二宮組ネタ 死を覚悟した瞬間に見るソウマトウってやつがあって、懐かしい記憶が白昼夢みたいによみがえるらしい。
俺にとってそれははじめて拳銃を渡された日の記憶だった。
当時俺が所属していた組は三つ巴の抗争に巻き込まれていて、寝ても覚めてもミカド町のどこかで揉め事が起きていた。揉め事が起きれば怪我人が増えるし、怪我人が増えれば敵討するやつも出てくる。こういう負のループや悪循環は一度はじまったら止められない。ミカド町には夏の終わりにひれ伏した蝉みたいに道路のいたるところに血痕が散って、事態を見かねた当時のアニキがオヤジたちには内緒で俺に拳銃を渡したのだ。
つまり鉄砲玉になって、相手の組のトップを不意打ちでヤッてこい──と。
鉄砲玉といっても絶対に相打ちになるわけじゃないし、隙をついて撃てば逃げ切れるし、無事に生きて帰って来たら金もシマもやるし幹部にも引き上げる。罪悪感からかそういつになく優しいアニキから説得されたが、俺が拳銃を受け取ったのは手柄を挙げて帰ってきたときの報酬に目がくらんだからじゃなくて、「お前にしか任せられない」と言われたのが嬉しかったからだ。いま振り返ればバカだったなと呆れるし実際にバカだったのだ。オヤジたちに話を通していないのに組から金もシマもポストも与えられるわけがない。ただ当時の俺はバカだったからアニキの話の矛盾に気づかなくて──まあいまの俺も似たようなことをやって死にかけているからあいかわらずバカなのだが──ともかく決死の覚悟で鉄砲玉になりに行ったのだ。
雨の日だった。夕方みたいに薄暗い明け方。ミカド町のはずれにある廃ビル。昨夜そこに『標的』が入って行ったと報告を受けた俺は、目当ての男がビルから出てくるのを待っていた。ビルの中でなにがおこなわれているかわからないが、バースデイパーティーが開かれているわけじゃないだろう。ヘマをした組員が痛めつけられているか、俺の組以外の敵対組織の組員が痛めつけられているかのどっちかで、ボコボコにされているやつが変わるだけで内容は一緒だ。ただやけに時間がかかっていたから尋問でもしていたのかもしれない。話さなかったら殴られるし話しても結局殴られるやつを。
ビルの玄関から目当ての男があらわれたとき、雨は小雨に変わっていた。男の最初の印象は「デカいな」という間の抜けたものだった。ミカド町でも目立つくらいの長身で、姿勢が良いから余計に高く見える。ただ筋肉質ではなく細身のインテリっぽい外見で、組対四課からも「あいつを追うときはかならず拳銃を携帯しろ」と危険視されている人物とは思えなかった。身につけている黒いスーツは普通のビジネススーツだし、整った顔は大企業のエリートみたいに涼しげだ。ビルの中で荒っぽいことを終わらせたばかりには見えない。
男に続いてあらわれた付き人らしい組員が、男が雨に濡れないように黒い傘を差す。その下でスーツのポケットから取り出したタバコに火をつけた男は、ふっと不快そうに煙を吐き出して俺に目を向けた。ずっと俺の不躾な視線に晒されていたのを気づいていたように。
その瞬間、俺は拳銃を放り投げて逃げ出していた。
俺が捨てた拳銃がそのあとどうなったのかはわからない。男が拾ったはずだが俺が狙われることはなくて、アニキにもただ失敗して奪われたとだけ告げた。当時所属していた組は抗争で負けて潰されて、俺は新しく入った他の組で似たようなことをやりながら生き延びた。繋いだ命を無駄にするようにろくでもない人生を歩んで、ドブを這いずり回るように暮らしてきたわけだが、あの日、男から逃げ出した俺の判断だけは唯一正しかったと確信している。
モノクロームの写真から抜け出したような男に拳銃を向けなかったのを。
なぜなら男の冷たい目に射抜かれたとき、俺はこいつを殺したいんじゃなくて、殺されたいんだと気がついたからだ。
「最後になにか言い残しておくことはあるか?」
──そしていま、俺の望みは叶おうとしている。
道にへばりついたガムみたいに座り込んだ俺に男が告げる。左手に握った拳銃を俺につきつけたまま。雨のミカド町。ソウマトウで蘇った記憶の中よりすこし歳をとった男が、右手でタバコを吸いながら俺を見下ろす。付き人らしい青年が差した黒い傘の下、男が不味そうにタバコの煙を吐き出した。あいかわらず澄ました顔をしているが、目つきは昔より鋭い。いままで潜り抜けたいくつもの地獄で削ぎ落とされたように。
「二宮さんも忙しくて命乞いを聞く暇はないから、一言くらいで済ませてもらえると助かるんだけど」
傘を差した青年が笑みを浮かべて穏やかに言う。が、細められた目は笑っていない。まあ俺がいま所属している組が男の組──二宮組と敵対していて、俺もやりたい放題二宮組のシマを荒らしたから、怒りや殺意をぶつけられるのも当然だろう。まさか組長みずから俺を仕留めにくるとは予想しなかったが。
さて。最後に言い残しておく言葉か。
俺がバカなりに頭を振り絞って遺言を考えているあいだも男は涼しげに立っている。モノクロームの写真から抜け出した姿のまま。昔俺に会ったことなんて覚えていないだろうし、俺に向けて拳銃の引き金を引いたあとも俺をヤったことなんてすぐに忘れるだろう。すくなくとも男が死を覚悟した瞬間のソウマトウとしては蘇らないはずだ。絶対に。
そんなことを思いながら俺は両手を挙げて、男の気が変わって拳銃を下される前に口にした。
「──あんたに殺されるなら本望だよ」