アイドルパロピピピ…ピピピ…
目覚ましの音が鳴る。
カーテンはまだ閉め切ったままで部屋の中は薄暗く、スマホの僅かな明かりを頼りにジェイドはアラームを止めるべく手を枕の横に手を伸ばした。
時刻は7時。起きてカーテンを開け、制服に着替え、リビングへ向かう。共働きの両親は既に食事を食べている最中で、まだ寝ぼけ眼のジェイドにおはようと声をかけると、母親はジェイドの分のご飯を大盛りによそってテーブルに並べた。
「おはようございます…」
「おはようジェイド。今日は午後から雨が降るらしいから傘を持ってい行きなさい」
「そうですか」
年頃の少年であればこの程度の素っ気ない会話などいつもの日常で、ジェイドはいまだ開ききらない目をしぱしぱとさせながら手に持った大盛りの白米を平らげていった。
ジェイドは17歳の高校生である。モデルのように高身長でスラっとした体躯に切れ長の瞳、人当たりの良い性格に成績優秀で運動もそこそこ良い。まさに眉目秀麗、文武両道といえる存在で、男女問わず注目の的であった。
学校が終わり放課後になり、特に部活動をしているわけではないジェイドは、部活動に向かう生徒達とは別に玄関の下駄箱に向かう。下駄箱の靴を取り出すといつもの見慣れた紙切れが入っていて、その折りたたまれた薄ピンクの紙を開く。
『ジェイド・リーチくんへ。体育館裏に来てください。伝えたい事があります』
そんな一文を見て、ジェイドは周りに人がいないかちらっと確認をし、いないと分かると小さくため息をついた。昔からそうだった。とにかくもてる。こう聞くと嫌味に聞こえるかもしれないが、常に注目をされるというのは苦痛だった。一挙一動誰かに見張られているような気分さえする。それでも学校生活を平穏に過ごさなければいけないので、手紙をくれた人物の元へと向かった。勿論答えは決まっている。
「すみません。今はそういう事を考える余裕がないので…」
その女子生徒は一度口を引き結ぶと、力を抜いたように苦笑いを浮かべた。
「そうだよね。ごめんねジェイドくん。今日の事は忘れて良いから。でも話聞いてくれてありがとね」
そしてどこに控えていたのか、その女子生徒の友人らしき人物が駆け寄ると慰めるように彼女の頭を抱き込んだ。泣いているのか?だとしたら僕がいなくなった後にしてくれないだろうか。そんな薄情な事を考えながらも「貴方にはきっと僕以上に大切にしてくれる人が現れますよ」なんて、あくまで自分の方に問題があるからふったのだと遠回しに伝えて去った。そうでも言わなければ女性の恨みというものは深くまとわりついてくる。
母に昔から言われてきた言葉。幼少期から女の子に好意を寄せられがちだったジェイドが、母にそれが実は苦痛なのだと相談した時に、笑いながら言われた。
『彼女達もきっと覚悟を決めてジェイドさんに思いを伝えているのだと思いますよ。だから、あまりレディー達のプライドという物を傷つけてはいけませんよ?』
だからといって、気もないのに軽々しく自分も好きだと言うのもダメ。本当に貴方が恋をした相手にだけ、その想いをとっておいてくださいね。
そんな事を言われて約10数年。未だに恋という物がどんなものなのか知らずにいた。
そんな告白事件の後、空は少しずつ重々しい灰色に覆われ、そういえばと傘を傘置きに忘れてきてしまった事を思い出す。
玄関まで戻り傘を探す。なんの変哲もない、コンビニで買った500円のビニール傘。しかしそれがない。
きっと予報を聞き忘れたどこぞの生徒が、名前が書いてないからと言って持って帰ったのだろう。
ジェイドはムッとしながらも、仕方なく雨が降る前に帰ってしまおうと早歩きで駅に向かう。
少しづつ降り始めた雨粒が頬や髪に当たって煩わしい。傘を盗まれた事も見知らぬ女子生徒に告白された事も、教師にいちいち期待の目を寄せられるのも、別に仲も良くない男子生徒に肩を組まれるのも、なにもかもが煩わしい。
どうしてこんなに人生が楽しくないのだろうと思う。まるでモノクロの世界のようにジェイドの目は濁っている。そんな自分のどこに好かれる要素があるのだろうと疑問に思う。自分の表面しか見ていないくせに。そんな鬱蒼とした気持ちが湧いてくる。
駅に向かう交差点。車通りの多いこの場所には巨大なビルが立ち並んでいて、上から圧を加えるように通行人達を見下ろしている。
信号機が赤になり、人々は立ち止まる。
スマホを弄る人、友人達と会話をする人、急いでいるのか、しきりに腕の時計を気にするサラリーマン。そして、傘を忘れて惨めに濡れているジェイド。
いつもと同じ日常。
いつもと同じ道。
そうしてジェイドは足元を見やる。歩行者が赤信号の際にこれ以上は立ち入ってはいけないと定めた黄色い線。
ふと思った。
例えばこの線を越えて、一歩踏み出したらどうなるのだろうか?
「(何かが変わるんじゃないか…)
視線は車の往来激しい道路の真ん中に吸い寄せられる。
耳が拾う音は籠って聞こえ、車のクラクションの音もまともに聞こえなかった。
その時、
『 キミの事、もっと知りたいなー 』
はっきりと、鮮明に耳届いた不思議と甘い声。
肩をビクリと震わせ、足を止めるとその声のした方向を振り向く。それはビルに映し出された映像だった。
少しづつ鮮明になる周りの音と共に、同じく赤信号を待っていた隣の学生たちの話声が聞こえ、同時に目の前すれすれを車が横切った。ジェイドの前を通り過ぎる際にわざわざスピードを落とすと窓を開け「死にてぇのか?」と舌打ちし、そして去っていく。しかしジェイドはそれも聞いちゃいない。
「あ~フロイドくんだ!大スクリーンで見れるの幸せ~!」
女性がジェイドと同じく映像を見上げながら喜色満面に話していた。
「あんたほんとこの子好きだよねぇ、最近出てきたアイドルでしょ?」
「そう!プライベートが一切ナゾなんよ。ミステリアスで良くない?」
最後の方の言葉は正直あまり聞いていなかった。ジェイドはそのスクリーンを見上げながら不思議な程にうるさい心臓を押さえる様に制服の襟を握りしめる。
「フロイド…」
映像の中の『フロイド』とやらがジェイドに向かって手を差し伸べ、笑顔を浮かべている。(もちろんジェイドの勘違い)
「(あどけなくとろかせて笑うその裏に、海の底を思わせる瞳…)」
汗なのか雨水なのか、じっとりと体が熱くなっていき、顔が自分でも分かるほど火照っている。
そして雨が止んだ。灰色がかっていた空は雲の隙間から太陽の光が差し、世界に色が戻る。
17歳の春。人生が塗り替えられるような衝撃。
その日ジェイドは、そのアイドルに一目惚れをしてしまった。