いわく、〝キスしてくれなきゃ帰さねえ〟「なんでキスしてくんねーんだよおおおおお」
下半身にしがみついてくる腕は振りほどこうにもほどけない。無駄に筋肉ばかり付けやがって。ゴリラか、ゴリラだな。
この居酒屋は全個室だが、さすがに防音措置はされていないので、きっと杉元の情けない喚き声は店中に聞こえているだろう。クソ野郎、と尾形は舌を打つ。入室した時のへらりと笑った赤い顔を見た時点で帰るべきだった。
そもそも尾形と杉元は世間一般的には〝友人〟である。決してお互い認めようとは思わないが、分類するとそれが一番近しい単語だ。それなのにキス云々の話になった発端は、もはや尾形にもわからない。
明日は早朝から出張の予定である。起床時間は4時。始発の電車でトンボ帰りのハードスケジュールだ。
それならなぜ飲みの誘いに乗ったのかと問われると、一杯くらい引っかけていきたかった。軽く流し込んでさっさと退散しようと思っていた。誘った相手がすでに出来上がっていて、尚且つこんなにも煩わしい絡まれ方をするなんて誰が思い至るというのか。
帰りたい。だが腰に太い腕ががしりと纏わりついて離さない。うわあああああん、と子どものように泣きわめく声ががんがんと頭の中心に響く。もううんざりだった。
残念ながら、尾形はまともな判断能力を失っているほどには疲れていたのだ。恋人は仕事だなんて冗談でも言いたくは無いが、語弊は無いと思うくらいには歴とした会社の家畜だった。
「……うるせぇ」
乱暴に胸ぐらを掴んで、ぐえ、と呻くのにも構わず引っ張って引き寄せる。間近で見た顔は、表情筋が緩みきっているわりに悲しげで、それなのにやたらと整っている。
「えへへへへ」
次に見た時、その顔はだらしなくゆるい笑顔だった。腰に回された腕がぱたりと床に落ちる。その隙に手を伸ばしても届かないほどの距離を取り、突っ伏した顔を覗き込む。聞こえるのは、穏やかな寝息。健やかな寝顔。猛烈に頭に来たのでその頭を一度蹴り上げた。大きな図体がごろりと転がるが起きる気配は無い。舌を打ち、さっさと靴を履く。代金は迷惑料として払わせることにした。目覚めた杉元が覚えているかはわからないが、尾形は覚えているので問題は無い。そうしてようやく、尾形は魔の部屋から脱出することに成功した。
店を出ると、冷えた空気が露出した首を撫でた。もう冬なのだから当たり前だ。肩を竦めて、駅へと足を向けた。道行くひとは疎らで、皆がそれぞれ寒さに凍えている。
ドッドッドッと心臓が強く脈を打っている。力強く血液が流れ出て、勢いを弱めること無く再び心臓に戻ってきてはまた激しく身体の末端まで駆け巡る。ぐるぐるぐるぐる。血が全身を駆け巡っているという、今まで抱いたことも無いような実感が何故かあった。
これは、なんだ。
心臓が五月蝿い。身体が熱いような気もする。ぐっと胸のあたりを掴んだら、ぐらりと視界が揺れて目眩のような症状も出てきた。
「風邪かな」
さっさと帰ってさっさと寝よう。
夜の街は、人工的な光できらきらと輝いていた。