暗香疎影 ふぁ……という間の抜けた声がして、叢雲は課題をしていた手を思わず止める。振り返ってみれば、寝巻きに着替えて2人用のソファーに座っている男の頭がコクリ、コクリと不規則に揺れていた。
時刻は九時半。寝るには少し早い時間だが、そういえば今日の授業は体を使うものが多く、疲れているのも無理はないなと思い直す。
「戴天、眠いのならベッドで寝ろ」
「はい……」
今にも閉じたまま開かなくなりそうな目をなんとか開き、意識をハッキリさせようとしているらしい。このままでは本格的にソファーで眠り込んでしまいそうだ。戴天をベッドまで運ぶのは難しいことではないので、まぁそれでもいいかと思い、課題に向き直る。
「おやすみ……なさ……」
蚊の鳴くような小さな声がした。どうやら自力で動く気になったようだ。
「あぁ、おやすみ」
返事を返しながら、気持ちよく眠れないだろうと思い部屋の明かりを消す。机の電気だけはそのままで、課題を進めるためにペンを走らせた。
進めておきたい箇所まで課題を終わらせた叢雲がペンを置き、机上の時計を確認すると十時になっていた。戴天が寝ていることもありあまり物音を立てることはできない。ならば自分も寝てしまおうと椅子から立ち上がる。
(?)
振り向いてまず違和感を感じた。家具の配置は特におかしなところは無い。
ただ、今から向かおうとしていた場所に先客がいた。
「寝ぼけて寝るベッドを間違えたのか……」
本来、今から叢雲が寝るはずだったベッドには戴天が寝ていた。もちろん、戴天がいつも寝ているベッドは空いている。普段からしっかりとしている戴天には珍しいことだった。
とりあえず寝ている戴天に近づき、様子を伺う。まぶたを閉じてすぅすぅと穏やかな寝息を立てている戴天を起こすのは忍びなく、さらに数十分前の眠そうな姿を思い出して、起こすことは諦めた。叢雲は空いているベッドに寝転び布団を被る。明日の朝のアラームをセットし、目を閉じた。
どうしても寝付けず、叢雲は寝返りを打つ。ベッドは備え付けのもので、布団だって支給品だ。いつもと何も変わりはしない。ただ、枕から、シーツから、布団から、とても良い匂いがした。共用で使用しているボディソープやシャンプーとは違う、甘いようで爽やかな匂い。これには覚えがある。戴天の香りだ。ふと戴天が隣を通った時にする香り。そんな香りが全身を包み込んでいて落ち着かない。まるで戴天をこの腕に抱きしめているような……
(何を考えているんだ、俺は)
かぶりを振ってギュッと目を閉じる。明日も授業が朝からある。早く寝なければ、とできるだけ意識を逸らし意識が落ちるのを待った。
「ねぇ、叢雲……」
ギシリとベッドが歪む感覚と呼ぶ声に叢雲が目を開く。
暗闇の中でぼんやりと金色の髪と白い素肌が浮かんでいる。戴天だ。目を覚ましてベッドを間違えたことに気づいたのだろう。
「戴天、目が覚めたのか?」
「叢雲……」
寝起きにしてはやけにハッキリと叢雲を呼んだ戴天が、寝ている叢雲のベッドに乗り上げてくる。そのまま這いずるように移動してきたかと思えば、叢雲を跨ぐように座る。上から見下ろすような体制になった戴天が垂れた髪を耳にかける。その仕草の艶かしさに思わず息を呑む。
「戴天、」
「ねぇ、私と」
なんとか絞り出した声を遮るように言葉を続けた戴天が、上半身を重ねるように体を倒す。戴天の髪が垂れてきて、叢雲の首を撫でる。そのまま唇を叢雲の耳に寄せ、戴天が殆ど吐息のような声を吹きかけた。
「イイコト、しませんか?」
「なッ…!!」
自分が発した声にビクリとし、叢雲は布団を跳ね除けた。はぁはぁと息を吐きながら、状況を確認する。ベッドには自分しかおらず、隣のベッドを見ると戴天はすやすやと眠っていた。
(夢、か……)
未だドクドクと脈打つ心臓を落ち着かせるために深呼吸を繰り返す。
高塔戴天という男は見た目が整っており、髪も男性としては長い。吊り目がちな目は鋭く見えるが下がった眉と弧を描いている口元も相まって柔らかな印象を与える。高塔の一族として厳しく育てられた彼は、仕草も品があり言葉も綺麗だ。
先ほどの夢のような目で見たことは無かった。普段何気なく感じ取っていた香りを強く意識するだけであのような夢を見るとは。同じ高塔の一族として、歳も近く信頼もされている、と思う。そんな相手からあのような劣情を抱かれていると知ったら、戴天がどんな気持ちになるか想像に難くない。忘れよう、今の夢は全て忘れてしまおう。そう誓って、寝巻きの襟を引き上げ口と鼻を覆う。誰にも見せられないような不恰好な姿ではあるが、戴天は朝に弱く、恐らくこの姿を見ることはないだろう。そう信じて、寝直すために叢雲は瞳を閉じた。
翌朝、アラームの音に盛大に顔をしかめて叢雲が起き上がる。結局昨夜はうまく寝付けず頭が重い。くしゃりと髪を掴み、大きく息を吸い込み、吐き出す。今日も変わらない1日が始まる。
叢雲が朝起きてまず初めにすることは、戴天に声を掛けることだ。いつものようでいて、いつもとは方向が違う隣のベッドに近寄り、戴天の肩を叩く。
「戴天、朝だ」
「んぅ……」
寝不足だろうが、時間は止まらない。もはやルーティン化した戴天への声掛けのあと、部屋を出る準備を進める。軽く身支度を整えてから、再度戴天の元へ戻る。
「起きろ」
「はい……」
覚醒していない戴天の背中へ手を差し込み、起き上がらせる。ぐっと伸びをして自ら布団を捲り立ち上がった姿を見て、ようやく叢雲も支度の続きに戻る。
テーブルに向かい合って座り、朝食を摂っていると戴天が不思議そうな顔をしてこちらを見ている。
「どうした?」
「あの、私が寝ていた場所、叢雲のベッドだったような気がして」
「昨日お前が間違えたんだ。今気づいたのか?」
「はい……。すみません」
「なぜ謝る?」
「……今日の叢雲は少し不機嫌そうだなと思いまして。そんなに嫌だったのなら起こしてくれれば良かったのに」
「寝付きが悪くて寝不足なだけだ。ベッドが変わったからじゃないぞ」
「そう、ですか。寝不足なのに私のこと起こしてくださったんですか?……いつも起こしてくださりありがとうございます」
「今更だな。もう生活の一部になっている」
「……」
考え込むような仕草をして、戴天が湯気を立てるコーヒーをじっと見つめている。そしてポツリと話し出した。
「もし、ここを卒業して。あなたとの生活が終わってしまっても、あなたに」
逸らされていた視線が真っ直ぐに叢雲を射抜く。朝日が差し込む部屋の中で、戴天の瞳がまるで輝く宝石のように見えて目が離せない。
「毎日起こして欲しい……と思うのは我儘でしょうか?」
ふわりと笑う口元、困ったように下がった眉、さらりと頬にかかる髪、コーヒーカップを持つ細くて長い指、落ち着いて澄んだ声。
(あぁ……お前のこと、好きだ)
目を細めて戴天を見る。毎日見ているはずの戴天が急に神秘的な存在に思えた。
「我儘なんかじゃない。俺で良ければ。いつまでも」
「ふふ、ありがとうございます」