(燭へし)最後の花火 ドンと腹にまで響くような音がして、山の向こう側の空が明るくなる。坂をのぼるとさすがに汗が流れ、夏の名残がわずかに残る空気がじとりとまとわりつく。
ここに来るのも5年ぶりか。
学生のころに比べて体力は落ちたのか、わずかに息を切らしながら光忠はふと思い出す。
夏の終わりのわずかに涼しい
風と、夜空を照らすわずかに欠けた花火。
こっち側だと全部は見えないんだ。
だからあまり人がいない。内緒だぞ。
初めて一緒に見たときにそういって悪戯っぽく笑った長谷部の顔を思い出す。
君はいまどこでこの花火を見ているの。
足を進めてほかのだれかと花火を見上げる長谷部がいたら。
思わず足がすくむ。
もしかして、まさか、それでも。
いくつもの思いが胸をよぎる。
ドドドドと花火はクライマックスへと近づいていく。
ふうと息を吐くと光忠は足を進めた。
最後の花火が打ちあがる前に。
・・・
5年近く勤めた会社を辞め、住み慣れた街に戻ってきたのは春のことだ。辞めようと
決めたときにちょうど声をかけてくれたところで働き始めて4か月余り。初めての業界にようやく余裕ができてきたのは夏の終わりだった。
「今日はみんな帰るの早いね」
午後から休み、直帰、時単休と定時を前にすでに人は少なかったうえに、わずかに残っていた人間もそそくさと机を片付け始めていた。
「今日は花火大会なんですよ」
知らなかったのかという顔で答える同僚に
「ああそんな時期なんだ。夏が終わるんだね」と光忠は窓に目を向けた。空もわずかに秋の色をのせはじめている。
暑さのピークは過ぎましたと朝のニュースでも言っていた。
そんな時期か。
「行ったことあります?」
そういえば学生時代はこっちでしたよねと言う同僚に
「大学のころは毎年見てたよ」とほほ笑む。
空をに散る光に照らされる美しい横顔を、綺麗だなと細められる薄紫の瞳が目に浮かぶ。
そうだ最初の年、花火を見にいかないかと誘ってくれたのも長谷部だった。
「そうなんですね。どのあたりでですか?」
「内緒。秘密の場所なんだ」
「わあそれって恋人さんとですね。ロマンチック」
「ふふそうだね。まだいいの?早くいかないと」
その人とはどうなってるんですか?まだつきあってるんですか?そんな言葉が聞きたくなくて、帰らなくていいのかという光忠に「あ!そうだ」というと彼女はお先にと
フロアを後にした。
長谷部は今どうしているんだろうか。
青から橙へと色を変えつつある空をみあげ光忠は思った。
ずっと忘れてなんていない。
きっとこのあと誰と会っても彼と同じようには想えないだろう。最初で最後の恋人だった。
・・・
光忠が長谷部と出会ったのは大学一年の夏。
地誌学の授業は教科書がなく、教員が用意したスライドと板書のみで進められていたため授業への出席が必須だった。前年度のノートも出回って入るけれど、テーマが毎年変わるためそれも使えないらしいという情報に周囲で選択しているのは光忠だけだった。
そしてその授業を身内の不幸で帰省しと体調不良で二回ほど休む羽目になってしまい、光忠は周囲に「誰か取っているひと知らない?」と聞いて回った。
「そういえば長谷部が取ってるって言ってたなあ」
そう教えてくれたのは鶴丸だった。
大学に何年いるかわからないとすら噂される男は、学部も学年も
関係なく多くの人間と交流があり、また光忠とは地元が同じで入学前から交流があり、入学後もなにかにつけて気にかけてくれている貴重な先輩だった。
「鶴さん!お願い!その長谷部くんと繋いでくれないかな」
「あの授業そう人数が多くないだろう」
「そうだね」
大教室が主な一般教養科目にしては
小ぶりな教室で行われる授業ではあるけれど、それでも人数はそれなりにいるから、誰がその「長谷部くん」かまでは光忠だって把握はしていない。
「ほかにない髪色の男がいないか?なんて言えばいいかなあ」
うーん何色っていうんだという鶴丸の言葉に光忠はひとりの男の姿を思い出していた。
「もしかしてミルクティみたいな色をした髪の毛?」
「なんだ!光坊知ってるじゃないか!」
前から三列目、窓際に座る男は嫌でも目をひいた。
日本人離れした薄い髪色は染めているのではないようで、窓からの光を浴びてまるで絵画に出てくる天使のようだった。
そしてその瞳もまた見たことが
ないような美しい紫をしていることに光忠はある日気づいた。
いつもは黒い縁の眼鏡に覆われていて気付かなかったが、その日は席が空いておらず、やむなく最前列に座る羽目になった。
別に居眠りするわけでもないのだから、どこでもいいのだけれど、長谷部の斜め後ろくらいからその姿をちらちらと
見ることが楽しみのひとつになっていたからだ。
テストが近づいたからかその日は受講者が多かった、その一回だけ出ても意味などないとわかっていてもノートを借りる算段でもしようと思ってきたらしい生徒が光忠の席に座っていた。
やむなく座った最前列ではあたりまえだが長谷部をみることはかなわず、
授業の終わりにひと目だけでもと振り返った光忠の目に、疲れたのだろうか眼鏡をはずして目を閉じていた長谷部の姿が映った。頬に落ちるまつ毛の影、そしてゆっくりと開かれその色を見せる瞳。周囲の音も、ノートだけどさあなどという声も全部光忠の世界から消えた。
紫陽花、アメジスト、瑠璃、どれも
近いようで、どんな言葉でも表せないような青紫の瞳から目が離せなかった。
何度か瞬きをしてわずかに濡れた瞳が、ちらと光忠のほうに向けられる。
慌てて顔を背けたけれど、しばらく長谷部の瞳の色が消えなかった。
「すごく綺麗な子だから」
「はっは~ん」
「鶴さん?」
「取り持ってやろうか」
「え?ほんとに?」
「ノートいるんだろう?」
「あ、うん。そう」
「ノートが必要だからだよ」と念を押したけれど、最後まで鶴さんはにやにやしていた。
でもどうやら話はちゃんと通してくれたようで、授業が始まる前に「ノートの件は授業のあとでいいか」と長谷部のほうから声をかけてきた。
「あ、うん。ありがとう」
「いや構わない」
そして授業のあと「お昼はいつもどうしてるの?」と聞く光忠に「昼はあまり食わない」と答えた長谷部の手を引くようにして、学校近くにある小さな洋食屋につれていった。学食に比べればわずかに高くはあるけれど、それでも学生相手にやっているその店は
街の中心部にある店に比べればはるかに安い値段で、10代の胃袋を満足させる量を出してくれるいい店だ。ちなみに味もいい。
値段を見て、出てきた料理を見て、そして食べて目を見開く長谷部の表情があまりにも素直なもので、光忠も思わず可愛いと声に出していた。
何を言ってるんだと頬を赤らめる姿も、日替わりランチのエビフライに目を輝かせるところも、付け合わせのパスタのケチャップに染まった唇も全部可愛らしくて、目が離せなかった。
いつも堪能するサクっとあがったエビフライの味も、自分で作るとどうしてもケチャップの酸味がでてしまうパスタの甘みも
よくわからなかった。
「それでノートのことなんだだが、おい聞いてるのか?」と長谷部に声をかけられるまで、なんだかふわふわとした世界にいるようだった。
それがなんと名づけることなのかに光忠が気づくのはもっと後のことなのだけれど。
どうやら長谷部も光忠のことは認知していたようで、
鶴丸から「いつもちゃんと授業にでている、やたらと顔のいい男がいるだろう」と言われて「ああいるな」と答えたらしい。
顔がいいって思ってくれてるんだ。
いつもならまた顔の子とかと思うようなことすらも嬉しく思うのだから性質が悪い。
「ごめんね。2週ほどどうしても出席できなくて」
「それは構わない。あとでコピーしてくれ。それとお前あの授業は取っているか?」
学部は違うけれど興味のあるところは似ているようで、いくつかかぶっている授業の情報交換をする約束をし、ノートのコピーを貰ってその日は別れた。
長谷部のノートは想像に違わず端的にまとめられたわかりやすいもので
それでいてスライドを見ながら書いたらしいイラストがあったりして、近寄りがたい美しさと言葉の鋭さとは裏腹に、柔らかい内面をもつ長谷部そのもののようなノートだった。
連絡先を交換してから二人の距離はぐっと縮まった。
「昼ご飯一緒に食べようよ」
「このまえ言ってた本見つけたぞ」
そんなやりとりが毎日のようにふたりの間をいきかい、学内のベンチでや昼ご飯を食べながら何でもない話を交わすようになっていた。
長谷部と交わす会話は心地よかった。
打てば響くというのだろうか。
興味ある分野は多少違うけれど、勧められた本や音楽は光忠が知らないものも多かったけれど
思いのほかすんなりと光忠の世界に溶け込んだ。
どうやら長谷部のほうも同じだったらしく、ふたりで街中にある本の森のような書店に繰り出しては1時間ほどそれぞれに過ごし、買ったものを見せあうような時間はことのほか楽しかった。
そうこうするうちに夏は過ぎ、それぞれ実家がある街へと帰省を終え
ひさびさに会おうかという話になったときに長谷部が「花火を見に行かないか」と言い出したのだった。
「あれでしょ?夏の終わりにある」
「そうだ」
「長谷部くん人混み嫌いだって言ってなかったっけ」
「苦手だぞ」
「花火はいいの?」
「行くのか行かないのかどっちだ」
「行くよ」
待ち合わせは
長谷部が住むアパートの前だった。
駅から少し山手に向かったところにある学校よりもさらに坂を上ったあたりにある長谷部のアパートが背にする山の裏側で花火大会は行われる。
自宅から通い慣れた駅には人があふれ、花火を見るために光忠が乗ってきた電車に次々と乗り込んでいく。
いくつか先にある
駅から花火があげられる川沿いへと向かうのだ。
人混みと逆行するように光忠は坂を上り、長谷部に教えられた場所へと向かう。
たしかこちら側からは見えないはずなんだけど。
長谷部のことだから音だけ聞いて楽しもうとでもいうのだろうか。ならばと光忠は途中のコンビニでアイスとレジ前にあった
小さな花火セットを買った。
夏の名残を楽しむにはちょうどいいかもしれない。
そんなことを考えながら。
ゆっくりと坂をあがるうちに空には墨色がにじみ、見下ろす坂の下ではぽつぽつと灯りがつきはじめていた。
「光忠」
呼ぶ声に振り向くとどうやら様子を見に来たらしい長谷部が手をあげ、光忠は小走りで近づいた。
「長谷部くん」
ダークグレーのTシャツに七分丈のカーゴパンツといういつもよりも
カジュアルな服は長谷部をいつもより幼く見せる。
「はいこれ」
「なんだ?」
「笹かまぼことアイスと花火」
「花火見るのに花火買ったのか?」
「え?見えるの?」
「花火見ようって言っただろう」
「こっち側は音だけしか聞こえないって聞いたから」
「お前なあ俺をどんな人間だと思ってるんだ」
面白そうにそう言うと「これは置いてくる」と渡されたビニールを手に部屋に戻った長谷部は、その手に麦茶のペットボトルを二本持って戻ってきた。
「まあ本当に見えるかはわからんが、穴場を教えてもらったから行くぞ」
どうやらまだ山を登るらしい。
「穴場って?」
「大家さんが教えてくれたんだが
この先の公園から花火が見えるらしい」
「でも誰も登ってこないね」
「全部は見えないらしい。音が近いから時々登ってくる人間はいるらしいが、最初のほうは見えないからがっかりして下ってしまうらしい。最後のほうの高くあがるやつは全部じゃないけど見えるよって言ってた」
「そうなんだ」
「最後の数発のためだけに登ってくる人間は少ないから穴場らしい」
穴場というにはちょっとという感じではあるけれど、どこかわくわくした気配を見せる長谷部に「それでいいの」なんて言えるわけはなく。
ただ普段とは違う場所で、どこか幼げな顔を見せる長谷部の隣を歩くことに高揚していた。
「ここかな」
すでにどっちを指しているからわからない案内板を頼りに草に覆われた横道へと入り、しばらくいくと視界がひらけた。作られた当時は麓を見下ろす展望台だったらしい公園は、ベンチがいくつかとなぜかジャングルジムがひとつあるだけの小さなものだった。
「たぶんそうだな」
かつては麓の街も見下ろせただろうが、木々に覆われて街のあかりは間からちらちらと見えるだけだ。
「見えるのかな」
その言葉に答えるかのようにドンと大きな音がした。
バチバチという音まで聞こえ、わずかに空が明るくなるのはわかるけれど、光は木々に邪魔されて見えない。
「30分ほどのことだ」
「そうだね待ってみよう」
「見えなければお前が持ってきてくれたやつをやればいい」
「そうだね。長谷部くんは夏らしいことした?」
「西瓜を食った」
「それだけ?」
「お前はどうなんだ?」
「なんだろう。かき氷は食べたかな」
「お前も食べただけじゃないか」
小学生のとき夏休みに何したなんて
話を花火の音にまぎれて交わす。
そうこうするうちにドン、ドンという音がドンドンドンと少しづつ間が短くなってきて、空の明るさが増していく。そろそろクライマックスだろうか。
しんと音が消えたあとぱっと二人を光が照らす。
花火の欠片が空に散り、ドンということさら大きな音が響く。
「見えた」
半分も見えていないのに二人は立ち上がり「今見えたな」「もう少し高いところにいけば」「あ!」
振り返った先にはジャングルジムがある。
「何年振りだろう」
「落ちるなよ」
「君こそ」
てっぺんにのぼる二人を照らすようにまたひとつ、もうひとつと大きな花が空に咲く。
「ほんとに穴場だったね」
「お前信じてなかっただろう」
「長谷部くんもでしょ」
「まあな」
そんな二人の顔を夜空に咲く花が照らす。
「きれいだね」
「ああ」
光忠が花火ではなく、花火に照らされる長谷部を見ていることを、そして長谷部もまた光忠の月のような瞳を見つめていることをまだどちらも気づいていなかった。
時間にすればほんの数分。クライマックスの花火、それも上半分ほどしかないものだったけれど、夏の終わりに二人で見たそれをどちらも思いのほか気に入った。
「また来年も見に来ていいかな」
「ああもちろんだ」
「来年はなにかつまめるものをもってくるよ」
「じゃあ俺は飲み物を用意しよう」
買ってきた花火とアイスのことを忘れていたのを、長谷部からのメッセージで光忠は思い出したくらい「来年も」一緒に見られることに夢中だったらしい。
うっすらと光忠は自分が長谷部に対して抱くものに気づきはじめていた。
「次の週末行ってもいい?」
「土曜なら」
「じゃあ土曜の夜に行くね」
カレンダーを一枚ぺらりとめくったとたん、思い出したかのように空気は秋のものにかわった。
夏の未練のような花火をしながら「ちょっと肌寒いね」と口にするほどに。
「花火って感じじゃないね」
「置いていたら湿気るだろ」
「ごめんね」
「いや、実は手持ち花火がひさびさでワクワクしていた」
長谷部のこういうところが好ましいと光忠は思う。
光忠が気をつかわないようにと配慮するところ、そして実際に楽しそうにしてくれるところ。
「ふふじゃあ最後線香花火で勝負しようよ」
「いいな。何を賭けるんだ?」
「ランチ一回」
「日替わりか」
「スペシャルで」
「いいなやろう」
にやりと
顔を見合わせると二人は花火を始めた。
長谷部のアパートはもともと家族向けだったようで、半分ほどしか住んでいないらしく、騒がなければ何をしてもいいらしい。
部屋についているテラスで花火をしながら長谷部はそう教えてくれた。
いくつも色を変えて吹きだすもの、あの日のものには及ばなくても
その名の通り火の花を咲かせるもの。
子ども用の小さなパックはあっと言う間に終わってしまった。最後は線香花火が10本。
「やるか」
「1本づつね」
「わかった」
火玉が落ちたら次をつける、次々つけていって最後に残っているほうが勝ち。
小さな灯に照らされる長谷部を見ながらランチじゃないものを
賭ければよかったかなと光忠は思った。
例えば、例えば何だろう、キスとか?
ちょっと待ってなにそれ。
動揺した手元からぼたんと火玉が月に地面に落ち、それでもなおばちばちと火花を咲かせた。
格好悪いなんて思えなかった。
ゆっくりとだけれど終わりが近づいていた。
ああ夏が終わったんだなあ。
長谷部と出会った夏が。
光忠の未練を形にしたような橙の球がぷくりと膨らんで、そしてポタンと落ちるのと同時に長谷部の手からも小さな火が消えた。
ふっと柔らかい声が漏れ、隣でしゃがむ長谷部の頬が緩む。「同時だな」
その言葉を吸い込むように光忠は唇を長谷部の柔らかいものに重ねていた。
キスしちゃった。
わずかにかさつく柔らかい長谷部の唇から少し離れると、もう一度今度は長谷部の眼を見ながらふにと含むようにして触れた。
突き飛ばされるか罵られるか。
覚悟したどちらでもなく、長谷部はゆるく唇を開いた。
わずかにひらいたそこにそっと差し込んだ舌を、長谷部の温かいそれがぬるりと絡む。
地面に立てたもう消えそうな蝋燭の光を頼りに長谷部の肩から背に腕をまわすと、光忠はその身体を引き寄せた。おとなしくぼすんと胸に飛び込む身体をぎゅうと抱きしめると「涼しいのも悪くないな」という小さな声と
ともに光忠の背に手がおずおずとまわされた。
「長谷部くん」
数か月まえまで知らなかった名を口にすれば「みつただ」と舌足らずな声が返される。
友人になったばかりだったのに。
その日ふたりは友達という肩書を早々に返上することになり、新しく恋人という肩書を手にすることとなった。
大学が始まり授業を受け、バイトをするという日常に長谷部と会う時間が増えた。
大学近くにあるカフェでバイトする光忠と、中学生対象の塾講師をする長谷部が会うのはもっぱら大学で授業のない時間を見つけては顔をあわせるようになった。夏の前から時々会ってはいたけれど、映画を見ている長谷部の
手にそっと触れてみたり、長谷部の部屋で食事をしたあとに唇を重ねたり、頬や顔に触れたりといった恋人らしい部分が少しづつ増えていった。
大っぴらに外で手をつないだりということはさすがにできなかったし、クリスマスにバイトを入れた長谷部に「どうして」と詰め寄って「付き合っていたのか?」
なんていう言葉が足らないすれ違いがあったり、初めてことに及ぼうとしたときにうまくいかなくて長谷部の蹴りが炸裂したりはしたけれど、夏の終わりには毎年あの花火大会を見に行き、冬になればポケットに入れた手を握り合うよう、そんなどこにでもいる大学生の恋人らしい毎日を送っていたはずだった。
光忠と長谷部のあいだに軋みが生じたのは、どちらも内定をもらい卒業後の進路を決めたころ梅雨がはじまろうかという頃だった。
光忠はかねてより希望していた金融系に、長谷部は迷っていたようだけれどアルバイトをしていた塾の本社へと進むことは決めたのだと報告しあったのは、一度行ってみたいねと
二人で話していた学生にはちょっとだけ背伸びが必要なステーキの店だった。お祝いだからと飲み慣れないワインを手に、目の前で手際よく焼かれる肉とにんにくの香ばしい香りを楽しんでいた光忠に「おめでとう」と笑顔を見せた長谷部だったが、小さな声で「そうか決めたのか」と漏らした。年中忙しく
転勤も海外赴任も多い父親と同じ道を歩むことをずっと目指してきた。もちろん迷いがなかったと言われれば嘘になるけれど、それでも希望した先からどうぞと言われれば選ばないと言う手はなかった。
「ずっと決めてたからね」
「そうだな」
周囲からはそう見えないだろうが光忠という男は欲しいものには
努力を怠らない人間だった。光忠のそんな思わぬ一面に驚くとともに、長谷部は好ましく思った。まあ言うならば惚れ直した。だからうまくいけばいいと思って応援をしてきたが、けれど心の奥底でその進路が決まることをひそかに恐れていた。いやこの進路じゃなくてもきっといつかは考えなければいけない
ことではあるのだけれど。
大学生から社会人になるこのタイミングが一番いいように思えた。でももうすこしだけ。
このころから長谷部の笑顔と、会える時間がすこしづつ減っていった。
そうして夏の終わり、天を照らす花火が終わったとき長谷部は光忠に別れを告げた。
「もうお前の恋人ではいられない」
「長谷部くん?」
何を言われたのかわからないという顔で見る光忠に、長谷部は言葉を重ねた。
「別れようと言っている」
「どうして?」
お前のことが嫌いになったのだとか、ほかに好きな相手ができたのだとかそんな言葉を言ったほうがいいのだろうと長谷部は思った。けれどどうしても嘘の言葉を
光忠に告げることはできなかった。
「お前のためだ。光忠」
「意味がわからないよ」
「この関係は未来の邪魔になる」
光忠が進む業界はとりわけ結婚して一人前という意識が強く、上に進むためにはそれは必須ともいえる条件だということは長谷部であっても知っていた。
まだ今の段階では交友関係まで
調べたりはしていないだろうけれど、正式に入社が決まればそれもないとはいえないだろう。
手を離すのは今しかない。ずっと考えてそう決めた。
「お前が目指す場所はそういうところだ。上にいくために、お前がやりたいと思っている仕事を手にするためにはそれしかないんだ。お前だってわかるだろう?」
今どきそんな考えは古臭いだとか、長谷部と一緒でも大丈夫だとか、君が決めることじゃないだとかいくつも言葉が浮かんだけれど、そのどれも長谷部のこのもう決めたのだという瞳を覆すことはできない気がしてどれも口にできない。
「いやだよ」
絞り出せたのは駄々っ子見たいな言葉がひとつだけ。
「……光忠」
「うん」
「ちゃんとお前の未来と幸せを考えてくれ」
未来と幸せ。
手を離す君がそれを言うんだ。
「わかった」
わかりたくなんてない。
でも今の自分が何を言おうとも、もし進路を変えようともそれは長谷部を苦しめることはあれど、喜ばせることはないのだとは光忠にだってわかった。
長谷部のアパートの前で「じゃあ」「ああ」といつものように別れたあと、光忠は坂を下っていった。
部屋の扉を閉めるとそのまま長谷部は背を扉につけずるずると玄関へと座り込んだ。
「……ぐ、ぅ、み、つただ」
押し殺した嗚咽が漏れ、ぽたぽたと落ちる涙が玄関を濡らしていく。
光忠、光忠、光忠。
花火が見えたとはしゃぐ顔、線香花火に照らされた横顔、海に行こうと冬に訪れて風邪をひきかけたこと、図書館で棚の影に隠れてキスされたこと、はじめてひとつになれたときに落ちてきた光忠の汗と涙、ふたりで過ごした季節、長谷部くんと呼ぶ声、まっすぐに見つめる金色の瞳、頬に触れる黒髪。
俺だって、いやだよ光忠。
思いのほか泣き虫な光忠は泣いているだろうか。
思い出すのは最後に見た苦しげな表情ではなく、長谷部くんと呼ぶ柔らかい笑顔だった。
ああ好きだなあ。
なあ光忠。ちゃんと前を向いて歩いてくれ。
お前は自分の欲しいものを手にできる男だから、心配はしていないけれど。
握りすぎた掌には血がわずかに滲んでいた。
光忠は泣かなかった。
どうして一人で決めたんだ。
いやきっとふたりで話し合っても長谷部の答えはひとつだったろう。彼の言うことは正しい。
そしてまだ光忠はまだそれに抗うことができる術をもっていなかった。
今は何を言っても、何をしてもだめだ。
「くそっ」
ぐっと握っていた手を電柱にうちつける。
握りしめた拳のなかと、うちつけた甲の痛みよりも締めつけられるような胸のほうが痛い。
でもずっと考えていただろう長谷部のほうはずっとずっと辛かっただろう。
ごめんね。
そういうと光忠は坂のうえへと目を向けた。
真っ暗な空に小さな星が
ひとつだけ弱く輝いていた。
いくつかの授業以外顔を出さないこともあって、学校では長谷部と顔をあわせることはなかった。
何をしていたのかわからないうちに季節は秋から冬、そして春へと移り、ふたりは出会った学び舎を後にした。
長谷部とは一度だけ会った。
借りていた本を返したいという光忠に
送ればいいとも、捨ててくれとも言わずに長谷部は顔を見せた。まだ連絡が取れたことが嬉しかった。
何度か待ち合わせた駅前のコーヒーショップにあらわれた長谷部はすこし痩せたように見えた。
どうでもいいような話をして、ふたりのカップが空になったタイミングで長谷部が立ち上がった。
「光忠」
「ありがとう」
「長谷部くん」
「元気で」
「君も。忙しくてもちゃんとご飯は食べて」
「ああ、気をつける」
「長谷部くん」
「なんだ」
「ありがとう」
ふっと瞳の色を和らげると長谷部は片手をあげ、振り返ることなく店を出ていった。
声を出さずに光忠はすこしだけ泣いた。
・・・
初めて花火を見たときに寄ったコンビニを見つけ、光忠はあの日長谷部が差し出してくれたのと同じ麦茶と、そしてレジの前にあった線香花火を買った。
長谷部がいるはずなんてないとわかってはいたけれど、それでも手にしたそれを買わずにはいられなかった。
長谷部が住んでいたアパートは建て替えられ
ファミリー層向けのハイツに様変わりしていた。
もうここには住んでいない長谷部が、わざわざ花火をここまで見に来るとは思えない。
別の場所で誰かと一緒に空を見上げている長谷部を想像するだけで苦しくなる。
でももう5年だ。その間一度も長谷部に連絡はしなかった。長谷部からもないままだ。
最初の配属で光忠はいわゆる出世コースと言われる主要店に配属された。仕事は面白かったし、顧客にも恵まれ3年で本店へと異動になった。同期のなかでも最速、同じ店にいた先輩を飛び越し、希望していた部署への配属。周囲の誰もが羨み、これ以上ないステップアップだった。望んでいた道を歩いている。
自分が欲しい未来はもう手にしているも同然だった。
周囲から浮かない程度に誘われる合コンや飲み会に顔を出しつつも、そのための努力は怠らなかった。
これが欲しかった未来なのかな。
自分が未熟だから長谷部の手を離すことになった。
だから最速で自分の夢を叶えたい。
そうして長谷部ともう一度
向き合えたら。そう思ってここまで走ってきた。
けれどこれじゃないという気持ちは日々強くなる。
「光坊、毎日楽しいか」
ひさびさに会った鶴丸にそう聞かれ言葉につまった。
「ほんとうにお前がやりたいことなのか」
父親にお前顔色よくないぞと言われたあとにそう聞かれ、答えられなかった。
「ちゃんとお前の未来と幸せを考えてくれ」
長谷部の言葉を思い出す。
あの日あの言葉を口にするまでに長谷部も懸命に考えてくれただろう、だから光忠もそれをずっと考え続けた。勤めて5年を前にプロジェクトへの参加を打診だれた。きっとこの仕事をしていれば誰もが望む仕事で、きっとこの年齢で
参加を打診されるということは、それだけの仕事をしたという評価に値するのだろう。
答えの代わりに辞意を伝えた光忠に、上司は意味がわからないという顔をした。
けれど「ちゃんと考えた」結果、光忠は憧れていた仕事を辞めることを決めた。
「辞めることにしたよ」
そう伝えた光忠に父親は
「前よりもいい顔にしてるな」と笑い、ついでのように自分も退職することを決めたと告げた。
ちょうどいい退職祝いだと大学時代に住んでいたマンションを光忠の名義に変えてくれること、そして母親とともに出身地である場所に移住するのだということを告げる父親に、業界ではなくこの人自身に憧れて
いたのだと気づかされ、光忠は思わず笑っていた。
いろいろ見えていなかったんだ。
同じように辞めることを告げた鶴丸は「ちょうどいい!」と光忠の肩を抱くと「いい仕事があるんだが」と長谷部を紹介してくれた時に見せたにやりとした笑みを向けた。
そうして光忠は春に懐かしい街へ戻ってきたのだ。
長谷部がどうしているのかを鶴丸に聞けばわかるだろうとは思ったけれど、今の場所できちんと仕事ができるまではと思っていたのに、花火大会という言葉におさえこんでいた気持ちの蓋が開いてしまった。
きっといないよね。
そう思うけれど足を止めることができない。
相変わらずどこを指しているのか
わからない案内板を頼りにあの日よりも草むらめいている横道へと足を踏み入れる。
ドンドンと花火の音がさらに大きくなり、クライマックスに近づいていることを知らせてくる。
足を踏み入れる人がいない公園はいっそう古び、展望台の柵には触れないようにロープがはられていた。
暗い公園を高く
あがった花火が照らす。
明るくなった公園、あの日座っていたベンチには誰の姿もなかった。
そうだよね。
わかってはいたことだ。あれからもう5年。
長谷部がこの街にはもういないのかもしれない。
ため息をつく光忠の耳にドドンという大きな音に紛れて、声が聞こえたような気がした。
ぐるりと見回しても人の気配はない。
気のせいか。
長谷部がいるかもしれないという淡い期待のせいで声まで聞こえたらしい。
いるわけないよ。
ははっと自嘲気味に笑った光忠のうえで、またひとつ大輪の花が夜空に咲く。
ぱあっと光の花が公園を明るく照らす。
「光忠」
「長谷部くん?」
もっと高いところで見ようと登ったジャングルジム。
そのてっぺんにずっと会いたくてたまらなかった影があった。
「もう最後の花火があがるぞ。早くあがってこい」
「うん」
「落ちるなよ」
あの日と同じ言葉を口にする長谷部の声に、じわりと目が熱くなる。
光忠が長谷部の隣に腰を落ち着けるのを待っていたかのように、最後の花火が空に散る。
いくつもの花が咲いては消え、その光が長谷部の横顔を照らす。ずっと終わらなければいいのに。
初めて会ったあの夏もそう思っていた。
空を明るく染めた花が消え、そして名残の音が終わりの合図のように響く。
「終わったな」
「そうだね」
今何をしているの、どこに住んでいるの、誰かと一緒じゃないの、僕のこと……
聞きたいことも話したいこともいっぱいあるのに、何から口にしたらいいのかわからない。
ただ隣りに長谷部がいる、そのことがどうしようもなく嬉しくて、幸せだった。
「あのね」
むうとした昼の熱気を涼しい風が緩やかに冷やしていく。黒く戻った空にはひとつ星が光っている。
「花火買ってきたんだ。勝負しない?」
「いいぞ。何を賭けるんだ」
「僕が勝ったら君との未来が欲しい」
長谷部のほうに向きなおったけれど、小さな星ひとつではどんな顔をしているのか見えないままだ。
何を言っているんだ、あの日俺が言ったことを忘れたのか。そんな言葉が返ってくるのを覚悟していた光忠の耳にふっと柔らかい息遣いが聞こえた。
「じゃあ俺が勝ったら、お前を全部よこせ」
膝のうえで握った拳のうえにぱたぱたと雨のように水粒が落ちる。
「……は、せべくん」
長谷部の手を離した日
悔しくて打ちつけた場所を幸せな涙が濡らしていく。
とめどなく流れる涙を長谷部の拭い、その指が頬を包み込む。ゆっくりと顔を近づけた長谷部の唇が軽く光忠のそれに触れると「おかえり、光忠」と言葉を紡いだ。
「ただいま、長谷部くん」
回り道をしてようやくたどり着いた場所。
もう離さないと
誓うようにふたりは唇をあわせた。
小さく光る星を証人にして。