幸せの受難「イテテまた噛んだ」
「どうした?」
「朝飯のときに口ん中噛んじゃったんだよ」
「噛んだ?」
どこをという意味で問いかけられ、
「ほほ。おふのほー」
口の端に指をかけ広げて見せ、患部を示した。
口の中を切ったといっても呪霊との戦闘で負傷したわけではなく、食事中に誤って頬の内側の肉を噛んでしまったそれだけの小さな怪我。
「噛みグセついちゃったかも。はーヒリヒリする」
口を閉じ頬をさする。そこへ脹相の手が伸び、虎杖の手ごと包まれたと思ったら
「痛いの痛いの、とんでいけ」
そう言って、ちゅ、と唇が合わせられた。
「えっ! あ⁉」
「こういうまじないがあるんだろ」
「ある、けども! 子どもにやるやつ、だし……キスもするもんじゃ……」
「口づけには鎮痛作用もあるらしい」
「どこで仕入れた知識⁉ エッチなライフハックだ! そういうドキッとさせるのやめて⁉」
「嫌だったか?」
「嫌じゃないです‼」
昼間そんなやりとりをしてからというもの、脹相はことあるごとにキスをするようになった。
何度目かのキスで早々に「痛いの痛いのとんでいけ」の呪文は省略され、虎杖の隙を見ては脹相がキスをするだけの儀式と化していた。
小鳥がついばむようなふれあい。
虎杖を見下ろす慈しみに満ちた顔。
ほんの一瞬でも伝わる温かく柔らかな感触に甘いときめきを覚えてしまう。
──オァーーー嬉し〜〜けど生殺し〜〜〜。
欲情してしまったらそれ以上を我慢できるはずもないので平常心を装おうと努めた。
今もまた唇が合わせられている。その表情を薄目でこっそり覗き見る。
──コイツ彫り深いしまつ毛も長えな。
そんな自分の思考には『少女漫画のモノローグかよ』と突っ込み、ぐるぐると思案を始める。
──いやもうそんな純情なもんでなく、こうガッと捕まえてベロ突っ込みてえ〜〜〜舐め回してぇ〜〜〜。
──ベロチューするとき遠慮がちに口開くのすげーカワイイんだよな。普段俺のことうるさいぐらい呼びまくるこの口が、 息が乱れて声も味も甘くなってくの。
──正直口ん中切れた痛みなんて余裕で我慢できる。おまじないなんていらん。
──でも脹相の方からこんなにチューしてもらえる機会、二度とないかもしれん。
──俺のこと心配してやってくれてんのに盛れねぇ〜。手ぇ出せねえ〜。
◇◇◇
脹相からある提案がなされた。
「傷口を俺の血で固めれば治りが早いかもしれん」
「……マジ? オマエの血飲むってこと?」
「いや、飲まなくていい。呪力でオマエの口の中に留める」
人差し指を立てると、呪力をまとったほんの一滴の血液が指先に集まる。
「気持ち悪かったらやめるぞ」
「キモいとかはないかな。ヨダレに溶け出したりせんのかな。でも止血してもらえる手段があるのは心強いかも。やってみようぜ。実験実験」
そう言うなり、あが、と口を大きく開いた
「こっち、奥歯の横っちょ」
虎杖の言う通り、そこには赤く炎症を起こした部位が目視できた。
無防備に晒される口内。赤い舌。
これは治療なのに。不埒なことをしている気がして脹相の首筋がざわりと粟立った。
この舌が口の中で絡む感触も、皮膚に這わされる感触も知っている。歯を立て肌に噛み跡をつけてくる犬歯。深く口づけるときに味わえる内側のやわい粘膜。
静かに跳ねる鼓動と、胸の内をざわざわと揺らす性的な衝動を見ないふりをした。
努めて冷静に虎杖の口の中へ指を差し入れると、呪力を込めた血液を硬化、患部に固定し指を引き抜いた。
「できた」
「おー? 薄いかさぶた? みたいな」
舌でつついて確かめる。
「あまりいじるなよ。蓋をして保護した。そのうちオマエ自身の治癒力で治るはずだ」
「おう。ありがと。オマエ器用だよなー」
虎杖からの感謝と褒め言葉に誇らしげになる。
処置を終え、虎杖の唾液で濡れた指先が目に入った。それとほぼ同時に虎杖に手を取られる。
「ゴメン、汚した」
指先を裾でゴシゴシと拭き取った。
口に含みたいと思ってしまったのも秘密にした。
「さて行くか──」
歩き出そうとした虎杖の腕に、脹相の腕がするりと絡んだ。
「⁉」
戸惑う彼が疑問の言葉を発するより早く脹相が説明する。
「体外での血液操作の範囲は狭いんだ」
つまり、こうして身体が触れ合うほどの距離にいないといけないのだと言う。虎杖の腕はすっかり脹相の胸の間に抱き込まれている。
「口の中に違和感はないか? 平気か」
腕を絡ませたまま、耳元で確認をする。
「な、ない。ヘーキ」
「そうか」
縮めた距離をそのままに、今度は虎杖の髪へふわふわと頭を押し付ける。もはや治療とは関係のない動作が含まれていることは虎杖にもわかった。
──街で見かけるバカップルみたいになっとる‼ もはやそれ歩きにくいだろっていうゼロ距離のやつ‼ 池袋の駅にいる‼
──ベッタベタに甘えてくれるじゃん……。
──チューしまくり腕組みイチャイチャ。
──なんなん今日バカップルの日なの?
口内炎が治るまで──脹相から半ばマーキングのように触れられる──腕、髪、唇、あらゆる箇所に幸せな感触を感じながら、虎杖は生殺しの状況を耐えた。
そして治癒後に交わしたディープキスで、脹相を酸欠状態寸前にまで追い込んだのはまた別の話だ。