【降風・ワンドロ】血だまりの日常【優しい音】 最初は想いあっていた二人がいつしかすれ違い、取り返しのつかないところまで転がっていき、殺人事件という最悪な結末を迎えた。
「私はあの人とただ一緒にいたかっただけ」
アパートの一室で元恋人を殺した犯人は、そうぽつりと零して血の跡が残る現場を振り返った。ぼんやりとした瞳には何が映っているのか、風見には見当もつかない。
ただ確かなことは、彼女が共にいたかった人間は彼女の手により永遠に失われてしまったということだ。
初めて殺人事件現場に居合わせた風見は、「君もこちらへ来てくれ」と言う安室に言われるがまま捜査を手伝い、トリックの再現を行い、助手のような役目を果たした。が、解決してアドレナリンが引いた今、日常に意識が引き戻され、事の異常さから背中へ大量の冷や汗が流れてゆくのを風見は感じる。
今まで経験したことのない事態に、脳の処理が追い付かない。一つ一つを理解していくごとに胃の内容物がせりあがってきそうになる。
「風見さん、帰りましょう」
俯き、口元を手で押さえていた風見は、かけられた声の方へはっと振り返る。そこには先ほど見事な推理ショーを披露した安室が、心配の表情を浮かべて立っていた。これ以上心配をかけたくないと、風見はふーっと細く長い息を吐き出すことで心を落ち着ける。
「はい」
安室と風見は近所のスーパーマーケットへ買い出しに行く途中であったが、事件に巻き込まれた後にそのまま買い物へ行く気にならなかったため、二人は予定を切り上げて安室の経営する喫茶店へと戻ってきた。
鼻にまだ鉄の匂いがついている気がして、今日はもうこのまま退勤させてもらおうかと風見は思っていたが、安室にカウンターへ座るよう促されたため、大人しく席に着く。
安室は風見が指示に従ったのをみとめると、コーヒーミルの中へ豆を入れる。ミルが引かれるとガリガリ、ゴリゴリという音と共にふわりと珈琲の良い香りが弾け始めた。
粉になった豆は、ドリッパーへと移され湯を注がれる。ドリッパーからサーバーへ最後のしずくがぽたりと落ちきるころには、喫茶全体がふんわりと珈琲の香りで包まれていた。
「どうぞ」
カチャンと控えめな音を立てて置かれたコーヒーカップからは、湯気が上がっている。
「いただきます」
一口ふくむと、優しい味が口いっぱいに広がる。これを淹れた人が先ほどまであの悲惨な現場で推理ショーをしていたのだと思うとなんだか不思議な気持ちになって、風見はカウンターの中でコーヒーカップを傾ける安室をちらりと見た。
安室も風見の様子を見ていたのか、ぱちりと視線が合ってしまい、気まずさから風見はカップをソーサーへと戻す。
「風見さん、業務の中に探偵のことは含まれていないにも関わらず、先ほどは無茶な要望にも応じていただいてありがとうございました」
ぽとんと落とされた言葉に、風見は再び顔をあげる。安室の表情は真顔で、心のうちを読み取ることはできなかったが、風見はふるふると頭を横に振った。
「いえ、貴方のお役に立てたのであれば何よりです」
本心からそう風見が伝えると、安室は難しい顔をした後に口元にだけ笑みを浮かべた。
「貴方が一緒にいてくれてよかった」
耳にこべりつき、もう今日は離れないものだと思っていた女性のドロドロとした恩讐の声が、爽やかな音に吹き飛ばされていくのに気付いた風見は、安室という人は不思議な人だと目を伏せ、コーヒーカップを口へつけた。