俺たちのタチネコ戦争拗れに拗れた長年の片想いを実らせ、めでたく恋人同士となった彼らの前に今、大きな問題が起こっていた。
「えーっと?イヌピー??」
文字通り押し倒され、自分の上に跨る乾に九井はこめかみをひくつかせながら問うた。
この数秒前、九井は自ら仕掛けに出ていた。ベッドの上で向かい合い、やさしくキスをしたのは九井なりの合図ーー今から抱きますがよろしいですか?という控えめな合図だ。だが、その合図をぶっちぎられ勢い任せに押し倒され今に至る。
「ヤるんだろ。」
「...イヌピーが言うと違う意味に聞こえんだけど」
行為への同意、それは恋人同士最上級の愛の契りーーーつまり、セックスを乾が了承していることに九井はひとまず安堵した。が、それも一瞬の話だ。抱く気満々でいた九井の出鼻を挫くどころかへし折られた状況に「俺、もしかして抱かれんの?」と困惑を口にする。
「不満か?」
「不満っつーか、逆だろ。どう考えても。」
「...逆?」
眉を顰めた乾がぶんぶんと頭を振る。何一つ間違っていないと無表情で言ってくることに九井はまたこめかみをひくつかせる。
「じゃあ訊くけど、イヌピーは俺で勃つの?」
「...?」
無表情な顔面に乾は明らかな疑問符を浮かばせる。その様子に深海より深いため息が九井の口から吐き出された。
「勃たねぇのに抱く気でいるとか、意味わかんねぇよ。つか、イヌピーってそういうことしたことねぇのになんで出来るって思ってんの?無謀と無茶は喧嘩だけにしてくれねぇかな。」
「童貞だからってバカにしてんのかッ」
「噛み付くとこそこ?そもそもイヌピーが他の奴とヤッたことあったら相手殺してるから。」
ずりずりと背中を起こし物騒極まりないことを平然と口にする九井だが、乾はそのことを物騒だとはちっとも思ってはいない。
(ココならそうするだろうな)
むしろ、ちょっと嬉しいとすら思っているのである。
「...でも、俺だってオナニーくらいはする。」
「は?イヌピーが?待って、オカズは?女優...いや男優...無理どっちも無理!!イヌピーはオナニーなんかしねぇ!!!」
「ココ...テメェマジでふざけんなよ...」
阿鼻叫喚の九井が頭を抱えじったんばったんするのを冷ややかな目で眺める乾は、利き手の全指を柔く握る形にしそれを目の前で上下させる。折られた指と手のひらの空間は明らかに何かを握っており、上下する動きに自慰を想像させる。
「自分でこうやって、ンで十数えたらビュッて」
「...は?」
「昔真一郎くんに教えてもらった。」
「ッッッ~!!!」
純粋培養のイヌピーに何を教えてるんだとか、不良の中で伝説化している男は実は早漏なのかとか、九井には言いたいことがあり過ぎた。
「...いいか、イヌピー。」
だが、暴れだしそうな衝動をシーツを握りしめることで抑え、努めて冷静に語りかける。
「オナニーとセックスは別物です。」
「?そうか?」
「オマエ、俺とする時もテンカウントする気でいただろ。」
「…うん。」
「おい、否定しろ。」
いよいよ頭痛がしてきた九井は、嘆息しシーツから手を離した。これではセックスどころじゃない。だが、昂りが止んだかと言えばそれは否、である。
「一つ、提案がある。」
「ていあん?」
九井の言葉をオウム返しし、乾はこてんと首を傾げる。その姿は無垢そのもので、可愛すぎた。今すぐにでもかき抱いて思う存分可愛がりたい衝動を必死に抑え、九井は咳払いする。
「俺が先にイヌピーを抱く。ンで、その後イヌピーがやってみて。そうすりゃお互い抱きたいっつー願望は叶うだろ?」
平和的解決、と九井は付け加える。だが、この男は乾に抱かれる気など一切ない。あくまで自分が抱くのだと譲らないでいる。そんな九井の思惑など露知らず、乾はあっけらかんと「いいぞ」と頷いてみせた。
「確かにココの言う通りだ。最初からそうすれば良かったんだな。」
「だろ?」
純粋培養ーーー九井は改めてこれまでの紆余曲折を思う。乾の見えないところで囲いこむのに費やした数年、自分が提案することは素晴らしいものだと思わせるやり口に抜かりは無い。
「んじゃ、そういうことで…」
跨る乾をそっと押し倒し、九井が見下ろす形になる。出鼻を挫かれたことを無かったことにし、改めてキスを落とし乾の肌に手を滑らせる九井は感じたことのない興奮の中にいた。やっと始められるーーーと、舌なめずりする九井は捕食者のようで、目の前のごちそうを食らうことしか考えてはいない。だから、乾が真顔でいることに気づくのに遅れたのだ。
「…イヌピー?」
肌をまさぐられ、熱のこもったキスをされても乾はその表情ひとつ変えない。恥じらうことも焦る様子もなく、ただただいつもより割増でテンションを上げる九井をじっと見上げ「何?」と返してくることに、九井の方が面食らう。
「えっ…と、もうちょい反応してくれてもよくねぇ?」
「くすぐってぇけど、別に平気。」
「平気って…」
九井がその言葉にカチンときていることにも、普段ない負けず嫌いに火がついたことにも乾は気づかずにいる。
「そ。じゃあその平気、はいつまで続くか楽しみにしてる。」
九井は積年の思いを攻める手に委ねる。余計な知識をいれたことも、それをバカに信じていることも全部塗り替えてやるつもりで全身全霊をかけ挑んだ戦いが果たしてどうであったか。
肩で息をし、上手く全身に力を入れられずにいる乾を見下ろし「何へばってんの?」と、九井は勝ち誇る。一度もリードを許さずこの不毛な戦いを制した九井に乾は「もう二度とココの提案は信じねぇ」と、ベッドに沈み込んだのであった。