(燭へし)知らないあいだに幽霊になっていたらしい私の目の前に推しがいるのだけれど「たまねぎ、豚ロース……キャベツとあとは……」
周囲の喧騒のなかでも、きちんと届くのは聞かせる仕事をしているからだ。さすがプロ。
そう思ったとたん世界に光が溢れ、フラッシュみたいな光が消えたら真ん前にプラスチックの籠を手に勢いよく歩いてくる女性がいて飛び上がった。
こちらの様子に動じることもなく、女性はまっすぐに残り少なくなっている特価の卵を掴むとレジへと向かっていく。
ぱちぱちと何度か瞬きするうちに、まわりが形を結び始める。
繰り返し流れるメロディは歌えるほど聞きなれたもので、背中を丸めて値引きのシールを貼っていく店員の姿に見覚えがある。どう見ても駅前のスーパーだ。
あれ? さっきまで何してたっけ。
立ち尽くす私なんで目に入らないように、みながせわしげに棚に手を伸ばしては目的のものを籠に入れていく。
じゃまだと舌打ちすることもなく、まるで私なんていないかのように。
「しょうが……」
間近で聞こえた声にヒッと飛び上がった私に、声の主もまたまったく動じることなく「どれがいいんだ」と真剣な表情で棚を睨みつけていた。どうやらチューブの生姜を選ぼうとしているらしい。
「うっそ……長谷部アナ……」
その真剣な横顔には見覚えしかなかった。
黒縁の眼鏡と灰色のマスクで顔を覆い、さらにぐるぐると卵色のマフラーを巻きつけていても推しの顔を見間違えるわけがない。と偉そうなことを言ってはみたけれど、ゆるく巻かれたマフラーでは綺麗な顔のラインが隠しきれていないし、眼鏡をかけていても特徴的な色の瞳を隠していなければ意味がない。それに何より彼の特徴のひとつである髪色が隠せていないのだ。
まあヘタクソな変装も彼らしいし、夕方のスーパーで周りの人間を見ているひとなんていないから誰も気づいていない。
「このあたりに住んでたんだ」
噂はほんとうだった。
ちらっと彼に目をやったおばさまが、そしてさっきまで値下げシールを貼っていた店員が、目立たないように会釈していったのを見るに、どうやら彼はこのスーパーの常連らしい。
嘘でしょ。このあたりに住んでいるらしいという情報にすがるように今のアパートを決め、駅前にあるこのスーパーを三日と開けずに使っているのに、今まで一度として会ったことはなかった。
それにしても真横に立っているのに、全然気づかないくらい長谷部アナはしょうがチューブを選ぶのに夢中だ。
大丈夫かな。こんな無防備で。
今日は休みなのか明らかにサイズが大きい黒のダウンにカーキ色のパンツ、使い込まれた黒いエコバッグだけを肩からさげている姿はレアだ。目に焼きつけようとぐいっと近づいても気づくこともなく、長谷部アナはしばし逡巡したのち特選生しょうがのチューブをかごに放り込むと「よし」と足を踏み出した。真横にいる私に向かって真っすぐに。
「え!」
ぶつかる!
とっさに伸ばした手は、長谷部アナの身体に触れることなくすうと通り抜けていく。
「え??」
慌てる私などまるで見えていないように、長谷部アナはまっすぐに私の身体をすり抜けていった。
どういうことと伸ばした手を見ると。指先からうっすらと透けてきている。
どういうこと?
スーパーで長谷部アナの声を聞くまで、何をしていたのかまったく思い出せない。
でもこの状態、手がすけてひとに触れることができないのは、誰の目にも止まらないのは……
もしかして私、幽霊なの??
いやまさかと棚の商品に手を伸ばすけれど、なにひとつ掴むことはできずするりと通り抜けてしまう。
「まじで幽霊になっちゃった?」
頭をひねってもひねってもここに来る前の記憶が欠片もでてこないから実感がなくて、だからこそ自分が死んでいるかもしれないという驚きや悲しみよりも推しが目の前にいたことのほうが上回ってしまった。
「もしかして長谷部アナから見えないってことは……」
人としてダメかもしれないけど、もう今は人じゃないかもしれないし。
くるりと踵を返すとサッカー台で黒いエコバッグに買ったものを入れている長谷部アナの背後に立ち、その手元を覗き込む。
触れるほど近づいても気づかれないし、横顔だって見放題。幽霊万歳。
自分でも完全にイカれているって思ったけど、人生最後のチャンスを逃したくない。
ねえ私死んで、今推しの隣にいるんだって後輩にLINEしたら「うっそ! ラッキーじゃないですか」って返ってくるだろうな。
ぽいぽいと適当にバッグに突っ込む長谷部アナに「ちょっと肉は縦にしないで! 重いものを下に入れて!」って突っ込んでも
もちろん届かなくて、けれど買い物慣れしていないところも可愛いなんて思いながらエコバッグを肩にかける隣に並ぶとスタスタと歩いていく背を追いかけた。
さすが幽霊。
オートロックもするりと抜けて、スーパーから歩いて10分ほどの住宅地に立つ低層マンション、3階の角部屋に靴も脱がずに上がり込んでいた。いや靴を履いているのかよくわからない、すでに足先が透けているから。
駅からすこし距離はあるけれど、幹線道路からも近くて車で送り迎えがあれば不便がなさそうな場所。
築年数はそれなりに経ってそうだけど、丁寧に手入れされたエントランスと時間をかけて育った木々が影を落とす中庭。
暗すぎず、けれど明かりで眩しいほどでもない共有スペースは綺麗に掃き清められている。
こじんまりとした、たぶん選び抜かれたひとが住んでいるようなマンション。
なんとなく長谷部アナらしい気がした。
古いけれど大事にされたきたもの。そういうものが彼には似合う。
部屋に入るとそこにいくつかの違和感を感じた。
黒に近い茶色のフローリング、男性ふたりがゆったりと腰掛けられそうな手触りがよさそうな布張りのソファーはお値段以上じゃなくて、お値段がすごそうなものだった。見る人がみれば「ああ」とわかるような、そういう代物。
新しそうなそれとは逆にダイニングテーブルは使い込まれた一枚板のテーブル、置かれている椅子は見たことがあるデザイナーズチェアと、レトロな布張りの椅子。来客があれば使うのかテーブルと同じ色合いのベンチもある。
それぞれに時代もイメージも違うのに、全体としてはちぐはぐな印象はない。
でも「彼らしい」ものと、「彼らしくないもの」がある、ここは彼の家なのか。
ハーブの香りがするハンドソープ、高級そうなふかふかしたタオル。
そして一番彼らしくないものがキッチンだった。
めちゃめちゃ高いやつだよこれ。
「もしかして彼女の家なのか」
口に出したらツキンと胸が痛む。人生に最後に彼女の家で過ごす推しを見るのって辛すぎん?
まあいいや。どんな女が出てくるのか、見せてもらおうじゃないの。
使い込まれたエコバッグが不似合いなキッチンで、長谷部アナはセーターの腕をまくると買ってきたものをキッチンに並べ始めた。もしかして代わりに買い物してきただけか、その予想は裏切られた。
「料理するんだ」
正直長谷部アナに料理をするイメージはなかったし、以前番組で料理するの? と聞かれて米を炊くくらいはしますと答えていたはず。夜の番組がメインだから、家で食事をする機会も少ないものでと言い訳みたいに付け足していた。
まな板と包丁を取り出すと、まずはキャベツを千切りに。
おぼつかない手つきかと思いきや、意外とサクサクと千切りにしていく。ただし幅はかなり太い。
そしてまたゴソゴソ探して取り出したボウルにいれたキャベツに軽く塩コショウをすると、玉ねぎは櫛切りに。
ラップをはずした豚肉に小麦粉をはたくと、フライパンを熱して豚肉を焼き始めた。
醤油、みりん、酒と砂糖、そしてチューブの生姜を混ぜながら、玉ねぎをフライパンに投入する。
どうやら豚の生姜焼きのようだけど、漬けておいて焼くんじゃないんだ。
手順を脳内で確認しながらの様子は、何度か練習して初めておかあさんのまえで披露する子どもに似ている。
それにしても。
ボウルは何度か扉を開け閉めして探していたのに、フライパンや調味料はほぼ迷わず取り出したのは、おそらくほとんど彼はここで料理をしていない。けれど料理をする様子は見慣れているし、何度か使ったことはある。
見たところ調味料やスパイスも揃っているし、鍋やフライパンもちらりと見ただけでいくつも種類があった。
つまりは彼女の家か、もしくは……
「一緒に住んでるってことかあ」
頭を抱えて呻く声はもちろん彼には届かない。
じゅわあという音とともに醤油と生姜の美味しそうな香りが鼻をくすぐり、ぐうと腹が鳴った。幽霊でもおなか空くんだな。空腹よりも長谷部アナが誰かと同棲していたという事実に打ちのめされていた。
「でもさあそんな気はしたんだ」
気づいたのは夏ごろだった。
長谷部アナの表情が、纏う空気が柔らかくなったと。
それまでも丁寧な物腰とアナウンサーらしい笑顔、そして笑顔のままで繰り出される厳しい意見が長谷部アナの魅力だ。
そのお茶の間を安心させるような笑顔に加えて、時折ふわりと優しい顔をすることが増えたのだ。
ファンのなかには「恋人ができたんじゃないのか」と勘繰る声もあった。
彼の高校の同級生で俳優の長船光忠が渡米から帰ってきたのとタイミングが重なることから、友達が戻ってきて嬉しいじゃないかという声に、なるほどと恋人ができた説は一度は消えたのだけれど、冬の到来とともにまたぞろ口にするひとが増えた。
指輪をしたわけでも、写真を撮られたわけでもない。
でもなんというか長谷部アナが纏う空気がそれまでと変わった。
スーツが変わった、シャツが違う、今まで見たことがないネクタイをしている。
そんなのはたぶん些末なことで、なんというか内側からにじみ出る何かが変わった。
「は~そういうことかあ。恋人と一緒に暮らしていたら纏う空気だって変わるよなあ。
グウとなる腹を抱えたまま、もうなんかやりきれなくてソファーにぐたりとだらしなく身体を横たえる。
何も触れなかったはずなのに、ソファーの座り心地がいいことはなぜかわかった。
きっといくつも座って、あれがいいこれがいいって座りくらべながら選んだんだろうなあ。
心地よいもの、ずっと大切にしてきたもの。
それぞれで重ねた時間と、ふたりで重ねていく時間がこの部屋には詰まっている気がした。
「長谷部くん!」
すっかり推しの部屋にいることを忘れてぐたりとしていた耳に、低くて耳ざわりのよい声が聞こえた。
この声って……
「おかえり光忠」
「いい匂い。ご飯作ってくれたんだ」
ありがとうと近寄った光忠、俳優の長船光忠はあたりまえのように長谷部アナを引き寄せるとちゅっと頬にキスをした。
外人か。
それをあたりまえのように受け止めた長谷部アナが、午後から休みになったからなどともぞもぞと答える。
「生姜焼きだ」
美味しそうだという長船に、お前がロケの間に何回か練習したんだとドヤ顔をして答える長谷部アナの可愛さにめまいがした。ああそうだったのか。
友だちが帰ってきたから嬉しいんじゃない。好きな相手が帰ってきたから……
そっかあそうだったのか。
どんな美人の女優が出てくるよりも、どんな知的なアナウンサーが出てくるよりもすとんと腑に落ちた。
「これしか作ってないんだ」
一品作るだけで精いっぱいだったという長谷部アナに「長谷部くんの好きなきんぴらがあるよ」なんて言いながら、冷蔵庫からいくつも作り置きのおかずを取り出す長船光忠の姿になんかもう満ち足りた気分になっていた。
「幸せに」
言われなくても幸せだろう長谷部アナにそうつぶやくと、キラキラと私の周りに光の粒が落ちてきた。
推しの幸せにオタク成仏できますわ。
「誰かいるのか?」
すうと身体全体が消えていくなか、そんな声が聞こえた気がした。
「あれ? 私死んでない?」
「ちょっと! 何言ってるの! めちゃめちゃ心配したんだけど!」
結論から言うと私は死んでなくて、長谷部アナ結婚という一報に驚いて階段から落ちて意識を失っていたらしい。
意識を失っていたのはほんの一時間ほどだったらしいけれど、私が見たあれは夢だったのか現実だったのか。
よくわからないけれど、妹が「ほんとうに大丈夫?」と心配しながら渡してくれたスマホのなかで長谷部アナは長船光忠と並んでほんとうに幸せそうに微笑んでいた。
あのマンションがほんとうにあるのか、そこで二人で暮らしているのかは……
まあもういいか。
夜のニュースでにこりと微笑む長谷部アナの幸せそうな笑顔に、そんな気持ちになった。