piece of happy弊社TK&KOグループでは、規則上会長と副会長それぞれに二人の専任秘書が就くことになっている。秘書課に配属された新人は主に第二秘書から業務内容を学び、二年目以降は第一秘書と第二秘書両方のサポートにあたる。基本的に専任秘書になるのは第一秘書もしくは第二秘書のいずれかが退職した場合で、その際専任秘書になることを"昇格"と呼ぶ。私が新人だった頃はもちろん会長にも副会長にもそれぞれ二人の専任がいた。でも、私が入社し半年も経たぬうちに副会長専任の秘書が二人とも退職してしまったのである。
『お前、昇格な。』
まだ初心者マークが付いている私を呼び出した九井さんは事も無げに昇格を口にしたが、それは単なる地獄の始まりに過ぎなかった。何せ九井さんの業務は多岐にわたる。おまけに九井さん自身が高性能なせいで、頭の回転が常人のそれではない。来る日も来る日も業務に追われ、九井さんの圧に耐え忍び、気づけば四年が過ぎた。おかげで周りの結婚ブームに完全に出遅れている。余談だが、私が専任になって以来副会長に限り二人体制の専任制度は廃止されていた。
「稀咲会長には専任秘書二人いるのに、なんで九井さんには私一人なワケ?おかしいでしょ!」
秘書課の机にドンッと台湾出張土産を置いた私は、代替休暇がないことを嘆く。会長付きの同期秘書がお土産を開けながら「お疲れ様」と宥める。これ食べて落ち着きな?と差し出されたアルフォートの封を切り、一口でそれを腹に収めただけでなく、もう二枚受け取ってやけ食いする。ダイエットなんて知ったこっちゃない。
「でも実際さ、今の状況で新人指導なんて無理でしょ?」
「指導も何も全員そっちに回されてるんですけど?!」
「…それは…人数的な余裕のアレで…」
口ごもる同期は大変優秀だ。忙しい会長の第一秘書を務めながら新人教育までしている。性格は穏やか、それでいて責任感は人一倍強く、愚痴もこぼさない。きめ細やかな心配り、目配りができる彼女を中心に新人は教育を受け、稀咲会長付きの秘書としてデビューをする。それは確かによく出来た教育プログラムではあるのだが…
「いつまで経っても私辞められないじゃん!!」
である。
「そのことなんだけど…」
同期は穏やかさの中に鋭さを宿した目で私を見た。どちらかと言えば可愛い系の彼女から醸される鋭さに心臓がドキリとする。
「本気で"辞めよう"って、思ってる?」
「えっ…」
刺された気がした。思ってもないところからプッスリと。
「結婚したり妊娠したりそういうタイミングは来るだろうけど、それでも辞めない気がする。」
「…嫌なフラグたてないでよ…」
口の中でもさつくクッキーの欠片を飲み下し、息を吐いた。薄々自分でも気づいていることを言い当てられ否が応でも直視させられた、この感じ。
「自分では向いてないって思ってるのかもしれないけど、周りから見えるのは違うものだよ。それに九井副会長に専任が一人しか付かなくなったのは、副会長が一人で足りるって言ったからだし?」
「…それは私も聞いてる。」
九井さんの専任秘書になって一年が過ぎた頃だっただろうか。夜中まで続いた業務にくたくたになっていた時に九井さんから直接言われたのだ。
「お前は育成に向いてないからって。そんなこといちいち言われなくてもわかってるのにさ…」
「ふふっ」
同期はなぜか笑った。笑うとできる笑窪がいつもより意味深に刻まれている。
「え…何」
「九井副会長も素直じゃないなって。それ多分嘘だよ。会長にはアイツ一人で足りる、その代わりアイツの負担を減らすために新人教育はお前んとこでやれって言ったんだって。」
会長から聞いたの、と同期はふわりと笑う。その顔は可愛らしくて憎めない。
「…嘘だぁ。」
「残念ながら、嘘じゃないんだなぁ。」
疑る私がワザと語尾伸ばしで喋る口調を真似しておどける。なんというか、いちいち可愛いのだ。ズルいなぁと私は口を尖らせる。ひとつは可愛らしさを描く同期に対して。もうひとつは私の知らぬところでそんなことを言っていた九井さんに対して、だ。
「信頼もしてるし期待もしてる。そういうことじゃない?」
もにゅ、と尖る口が動いた。ちょっとだけ嬉しかったのだ。こんなだから私はチョロいとあの人は思っているに違いない。それが嫌でもわかってしまうから口の尖りはなかなか引っ込まない。
「だったら…たまには素直に褒めてくれたっていいじゃん…」
「そこは褒めたら付け上がるってわかってる上での厳しさでしょ?」
「ぅ…」
新人教育を任されているだけあるな、と思う。九井さんしかり同期しかり他人を見る目が鋭い。
「ま、私の前で愚痴吐けるうちは元気って証拠だよ。それより時間大丈夫なの?九井副会長これから社外ミーティングの予定じゃない?」
ハッとした。お土産を置いて早々に立ち去る予定でいたのに、ストレス発散に精を出し過ぎていた。慌てて時計を見ればミーティングの時刻が迫っているではないか。
「やっば!九井さんに声掛けて来なきゃ」
「フロア走らないでよ?」
それは無理である。九井副会長の時間に関する考え方はシンプルなのだ。タイムイズマネー。一秒の出遅れも見逃さない。慌ただしく秘書課のフロアを駆け抜けて廊下に飛び出て頭の中でこの後の予定を反芻する。約一時間Zoomで社外ミーティングした後、子会社の担当者から決算報告を受け取り、黒川さんが代表を務める児童福祉施設への顔出し。海外出張から戻っても九井さんにも休みはない。秘書の私に休みがないことはある意味当然のことなのだ。
「まぁがんばるか。」
奮起を敢えて口に出したらやる気が出た。我ながらチョロいなぁ、と思うが副会長室のドアを叩くテンションはいつもより高い。
「失礼します。そろそろ社外ミーティングのお時間で…」
多分一番の理由は、九井さんが上司として優秀なことを誰より知っているからだ。口は悪いし無駄は嫌いだし、素直じゃない。でも少なくとも公私混同して非常識なことはしないーーーと、私は今この瞬間まで信じていた。
「…。」
「…。」
ドアを開けた先に見たものは、デスクに身体を預け押し倒されそうなイヌピーさんと、そのイヌピーさんを押し倒しかけている九井さんその人だった。
現状直視一秒、後退ってドアプレートを確認するのにさらに二秒。
「何してんですか?!」
そう叫んだのはトータル三秒後。わなわなと全身を震わせる私を見て「げっ」と九井さんが言ったのをハッキリと聞いた。
「…タイミング悪いな…」
「は?はぁ?!」
まるで私が悪いみたいな言い方にカチンとくる。仕事中のオフィスでイチャつくのも、そもそも部外者を平気な顔で招き入れているのもどうかしている。それにーーーこれらの九井さんの行動は、小指の爪ほどにはあった私の九井さんへの信頼を踏みにじっているのだ。言いたいことがありすぎて何から言えばいいかわからない。ムカムカと腹立たしさが湧き上がって持て余す。
「…さすがに、どうかと思います。」
呻き声のような私の声に怒りと、なんとも言えない空しさが乗っている。裏切られたーーーと思うのは勝手に期待していた自分の愚かさか?
ああ、もう。全部イヤになる。
「…悪い。俺が勝手に来たんだ。ココは悪くねぇ。」
じわりと目頭に涙のようなものを溜めながらイヌピーさんを見遣った。その顔は心底申し訳なさそうで、けろりとしている九井さんとは雲泥の差だ。
「俺帰るから、」
「え。ダメ。つか、こっから出んな。」
「…。」
帰ろうとするイヌピーさんを引き止める九井さんに私は呆れてものが言えないでいた。もしあの日、イヌピーさんと手を繋ぐ九井さんを見掛けなければ、こんなところを見なくて済んだのに。
「今イヌピーが出てったら面倒なことになる。」
「もう既に面倒なことになってると思いますが?」
私はキレ気味に横槍をいれる。
「まぁでも?イヌピーさんがお一人でフロア歩いてたらなお大騒ぎでしょうね。こんなにカッコイイ人滅多にいませんし?」
上司への尊敬を捨てたら俄然強気になれた。頭脳明晰で口が達者な九井さんを相手に追い詰める快感ーーーざまぁみろ、だ。
「…悪かった。」
ぽつりと九井さんが呟いた。さすがにマズいと思ったのか、その顔は一応の申し訳なさが乗っかっている。今更もう遅いと深いため息が出た。
「ミーティング出てくる。お前、悪いけどイヌピーの相手してて。」
「え…」
去り際、九井さんがすれ違う直前頭の上に何かが乗っかった。それが九井さんの手のひらだと気づいた時にはもう、上司はもう部屋を出ていた。
「…。」
「…。」
副会長室に残された私とイヌピーさんは互いを見つめあった。何今の?と戸惑う暇もなく、気まずい地獄の一時間が始まろうとしていた。
◾︎
ーーー気まずい
そう思えば思うほど全身から汗が吹き出てくる。ファンデーションは崩れていないだろうか。脇から流れる汗はバレていないだろうか。そんなことばかりが気になってしまう。
「…ココ、いつ戻ってくる?」
デスクに置かれた時計をひっくり返し時刻を確認しながらその人ーーーイヌピーさんは言った。
「え!あ、いっ一時間くらい!です」
「…いちじかん…」
「あっ、お茶!いれますね。そこのソファーにどうぞ!」
言いながらダッシュでコーヒーメーカーのスイッチを押しに行く。来客用のカップを出し、スティックシュガーとミルクを用意しお茶請けに台湾出張土産のパイナップルケーキを出しかけた。
(…そういえば九井さんも買ってたような…)
あの九井さんがどこででも買えるお土産を恋人に渡すとは思えなかったが、万が一を考えお茶請けは常備されているキスチョコにしておく。
「…どうぞ。」
客人にお茶を出すーーー日常的にやっていることなのに、ソーサーを持つ手が震える。
この状況は不測の事態だ。九井さんのせいで起きた不測の事態。思えばイヌピーさんと二人きりになるのは初めてだ。しかも私はさっきほんの一瞬だが九井さんに頭を撫でられている。
(あの人何考えてんだろ…)
見たくはないところを目撃してしまったのは、私よりむしろイヌピーさんの方かもしれない。
「きょ、今日はお店お休みなんですか?」
「あぁ。定休日だ。」
「そうなんですね!」
はい、会話終了。見るからに朴訥としたイヌピーさん相手に世間話は難易度が高すぎる。クライアントでも話好きでもない相手に私はあまりにも気が利かない。
「…。」
「…座れば?」
客人に促されソファーに腰を落ち着けたが、メンタルが限りなくマイナスに傾いていた。頭の中は依然としてごちゃついていて、その先に繋がる会話の糸口は見つかりそうもない。
「悪かった。」
「え…?」
イヌピーさんの真ん前に座る形で着席すると、顔を上げたその人は「迷惑かけたから」と続ける。
「いえ、そんな!全然っ」
「最近全然休んでねぇんだ。体調良くねぇのに仕事行くから」
会話に主語はないが、明らかに九井さんのことを言っているのがわかる。確かにここ最近九井さんにまとまった休みはない。とはいえ、体調を崩しているというのは寝耳に水だった。
「風邪…ですか?すみません私全く気づかなくて…」
「いや、単にいつもより飯食ってねぇってだけだ。普段アイツめちゃくちゃ食うから。」
そうなの?と、私は首を傾げた。仕事関係で食事会はままあることだが、九井さんは至って普通の食事量だ。大食漢のイメージは少なくとも私にはない。
「俺休みだから昼飯食いに行くか?って連絡したらここに連れ込まれてああなった。」
「…。」
それは体調不良じゃなくてただ恋人が不足してただけだろ、と脳内で思い切りツッコミをいれる。
「結局アイツ昼飯食ってねぇし…」
イヌピーさんの端正な顔は憂いを帯び、儚さすら感じさせる。吹いたら消えてしまいそうだ、なんて思う。それと同時に九井さんはそんなヤワじゃないのに、とも。
「…イヌピーさんは」
「?」
初めて会った時はその美しさに圧倒されてしまったけれど、蓋を開ければただ恋人想いの人と今はわかる。
「今日お休みなんですよね?」
「あぁ…定休日だからな。」
私は自分でも薄々気づいていることが二つある。一つは恋愛下手であること。もう一つは仕事は辞めたいがあんな上司でも嫌いにはなれない、ということだ。
「九井さんが戻ってきたら、九井さんのことお願いしてもいいですか?仕事はこちらでどうにかするので。」
「えっ?」
目の前に座るイヌピーさんが驚いた顔で目を見開いた。私はそれに構わずスマホを取り出し、この後予定していた九井さんの予定変更に動く。
「…いい、のか?」
「良いも何もお願いしているのはこちらですから。それに、恋人を心配させてまでやる仕事なんてないでしょう?」
口角を上げて微笑む。私のこの顔には圧があるーーーと九井さんは言うが、今はそれすら褒め言葉に聞こえる。
「お疲れ様です。秘書課の…」
矢継ぎ早に電話をかける私にイヌピーさんは終始目を丸くさせていたけれど、薄らと綻んだ顔はやっぱり綺麗で今日はその顔が見られただけでHappyーーーそう思えたのだ。
「ーーーと、いうわけで副会長は本日早退です。お疲れ様でした。」
社外ミーティングから戻ってきた九井さんを待ち構えていた私は荷物と、イヌピーさんを引き渡す。
「は?」
「ココ、帰ろ。」
「いや、うん帰る…は??」
キラキラスマイルのイヌピーさんに絆されながら九井さんが「は?」を連発する姿はなかなかに面白い。想定外のことが起きるとどんなに有能な人間でもポンコツ化するんだなぁ、とほくそ笑む。
「お、前…どういうつもりだ?」
「どうもこうも、イヌピーさんが九井さんを心配していらっしゃるので見ていられないなと。」
「ッ…」
完全なしたり顔で私はイヌピーさんと仕事の狭間で揺れまくる上司を見遣った。部下にお膳立てされて甘えるのはこの人のプライドが許さないということを理解した上で「一日くらいいいじゃないですか」と追い討ちをかける。
「それに、欲求不満を職場で爆発させられても困りますし?稀咲会長に言いますよ?」
九井副会長の専任秘書になって四年あまり。嫌でも九井さんがどういう人間かその一片は見えてくる。
「…性格悪い女はモテねぇぞ。」
「上司の前でだけ性格悪いんで、私。」
そして、その逆も然り。四年という歳月は短くも長くもない中途半端で、でも多少の情は湧くらしい。
「イヌピー、帰ろ。待たせてごめん。」
瞬時にスイッチを切り替えたここさんの変わり身の速さは相変わらずだ。その蕩けそうな甘い顔も甘ったるい声にもいい加減、慣れてしまった。
「あぁ。…あ、ちょっと待って。」
「?」
イヌピーさんがじっと私を見下ろす。副会長室の入口で、初めて出会ったあの交差点での光景を彷彿とさせる。あの時は私がよろけて体当たりしたせいで偶然身体が触れた。
ーーーでも。
「今日はありがとうな。」
ふわ、と頭の上が温かさで覆われた。それは私の頭を撫で、髪を触り、ほつれたところを耳に掛けて、そうして離れていった。
「えっ…?」
息が、止まった気がした。世界中の音が遮断されたみたいに自分の鼓動すら聞こえない。見つめるイヌピーさんが目を細めて微笑んだのを永遠に閉じ込めておきたい。だってこの人は私の元運命の人ーーーそう思った瞬間、夢が弾けた。
「イヌピー?!ちょ、お前何して、?!」
盛大に叫んでキレ散らかす九井さんのせいで、夢も希望も全部儚く散った。わかっている。もう私はわかっている。夢見たところで報われないことも、恋に夢見る少女でないことも。
「さっきココがやってただろ?」
「いや、あれは!イヌピーがヤキモチ妬くかなって」
「俺が?なんでだ?」
夢見るほどの隙間すらないから、夢なんて見られない。だってこの二人は周りが引くほどのバカップルなのだから。
「リア充は早くお帰りください。」
シンプルに上司とその恋人を追い出し、私はため息を吐く。充足感には程遠い疲労。今日飲むビールはさぞかし美味しいことだろう。でも、散らかったままのデスク、口のつけられていないコーヒーにキスチョコ、九井副会長の代わりに引き受けた残りの仕事。残念ながらご褒美ビールにありつくにはまだ少し時間がかかりそうだ。
「まぁ、頑張りますか。」
つい癖で髪を耳に掛けるとついさっきの出来事を思い出し妙にくすぐったい。これは恋でも愛でもなんでもないけれど、日常に溢れる小さな幸せの欠片みたいなものだ。イヌピーさんが残したキスチョコを口に含んで、その甘さを噛み締めた。