業も手を抜いていません。成績も3位以内をキープし続けていますので」
「わあ、すごーい、ですね?」
この、突然始まった自慢大会は一体何だろう。要領を得なくてなんとなくリアクションを返していると、功績を淡々と語っていたアズール先輩の真顔が訝しげになっていく。
「あなた、まさかまだ足りないとでも言うつもりですか? 天使のくせに小悪魔なのか?」
「え、足りない? 何のことですか?」
足りるとか足りないとか、天使だとか小悪魔だとか、思いもよらない単語が出てくる。会話の速度にちっとも追いつけない。
「……もしかして、僕の見た目が気に入らない?」
「見た目? とっても美人で素敵ですよ」
今度の質問は理解の範疇だったので、ようやく的を射た返事ができたと思えば、真顔だったはずの美人は口の端をゆっくりと持ち上げて、目の端はとろりと垂らした。
「ではやはり、この学園において、あなたにとって最も有用な男は僕だ」
垂れた目の端があんまり綺麗だったから、傍にあったベッドにいつの間にか引き倒されていたことに気づくのが遅れた。
「あれ、アズール先輩?」
「あなたのお眼鏡に適わなかった僕は、どうしたらあなたを捕まえられます? 天使の羽を捥いでみましょうか」
するりとネクタイを掴まれて、背中に嫌な汗が伝う。
ああ、どうして。あなたの部屋に来たのも、ベッドシーツの色を見るのだって初めてだったのに。どうして今さら。
「やだ、やめてください……!」
口をついて出た拒絶の言葉に、アズール先輩は素直に従った。
「失礼しました、冗談ですよ。……なぜ泣くんです?」
「だって、だって……!」
「すみません、そこまで怖がらせるつもりは──」
「ちゅーしてくれなかったもん……」
「は?」
「付き合おうってそっちから言ったくせに、好きって一回も言ってくれなかった……!」
一度も好きだと告げられていないのに、今ではもう恋人ですらないのに、少しちょっかいを掛けられただけで涙が溢れて止められなくなった。子どもみたいにわんわんと泣き出す僕を、アズール先輩は恐る恐る抱きしめてくれた。小さい子をあやすみたいになだめるから、恋する僕のプライドはまたぼろぼろと崩れ落ちる。
嗚咽がだいぶ落ち着くと、先輩がこの時を待っていたかのように「監督生さん」と声を掛ける。鼻水がはみ出ていないか気になって仕方がないけれど、いつだってこの人に見つめられると目が離せないので仕方がない。
「……はい」
空色の瞳に絡めとられたまま、鼻水混じりの声で返事をした。
「ねえ監督生さん、僕とキスしたい?」
……いや、先輩の方がよっぽど小悪魔じゃない?
と思ったけれど、涙と鼻水付きの顔で守るものなんてもう無い。僕は今日、隠したままにしていた片思いを本人にさらけ出してしまうしかないんだ。
もう、どうにでもなってしまえ。
「……はい、したいです、けど」
「けど?」
「僕のこと好きになってくれなきゃやだ……」
先輩のことが好きなんです、と、ずっと言いたくて聞きたかった言葉をようやく吐き切った。
すると、僕をじっと見つめるスカイブルーがどろりと溶ける。冷たい空色の向こうで燃える何かを、見た。
「ああ、この時をずっと待っていた……!」
アズール先輩は抱きしめていた手で僕の輪郭を撫でまわして、そのまま唇を親指でなぞる。今日も手袋を着けていない手は熱くて、唇を伝って自分の体内に熱が移される気さえする。
「僕の天使、海よりも深く愛しています」
なぞった親指で開かされた口に、焦がれていた感触が舞い降りた。何度も想像していたよりも情熱的で、水っぽくて、苦しくて、ずっとこうしていたいと思った。
「……先輩、その『僕の天使』ってやつ何ですか?」
口が離れた隙に、僕を喜ばせて苦しませた口説き癖について聞いてみた。照れ隠しとも言う。
「天使は天使以外の何物でもないですが? こら、僕から目を離さないで」
頬への感触を忘れないように思い出していたのが遠い昔に思えるくらい、先輩の唇の柔らかさを一晩ですっかり覚えてしまった。
「で、僕、今日誕生日なんですけど」
「……知ってますよ? さっきまで先輩のお誕生日パーティーに参加してたので」
「ああ、忘れていないのなら良かった! なら、僕にバースデープレゼントを」
「ああそれなら、談話室に置いてきちゃったんですけど──」
ネクタイをするりと掴まれるのは、今日で二度目だ。
「僕、ずっといい子で待っていたでしょう? あなたのお許しが出るまで、お腹を空かせてじっと耐えていたんです」
僕を見つめる空の色が、まだ遠くで燃えているのが見える。
「先輩が好きって言ってくれなかったからですよ」
「……そうでしたっけ」
「わざとだったんでしょ、いじわる」
「おや、おしゃべりなプレゼントだな。……あなたに好かれたくて必死だったんですよ。」
ゆっくりと結び目が解かれていくのを、今度は拒絶しなかった。