それはまるで呪いのような 屋敷の大広間は異様な雰囲気に包まれていた。高塔の名を持つ大人が大勢集まり、大広間の端を囲うように座っている。
父は上座に座り、俺はその隣に。雨竜はこの場には居ない。辺りを見回すと、戴天の姿も見える。異様な雰囲気に呑まれ、元々色素の薄い肌が青ざめている。彼はこの後起こる議論に耐えられるだろうか。いや、彼ならきっと大丈夫だ。
どのような議論になるかは分かっている。これから自分はどうなるのだろう。良くないことになる、それだけは分かる。最悪の場合、明日にはもうこの家には居ないのだろう。
父と叔父の言い争いをどこか他人のように聞きながら、心配なのはここに残す雨竜のことだった。雨竜は芯の強い子だ。でもまだ幼い彼が受け入れるにはあまりにも大きい重責と現実。どうか雨竜が立ち上がれるように祈るばかりだった。
「後継者は戴天に……」
ふと聞こえてきた言葉に思わず床を見つめていた顔を上げる。従兄弟の戴天。1つしか年齢が変わらない彼も、高塔のために厳しい教育を受けている。何度か屋敷に来た戴天と共に過ごしてきた中で、彼の両親は相当きつく戴天を教育していることは知っていた。戴天はあまり自分を出すことがなく、初めて会った日はその容姿も相まって、まるで人形のようだと思った。それでも、彼と幾度となく過ごすうちに、本当の彼は表情がよく変わり、好奇心も旺盛で優しい人なのだと分かるようになるまで自分を出してくれるようになったことが内心嬉しかったことも覚えている。
そんな戴天も突然出てきた自分の名前に怯えたようにおろおろと両親を見ている。可哀想なほどに青ざめた顔、ゆらゆらと揺れる瞳、顔を伝う汗。あぁ可哀想に。今すぐ側に寄ってその目を耳を塞いでやりたい。でも出来ない。だって自分はその議論の当事者なのだから。
数時間におよぶ激論の末、俺はこの家を追放され、戴天がそのポジションにつくことになった。言いたいことがないわけではない。不満がないわけでもない。しかしそれ以上にこの場での発言権というものが俺には無かった。それでも、どうしても、明日にはもうここに居られないのであれば伝えたいことがあった。
隣にいる父に最後の頼み事を。
「戴天と話す時間をいただけませんか?」
「余計なことを吹き込む気か」
「違います。雨竜のことを頼みたく」
「……分かった。1時間やろう」
「ありがとうございます」
まだザワザワと騒がしい大人たちの目の前を横切って、戴天の前に跪く。戴天は議論の途中から顔を伏せて時折流れてくる冷や汗を必死に拭っていた。俺の存在に気がつくとはっと顔をあげる。その顔ときたら、青ざめていた顔から一変して極度の緊張からか紅潮していた。息も不規則で今にも過呼吸を起こしそうになっている。頬を伝う汗を拭ってやってから、握りしめられていた手を取る。
「戴天、少し出よう。……良いですか?父の許可は得ています」
戴天に話しかけたあと、その両親を真っ直ぐ見て、有無を言わせないよう言い放つとすぐに彼を立ち上がらせる。数時間固まったままの筋肉が言うことを聞かないようで、戴天がよろける。1時間しか猶予が無い中で迷っている時間は無かった。半ば担ぐような形で屋敷の中の自分の部屋へ歩き出す。
部屋にたどり着くと、彼をそっとおろす。運ばれている中でどんどん呼吸が荒くなっていくのが分かった。
「戴天、大丈夫か?」
「……、……ッ!……ぃ」
必死に返事を返そうとする戴天を落ち着かせるようにそっと抱きしめて背中を撫でる。
「落ち着け、大丈夫だ。もうここには大人の目はない」
「ッ……ぃ、はい……」
「きちんと息をしろ。ほら、吸って……吐いて、吸って……吐いて」
呼吸のタイミングに合わせて言葉を投げかけていると不規則だったものが落ち着いてくる。殆ど呼吸が整ったのを見計らい、本題を切り出す。
「お前には重責を背負わせることになり、すまない。雨竜のこと、頼んだぞ」
「いや……いやです……叢雲、どうして、いやだ……い、……ッ……やだ……」
堰を切ったように嫌だと繰り返すうちにまた呼吸が乱れる。未だに抱いたままの腕で背を撫でる。地に放り出されていた戴天の手が俺の着物の袖をきつく握りしめた。
「本当にすまない。でもこれは決定事項だ。お前にだって分かるだろう?」
今から俺は戴天に呪いをかける。彼には逃げ道がないこと、逃げることを知らないことを知っていながら。
「これからはお前が高塔を背負うんだ。大丈夫、お前にならできる。お前になら」
きっと彼の両親が彼に与え続けたプレッシャーを俺からも与えることになる。戴天はそのプレッシャーに全力で応えようとするだろう。自らの心が身体が傷ついても。そんな彼の弱みに付け込んで、俺は全てを託す。
「雨竜のことも。お前になら任せられる。どうかまだ幼いあの子を導いてやってくれないか?」
戴天が返事を寄越さない代わりに腕の中で首を横に振るのが分かる。
「ずっとお前のことを見てきた俺だから安心して任せられるんだ。頼んだぞ、戴天」
「叢雲……」
「俺はお前で良かったと思っている。お前にしか頼めない。お前がそんな調子じゃ、雨竜が不安になってしまう。頼むから、顔をあげて俺を見て」
「……」
少しの沈黙のあと、戴天が顔をあげる。その目はもう揺らいではいなかった。聡い彼のことだ。覚悟が決まったのだろう。やるしかない、と。
「…………はい。あなたの後を完璧に継いでみせます」
「ありがとう戴天」
覚悟を見せた戴天の唇に自らの唇を寄せる。彼の驚きに見開かれた目をしっかりと脳に刻み込む。彼にこれから襲いかかる何もかもから彼を守ってくださいと信じていない神に祈りながら。
唇を離して戴天の顔を改めて見つめる。切れ長の涼しげな目元が赤く染まっている。きっと自分の顔も少し赤くなっている。一生の離別を突きつけられると、ずっと気づかないフリを続けられなかった。これもまた一種の呪いになると分かりながらも抑えることはできなかった。
「驚いたか?」
「いえ、薄々分かっていました。そして私がそれを嫌だと思わないことも」
「それを知れて良かったよ」
タイムリミットである1時間がもうすぐ来る。チラリと時計を見た俺に戴天が手を伸ばしてくる。
「もっとよく顔を見せてください。あなたのこと忘れません。これだけは私の意思です。本当はあなたのこと忘れなければならなくても。……忘れません」
「戴天……」
「息が詰まるような日々の中でも、あなたとそして雨竜くんと過ごしたことを思い出します。私にはそれが、それだけがあればいい。でもね、叢雲。あなたは忘れてしまった方が良いのかも知れませんね」
「……いや、」
「良いのですよ。きっとその方があなたは幸せだ」
戴天が顔を近づけて唇を重ねてくる。たまらなくなって戴天に腕を回して体ごと引き寄せる。戴天から香る甘い匂いを感じながら何度も唇を重ねた。
忘れた方が幸せ、確かに戴天が言うようにそうなのかも知れない。でも今はまだ全てを心に大事にしまっておきたい。全てを無くした俺に、また大切なものが出来るまで。
使用人が呼びにくるまで、俺と戴天は離れなかった。これが最後なのだとお互いに言わずに、この時間が永遠に続けばいいのにと思いながら。
大広間に連れ立って戻った俺たちを大勢の大人が迎える。俺たちがいない間に興奮もおさまったのか、静まり返った部屋は数時間前とは別の緊張感を孕んでいた。誰にも見えないように後ろ手に握っていた戴天の手の温もりを感じる。きゅっと力を込めると、応えるように戴天からも力を込められる。そしてお互いに手を離す。
「今まで、大変お世話になりました」
恭しく礼をして、今までまるで実子のように育ててくれた母の顔を見る。泣き腫らして赤く染まった目元を見て心が痛い。それでも明日からは離れ離れだ。
「未熟な私ですが、宜しくお願いいたします」
隣で同じように礼をした戴天を見る。顔をあげた彼の目は揺らいでいなかった。真っ直ぐ前を見て堂々としていた。
大広間には、父と母、俺と戴天。そして使用人に連れられた雨竜だけとなった。
「戴天お兄ちゃん!」
雨竜は何度か会っている戴天にも懐いているようで、父や母、俺にも目を向けず戴天に抱きつく。
「雨竜くん、今日も元気が良いですね」
「うん!今日は雨だったからお外で遊べなかったんだけど、ボードゲームで叢雲兄さんに勝てるように研究してたんだ!」
「偉いですね。いつか……勝てると、良いですね」
言葉を詰まらせた戴天の瞳が潤んでいる。雨竜は何も知らない。何も知らせずに明日を迎える予定だ。きっと雨竜が泣きじゃくる姿を見ると離れるのが嫌になってしまうから。
戴天と話せて満足したのか、雨竜が俺の膝に座り、無邪気に笑っている。どうかこの子の笑顔が曇りませんように、そう願いを込めてぎゅっと抱き寄せた。
そんな3人の姿を見た父と母の優しさか、最後の夜は客間で3人で並んで布団に寝転ぶ。雨竜は戴天と寝る珍しい状況に興奮しているのか、なかなか寝付かない。左右に寝転ぶ俺と戴天を交互に見ながらニコニコとしているが、その体温は高く、きっと眠いのだろう。目が半分閉じている。
「雨竜。はやく寝ないと明日起きられないぞ」
「うん、でもね、今日……ね……」
「雨竜くん……?」
「……」
「やっと寝たか」
「そのようですね」
雨竜が俺と戴天の腕を握りしめながら眠りについた。もしかしたらいつもと違う屋敷の雰囲気に気づいたのかも知れない。きっと不安だったのだろう。この子を置いていく、その現実がすぐそこに来ていることに改めて気づく。恐らく今日は眠りに落ちることはないだろう。
「あなたも眠れないのですか?」
そんな俺を気遣ったのか、戴天が雨竜を起こさないように気をつけながら半身を起こす。
「まぁ…な。でも気にするな。お前ももう寝ろ」
「私もね、なかなか眠れなくて」
こちらを見つめる瞳に情欲が灯っているように見えて、思わずそろりと半身を起こす。雨竜はよく眠っている。この調子だと恐らく起きないだろう。いけないことだと思っていても、最後だという気持ちに後押しをされて、唇を重ねた。戴天の唇に舌を這わせるとビクリとした後、そろりと口を開いた。それを是と受け止めて舌を差し入れ舌を絡ませる。
「─んっ……」
苦しそうな戴天の声に唇を離す。ちらりと雨竜を見ても気持ちよさそうに眠っている。もう一度、と戴天に近づこうとして制止される。
「あの、これ以上は、ね?」
戴天もチラリと雨竜を見て困ったように笑っている。そんな戴天の少しはだけた寝巻きから覗く白い肌を見て、最後のお願いをする。
「分かった。最後に、お前の肌に傷を付けたい。……許してくれないか?」
「えっ?」
戸惑う戴天を無視して、片手で彼の左肩をむき出しにする。顔を近づけて、鎖骨の下をきつく吸う。
「っ……」
戴天が息を呑むのが分かった。唇を離すと赤く皮膚が色付いている。
「最後なんだ、許してくれ」
最後という言葉を免罪符に許しを請うずるい男だと思われてもいい。髪を下ろして寝巻きをはだけさせた扇情的な戴天に俺の残した傷か残っている、それで満足だった。
そうして朝を迎えて、何事もないように世界は回り出す。俺も雨竜も戴天も、この日から日常が姿を変える。それでも回り出す世界に逆らうことはできない。どれだけ願っても泣き叫んでも変わらない。ただ自分が置かれている状況を受け入れて進むだけだ。
この先俺たちの人生が交わることが無くても、過去を忘れ去ってしまっても、忘れられない過去になったとしても。
1つでも多く、自分で選び取った方向へ歩みを進めていけますように。そう願う他ない。