証 薄暗い室内は、ロウソクのオレンジ色に照らされていた。冷たい風が窓を叩くたびに、シャンデリアに灯された炎が小さく揺れた。窓の外はすっかり暗くなっている。
「それじゃあ、私はそろそろ行くよ」
主様が丸テーブルにティーカップを置いて、ソファから立ち上がった。
俺は口から出かかった言葉を、喉の奥に押し込む。言ってはいけない。これは主様を困らせる言葉だ。主様の担当執事として、ふさわしい行動をとらなければならない。そう自分へ言い聞かせる。
一人掛けソファからゆっくりと立ち上がって、姿勢を正す。最大の敬意を表すように、一礼。
「行ってらっしゃいませ、主様。」
そう言って頭を上げてから「おやすみなさい」と付け加えた。
「おやすみ。バスティン」
主様は微笑んで、自分の手にはめられた指輪へ手を伸ばす。それを引き抜いた瞬間、彼の姿が霞のように薄れていって、消えた。
「……行かないでくれ」
誰もいなくなった部屋で、俺はぽつりと呟いた。
もしかしたら、都合の良い夢だったのかもしれない。彼が帰った後はいつもそう思う。主様は夢のようなお人なのだ。俺たちのような悪魔執事にも優しく接してくれて、決してぞんざいには扱わない、礼儀正しい人。良い意味で主らしくない心根が温かい人。だからこそ、ときどき思う。彼は本当は実在しない人間なのではないか。つらい記憶や苦しい経験をかき消すために、俺自身の幻想が作り出した都合のいい存在ではないのか、と。主様が去った後はなにも残らないから。あるのはテーブルに乗ったティーカップと、この空虚な気持ちだけだ。こんなことを言ったら、あなたは笑うだろうか。
俺は溜息をついて、シャンデリアのロウソクを一本ずつ消していく。徐々に暗くなる部屋と共に、彼と過ごした夢のようなひとときも消えていくような感覚が、ひどく寂しかった。