(治角名)はじまりのひ 正直なところ記念日はなにひとつ覚えていない。
つきあった日だとか、はじめてデートした日だとか、ほかにも恥ずかしい文字が北さんちのカレンダーに書き込まれていて、うわあと思わず声が漏れた。
「お前さあ元カノの誕生日を忘れていて平手打ちされたじゃん」
「いつの話しとるねん? いまの俺は愛に生きる男やねん」
「キモ……」
「はあ? せやけど付き合うた日くらいは覚えとるやろ?」
さすがに誕生日は祝ってるけど、付き合った日か。
え? いつ?? 初めてエッチした日? 治から好きって言われたのそれよりずっと後だ。
エッチ、正式には未遂だけど治の熱に触れたのは夏だった。
あれは高校一年の夏、たしか初めての夏合宿が終わった日だった。
身体は疲れ切って今すぐに眠りたいのに、神経が高ぶっているのか身体の熱がおさまらない。
寮は二人部屋で、聞かれるもの面倒だとトイレか、シャワー室ででもヌくかと部屋をでたところで、ギラリと光る瞳とぶつかった。同じ熱を感じて、どちらからともなく手を伸ばして、そのままもつれるようにして風呂場になだれ込んだ。
互いの肌に歯を立て、やみくもに手を伸ばしあって、何度となく吐精した。
あれがつきあった日になるの? いやつきあってはないよね。それからしばらくセフレみたいな関係だったし。
その時は好きなのかとか考えもしなかった。
でもそのあと治のことが好きだって気づいて、だからこういうのもうやめようって言ったら、じゃあ恋人になったらええやんって言われてなし崩しにつきあったからなあ。あの時治がほんとに俺のことが好きだったのかはわかんないし。
つかどれも何月何日だったのか全然覚えてないや。
夏だったなとか、もう冬になっちゃったんだって思ったこととか、匂いとか温度とかは覚えているけど、いつだったかは覚えていない。
「お前ら爛れとったからなあ」
「なにお前エスパーなの? キモ」
「とことん失礼なやっちゃな! お前は!」
ああでも治のことを好きだなって思った日は覚えている。
11月10日
練習帰りに明日はポッキーの日やねんて、ああそれで去年クラスの女がポッキー咥えて近寄ってきたんか、うわサイテーなんてばかな話をしながら歩いていたら、校門の近くに人影が見えた。シルエットに見覚えがあって、びくって身体が竦んだ。
「あれ角名の元カノちゃうん」
「……うん」
「まだ付き合うとったん?」
「夏に別れたんだけど、ちょっと粘着されてるんだよね」
「うわまじで」
「はっきり言わんからやろ」
「言ったよ」
正直おとなしそうな子が必死な顔で告白してきたのが新鮮だったから、別に今フリーだしいいよって頷いた。
一度も俺からは好きだって言えなかった。必死で真面目なんだなって思えた瞳が、いつしかじっとりとした暗いものに見えてきて、たどたどしくて初々しいって思った話し方も自信がないだけなんだって見えた来たらもうだめだった。
梅雨に入る頃、練習試合に出してもらえることになってスタメンと同じ練習量になったころに、バレーに専念したいからごめんって言って別れた。正直バレーにも専念したかったけど、それよりも日増しに増えるメッセージの数や、いつ会えるのかと詰め寄る言葉に辟易していたのが正直なところ。
最初はわかったって引き下がってくれたのに、思い出したように顔を見せては「練習には慣れた?」とぼそぼそとつぶやかれ、たまたま休みの日に買い物していて出会ったクラスの子とお茶をしたら、他の子と遊ぶ時間はあるんだみたいなメッセージが立て続けに届いて思わずスマホを落とした。
もう今は誰とも付き合うつもりはないし、寄りを戻すつもりはないからって何度もいったんだけど、全然聞いてくれなくて。
話をしたあといつも気分が悪くて、ひとりでいたくなくて治のことを誘い出して、乗っかるようにしてセックスしたこともある。何回か。ああ俺さあもう女の子抱けないんだよねとか言ってやろうか。
まあそんなこと言えないんだけどさ。
さてどうしよっかな。
「先に帰ってていいよ」
しくりと胃が痛む。
「あの」
声だけで身体が竦むけれど、向き合おうとした俺をかばうように治が前に出た。
「あんた、今ほかに男おるやろ」
「え、どうして」
どういうこと?
「5組の前田やっけ? こそこそやってるみたいやけど、寮生以外は寮に入ったらあかんって知っとう?」
さあっと顔を青ざめさせた女がぎゅっと手を握ると、ぐいっと治へと近寄った。
「何のことかわからへんし。つか角名くんと話があるんやけど」
この子こんな話し方できるんだ。
はっきりとした声色は、いつものおどおどしたものと真反対の強さがあった。
「角名がもうやめよって言うてるのに、しつこくするんは何でなん? 振られたんが許されへんの?」
「まだ好きだからやん」
「はあ? 好き? 好きな人のこと困らせて、怖がらせてんのが? そんなん好きとちゃうやろ」
いつもと同じ淡々とした声だけれど、その端々に怒りを感じる治の声。
でも怖さよりも安堵というか、守られている心地がした。
そっと俺を護る治の背中からそっと覗くとあの子は真っ赤になって、いままで見たことがない般若みたいな表情で治を睨みつけていた。
「ああ今これ録音してんねんけど、付き合おうてるんじゃないんやったら前田に聞いてもうてもええよな」
「何が言いたいん」
「あんたのこと、別にどうでもええねん。角名につきまとわんって約束してくれたら何もせえへん」
「なんであんたがしゃしゃりでてくるん」
「大事やから」
治の柔らかい声が、言葉が心の鍵盤をぽーんって叩いた。優しい音が胸の中で跳ねた。
ああ。好きだ。この男が、宮治が俺は好きだ。
ずっと心のどこかにあったふよふよとした気持ちに、名前がついた瞬間だった。
そのあとどんな話をして、どうやって寮に帰ったのかあまり覚えていない。
でもあの日からずっと……
「記念日あった」
「は? なんや突然」
どうせろくでもない記念日なんやろと肩をすくめる侑の袖を「ねえ帰るから送って」と引っ張ると、遠くから「こんにちは」と今一番会いたい男の声が聞こえた。
「あ、もういいや」
「お前ほんっまにろくでもないな」
「うん。でもこんな男のことが大事なんだよ。治は」
「せやで」
背後から回された腕がぎゅっと俺を引き寄せ、耳慣れた声と匂いが俺を包み、すなと優しい声が名前を呼ぶ。
別に記念日とかどうでもいい。
だって毎日毎日俺は治のことが好きで、治は俺のことが好きだから。
まあでも。
「今日は記念日だから、いつもよりいっぱいシよ」
呆れた顔の侑の前で、治の首に腕をまわすとちゅっと頬にキスをした。