兄達よ和解せよ④〜一歩前進編〜 玄関の扉が開く音に雨竜がリビングへ降りると、予想通り戴天が帰宅したようだった。
「おかえりなさい、兄さん」
戴天には休日というものが存在しないのではないか、というくらい働き詰めだ。今日も雨竜は休日だったものの、戴天は社内調整後の決裁のために出社をしていた。
この決裁が終われば、ほんの少し戴天のスケジュールに余裕が出る。それを見越して明日は戴天の休日を作った。戴天は休日を渋ったが、このままでは何連勤になってしまうか分からないので、何も予定は入れませんと宣言したところでやっと了承してくれた。
「ただいま、雨竜くん」
靴を脱いでリビングへとやってきた戴天が雨竜に一声かけると、そわそわとした様子でそのまま部屋のある2階へと上がって行った。
キッチンでは使用人が手慣れた様子でテキパキと料理を作り上げている。
「雨竜様。準備が整いそうですが、すぐにお召し上がりになりますか?」
「あ、はい。ありがとうございます」
使用人からの問いかけに答えながら、出掛ける準備をしているであろう戴天のことを考える。
戴天から今日の予定を聞かされた時は、驚きと僅かな不安があった。宗雲さんに誘われて食事に行くことになったんです、と告げた戴天は、とても楽しみにしているような表情では無かった。いつものにこやかな笑顔で告げられればこちらも笑顔で送り出せるのに、まるで解決が難しい悩みを抱えているかのような浮かない顔をしていた。難しい悩みといえばそうかも知れない。宗雲がどのような意図で戴天を誘ったのかは分からないが、前回帰宅した戴天の様子を見るに、どうしても不安は募る。
そんなことを考えていると、パタパタとスリッパの音が階段から聞こえてきた。
「雨竜くん。今日は何をリクエストしたのですか?」
リビングまで降りてきた戴天がソファーに座る雨竜の隣へ腰掛ける。
「今日は冷やし中華をお願いしました」
「夏らしくていいですね」
そう言いながら、連絡のためかスマホを見ている戴天の横顔に首をかしげる。
(なんだか兄さん、楽しそうだ)
雨竜の不安などまるで知らないといった風な様子で、スマホを触っていた戴天が次は服の襟を正している。スーツから私服に着替えているが、今日は和装ではなく洋装を選んだようだった。
「今日は和装じゃないんですか?」
「えぇ。きっと相手も和装では無いですし。どこに連れて行くつもりかは分からないですが、洋装の方がどんな場所にも合わせられますので」
「なるほど。……そうだ!兄さん、せっかくなので、いつもと違う髪型にしてみては?」
「髪、ですか」
「戴天様、もしヘアアレンジをされるのでしたら、どうか私にお任せを」
戴天との会話が聞こえていたのか、夕食の準備を終えて帰るところだった使用人の1人が声を掛けてくる。その使用人は、以前ヘアアレンジの専門スタッフをやっていた経験があるようだった。
「兄さん、やってみませんか?」
どこか照れているような、これからの予定に期待しているようなそんな兄の表情を見て、雨竜も思わず頬が緩む。大好きな兄が楽しそうにしている顔を見るのが雨竜にとって何よりも嬉しくてたまらない。
「……分かりました。それではお願いできますか?」
「はい。お任せください」
「では僕はブラシとヘアゴムとピンを持ってきます!」
「とても機嫌が良さそうですね、雨竜くん」
軽く頷くと、ソファーから立ち上がって洗面所へと向かう。雨竜は使うことはないが、戴天が使っているヘアゴムやヘアピンがまとめられている場所は把握している。
一式を使用人に渡し、そのまま作業を開始した2人を見ながら雨竜はそっと願った。
(どうか兄達にとって良い時間になりますように)
「それでは雨竜くん。夜更かしをしてはダメですよ」
「もう、子供じゃないんですから……」
「ふふ、冗談ですよ。それでは、いってきます」
「いってらっしゃい、兄さん。楽しんできてくださいね」
いつもと違う後ろ姿の戴天を見送り、雨竜は家の中へと戻った。
◇
戴天を無事に送り届け、車は去っていく。18時50分、中央駅。待ち合わせまではあと10分あるが、戴天が周りを見渡すと背の高い見覚えのある男は既に待ち合わせ場所にいた。
「お待たせしました」
「特に待ってはいない。仕事終わりに悪い……」
中途半端に言葉を途切れさせた宗雲を見ると、こちらを見て驚いているようだった。後ろに知り合いでもいるのかと振り返ってみるが、それらしき人を見つけることは出来なかった。
「どうかしましたか?」
宗雲の方に向き直り、声をかける。その声にはっとして宗雲が口元に手を当てた。
「いや、その……どうしたんだ、その髪型」
「? あぁ。雨竜くんが髪型を変えてみてはと提案してくれて……おかしいですか?」
「いや、よく似合っている」
似合っていると言った割には視線は髪に釘付けになっているようで、どうやらお気に召さなかったらしい。いちいち宗雲の意向を汲み取る必要など無いはずだが、なぜか急に恥ずかしくなり、髪を解こうと手を伸ばす。幸い、使用人が気を利かせて解きやすいようにしてくれている。
結局、使用人がアレンジした髪はハーフアップだった。食事するのに髪が邪魔にならないように、そして今日の装いを見て決めたらしい。使用人も雨竜も褒めてくれたが、宗雲が気に入らないのであればいつもの髪型に戻してしまいたくなった。
「おい、そのままでいろ」
解こうとしたのに気がついたのか、宗雲が声を掛けてくる。
「お気に召さなかったのでは?」
「似合っている、と言ったはずだが?」
「……」
「いつもと雰囲気が変わって驚いただけだ。そのままでいてくれ」
そう言ったきり、宗雲が背を向けて歩き出す。宗雲の考えていることが何一つ分からないまま、それよりも1番不思議なのは戴天自身が拒まずにここに来てしまったことだった。
雨竜と宗雲、そして戴天の3人で食事に行ってから宗雲の態度が変わったように思う。これまで無関係を貫いていたはずなのに、こちらに歩み寄ろうとしている。それに気づきながら、結局は誘いを断ることができなかった。きっとこれまでなら多忙を理由に断っていただろう。だが、なぜか断らずに誘いに乗ることにした。宗雲にうまく乗せられたと自分に言い訳をして。
連れて来られたのは、駅から歩いて10分程度の懐石料理店だった。新しくできた店なのか、戴天は知らない店だった。
個室に通され、座ると同時に宗雲が口を開く。
「先月できたばかりの店だ。ここの料理長と知り合いでな」
「なるほど。内装も悪くありませんね」
「そうだろう。接待の候補にも加えられる」
「もしかしてマイナスではないとはそのことですか?」
「どうだろうな?想像に任せる」
そう言いながらも僅かに口元に笑みが浮かんでいる宗雲を見て毒気を抜かれる。接待に使う店なんてだいたい候補は決まっていて、更に新しく見繕いたいときに探せばいずれはこの店にも辿り着くことを宗雲が分からないわけでもないのに。ただそれを理由にしてでも戴天を誘いたかったのかと思うと、多少なりとも警戒していた己が馬鹿みたいだ。
宗雲がその気ならと店の下見のつもりで楽しもうと決めた。店の外観から内装まで申し分はない。あとは肝心の料理とお酒だ。
コンコンとノックの音が響いたあと扉が開き、物腰柔らかなスタッフが入ってくる。
「失礼いたします。お越しくださり誠にありがとうございます。本日ですがコースではなくアラカルトで御予約いただいておりますので──」
挨拶と予約の確認を兼ねてスタッフが話し出した内容を聞きながら、ざっとメニューに目を通す。和を中心としたメニューに、豊富な日本酒。おそらく宗雲は戴天の好みに合わせたのだろう。
「日本酒の種類も豊富だろう?」
「ええ。好きな銘柄もあります」
スタッフが去ったあとに心なしか自信満々といった風に宗雲が話しかけてくる。その余裕たっぷりな態度が気に入らないこともあるが、そういうところが宗雲だなとも思った。
頼んだ料理が運ばれ、スタッフの説明を聞く。特に季節の野菜を使用した天ぷらはお店のこだわりを感じられる。
「とても美味しいですね。日本酒にもよく合います」
「そうだな。実は皇紀も料理長の腕を認めている」
「皇紀くんのお墨付きとは……間違いないですね」
皇紀のお墨付きということは食材から味付け全てにこだわりがあるのだろうというのが分かるが、その通り料理はどれも絶品だった。
料理とお酒を楽しみながら、宗雲とまるで友人のように過ごしている。昨日、いや数時間前の自分に聞かせるときっと驚くだろう。
宗雲のことをこのまま許せるかと問われたら、あるいは許してくれと言われても、まだ許すことはできない。それでも無関係から一歩踏み出そうと言うのであれば、同じく歩みを進めても良いのではないか、そう戴天は思った。
◇
話しているうちに、目の前の戴天の返事がほんの少し遅れていることに気がついた。特に何も聞いてはいないが、仕事をしてそのまま来てくれたのだろう。
「疲れているようだな」
「そんなこと、ないです」
眠そうに重くなっている戴天の目の下をそっと親指でなぞる。嫌そうに首を振る戴天だが、その動きは鈍く、どうやら本格的に眠くなってきたらしい。疲れた体にアルコールを入れて、更にはお気に入りの日本酒があったようでそれなりに飲んでいた。気がついたら数時間経っていたようで、こんな時間まで付き合わせて悪いなと思いつつ、まだ帰したくないなとも思う。
「そろそろ帰るか。迎えは呼べそうか?」
「……ぃです……」
ボソボソと戴天が何か言っているが、余りにも小さな声で聞こえない。
「すまない。聞こえなかった。もう一度言ってくれるか?」
「……り…くない……」
「もう少し大きな声で、」
「帰りたくない……」
それだけはっきりと言い、戴天はそれきり俯いてしまった。
その言葉の意味を理解すると同時に、ブワリと鳥肌がたった。もちろん不快感ではない。とにかく戴天の気持ちが変わらないうちに、誰の目も無い2人きりになれる場所に連れて行きたい、そう思った。
「分かった。ひとまずここを出よう」
酒も料理も充分楽しんだ。戴天も満足してくれているはずだ。戴天が御手洗いに席を立ったのを見届け、会計を済ます。そしてスマホを手に取り、懇意にしているホテルの支配人に電話を掛けた。幸い部屋は空いているようで、ひとまず部屋を押さえた。
店を後にして目的の場所まで歩き出すと、戴天は自らの足でしっかりと歩いて着いてきている。酔っているのかと思ったが、そうではないようだ。終電の時間も過ぎて人通りはまばらなのに、はぐれないようになんて自分に言い聞かせて、声も掛けずにそっと戴天の手を握る。振り払われないので、そのまま手を繋いで歩いた。
暗闇を照らす街灯が、何も言わずに歩く2人の影を作り出している。幼い頃の記憶はところどころ抜け落ちているが、戴天とは長い間共に過ごした。競い合うことも高め合うことも戴天とだからできた。宗雲の今を作り上げたものの中で戴天の存在は大きい。
「……好きだ、戴天」
自然と出た言葉に自らで納得する。そうだ、好きだったのだ。戴天のことが。
一方的に握られていただけの戴天の手にギュッと力がこもった。別に返事が欲しいとは思っていなかったので、戴天が沈黙を貫いていても構わない。今この時に戴天が隣にいる、それだけで充分だった。
一歩前進編
完