仲間だから 同盟、帝国、王国……三つ巴の戦いとなったグロンダーズ会戦。深い霧が立ち込める中、敵味方がはっきりと認識できない中でのその凄惨な戦いは同盟軍の勝利に終わった。ファーガスの王子ディミトリは帝国兵に討たれた。アドラステア皇帝エーデルガルトは退却し、帝国はメリセウス要塞の守りを固めつつある状態だった。
会戦から数日後、ガルグ=マク大修道院の大広間では此度の戦の祝勝会が行われていた。討つことは叶わなかったものの皇帝自らが出陣してきた戦いで勝利を収めたことは大きい。まだ戦いは終わっていないという緊張感は持ちつつも、同盟の兵達はこの勝利の宴で、束の間の休息ともいえる時を過ごしていた。
「盟主殿!ベレト殿!」
祝勝会では当然、同盟軍の中心的立場である盟主のクロード、そして的確な指揮で同盟軍を勝利に導いたベレトの2人が兵士達から引っ張りだこの状態だった。2人も勿論兵士達を労うために忙しく大広間内を駆け回っていた。そして、ようやく乾杯の音頭からしばらく続いていた盛り上がりが落ち着いた頃、クロードは大広間を見渡して、ある人物の姿がないことに気付く。
「イングリットがいないな」
そう言葉を漏らすと、隣にいたベレトが「ああ」と彼もまた大広間をぐるりと見渡した。
「そういえば料理にもあまり手をつけていなかったと思う……無理もない」
会戦では士官学校で時を共に過ごした多くの学友達とも敵対し手にかけることになった。ましてやイングリットは王国出身だ。霧の中で致し方なかったとはいえ王国の人間とも敵対し、そして自国の王子や幼馴染達も喪う結果となってしまった。
「部屋に戻ってるっていうならいいんだが」
クロードの中で何かの胸騒ぎがあった。既に部屋で休んでいるのならいい。しかし彼女が何か妙な事を考えていたなら……
「すまん、きょうだい、少し、はずしてもいいか?」
クロードの意図をベレトは察したようだ。すぐに「分かった」と頷いた。
「2人ともいなくなるわけにはいかないからな。イングリットは任せた」
兵達を労うこの場に盟主もベレトも不在になるのは、さすがによろしくないだろう。ベレトは快くクロードの頼みを聞き入れてくれた。
他の元金鹿の学級の面々もイングリットの行方は知らなかった。少しばかり料理を口にしていたものの、いつの間にかいなくなっていたらしい。イングリットの部屋を訪ねてノックをするも返事はなかった。
「イングリット。俺だ、クロードだが……いないのか?」
眠っているのかもと思い、大きめの声で呼びかけるがそれでも彼女の声が返ってくることはなかった。
「どこ行っちまったんだかなあ」
彼女の行きそうなところ……女神の塔か、もしくは気を紛らわせるのに訓練場で鍛錬しているか、書庫で読書、といった可能性もあるか。
ふと、心配しすぎかとも思う。彼女だっていい大人だ、優秀な戦士でもある。覚悟を持って同盟軍に加わり戦ってくれている。今は単に1人になりたくて人目につかないところにいたいだけなのかもしれない。とはいえ、仮にそうだとしても、やはり放っておく気にはなれなかった。次は訓練場あたりでも見てみるか、と寮を出て、その方向へ足を向けようとする。しかしその足の動きが、ぴたりと止まる。温室のある方向へ歩いて行くイングリットの後姿が視界に入ったのだ。そして隣にはもう1人……男の姿があった。
***
その男……同盟軍の兵士は言った。
自分も王国で暮らしていたことがある。だから今回の戦いにも知り合いが参戦していたかもしれず辛かった……と。
イングリットにとって、少しでも自分と同じような境遇の者と話すことが幾分慰めになったことは事実だった。だから、彼に宴を抜け出さないかと言われた時は素直に頷いてしまった。しかし、それは単に軍が同じだっただけという彼と、どうにかなりたかったからではない。静かな場所でそれぞれの想いを語り感傷に浸るのも今夜くらいはいいだろう、そう考えただけのことだった。そして、彼女のそうした考えが、彼のそれと全く違っていたのだということに気付いたのは、人気のない温室と池のある区画に足を踏み入れた時だった。特に疑問を持つことなく彼について歩いてきてしまったが、イングリットはここに来て己の浅はかさを腹立たしく感じていた。人の気配が全くないわけではない。しかしこの場にいると思われたのはおそらく逢引をしている者達。これはさすがに、ここまでのうのうと来てしまった自分に否があると彼女は自覚せざるをえなかった。
いつの間にか、思った以上に男がイングリットに近い位置にいた。そのことに驚き、彼女は言葉を発するより前に息を呑む。
「イングリット殿」
男に両腕を掴まれ、身体を温室の建物の壁に押し付けられる。男の顔は真剣だった。つい今しがた意気消沈といった様子だったのが一転、必死にも思える形相で。とんだ変わりように、これはまずいと危機感を持つ。
「えーっと、あの、そろそろ大広間の方に戻りませんか?」
この状態でなんとも間の抜けた言葉だと思った。しかし他の言葉が出てこない。男は少し戸惑った表情を浮かべるも、彼女を掴む腕の力が緩むことはなかった。
「イングリット殿。私は以前からあなたのことをお慕いしていたのです」
「あの、突然そのようなことを言われても……」
「あなたもここまで来てくれたのだ。そのつもりがなかったわけではないのでしょう」
いや、全くそのつもりはなかった。しかし、男が勘違いするのも致し方ないとは思う。
「同じ傷を持つ者同士、今夜は共に……」
「も、申し訳ありません!」
「えっ、イングリット殿!?」
イングリットは渾身の力でもって、自分の腕を拘束する男の腕をふりほどき、そのまま男を正面に突き飛ばした。いや、突き飛ばすつもりはなかったが、男から逃れようとしたら結果的にそのようになったというべきか。男がふりほどけない程の力であれば、急所を蹴り飛ばすところだったが、そうすることはせずにすみ、ほっとする。
「私は、その……本当にお話をするだけのつもりだったのです。勘違いをさせてしまったようでしたらすみません」
男は自分の身に何が起こったのか把握出来ていないようで尻もちをついた状態はそのままに放心状態になっていた。イングリットもどうしたらいいか分からず、なんとも気まずい空気が2人の間に漂い始める。しかしその時間はほんの僅かのことだった。
「おっ……と、これは取り込み中だったか?」
突然、2人以外の第3者の声が響きわたり、イングリットと男がはっとなって、声のした方向へと目を向ける。男の表情が瞬時に変わり、脱兎の勢いで立ちあがり姿勢を正す。
「こ、これは盟主殿!いかがなされた?」
この同盟軍の盟主の登場に、男の顔が青ざめる。盟主……クロードは冷ややかな顔で男を一瞥した。
「ちょっと息抜きに散歩していただけだよ。お前こそ何をしているんだ?まさか王国の客将殿に失礼を働いていたわけではないだろうな。我ら同盟軍がここまで勝ち進んでこられたのは、イングリット殿の助力もあってのことだ。もし彼女を害するようなことがあれば……」
「まさか、そのようなこと!」
普段の陽気な盟主からは考えられない底冷えのする低い声に、男は怯えた顔で必死に首を横に振る。
「少し酒を飲みすぎたようでして……イングリット殿、その……申し訳ありませんでした!お許しください」
悲痛な叫び声にも近いような口調で言われ、イングリットは呆気にとられた表情を浮かべつつ「あっ、はい」と頷く。
「飲みすぎはあまり良くありませんので……今後は注意してくださいね」
「承知いたしました!では自分はこれで」
そして男はその場から逃げるように去り、後にはイングリットとクロードの2人が残された。イングリットが気まずそうにクロードの表情を窺うと少し不機嫌そうに見えた。
「クロード、その……すみません」
ひとまず謝罪をする。
「それは何についての謝罪なんだ?」
「お見苦しい場面を見せてしまいましたので」
クロードは一度溜息をつき、イングリットのすぐそばまで来ると彼女の首から下の部位に目を向ける。不機嫌そうな表情は消えており「腕……大丈夫だったか?」と心配そうに尋ねられる。男に掴まれ上腕部分のことだろう。
「掴まれた時は、少し痛かったですが……今はもう大丈夫です」
「そうか、それならいいんだが……ああ、でも、もっと早くにお前を見つけていればな」
「えっ?」
クロードの言葉にイングリットにある疑問がわく。その言葉はまるで彼がずっとイングリットを探していたかのような口ぶりに聞こえた。
「私を探していたのですか?」
「お前がいつの間にか大広間からいなくなってたから探してたんだよ。あの戦いの後だろ、ちょっと心配になっちまってさ」
「もしかして私が殿下達の後を追って、自害でもするかと?」
「いや、そこまでしないにしても……自暴自棄になって普段の自分からは考えられないことをすることもあるだろ……例えば、さっきの奴の口車に乗っちまうとかさ」
痛いところをつかれ、イングリットは思わずクロードから視線を逸らしてしまう。しかし自暴自棄という程ではないし、最悪の事態には至っていないため許容範囲ではないかとは思う。
「先ほどの方は、王国で暮らしていたことがあるそうで、私と同じく旧王国軍と戦うことに心を痛めていたそうなのです。それで少しばかり心が弱くなってあのようなことを……。安易に着いて来てしまい彼に勘違いさせてしまったのは私の責任でもあるのです」
苦し紛れともいえる言い訳をしてみれば、クロードが「ん?それは、おかしいな」と不思議そうな顔でつぶやく。
「確かあいつは生まれた時からずっと同盟領暮らしのはずだが……」
「えっ?」
クロードの言葉にイングリットがぽかんとした表情を浮かべる。
「まあ俺も同盟の奴ら全員のことを把握しているわけではないが」
先ほどの男は同盟の小領主の嫡男。軍でもそこそこの地位には据えられている。それくらいの立場の人間であれば一通りの経歴はクロードの頭の中に入っているのだという。
「それでは、あの時話していたことは全部嘘……だったというのですか」
「そういうことだろうな、お前が弱っていると思って付け入ろうとしたんだろ」
彼に迫られたことより、そちらの方のショックが大きかった。しかもよりによってクロードに言われて気づくなんてと自分が情けなくなる。
「ふふっ、馬鹿ですね、私は。嘘も見抜けずにまんまと、このような醜態をさらすことになるなんて」
そう言って、イングリットは自嘲するような笑みを浮かべる。
「いや、お前は何も悪くないし、醜態もさらしてないだろ。あいつが盟主の心象を悪くして自分の立場を危うくしたってだけの話だ」
「私情をはさむのは慎むべきかと」
「大事な客将であるイングリット殿に無礼を働いた奴だぜ、相応の扱いはさせてもらうよ」
「もう……その言い方はちょっと」
普段、敬称なく呼び捨てのため、その呼ばれ方はなんだかむず痒い気持ちになる。
「それに同盟が勝ち進んでこられたのは私の助力のおかげ、なんて。あの場を収めるにしても過剰な褒め言葉です」
実は少し嬉しくも思っていたが、イングリットはあえて咎めるような口調でクロードをやんわり非難する。
「本当にそう思っているんだがなあ」
信用ないなあと、両手を後頭部にまわしつつ呟く彼に対しイングリットは、くすりと笑う。それから、先ほどイングリットが男を突き倒した後にクロードが現れた時のことを思い返す。いつものいい加減で、飄々とした態度とは全く違う彼の姿。同盟軍に来てクロードを身近に見る様になってから気づいたのだが、彼はここぞという場面……味方を鼓舞する時、敵に対する時など、盟主として本当に頼りになる姿を見せてくれる。同盟軍に参加しようと思った一番の理由は先生がいたから、というのが大きいが、今ではクロードを最も頼りになる仲間としてイングリットは認識していた。
(いえ……仲間というだけでなく)
イングリットはいつしか彼に対して持ち始めていたその感情を改めて自覚する。あの凄惨な戦いの後に、このような気持ちになるなど不謹慎かもしれない。しかし、彼がいるからこそ、あの戦いの後でも同盟軍に来たことを後悔することなく、自暴自棄にならずにすんでいるのかもしれないとも思う。
「クロード、ありがとうございます。その……心配してくれて」
そういえば彼が心配して探してくれたことに対してのお礼をまだ言っていなかったと、イングリットがその言葉を口にする。
「気にすんな。仲間だからな、当たり前だ」
仲間だから……その言葉にイングリットは彼との間に距離を感じてしまう。少し寂しく思ってしまい僅かに目を伏せる。
「何か、俺に出来ることがあればするからさ。ああ……王国出身のお前とは色々と事情が違うし、お前の心に寄り添うのは難しいかもしれんが……でも胸くらいは貸せるぞ」
「えっ……」
「あっ、いや、胸を貸すってのはまあ冗談だけどな、ははっ」
おそらく彼は失言したと思ったのだろう。気まずそうに笑う。しかし、イングリットはその後自分でも信じられないことを口にしていた。
「では胸を貸していただけますか?」
その言葉にクロードは、えっ、と不意打を食らったかのような顔になる。
「あ~、自分で言っておいてなんだが、俺でいいのか?」
念を押すように尋ねる彼に対し、イングリットは「はい」と頷く。
「あなたがいいのです……仲間なのでしょう?」
仲間だから。その言葉を免罪符のように、イングリットは口にする。
「ん……そうだな、仲間だから、な」
ふっと、クロードが笑みを浮かべる。それからふわりと彼の腕がイングリットの身体を包み込んだ。がっしりとした腕の感触が身体に伝わってくる。先ほどの男に強引に腕を掴まれた時とは全く違う。感じたのは気遣いと優しさ……それがゆっくり染み渡るようにイングリットの心を癒していく。
「泣いてもいいんだぞ、誰もいないし、俺も見ないようにする」
どうも彼には気付かれていたようだ。グロンダーズ会戦後、もっと悲しみに打ちひしがれるかとも思ったが涙は出なかった。覚悟していたことなのだからとこれまで必死に堪えてきたのだ。しかし、クロードにそう言われ何かの箍が外れた。クロードの肩口に、そっと顔を埋める。じんわりと目に涙が滲むのが分かった。
何を話さなくとも、彼がこんなにもそばにいてくれる……ただ、それだけで哀しみと辛さが和らいでいくのを感じた。
***
イングリットが男と2人で人気のない方角に歩いて行く姿を見つけた時は目を疑った。しかも同盟の兵士……一軍を任せている将の1人だ。彼が普段イングリットと親しくしている記憶は少なくともクロードにはなかった。実力的にも人柄的にもまあ標準的で、ごくごく普通の人間だったように思う。しかし、どうにも嫌な予感がした。
2人の後を追うと、案の定、イングリットは彼に迫られていた。助けに入ろうと飛び出しかけるが、自力で何とかしたのはさすがにイングリットというべきか。とはいえ、いかに紋章持ちでその辺の男より力量がはあるとはいえ、彼女は女性だ。もっと身体の大きい、力のある男が相手であれば、ただではすまなかったかもしれない。どうして彼と2人でいたのか理由を聞いてみれば、イングリットがまんまと彼の嘘に騙されてのことと知り、呆れるような、ほっとしたような複雑な気分になる。
呆れたのは、あまりにあっさりと男の言葉を信じてしまった彼女の不用心さ。
ほっとしたのは、彼女が誰でもいいと自暴自棄になり彼に着いていったわけではないこと。
とはいえ彼女の不用心さは、彼女の素直さ、そして真っすぐな心根ゆえともいえる。常に人の心の裏の裏まで考えてしまう自分とは大違いな、彼女のそのような部分をクロードは嫌いではなかった。むしろ気に入っているといってもいい。しかし、今回のようなことがあっては、とクロードは考える。今の彼女に、普段の規律正しい騎士としての姿はなく、説教をする時の気丈さもすっかりなりを潜めている。どこか心細げで寂しげだった。
(こういう時、恋人なら抱きしめて慰めることも出来るんだろうが)
なんとなく、今の彼女にならそれをしても受け入れられるのではとも直感的に感じた。しかし、それは弱っている彼女につけこむにも等しい行為だろう。だから、あくまで仲間としてという前置きをしたうえで彼女に言った。
「何か、俺に出来ることがあればするからさ。ああ……王国出身のお前とは色々と事情が違うし、お前の心に寄り添うのは難しいかもしれんが……でも胸くらいは貸せるぞ」
他の人間を頼るくらいなら自分を頼ってほしい、とクロードは思う。当然驚かれて、やっぱりそうだよな、と冗談ということでごまかそうとする。しかし、すぐに彼女は少し遠慮がちに「では、胸を貸していただけますか?」と彼の提案に乗ってきた。やはり、今日の彼女は自暴自棄とまではいかないまでも、目を離すには非常に危うい。
「あ~、自分で言っておいてなんだが、俺でいいのか?」
傷心であることにかこつけ、付け込むようなことをしたくない、とは思う。しかし彼女にそう言われて、諫め、部屋に送り届けるほど清廉な性質でもなかった。
「はい、あなたがいいのです……仲間なのでしょう?」
彼女も予防線を張ってくる。正直言って、助かった、と思った。彼にとって彼女はもう”仲間”という範疇を越えてしまっているが、今は互いにそういうことにしておいた方がいいだろう。そうでないと理性が保てなくなるかもしれない。
「ん……そうだな、仲間だから、な」
自分に言い聞かせるように、そう口にして。
そっと両腕を彼女の背に回して抱きしめた。