カーネーション 「あの……驍宗さん……お願いがあるんです」
風呂上がりの蒿里は火照った身体のまま、キッチンにいる驍宗を遠慮がちに見上げる。
蒿里からお願いとは珍しい。余程真剣なのだと思い、驍宗は皿を食洗機に移す作業を止め、蒿里をソファへと促した。
計都はローテーブルの下で丸くなっていたが、ソファを占領していた羅睺は2人が来るとぴょんと降り、どこかへ行ってしまった。
「どうした?」
「えっと……今度、デパートに連れて行ってもらえませんか?」
これはまた珍しいお願いだと、驍宗は小さく驚いた。
出会った頃の蒿里は大人しく、下を向けてばかりだった。子供との接し方がわからない驍宗でさえ子供らしくない子供だな、という印象だった。
今でこそ満面の笑みを見せ、自分の意思を言えるようになったが、デパートに行きたいという希望は聞いた事がなかった。
「何か欲しいものがあるのか」
「欲しいというか……プレゼントを買いたいんです。もうすぐ母の日だから……」
照れ臭そうに目線を下げる蒿里に、驍宗は昨夜の婚約者の話を思い出した。
驍宗は数ヶ月前、ひとつ下の階に住む李斎と婚約を交わした。互いに仕事が多忙な上、式にこだわりのない2人は婚姻届はタイミングが合えば良いとして、今までと変わらず互いの部屋を行き来していた。
昨夜も李斎は会社からの帰宅後、部屋着に着替えると驍宗と蒿里の部屋へとやってきた。
3人で夕食を摂った後、驍宗が入浴の間、李斎が蒿里の学校の宿題を見ていた。蒿里が就寝すると、驍宗と李斎はリビングのソファに深く座り、缶ビールを開ける。
「今度の面会日は来月の日曜日でしたね。お母様もいらっしゃいますよね」
驍宗は壁にかけてあるカレンダーで日付けを確認する。
「ああ、第二だから……8日か。面会には父親よりも母親の方が積極的だから来るだろう」
面会日、とは彼の実親と蒿里が数時間程度会う日の事だった。
蒿里と驍宗は何度も話し合い、養子縁組の申し出をしたが、実親はこれを渋った。今は預けているだけで子供は実親の元で育つのが一番だ、という何の根拠もない理由だった。
正式に里子にしてはどうか、という提案も実親は何かとごねた。世間体の問題なのだろうと驍宗は思ったが、世間体を気にしているのは実親よりも祖母のようだ、と児童相談所の職員はこぼしていた。両親は祖母に頭が上がらないらしい、とも言っていた。
里子にするのか、養子縁組をするのか、このままなのか、話し合いは平行線のまま2ヶ月に一度、蒿里は実親と会っていた。
面会を嫌がる素振りはないが、面会が終わると蒿里は沈んだ顔をし、口数が減ってしまう。
計都か羅睺か飛燕を抱きしめ、じっと何かに耐えている少年の小さな背中を、驍宗と李斎の心を痛めていた。
「蒿里が面会を嫌がっていたか」
不安がよぎったが、李斎はビールをひと口呑み、首を振った。
「宿題が終わった後、蒿里と明日の学校の支度をしていた時に鞄に入っていたのを見てしまったのです。描きかけのカーネーションのイラストを」
それが何を意味するのかわからない表情をする驍宗に李斎は苦笑した。
「今度の面会日は母の日ですよ。お母様にプレゼントするつもりなのではないでしょうか」
もう一度カレンダーを見て驍宗は眉を上げた。
「母の日か。気がつかなかった」
やっぱり、というように李斎はくすりと笑い、驍宗の胸に頭を預ける。
「離れていても母親の感謝を忘れない優しい子です」
彼女の赤茶色の髪を驍宗はそっと撫でた。
「少し含む事があるようだな」
上目遣いでちらりと驍宗を見ると、李斎は彼の体に腕を回しぎゅっと抱きしめる。
「私の気持ちの問題です。一緒にいるのがとても楽しくて、蒿里の母親になっていると錯覚していたのかもしれません」
カーネーションのイラストを見た時、これは自分に向けてではないと直感した。
夢から現実に戻ったような、ふわふわと浮かんでいた暖かな気持ちがすうと着地したような気がした。
傷ついた、という事ではなく、蒿里の母親よりも李斎が劣っていたのを感じたという事でもない。
母親に対する蒿里の優しさが愛おしい。それと同時に蒿里の見ている先は実の母親だというのに、自分は母親の立場にいると思い込んでいた羞恥心。
「私は蒿里の母になっていないのが少しだけ……寂しいのです」
小さく呟いた李斎の頭に、驍宗は唇を寄せた。
「では今度の土曜日に行こう。プレゼントは何にするか、決めているのか」
「はい。僕、お金はあまり持っていないから立派な物は買えませんが」
「値段ではなく気持ちがあれば良い」
驍宗は笑いながら蒿里の頭を撫でた。
日曜日の朝、李斎は飛燕の散歩とひと通りの家事をすませると、やかんに水を入れ火にかけた。
ドリップコーヒーをカップの上に乗せ、湯が沸くのを待つ間、今日は何をして過ごそうかと考える。
ドリップコーヒーのフィルターに湯を注ぐと、コーヒーの豊かな香りは湯気と共に上昇し部屋いっぱいに広がる。
フィルターを外しコーヒーカップを持ち上げた時、玄関前のインターホンが鳴った。
李斎より先に飛燕が玄関に向かい、尻尾をふりふりしながらドアの向こうへひとつ声を出す。
「おはようございます」
ドアを開けると蒿里が1人で立っていた。
両手を体の後ろに隠し、少し頬が紅潮している。
「おはよう。今日は出かけるんじゃなかった?」
「はい。今から行ってきます。その前に渡そうと思って来ました」
両手を前に持ってくると、子供の片手でも持てる程の細身の花束を李斎に渡す。
色とりどりの複数の花が赤いカーネーションを囲むように飾られていた。
「……私に?」
「はい。今日の母の日だから、お母さんにプレゼントしたいなって思った時、李斎さんにも渡したいなって思ったんです。でも李斎さんは驍宗さんと結婚していないし、僕も2人の子供じゃないからまだダメかなとも思ったんですけど。でも僕は李斎さんの事、お母さんみたいにいてくれて嬉しいんです。だから母の日にいつもありがとうって言いたいなって思ったんです」
それとこれも、と小型の紙袋を小さな両手で差し出した。
「プレゼントです」
李斎は蒿里を優しく抱きしめる。
蒿里が養子縁組の意思を決めた後、驍宗との結婚を伝えた時の蒿里を思い出した。
「驍宗さんがお父さんになってくれるなら、李斎さんがお母さんになってくれますか」
勿論、と答えると蒿里は頬を紅潮させその場で飛び跳ねたのだった。
すでにこの少年の母親には、李斎もいたのだ。
「ありがとう」
今の気持ちにぴったりの言葉が浮かばないのが悔しい位、李斎の心は喜びと感謝で溢れる。
腕の中で蒿里はふふっと笑ったのがわかった。
エレベーターの前まで蒿里を見送ると、何か言いたげな飛燕を宥める。
リビングに戻り背の高い空き瓶を見つけ、その中にたっぷりの水を入れた。
空き瓶にカーネーションの花束を生けるとその場がぱっと明るくなった気がした。
紙袋の中に手を入れると、デパートのロゴが印刷された包装紙で丁寧にラッピングされた小箱と二つ折りにされた厚紙を引き出した。
ラッピングの包装紙を外し現れた黒い小箱の蓋を開ける。
中は薄紫色のハンドタオルだった。
柔らかな生地の隅の1箇所に犬の刺繍が施されている。
蒿里が選んでくれたのだと思うと顔が綻ぶ。
二つ折りの厚紙を開くと、蒿里から李斎への感謝を伝える手作りのメッセージカードだった。
あどけない少年の文字の周りには赤いカーネーションのイラストが描かれている。そのカーネーションに、李斎には見覚えがあった。
数日前、蒿里の鞄に入っていたカーネーションのイラストだ。
李斎は飛燕にメッセージカードを見せる。
「あの子は本当に優しい子だ」
すんすんとメッセージカードの匂いを嗅ぐ飛燕の毛並みを撫でていると、携帯電話の通知音が鳴った。
驍宗からのメールは3人での夕食を誘う文面と、小洒落たイタリアンレストランのアドレスが添付されていた。
了承の返信を送ると、待ち合わせ時間までの予定を立てる。
レストランに持っていけるように、すぐにハンドタオルの洗濯をしよう。乾かしている間に花瓶を買ってカーネーションの花束を生け直す。
ついでにレストランに着て行く服も探してみよう。
李斎はコーヒーを飲み干すと、すぐさま行動に移した。