手を取り合って(仮) 5年半にわたったフォドラの戦乱は同盟軍の勝利により終結した。アドラステア帝国の皇帝エーデルガルトは討たれ、王子や多くの有力諸侯を喪ったファーガス神聖王国は滅亡。古より暗躍してきた、闇に蠢くもの――アガルタの本拠地シャンバラの崩壊、蘇ったネメシスの打倒を経て、フォドラは新たな時代の幕開けを迎えつつあった。
全ての戦いが終わり、ガルグ=マクでは同盟軍の最後になるであろう勝利の宴が行われていた。士官学校が開校されていた頃には舞踏会としても使用された大広間、食堂、庭園、あらゆる場所で惜しみなく酒や料理が振舞われ、皆、勝利の余韻に酔いしれていた。戦争が終結したからといって、これからの明るい未来が保障されているわけではない。家族や家や故郷を喪った者、貧困に苦しむ民達は大勢いるし、此度の同盟軍の勝利を良く思わない反乱分子も各地に燻っているだろう。「闇に蠢く者」の残党だって、いないとも限らない。この期に乗じ、成り上がろうとする諸侯達の様々な駆け引きも始まる事だろう。これらの問題を一つ一つ解決し、フォドラをまとめていくことは、相当な困難を極めるに違いない。
……とはいえ、勝利の直後……今この時は、皆、ただただ輝かしい未来に想いを馳せていた。
「はーっ、美味しかった、久しぶりに思う存分食べられたわ」
宴の喧騒が遠くに聞こえる女神の塔の最上階で、イングリットは満足げな顔で息を吐く。これまで保存されていた酒や食糧の多くが放出された此度の宴。最初のうちは戦争が終わったといって贅沢は許されない、自分が食べるのはそこそこに、彼女を将として従ってくれていた配下の者達を労っていた。しかし、イングリットが誰よりも食べることが好きなことは周知の事実となっており……逆に彼ら彼女らから、今日ぐらいは思う存分食するようにと、どんどん皿を持ってこられる事態となってしまった。そして、それを断るのも無粋というものだろう。彼女も、今日だけはと心の内で言い訳をしたうえでその厚意を受け取った。
「本当に、今日は良い日ね」
心地良い夜風にあたりながらイングリットは夜空に顔を向ける。
「綺麗」
燦燦と輝く星々にイングリットは思わず、そう言葉を漏らす。それらは戦時中と何ら変わるものではない。しかし、戦いばかりの日々、先の不安ばかりだった頃とはまるで心持ちが違った。夜は束の間の休息時間。仲間との語らいは今夜が最期かもしれない、夜が明ければ今度こそ戦場で死にたえるのかもしれない……夜ごと、そのように考える必要もなくなるのだ。素晴らしいことではないか、とイングリットは思う。そして、一方で、それはイングリットがこれまで考えないようにしてきた、先送りにしてきた事を考えねばならぬ時が来たということでもあった。
この夜が明けるまでは考えまいと思っていた。少し休憩するかと宴を抜けてきたのは失敗だったとイングリットは後悔する。静かな場所で1人になってみれば、これからの自分の行く末を嫌がおうにも考えずにはいられなかった。お腹は満たされ、そのこと自体は幸せとは思いつつもイングリットは物憂げな表情で溜息をつく。
「これから私はどうすればいいのかしら」
父の反対を押し切り、イングリットはこの同盟軍に馳せ参じた。結果的に同盟軍が勝利したことを考えれば、イングリットの行為は間違ってはいなかったということになる。しかし、グロンダーズでやむをえなかったとはいえディミトリ率いる王国軍と戦うことになってしまったことはイングリットの心に大きな影を落としていた。そして家族にとって、領民達にとって、ガラテアの希望とも言われ英雄の遺産を持つイングリットの出奔は許されざる行いだったであろう。今更戻ったところで、受けれいてもらえるはずもない。それに、これからフォドラは「紋章」の有無を問わない世界に舵を取ることとなる。そうであるなら、あえて自分が戻る事もないとイングリットは思う。家には領主ということであればイングリットより遙かに有能な兄もいるのだ。
統一されるフォドラにおいて、その頂に立つのは、この戦いで天帝の剣を手に盟主と共に同盟軍を率いた、かっての彼女の教師。彼の元でフォドラ復興のために力を尽くすのもいいかもしれないとイングリットは考える。あるいは、傭兵にでもなって放浪の旅に出るか。しかし、どちらの道も何か違うような気がした。
すぐ近くで人の気配を感じたのはイングリットが再び盛大な溜息をついた時だった。
「この、めでたい日に随分と浮かない顔だな」
突然の声掛けに、イングリットは肩を一瞬震わせ、声の主のいる方向へと視線を向けた。
「盟主ともあろう人が、このようなところで油を売っていて良いのですか?」
少し非難を交えた声色でイングリットは彼……クロードに呼びかけた。
「おっと、説教はなしだぜ。それに、それはお前だってそうだろ?お前を慕ってた奴らが捜していたぞ。今日という日が終われば、お前になかなか会えなくなっちまうって」
「そうなのですか?」
クロードの意外な言葉にイングリットは目を丸くする。同盟軍においてイングリットは王国の客将として、同盟の一部隊を任されていた。勿論、同盟出身の者達が中心であったが、その多くは部外者でもあるイングリットに好意的に接し、付き従ってくれていた。
「そんな大したことはしていないのですが」
「謙遜することないぞ。それだけお前が有能で、将として信頼されていたってことだからな」
面と向かって、褒められ、こそばゆい気持ちにはなるが、嫌な気分ではない。むしろ、自分が考えていた以上に同盟軍で受け入れられていたことを嬉しく思った。
「ふふっ。そう思っていただけていたのでしたら、ここに来た甲斐があったというものです」
自らの意思で決断し来た場所で、幾ばくかでも成し遂げられたことがある。そのことを実感し、少しだけイングリットの気持ちが軽くなる。イングリットの表情が和らぎ、クロードも、ふっと笑みを浮かべた。それからイングリットの横に並び、つい今しがた彼女が眺めていた星空へと顔を向けた。
「俺もお前には随分と助けられたよ。感謝してる」
顔は空に向けられまたまま、放たれたその言葉は、いつもの茶化すような口調ではなかった。おそらく、彼は心の底からそう思って真面目に感謝の言葉を口にしてくれている。
「それは……私もです。この同盟軍に受け入れてくれたこと、私がいやすいようにしてくれたこと、活躍の場を与えてくれたこと、本当に感謝しています」
「ま、その辺は俺だけじゃなくて、先生やヒルダ、仲間達のおかげでもあるがな」
最初の頃は自分が果たして同盟軍で受け入れてもらえるのか不安に感じていた。しかし、それは杞憂でクロードや先生を始め金鹿の学級の仲間達があれこれ手を回し、早く軍に馴染むようにしてくれたのだ。しかも副官としてクロードと共に出陣したことも数多くあった。英雄の遺産の使い手であること、同じ飛行系で連携の相性が良かったこともあるが、王国出身の自分をそのように重用してくれるのは破格の待遇といえた。
ふと心に寂しさが過る。仲間達の多くが、この数日の間には、自らの領地、故郷への帰路につくだろう。それは戦いが終わったからで、喜ばしいことだ。だけれども。
「イングリット、どうした?」
黙ってしまったイングリットにクロードが目を向ける。今度はイングリットの方が空に顔を向ける。
「こんなことを思ってしまうのは罰あたりですが。皆と別れるのが寂しいなと……そう思ってしまったのです」
「生きてりゃ、会う機会はいくらでもあるだろ。ガラテアは同盟とそこまで遠くはないしな。時々、皆で会って宴会すればいいさ。先生も呼んでな」
軽快ではあるが優しく、そしてイングリットへの気遣いも感じられるような口調でクロードは言った。
「そうですね。でも、ああ……そうか」
寂しさの理由。ふと、その最も大きな理由にイングリットは思い当たる。
「皆と会えなくなるのが寂しいのも事実なのですが。居場所がなくなってしまうこと……それが何より寂しいのかもしれません」
「……」
なぜだろうか、少しだけ場の空気が変わったような気がした。何かしらクロードが言うものと思っていたが、彼は黙ったままだった。
「クロード?」
考え込むクロードの表情が目に入る。
「居場所…か。イングリット、今のお前には、自分の居場所がないって言うのか?」
「そうですね、もうガラテアへは戻れませんし。実はこれからどうしたものかと悩んでいたのです」
「ガラテアに戻らない?」
「戻れるわけないでしょう。私は家族や領民を捨て、ここに来たのです。ディミトリ殿下率いる王国軍とも対立してしまった。いかに戦争に勝利したとはいえ、今更、戻ろうなど虫のいい話です」
「俺はそんなことはないと思うが。言うまでもないが、お前はこれだけ同盟軍でこの戦争を終わらせるために貢献してくれたんだ。親父さん達は分かってくれるさ」
そうなのかもしれない。彼女がガラテアに戻れば、家族は受け入れてくれるかもしれない。紋章を持つ嫡子……などという理由ではなく、ただ一人の娘として、妹として。紋章があるゆえにことさら大事にされていたのだとは自覚しているが、それだけではない愛情も注がれていたことは疑いようのないこと。領民達にも、時間をかけて地道に対話し、領地のために尽くしていけば、認めてもらえる日が来るかもしれない。
しかし、今のイングリットには故郷で新たにやり直すという気持ちや気力が、自分でも驚くほどになかった。
「先生の元で働くことや、傭兵になることも考えたのですが、どうにもしっくりこなくて」
とつとつと吐露するイングリットの言葉をクロードは黙って聞いていた。
「時々思うのです。結果がどうなろうと、どういう最期になろうと殿下と共に帝国に立ち向かうべきだったのではと」
そう、グロンダーズで敵対することになった、あの時。同盟軍に来ることがなければ、自分はきっとディミトリや幼馴染達と共にあの軍にいたに違いないのだ。
「おい、イングリット、それは……」
クロードの顔がいつにないほど険しいものになる。当然だ。彼はどんなに激しい戦いが予想出来ても絶対に死ぬなと言う人間だ。どんなに無様でも死ぬくらいなら逃げて生きのびろと、と。イングリットの思惑がどうあれ、彼からしてみれば、彼女の口にした言葉は「戦いの末に死にたかった」と言っているに等しい。しかし、そう考えてしまうほどにイングリットは、これから自分のすべきことを、生きる道筋を見定められずにいた。
「ごめんなさい。こんなこと、あたなには関係のないことなのに。忘れてください」
少し話しすぎたと思う。クロードのことはいざという時、頼りになるし、信頼できる仲間だと思っている。説教をすることが多いものの、時に楽しく話したいと思うことだってあった。とはいえ、自分の事情をここまで言うつもりはなかった。このような晴れの日に、いつまでも盟主を引き止めておくものではない。「そろそろ宴に戻ってはどうですか」と戻ることを促す。しかし、彼は険しい顔のまま、この場を立ち去ることはなかった。
「ったく……こんな話、聞かされて、行っちまえるはずないだろうが」
予想外に不機嫌な声色にイングリットは驚く。
「え……っと、私も、ここまで話すつもりはなくて。気分を害してしまったようでしたら謝ります」
「ああ、いや、むしろ、言ってくれて良かったのかもな。お前がこんなこと考えてたんだって知らずに、意気揚々とフォドラを去るところだったよ」
「はっ?」
一瞬、クロードから放たれた言葉の意味が理解出来ず、イングリットは目を瞬かせる。彼の言葉を頭の中で反芻する。
「フォドラを……去る?」
確かめるように自らの口でもその言葉を発する。何かの冗談なのかもしれないと、真っすぐにクロードの表情を確認するも、その顔は真剣そのものだった。
「その……あなたの言っていることの意味が、分からないのですが」
「言葉通りの意味だよ」
問いかけに対し間髪入れずに答えた後、クロードはイングリットの瞳をじっと見据え、さらに言葉を続ける。
「イングリット、俺と一緒に来るつもりはないか?とんでもなく困難な道のりになることは確実なんだが」
その後、語られた彼の話は、イングリットが全く予想だにしないことで、ただただ唖然とする他なかった。