一水四見 業務は終了し、あとは荷物を鞄に詰めながら迎えの車を手配するだけ。それなのに戴天は迎えの連絡もせずに手元のスマートフォンを見つめて動けずにいた。
秘書の雨竜は帰宅が遅くなると判断した時点で先に帰している。1人きりの社長室で、ただスマートフォンを見つめ続けて10分。やっとスマホから目を離し、机の脇に置いている紙袋を見る。贔屓にしているワインセラーから取り寄せたワインがそこには入っていた。
雨竜からの助言もあって、先日の戦闘に助太刀として現れた宗雲にワインを渡そうとしているのだが、そのために取ろうとしている連絡を勇気が出ずに引き伸ばし続けていた。
そして今日、そんな様子を見ていた雨竜から“兄さんが言い出さないなら僕が届けます”と宣言されてしまった。雨竜も戴天もそれでは意味が無いのだと分かっている。ただの助太刀への御礼、だけではないからだ。
いつまでもこうしている訳にはいかない、と意を決して連絡先から宗雲を探し出し、発信ボタンを押す。
「……どうした」
何度目かのコール音のあと、宗雲の声が耳元で聞こえる。
「……こんばんは」
「珍しいな。何かあったのか」
「いえ、特には……。今から少し時間はありますか?」
「今から?」
「お忙しいのなら結構です。日を改めますので」
「いや大丈夫だ」
いっそ断ってくれれば良かったのに、と理不尽な考えが戴天を満たそうとして、いけないと頭を軽く振る。
「では今から商業地区へ向かいます。どこか良い待ち合わせ場所はありますか?」
「何をする気だ?こんな時間から開いている店は……」
「違います。渡したいものがありまして」
「……?」
「とにかく、お時間は取らせません」
「分かった。ならば俺の家に来てくれるか?」
「家には上がりませんよ。本当に渡したいものがあるだけなんです」
「……住所を送る」
「ありがとうございます。では」
電話が切れると、1人しかいないビルの中では静寂が痛かった。
迎えの車に乗り込み、宗雲から送られてきた住所を告げる。静かに走り出した車のシートに身を任せ、雨竜に連絡を入れる。頑張ってくださいという文字に苦笑いを漏らし、目を閉じた。不安と緊張を紛らわせるように、手元にある紙袋を抱き寄せる。
車の中に流れるラジオのニュースを聞き流しながら、宗雲への言葉を考える。ある程度己の中で台本を作っておかないと、何と言えばいいのか分からなくなりそうだった。
(助太刀への感謝……と、謝罪……)
怪我をした戴天と、どうしてもその場に留まるわけにはいかなかった雨竜。本来であればタワーエンブレムとして片付けなければいけない戦闘に、エージェントの機転で宗雲が呼ばれ、助けられた。それに関してはエージェントにも宗雲にも御礼は必要だ。複雑だったのは“高塔”という家の問題に宗雲を巻き込んでしまったことと、“高塔”のために命を賭けようとした戴天に半ば強制的に宗雲を加担させてしまった。しかも“高塔叢雲”として。それについての謝罪。
戴天はあの時の行動を間違っていたとは今でも思っていない。宗雲が少しでも戴天や雨竜に何か思うことがあるのならば、“高塔のため”に全力で剣を振るって欲しかった。それで戴天が命を落としても。しかし雨竜の怒りをぶつけられたとき、初めて道は一つでは無かったのかも知れないということに気がついた。支配とは、という問いに戴天と違う答えを導き出した雨竜のように、正しい道というものは必ずしも1つではないのだ。
だから、もう一度同じ場面に遭遇してしまったとき同じことをするかと問われたら、それには否と答えたい。
そこまで考えて、初めて宗雲には酷なお願い事をしたのだと思ったのだ。
考え込んでいると車はあっという間に指定された場所へと辿り着いた。到着いたしましたと運転手から声をかけられて、車を降りる。窓から運転手に、すぐに戻るからと告げて正面のマンションへと歩き出す。
エントランスに見慣れた姿を見つけて、紙袋を握る手に力が入る。ここで引き返すなどということはできない。
「このような時間に呼び出してしまい、申し訳ございません」
「突然だから驚いた」
「こちら、どうぞ」
差し出した紙袋を宗雲は戸惑ったように受け取る。
「これは……ワイン?」
「えぇ。あなたの好みに合わせて選んだつもりです。お口に合えばぜひ」
「ありがとう……と言いたいところだが、お前に何かプレゼントされる覚えは無いが」
「先日の御礼と……謝罪を」
「謝罪?」
「あのあと、私も考えたんです。私がやろうとしたこと、その結果何が残るのか」
「……待て。その話をこの場所で聞きたくない」
「……すみません。ではまた機会があればお話いたします。お時間を取らせましたね。それでは」
そう言い、踵を返して帰ろうとした戴天の腕を宗雲が掴む。道路脇に駐車している送迎車のランプがチカチカと点灯しているのが目に入った。いつまでも運転手を待たせるわけにもいかない。
「そういう意味じゃない。……部屋に上がれ」
「いえ、後日でも構いません」
「また雨竜に怒られるんじゃないか?話をするために来たんじゃないのか」
雨竜の名前を出され、ぐっと言葉に詰まる。確かに名目上はワインを渡すだけでいいのだ。しかし雨竜もそれだけでは納得してくれないだろう。“何かお話されましたか?”と脳内の雨竜が問いかけてくる。そしてそれは宗雲も容易に想像できたらしい。
「……お邪魔します」
「あぁ、どうぞ」
エントランスの中に入っていく宗雲の後ろを着いて行きながら、すぐ近くにいる運転手へ電話を掛ける。長くなりそうなので先にお帰りくださいと告げると、優秀な運転手は理由を聞くこともなく、車はやがて走り去っていった。
「本当に良いのですか?」
「良いと言っている。お前の話が聞きたい」
宗雲の部屋へは初めて入った。物は少なく、きちんと整理整頓されているぶん、大きな観葉植物の存在が目立っていた。昔から花を育てるのが好きな男だった。今でも変わりなく花を愛でているのだと分かって、変わらないなと懐かしい気持ちになる。
ソファーに座るよう促され、大人しく従う。キッチンでは宗雲がお茶の準備をしつつ、渡した紙袋を開ける音がしている。
「これは……一度飲んだことがある。好きなワインだ。よく分かっているな」
「……たまたまですよ」
「今から一緒に飲むか?」
「いいえ。こんな時間ですので」
「それもそうだな。誘っておいて今更だが、戴天こそ時間は大丈夫なのか?」
「えぇ。深夜に帰宅することは珍しくありませんので」
「……お前」
呆れたようにキッチンから宗雲がソファーへと戻ってくる。その手にはカップが握られており、コトリと戴天の前に置かれる。香りからしてラベンダーティーのようだ。ラベンダーの甘さとフローラルが混ざった心地の良い香りが広がる。
「まぁいい。話の続きを聞かせてくれるか」
宗雲がこちらを見る気配がするが、戴天は目を合わせなかった。そっと手に取ったカップからラベンダーティーを少し口に含み、飲み込む。独特の苦味が舌に広がるが、香りも相まって心は落ち着いた。
カップの水面を眺めながら、戴天は口を開いた。
「私は今でもあのときの行動を間違ったものとは思っていません。高塔の利益のためであれば私の命ですらチェスの駒のようなもの」
「……」
「でも、正しい一手は一つではないのだと雨竜くんが教えてくれました」
「……そうだな」
「そして考えたんです。私が選択した行動で、あなたまで巻き込んでしまった。もしかしたら取り返しのつかないことになるような」
「さすがに動揺したな」
「あの時は、もし私がいなくなっても雨竜くんには……あなたが居ると思ってしまったんです。そしてあなたには大幹部を倒したという事実が残る。それはあなたにとっても利益なのでは、と」
「お前は俺を何だと思っているんだ」
「……そうですね。あなたに色々なことを背負わせてしまう。だから今日、謝罪に来ました」
「恐らくお前は勘違いをしている。あのままお前を死なせることになったとき、雨竜とのことも勿論そうだが。きっと俺は俺自身が許せなくなっていただろうな」
「それは……」
「簡単に言えば、そうだな……。お前が居ない世界を考えたくない」
宗雲の手が、カップを握ったままの戴天の手を上から包み込む。じんわりと宗雲の手のひらの熱が伝わってきた。そして宗雲がそっとカップをテーブルの上のソーサーに戻して、軽く引く。逆らうことなく戴天が手をカップから離すと、祈りを込めるように握りしめたまま、宗雲が自らの額に手を当てる。
「お前を殺すことにならなくて……良かった。大切なものを失わなくて本当に良かった」
そう言って顔を上げた宗雲を見て、戴天は絶句する。言われなくても分かる。心底安心したような、嬉しそうな顔だった。
その顔を見ていると、顔に熱が集まり心臓がドクドクと力強く脈打つ。きっと今戴天の顔は真っ赤だ。なぜか急にとてつもなく恥ずかしい気持ちになった。
「ッ……もう、わかりました」
握られていた手を振り払うように外すと、宗雲がこちらを見て、目を見開いた。
「照れているのか?……案外可愛いところがあるんだな、戴天」
「からかわないでください!もう帰ります」
ソファーから勢いよく立ち上がろうとする戴天の肩を宗雲が掴み、再びソファーに座るように促してくる。
「すまない。つい。今からタクシーを呼ぶから」
慣れた手つきでスマホを触り出した宗雲を見る。火照った体を冷ましたくて、もうすっかり冷め切ったラベンダーティーを口に含む。冷えてしまったぶん、更に苦みが増していたが、その苦みでいくらか冷静さは取り戻せた。
「そろそろタクシーが到着する」
「……ありがとうございます。見送りは不要です」
「分かった。なぁ戴天……また食事に行こう。雨竜と3人で」
「……えぇ。タイミングが合えば」
戴天の返事に満足したのか、宗雲が一度頷く。それを見て戴天も軽く笑みを残し、宗雲の家を後にした。