きみが運命じゃなくても 乾からLINEが飛んできた。
『ヒートが来た』
やっぱりね。九井は溜息をついた。朝から乾は億劫そうだった。前回のヒートから三か月経っていないが、周期がずれるなどよくあることだ。
なんとなく予測はしていたから、仕事を切りあげて家に向かう。乾とふたりで暮らすマンション。ロック解除の時間ももどかしい。まっすぐと寝室に向かうと、乾はベッドの上で胎児のように丸くなっていた。
「イヌピー」
乾が顔をあげないので、覗き込めば、はらはらと泣いている。ヒート中に涙が出るのは珍しい症状ではないが。
ああ、これはなかなか厄介だな。今回のヒートは重そうだ。
ヒートの最中に乾は時々こどもがえりをする。どうやら今回はそれのようだ。
けれど予想はしていた。今日は九井の誕生日だから。
「ココ、ごめん」
「ん、なに」
「おまえのたんじょうびなのに」
ベッドサイドを見れば、抑制剤のシートが乱雑においてあった。一日一錠とあるはずだが、三錠は飲んでいる。だが乾を叱っては逆効果だ。
「ケーキはイヌピーの具合がよくなってから食べよう」
「でも」
誕生日当日に食べなくたって、いいだろ、と言うと、乾はゆっくりと頷いた。
バース性判定検査は十歳、十四歳、十七歳の区切りで受けることになっている。厳密に言うならば小学五年、中学二年、高校二年、つまり義務教育のうちに受けておくということである。最高学年の前の年であるのは、進学に関わることがあるからだ。三度受けるのは、子供の成長は個人差が大きい。診断時期にバース性が成熟していない場合があるが、逆に成熟が早く、小学生のうちから抑制剤の必要がある者もいる。バース性は極めて繊細な問題なのだ。
十歳ののバース性判定検査では九井はアルファで乾はベータだった。
バース性は両親のバース性や知能などから概ね予測できることであったので、九井の結果は想像通りだった。意外なのは乾の方だった。そうか。イヌピーはベータなのか。なんとなくがっかりしたことを覚えている。
問題は二回目のバース判断審査の時だった。二度目の診断でも九井はアルファだった。もはや確定と言っていいだろう。乾は。乾はバース性判断審査の時に登校していなかったため、診断を受けていない。定期テストなどとちがい、これは国民の義務である。再三の通告を受けても乾が病院に行かないため、九井の出番になったわけだ。
めんどうくさい渋っていた乾だが、九井の説得にとうとう根負けして病院の診断を受けた。結果は一週間後に出る。
病院に行って診断を受けたご褒美にと買ったテイクアウトのファストフードをアジトに広げる。けれど乾は食欲がないようで、摘まんだポテトを持てあましているようだった。診断中は飯を食っていないはずだが、疲れてしまったのだろうか。九井がナゲットを食べ終えると、乾がぽつりと言った。
「ココはアルファだったんだろ」
「あー、うん」
バース性の診断はなんとなく広がるものだ。たいていは噂話にすぎないが、幼馴染の気安さがあって、九井と乾はお互いの審査結果を知っていた。
「ココには運命のツガイがいるのかな」
「いないかもしれねぇけどな」
「もし出会ったらツガイになるんだろ」
九井の父親はアルファであるが、母親は運命のツガイではない。運命のツガイは滅多といないのだが、ベータの一家である乾にはぴんと来ていないようだった。
「ココがだれかのものになっちまうのは、さみしい」
「イヌピー」
乾がそんなことを言いだすなんて、おどろいた。目を丸くして乾を見るも、なんだか様子が変だ。食欲もないこともそうだが、しきりとグレープフルーツジュースを飲みたがっていたのも、おかしかった。いつもの乾であればグレープフルーツは酸っぱいと嫌がるのに。
「イヌピー、おまえ、具合悪いんじゃないの」
「……うん」
乾が素直だ。ますますおかしい。向かい合って座っていたが、乾の隣に腰を掛ける。乾の顔を覗き込めば、頬が紅潮しているように見えた。熱があるのだろうか。
「イヌピー」
額に触れよう前髪を払った時、ぶわりと甘い香りが漂ったように感じた。
なんだ、これ。
考える間もなく、九井は乾のうなじをあらわにさせ、そこに噛みついていた。本能がそうさせたのだ。
ぷつ、と歯が皮膚を食いちぎる。口の中に血の味が広がった。あまい。おいしい。まるで花の蜜を舐めているようだった。口の中の甘露を堪能していると、名を呼ばれた。
「ココ」
乾と目が合う。とろりとした青い目に見つめられた。顔を寄せて、くちびるを重ねる。これからなにをどうすればいいのか。すべて承知しているかのように体が動いた。たっぷりと舌の甘味を味わう。きもちがいい。イヌピーもきもちがいい。腰を抱くと簡単に体は転がり込んできた。もう一度うなじを舐めあげて、噛みつくが、残念なことに九井の未熟な牙ではまだ届かない。こればかりはまだ十く。乾はほろほろと泣いていた。悲しい顔ではない。なにが起こっているのかわからぬまま、泣いている。その顔をきれいだと思った。涙を舐めて、くちびるを重ねる。すん、と小さく鼻を鳴らすのが、幼い子供のようで可愛い。ソファーの上にあおむけに転がして、邪魔なスラックスを下着ごと脱がせてしまう。乾の下肢は湿っていた。足を開かせるとはっきりと濡れていることがわかる。このからだはオレをうけいれるためにある。九井にはぜんぶわかっていた。ぜんぶしっていた。九井はアルファだから。
そこからの記憶はさだかではない。
次に九井が正気に戻ったのは、すべてが終わった後だった。
床に横たわり意識を失っている乾の身体は赤い鬱血痕と噛み痕だらけだった。特にひどいのがうなじあたりだが、足のはざまもひどいことになっている。白い腹は汚れ、足の間からとろとろと白いものが零れている。
なにがあったのかは明白だった。定かではないとはいえ、断片的に覚えていることがある。あられもない乾の姿。乾は泣きながら、けれど「いや」とは一度も言わなかった。
「イヌ、ピー」
おそるおそる手を伸ばす。泣きはらした顔。なにかが込み上げてくるのを、むりやり嚙み殺した。
イヌピーはオメガだ。
アルファである九井にはオメガがわかる。乾がオメガであるとはっきりと分かった。おそらく一度目の診断時は未成熟だったのでベータと診断されたのだろう。
正気に戻ってからの九井の行動は的確だった。マニュアル通りであるともいう。
万が一の時に持たされている抑制剤を飲む。朦朧としている乾にもアフターピルを飲ませる。数時間と経過していないはずなので、最悪の結果は免れたはずだ。
てきぱきと乾の身体を清めて、手当をした。乾の首の後ろにははっきりと噛み痕が残っていたが、ツガイにはなっていなかった。これはおそらく九井も乾も十四と若すぎるためだろう。バース性が未成熟なうちは、うなじを噛んでもツガイにならない。ほっとしたような、がっかりしたような気持になった。
やがて乾も目を覚ました。
「ココ、おれ」
「だいじょうぶ。アフターピルは飲ませたから」
乾は目に見えて真っ青になった。茫洋としていた表情が、はっきりと青ざめる。九井はかける言葉を間違えたのだろうか。しかし九井とてパニックだった。どうしていいかわからなかった。せめて妊娠の心配はないことだけは伝えたかった。
「オレ、オメガなのか」
「たぶん……そうだと思う」
そうでなければ九井を受け入れることはできないだろう。乾がうなじをなぞる。
「噛んでしまったけど、ツガイにはなっていない」
「そうか、よかった」
そう言った乾はふらふらしているようだったので、とりあえずソファーに寝かせる。ほんとうは病院に行った方がいいのだろうけれど、あまりに乾がつらそうにするし、今の乾からはフェロモンを感じない。病院に行くのは落ち着いてからでいいだろうと判断した。
一週間後の診断結果はやはり乾はオメガだった。
九井と乾の少年期は激動にあった。そのためか、乾のヒートは滅多となく、オメガと気づかれることも少なかった。これはストレス下にある未成熟のオメガに珍しいことではない。しかしいづれバース性は成熟する。そのとき乾はずいぶんと大変な目に合うだろう。多くのオメガがそうであるように、乾もまた美貌の持ち主だ。アルファによる所有争いは目に見えていた。
「オレとツガイになって欲しい」
乾は困った顔をして、「おまえのせいじゃない」と言って了承してくれなかった。断られることは予想済みだったので、九井はなんども申し込んだ。
「イヌピーはオレが嫌いなのかよ。オレはイヌピーがレイプされるなんてぜったいに見たくない」
滾々と諭すと、乾はようやく答えてくれた。
「ココには運命のツガイがいるかもしれないだろ」
「イヌピー。運命のツガイなんて、そうそう出会うもんじゃないよ」
「でも、いるかもしれない」
運命のツガイにあうよりも、よっぽど性被害にあう可能性の方が高いのに、乾はガンと首を縦に振ってくれない。
九井はやり方を変えることにした。
イヌピーがだいじなんだ。たいせつなんだ。信じて欲しい。
乾はちっとも信じてくれなかった。こうなれば最後の手段だ。
「じゃあ、二十になってもオレがイヌピーのことを好きだったら、信じて欲しい」
まだ中学生のふたりにとって二十歳は遠い未来のように思えた。だからだろう。ようやく乾が頷いてくれた。
「おまえが二十歳になって、それでもツガイになりたいなら、考えてやる」
はじめてツガイを申し込んだのは中学二年生。十四歳のときだ。あと六年待てと言う。おそらく九井は諦めると思ったのだろう。あるいは運命のツガイが現れると思ったのだろう。乾はそうと決めると頑固だ。無理に説得しようとすれば、逆にこじれるだけだ。
「わかった。五年後だな」
五年後、ちゃんと覚えていろよ。
乾はしっかりと頷いた。
それから紆余曲折在った。蜜月の期間もあったし、離別したこともある。離れている間は心配でたまらなかったが、アルファである龍宮寺が傍にいることでどうにか留飲を下げた、ということになっている。実際はがちがちに乾の周辺をマーキングしていた。おそらく乾も気づいていただろうが、お互いに不問となっている。
別れていた間に分かったことがある。
九井がボスと認めた佐野万次郎はオメガだった。超魅惑型のオメガとでもいうのだろうか、アルファを従えるほどの強いフェロモンがあった。九井はアルファだから、オメガのフェロモンは分かる。だが、分かるというだけだった。佐野は普段から圧倒的な魅惑の持ち主であったが、こうと思ったものを屈服させる強いフェロモンを発することができる。その佐野のフェロモンが九井には効かなかった。九井が関東卍會の金庫番として佐野に重宝されていたのは、佐野のフェロモンに屈しなかったからである。
なぜ九井にオメガのフェロモンが効かないのか。
稀に鼻が利かないアルファというのもいるらしいが、あいにくと九井は乾のフェロモンはすぐに察知できる。
もしかしたらオレとイヌピーが運命のツガイだからじゃないのかな。
強烈な初体験が記憶に刻まれただけかもしれないが、運命のツガイと考える方がロマンチックだ。
関東卍會は解散となり、乾と再会して、まず確認したのはその清冽な花のような匂いだ。ヒートのときはもっと甘い匂いになることを、九井は知っている。
「イヌピーとツガイになりたいな」
乾はやっぱり困った顔をした。
「まだ二十になってねぇだろ」
あの約束はまだ有効なのだ。
「うん。じゃあ、二十になったらもういちど言うけど、それまでイヌピーといっしょにいたい」
黒龍の特攻隊長の肩書から乾をアルファと勘違いしていた者も少なくなかったが、いまの乾はおおよその者がオメガと言い当てるだろう。それほど乾の美貌は清冽に際立っていたし、アルファであれば確実に匂いをかぎ取っていただろう。
「オレはイヌピーとツガイになりたい。あと二年後になっても変わらない自信がある。イヌピーが信じてくれるように、毎日言うからな」
乾は長い睫毛を瞬かせた。
「オレは赤音さんも好きだけど、イヌピーのことも大好きなんだよ」
乾は泣きそうな顔をしていた。
九井は毎日この約束を守っている。イヌピーが好きだよ。大好きだよ。いっしょのマンションに暮らすようになり、いっしょのベッドでねむるようになり、セックスもするようになった。九井は二年間きちんと約束を守り続けた。
そしてとうとう四月一日だ。九井の二十回めの誕生日。
乾の具合は日に日に悪くなっていった。九井は我儘で自分勝手なので、やめてあげようなんて思わなかった。だってイヌピーはオレがいないと生きていけないだろ。傲慢ではなく、事実として受け止めていた。
「ごめんな、イヌピー。もう待ってあげられないよ」
だって十年だ。我ながら驚くほど辛抱強かった。九井はけしてやさしい男ではない。むしろ自分の欲しいものは他を蹴落としたって手に入れる。
「ココ」
乾ははらりと涙を流す。その雫を舌で舐めとった。あまい。まるで花の蜜だ。
「ココ、」
乾は手を伸ばして九井の首の後ろに手を回わす。九井はなんども乾を抱いていた。ヒートの時も、ヒートではない時も。ベッドで抱くことが断然多かったが、玄関やリビングやキッチン、浴槽で及ぶこともあった。部屋のいたるところで乾を抱いている。そのたびに、いちばん最初に抱いた日のことを思い出す。少年の細い脚のはざまが濡れてねばついていた。今の乾は成熟した体になり、髪も伸びたが、足のはざまがとろとろと蕩けている様子は変わらない。
「入れるよ」
乾の中はすっかりと九井の形を覚えているし、九井だって乾を覚えている。埋めた熱がゆっくりと奥に当たると、乾はびくびくと痙攣した。
「きもちいい?」
「ん、ぅん、きもちい」
「おれのことすき?」
「ココのことすき」
したったらずに繰り返す乾はあいらしい。蕩けた顔を見れば、強制的に言わせているのではなく、ちゃんと乾の意思であることがわかる。乾は意地っ張りであまのじゃくで頑固だから、セックスのときでもないと言えないのかもしれない。
腰を揺らすと、乾が嬌声を漏らす。
ねぇ。五年待ったよ。ちゃんと約束を守ったよ。オレをツガイにしてくれる?
むせかえるようなフェロモンは十四歳の頃と同じようにあまいが、なにもわからなかったあのときよりは余裕がある。運命のツガイだったらいいなぁと思うけれど、そうじゃなくたって構わない。隣にいてくれればそれだけでいいだなんて無欲ではないけれど、乾がいちばんであることは昔から変わらない。
「イヌピーが欲しいな」
ちゅう、としろいうなじに吸い付いた。ただそれだけで、めまいがするほど気持ちが良かった。
「っココ、噛んで、っオレをツガイにしてくれ」
「うん」
これでイヌピーはオレのもの。なんて素敵な誕生日だろう。おいつめてしまったかな。ごめんね。でもだいすき。イヌピーが好き。
歯を立てる。ぷつ、と肌が裂ける。あまい。どんな甘いケーキよりも、おいしいツガイの味。
「ココ、たんじょうびおめでとう」
九井一は誕生日にツガイを得た。
生涯で一番欲しかったものを、ようやく手に入れたのだ。