30分 5000円注意書き
私が今回書いた職業は私の空想とご都合で書かれており実際の職業の現状とはかけ離れているかと思います。それを踏まえた上でお読みくださいます様よろしくお願いします。
「本日はよろしくお願いします」
深くお辞儀をして日車は顔をあげた。目の前にいるのは自身が個人契約をしている雇い主の一人のご令嬢で、彼女からの指名で父親の持つ自家用ジェットを操縦することになっていた。
「日車さん、わがままを言ってごめんなさい。どうぞよろしくお願いします」
たおやかな笑みを浮かべた彼女は手を差し出してきたのでそっと指先を持ち握手を返し、手を離すとテーブルから椅子を引き座るように促す。彼女を座らせると自分も向かい合って席につく。
「それでは今回の依頼内容についてお話させていただきます…」
今回の依頼はご令嬢が父親のプライベートジェットを借りて婚約者と海外へ。日車はその往復の運行を任されたパイロットである。一般的なパイロットからすると破格の値段で仕事を請け負っているが日車の腕と信頼を多くの依頼者が買っており、富裕層を相手に充実した仕事をしていた。
そして当日。
いつものようにクルー達とのミーティングを済ませ準備をし離陸の準備に取りかかる。
これから約半日程かけた空の旅、重力を感じながら気を引き締める日車だった。
「この飛行機は、ただいまからおよそ20分で空港に着陸する予定でございます。
ただいまの時刻は午前七時三〇分、天気は晴れ、気温は二十五度でございます。
着陸に備えまして、皆さまのお手荷物は、離陸の時と同じように上の棚など、しっかり固定される場所にお入れください。」
上空から高度を下げていき雲に潜り込み地上へと降りていく。パイロットにとっては魔の八分間が待っている。離陸を成功させて快適な空の旅を提供したとしても着陸を成功させなければ意味が無い。日車は軽めの深呼吸をすると着陸体制に取り掛かっていった。
滑走路を小さくバウンドしてジェット機は止まっていく。完全に機体が止まった。全ての確認が終わるとをベルトを外して無意識に溜まっていた身体の力みを緩めていた。
「機長お疲れ様でした」
「ありがとう。君もお疲れ様」
コックピットの中で副操縦士と握手を交わすと飛行機を降りる。往路の飛行状況などを整備士に伝えミーティングが終わった時、後ろから声をかけられた。
「日車さん」
振り返るとそこにはご令嬢とスーツの上からでもわかる靱やかな体躯のいい青年がたっている。
「お嬢様本日もご搭乗ありがとうございました」
「日車さん…素敵な操縦をして頂いたおかげで快適に過ごせました。ありがとうございます」
「それは何よりでございました」
「あの…私、婚約しまして」
目の前のご令嬢が婚約した事は聞いていた日車だったがその事には触れずに話を促す。
「左様でございますか。それはおめでとうございます」
「ありがとうございます…ご紹介します。婚約者の七海建人さんです」
「七海と申します」
「七海さんご婚約おめでとうございます。日車と申します」
「ご丁寧にありがとうございます」
いつもならこのような当たり障りのない挨拶が終わるとそのまま依頼人とは別れる。そして復路に従事するまでの間は日車にとってのプライベート時間になっているが
「日車さん、急なお誘いで申し訳ないのだけれどー」
と、ご令嬢の一言で急遽日車は明日開催されるこの二人の婚約披露パーティーに呼ばれる事になった。婚約者を紹介したのはこの為か…初めは遠回しに断っていたもののもう既に段取りをしていると言われては自分の拒否を通しきれない。結局のところ日車が(今回限りでと念を押して)折れる形で収まった。普段の日車とは縁のないオーダースーツの会社に連れて行かれその日の内に仕立てあげられるらしい。戸惑う日車をよそにご令嬢は楽しそうにあれやこれやと決めていく。七海はそんな日車とご令嬢の姿を一歩引いて見守っていた。全てが終わった頃少し遅めの昼を摂ることになり誘いを固く断った日車だったが後々の関係性を考えると頑なに主張も出来ず日車にとっては肩身の狭い昼食となってしまう。ご令嬢が化粧室へ向かった間、今まで話しかけられたことの無い七海が声をかけてきた。
「振り回されてお疲れのご様子ですが…大丈夫ですか?」
「ご心配をお掛けして申し訳ないです」
「…この後は二人で居られるように誘いますのでもう少しお付き合いください」
「配慮してくださりありがとうございます」
「いいえ…それでは…失礼…」
そういうと七海はご令嬢の元へお迎えの為に席をたった。一人残された日車は明日のパーティが億劫だがそれさえ超えれば復路までの数日は自由。これも仕事か…と考えてグラスに入った水を煽ったのだった。
やっぱり自分は場違いである。大きなホールに煌びやかな食事。普段の服装と違い窮屈になって日車は落ち着かない。知り合いはご令嬢と七海という男性だけ…2人が知り合いに挨拶に行くと一人残されてしまいいわゆる『壁の花』になって自分の存在を消すことに集中していた。アルコールは断りソフトドリンクを飲みながら自分の足元を見て過ごす。しばらくするとその足元に革靴が見える。ゆっくりと顔をあげてみるとそこには七海が立っていた。
「日車さん、お一人にさせてしまってすみません」
「…あぁ…お構いなく…」
よく見るとご令嬢が居ないようだった。日車の顔に出てたのかもしれない。
「彼女は父親の代理として挨拶に回ってまてます」
「七海さんはご一緒されなくて良いんですか?」
「私が必要な挨拶回りは終わりました。婚約とはいえ私はまだ彼女の家の者になってはいません」
「それは無知とはいえ失礼しました」
「いえ…」
それから以降会話を続けるつもりが無いのか無言になる。
「すみません」
パーティーはそれなりの人数で日車の周りでは人々の雑談が飛び交っている。それなのに七海の一言はまるで取り出した様にはっきりと聞こえていた。
「私が酔いを覚ましたいので少しご一緒してもらえませんか?」
少しだけ自分自身に驚きながら直ぐに応える。
「構いません」
二人はボーイにグラスを返すとホールを抜け出した。来たのはとある部屋。休息用にと取っておいたホテルの部屋らしい。どうぞと部屋の扉を開けられた時、日車は首を横に振った。
「それは流石にお断りします」
「彼女からも日車さんが疲れてしまわれた時に使ってもらうように言われてます」
「…そうだとしてもこの部屋に入ることは出来ません」
日車がキッパリと断ると二人の間に沈黙が残る。フーと深くため息をついた七海が「失礼」と言うと日車の腕を掴んで無理やり部屋へ連れ込まれ扉を閉められた。
「っ!何を?!」
「何を遠慮されてるのか分かりませんが…あの会場に戻って壁の花になるつもりですか」
「…」
「…この部屋は少し広めの庭がついています。こちらへ」
七海は日車の腕を離し部屋の奥へ向かう。
「こちらから中庭に入ります。入口はここだけですのであの部屋の利用者しか入れません」
後について行った七海が扉が開くとそこは綺麗に手入れされた庭が広がっている。他の部屋から覗かれることが無い様に、それでいて開放感がある落ち着いた雰囲気になっていた。七海と言う男と足元が暗くならないように照らされた照明が幻想的に見えて思わず心臓が跳ね上がる。
「あちらのベンチへ…日車さん?」
「…っありがとうございます」
落ち着かない感覚に戸惑いながらベンチに腰掛けると「飲み物を持ってきます」といい七海は部屋に戻っていった。七海を見送ると深くゆっくり息を吐く。なんだこれは…早く落ち着いてくれ…首を絞めているネクタイを緩めてシャツのボタンを開けると息苦しさから開放されたくて二三度大きく深呼吸をする。七海の姿が目に入ったが同性ということもあり気遣いや遠慮をするのをやめた。
「お酒でもと思ったのですが、フライトに差し障るといけないのでこちらで」
差し出されたのはミネラルウォーター。日車は受け取るとカチッと音をたてながらキャップを開けて一気に水を呷っていく。半分ぐらい飲み干すと大きく息を吸い込んだ。
「美味いな…」
「よほどお疲れだったんですね」
「誘って貰って申し訳ないが…ああいう華やかな場所は俺には似合わん」
「誘われたと言うより付き合わされていると言う方が正しいのでは?」
言葉を崩し話し始めた日車に冷静な七海のツッコミが入る。それに対して日車も言葉の掛け合いを楽しんでいく。
「…それを貴方が言うんですか…」
「…確かに…聞かなかった事にしてください」
「もちろん…守秘義務がありますから…」
「それは良かったです…では私と日車さんの二人だけの秘密ですね」
「…その言い方は頂けませんね。何せ聞かなかった事になってますから…」
二人目線が合うとしばらく見つめあい、どちらからともなくクスクスと笑いだす。
「そう言えばそうでした…失礼」
「いえ…」
少し分かりにくい冗談でも笑っている七海にほんの少しだけ好感度が上がる日車だった。笑いが止んで沈黙は流れるがただ心地よく時間がすぎていった。そしておもむろに七海が立ち上がると立ち上がろうとした日車を手で制した。
「あと少しでパーティも終わります。それまでここにいてください。私はそろそろ会場に戻ります」
「…いや流石に…」
「いえ、ここにいていただけますか?後で迎えに上がります。ホテルまで送らせてください。それではまた後で」
日車の返事を聞くとこなく七海は会場へ戻って行く。七海の背中を見送ることしか出来なかった日車は背もたれに持たれかけると長いため息をついたのだった…
パーティも終わり用意してもらった車に乗り込む。あの後七海はご令嬢と共に戻ってきて二人で日車を見送ってくれた。予定は狂ったが明日からはゆっくりと休もう…とりあえず今日はこのままベッドへ飛び込んでやると心に決めてホテルへと戻った。
慣れない事が続けて起こり夢を見る暇もなく惰眠を貪ってゆっくり起きた昼。目覚ましにシャワーを浴びるとホテル近くのカフェで飲み物をテイクアウトして近くの公園でゆっくりと飲む。三日後には日本に戻る為の準備として復路のルートの天候やそれぞれの現地のスタッフと打ち合わせをしなければいけない。のんびり休むつもりだったが一日は潰れてしまった…まぁいい…この仕事は信用がもの言う。印象が悪くなるのは困るのだと自分に言い聞かせる。ご令嬢は天真爛漫で人を惹きつける何かがあるようで彼女が居るだけで華やかな印象があり、一方七海はそんな彼女を受け止めることが出来るように背伸びをしている様な所もあって何となく気になっている。ふと思うもし自分だったら…いや待て待て…なんだ…自分だったらなんて…ありえない。
「こんにちは奇遇ですね。体調はいかがですか?」
日車の思考が本人の思わぬ所に行こうとしかけていた時声を掛けられた。声の方向を見ると七海が近づいてくるのが見えた。
「七海さん、本当に奇遇ですね…どうやら君と俺はご縁があるようだ」
「それは嬉しい言葉ですね」
日車はベンチの真ん中に座っていたが端に座り直してそれを見た七海は軽く会釈をすると横に座ってきた。そして二人は前を見ながらポツポツと会話をやり取りしていく。
「今日はどうしてこちらへ?」
「この街は初めて訪れるので散歩を少し。そうしたら日車さんが見えたので思わず声掛けを…」
「それは…ありがとうございます」
「日車さんはこちらは何度か来られてるんですか?」
「そうですね…それなりにです」
「そうですか。あの…もし良かったら貴方のお気に入りの場所とかあれば教えて貰えませんか」
「私のですか…?」
「えぇ。闇雲に探すよりも知っている人から聞いた方が安心で安全なので」
「構いませんが…そんなにありません…それでもよろしいですか?」
「教えてくださるだけでも助かります。ありがとうございます」
とりあえず場所を変えようと、二人は立ち上がると目的地は決めずに歩きながら会話を始めたのだった。
二人とも読書が趣味でどんな本が好みかで盛り上がったり、七海は作ることも食べることも興味があって日車からしてみれば未知なるものへの説明を丁寧にしてくる。七海と話すと楽しいと印象づけられるまでに時間はかからなかった。そしてお互いに砕けて話すようになった頃、信号待ちで2人立ちどまり七海が何処かを見ているので視線をなぞって見ると一軒のパン屋が…主人は地元の人だが奥さんは日本人で日本に馴染みのある調理パンを出していて人気の店の一つである。日車も少し日本の味が恋しくなった時によく利用していた店だ。
「七海さんはパンが好きだったな…寄ってみるか?」
「いいんですか?」
「ダメなら誘わないさ…ちょうど小腹が空いているしな。行こう」
「はい」
二人はパン屋へ舵を切ったのだった。
店内に入るとガラスケースの中に調理パンとバゲットや食パンなどが切り売りする形でずらりと並んでいた。バターとパンの焼けた匂いが鼻をくすぐり食欲を刺激している。一通り見たあと何か買おうということになり選ぶことになった。
「日車さんはいつもどういうものを選んでるんですか?」
「そうだな…コレとコレ…あぁ…珍しい…コレも…七海さんはどれが好みかな?」
「…そうですね…私は…コレでしょうか?」
「なるほど…」
日車は「すみません」とカウンターにたっていた女性に声を掛け七海が選んだパンと自分が選んだパンを頼んだ。慌てて「自分のは」と言っていた七海だったが
「パンの一つや二つ買えないぐらい俺は困ってないさ」
と言いうと大人しくなった。珈琲と一緒に買って店を出て歩いてきたのは海辺の砂浜。適当に座ると先程買ったパンに齧り付く。
「こちらにもあるんですね…あんぱん」
「まだ珍しい方だと思うがな」
日車はあんぱん、七海はカスクートをえらんでいた。
「日車さんのオススメのカスクート美味しいです」
「だろう?普段は作らないらしいからある時はアタリだな」
「そうなんですね…カスクートが一番好きなんです」
「そうか…この店のカスクートは美味しいから俺も好きだ。気が合うな……七海さん?」
会話が帰ってこない。七海の方を見ると驚いたようにこちらを見ていた。
「七海さん?どうかしたのか」
不思議そうに日車が話しかけるとハッとしている七海。
「いえ…気が合うと言って貰えて嬉しかったもので…」
「そんなに驚く程でも無いだろう?」
「そんなに驚いているように見えましたか」
「そうだな…君の表情を見て俺が驚くぐらいには」
「すみません…忘れてください…」
「これは…守秘義務に当たらないからな…どうしようか……フッ冗談だ」
驚いて恥ずかしがっているように見える七海を見て思わず言葉で遊んでしまう日車。流石に可哀想かと思い冗談だったと言うと拗ねたように海に顔を向けてしまった。
「人で揶揄わないでください…」
「すまん…だが君はそれぐらいが良い。余りにも釣り合おうと背伸びをしていると疲れないか?」
「…私が無理をしているとでも?」
先程の空気が一変する様にひんやりとした空気が二人に流れる。
「いいや…だが君を傷つけてしまったのなら申し訳ない」
「いえ…私も幼かったです。申し訳ありませんでした」
そこからは二人は無言で夕日が沈むのを眺め空が紫から群青に変わる頃に七海が口をひらく。
「日車さんこの後予定がなければ、夕食をご一緒してくれませんか」
日本からあのご令嬢の婚約者として来ている七海はなぜ自分を誘っているのだろうと思ってしまう。
「…」
「彼女の事なら問題ありません。今日はこちらで出来た友人の所に泊まりに行くそうです。バチェロッテパーティーってご存知ですか」
「結婚を控えた新婦が友人達と泊まりがけで楽しむ…」
「そうです。なので今日は私一人ですからお付き合い頂けると助かります」
「もっとこう…仲睦まじいものかと」
「婚約者と言っても私と彼女は幼馴染で…私達の結婚は家同士の繋がりが大きいので」
「なるほど」
とは言ったものの、七海がいる世界は日車にとって未知なる領域でどちらかと言えば分かりたくない世界である。
ー七海さんが本気で誰かを好きになったら…君は家の為と諦めることが出来るんだろうかー
要らない世話だと日車はその考えを捨てて
「夕食はどこで食べようか」
と七海に聞いていた。
七海が日車さんがいつも行っている場所が良いですと言うので毎回ではないが気軽に立ち寄れるダイナーへ向かった。
店に入ると空いている席へと言われたので二人は向かい合う様に座る。いつも食べるものを2人分頼むと大きなハンバーガーと多めのボテトそしてクラフトビールの瓶が二つ。
「「乾杯」」と瓶を鳴らすと喉越しを楽しんでそれぞれハンバーガーにポテトにと手に取った。正にこの国を象徴するようなクラシックな雰囲気と食事。目の前でかなりの量の食事が消えていき七海はかなり食べそして飲む男なのかと驚きを隠せない。
「七海さんはよく食べるんだな」
何気ない日車の一言に今日初めて見るまゆの下がった表情。
「…すみません。お見苦しいところを」
七海に謝られたのですかさず訂正をいれる。
「謝ることはないさ。君が食べる姿は綺麗だからな。好感が持てる」
「…っ。ありがとう…ございます」
「好感が持てるは失礼か…」
「そんなっ…失礼。そんなことはありませんよ」
「そうかなら良かった…そろそろ出ようか。もう遅いからな」
「…はい」
会計を済ませ店を出ると途中まで同じ方向へ向かって歩いている。分かれ道で「それじゃあ」と自分が泊まっているホテルへ向おうとした時「日車さん」と七海に腕を掴まれた。驚いて顔を見ると真剣な表情で七海がこちらを見ている。
「日車さん…私の話を聞いていただけませんか?」
出来れば人目のない場所が良いと言われて通したのは自分が泊まっているホテルの部屋。
途中のコンビニで買ったミネラルウォーターを渡し備え付けの椅子に座らせると少し離れて自分はベッドに腰かけた。
「回りくどい事は好きじゃありません。単刀直入に言います。日車さん…あなたの事が好きです」
静かな部屋の中。七海の言葉が静かに震える。大袈裟にふぅーと大きくため息をつくと
「君がそれを言ってどうする?」
と返した。
「日車さんの仰る事はご最もです。私は婚約しています。貴方を知った時間は僅かだったとしても私は貴方を思う気持ちは止められません」
今の七海の告白を聞いて嫌悪感を抱かなかった自分に驚きながら今はそれどころじゃないとなるべく冷静な声で七海を諭す。
「七海さん…今のは聞かなかったことにする。早くホテルに戻った方がいい」
日車の言葉を聞いた七海が素早く立ち上がると制止する暇もなく押し倒してきた。「おいっ!七海さっ!まてっ!」と言う声に聞かないフリをして日車の両腕を頭の上にまとめて押さえつけている。
「私が振られるのは仕方がない事ですが気持ちを否定されるとは思いませんでした…」
「頼む落ち着いてくれ。君の気持ちを否定して申し訳なかった。とりあえず手を離してくれないか?」
「お断りします」
「俺をどうしたいんだ?!」
「今夜一緒に過ごしてもらいます」
「やめろ!俺は七海さんに抱かれる気は無いぞ!」
「貴方と過ごせるなら私が受け入れる側でも構いません。それな無理なら共にベッドで寝るだけでもいい」
そう言いながらゆっくりと七海の顔が近づいてくる。このまま受け入れても構わない気持ちと突き飛ばさなければという気持ちで日車の心は迷っていた。
「…残念だ…折角素敵な友人が出来たと思ったのは俺だけだったか…」
お互いの息を肌で感じるほどキスをするまであと数センチ…日車が呟いた。これは素直に出た自分の本心で嘘偽りはない。これから友情を育んでいく予感がしていたからこそ、七海のこの行為がとても残念に思えたのだった。そして日車のこの言葉は七海に届いたらしい…少しだけ手を抑える力が緩んだ隙を見逃さず日車は七海との間に自分の足を入れ蹴り上げて退かす。お互いに対角線上にベッドから落ちたが直ぐに体制を立て直すと部屋のドアを無言で開けた。
「……」
「……」
少しだけ服装が乱れ髪型が降ろされた状態の二人は見つめ合うと七海が顔を逸らし少しだけ会釈をして部屋を出ていく。ゆっくりドアを閉めると静かに鍵を掛け持たれかけるように床に腰を落とす。自分の両腕を握りしめながら脚を立ててうつ伏せのような格好になって処理できない自分の感情を抑えるのが精一杯だった。
日本に帰る当日。ミーティングを済ませていつものように念入りに飛行機のチェックを済ませて搭乗する。帰りは行きより二時間長い。操縦桿を握り帰国するために機体を動かし始めた。今は日付変更線も超えて日本時間のでは深夜。パイロットは交代制の数人で自動操縦も使って飛行機の操縦をしている。
「日車さんお時間です」
「あぁ…そんな時間だったか」
日車の操縦がひと段落して交代すると休息の時間になる。コックピットと座席の間に細めの扉があり、開けるとハシゴのような階段になっていて休息するパイロットの仮眠室になっている。一息つくと誰かが上がってくる音がした。
「すみません」
あと時ぶりに見る七海である。
「なんで上がってこれたんだ?!」
驚く日車に
「日車さんに許可を得ていると話してあります」
と恐ろしい事をサラッといった。
「そんな馬鹿な…」
「この数日私と貴方が仲良くしている所を確認されていましたから直ぐに通りました」
いくらプライベート機と言えどあまりにもずさんだ。呆れながら日車は目的を尋ねた。
「所でこんなところまで何の用ですか?」
「操縦お疲れ様です。それから…この間お詫びを言いに来ました」
少しだけ沈黙が流れ感情が出ないように簡潔に話す。
「…あれはあの時で終わった話です。そういう事にしてください」
狭い空間の中で小さな声で話す二人。
「…あとコレを…」
差し出されたのはカスクート。
「これは…?」
「前に教えて頂いたパン屋でパンを購入して私が作りました…」
七海が出したのは二つのカスクート。具材がそれぞれ違うが美味しそうに見える。「それでは…」と言う七海を日車は思わず引き止めた。
「一人で食べるのも味気ないし量も多い…一緒に食べないか?」
「自分で言うのもなんですが…人を疑う事をしないんですか?もし…この中に…」
「おい…ここは地上じゃないんだ…君がそんなリスキーな事はしないだろう?」
「…っ…」
包んであった紙を下げるとカスクートを1口大きく齧り付く。ハムとチーズ生の玉ねぎがオリーブオイルのソースと混ざってあっさりとしているのに旨みが出てる。
「ん…美味いな…七海さんは自分で言うだけあって料理が上手なんだな」
「褒めていただいてありがとうございます」
半分まで食べると七海の手の上に残りのカスクートを置いた。
「後は君の分だ。今度はこちらを貰うとしよう」
もう一つのカスクートを開けると先程と同じように食べ始めた。海老とスモークサーモンがバジルソースによって臭みなく美味しく食べられる。
「ん…こっちはこっちで美味いな」
「日車さん…分かってるんですか…」
「学生の頃の回し飲みとさほど変わらないと思うが?それとも人の口つけたものは苦手か?」
「他人の口の付いたものはあまり…ですが…」
「なら、食べて終わろう」
表情をひとつも変えない日車に少しだけ悲しそうに笑いながら七海は渡されたカスクートの残りに齧り付いた。
「ご馳走様でした」「お粗末さまでした」と二人で手を合わせ軽食を食べ終わると日車は仮眠と取るために七海に部屋から出るように話す。
「日車さん…貴方はそんなつもりじゃ無かったのはわかっています。ですが…私にとっては素敵なデートでした…ありがとう」
七海はそういうと音も立てずにその場を去っていった。
無事に日本に帰り慌ただしさも去った頃、ふと立ち寄ったパン屋で無意識にカスクートを買った日車。いつもの店で食べる約束された味を口に入れた。
「…?」
…こんな味だっただろうか飲み込みながら口の中を空にしてもう一口食べてみた。やはり物足りない…たまに食べたくなるハンバーガーもあの時飲んだクラフトビールももう一つ物足りない。そして日車は気づいた。
七海が作ったカスクートやあの時楽しく七海と飲食したものと比べている事に…
「別れる男に、花の名を一つは教えておきなさい。花は毎年必ず咲きます」※
とある文豪の言葉を思い出す。七海は日車に決して抜くことの出来ない日車にとっての花を植え付けていたのだった…
※ 川端康成(作家、一八九九-一九七二)/『花』より