【降風】麦酒の夜に/コンビニエンスストアと麦酒【麦酒の夜に】
「あ」
その現象は、降谷が窓辺に寄り、人と連絡をしている時に起きた。目に映る光景に、思わず驚きの声をあげ、回線先の存在も忘れて魅入ってしまう。そんな降谷に、何か起きたのかと、通話の相手――風見が戸惑いを口にした。
『何か?』
緊張と疑問に彩られた声に、意識が耳へと戻される。もう一度だけ空を見上げ、降谷はそれに背を向けた。
「いや、梅雨の月が見えた」
突然の話題に、降谷が何を伝えようとしているのかを探っているのが、沈黙から伝わってくる。そんな風見の様子に、降谷は口角を上げた。
「ふっ……いや。こっちは、一日曇り空だったんだ」
『あっ、なるほど。えー……こちらは五月晴れでした。今は麦星が見えますよ』
伝えられた天気の違いに、風見が今近くにいないことを思い出す。聞いていたはずだが、記憶の片隅に置いていたうえ、連絡をすればすぐ返事がくるものだから、距離をそんなに意識していなかった自分に降谷は呆れる。
『ビールが飲みたくなる季節になりました』
「おい、風呂上がりにぐっとやりたくなるようなことを言うな」
ビールが喉を通り抜ける感覚を思い出し、冷蔵庫を開ける。中にはスポーツドリンクが入っているだけで、目当ての品はない。
『あれ? 禁酒中でしたか?』
「そういうわけじゃないが、買い置きしてなかった」
バタンと冷蔵庫の扉を閉め、その前に座り込む。視界にだらけた裸足が映り込み、拗ねた気分になった降谷は、意味も無く指先をぴこぴこと動かした。
『それは残念でしたね』
全くそう思っていない声が聞こえ、降谷は握りしめた携帯端末を横目で睨み付ける。もちろん、見えない相手が堪えるわけもなく、ははという笑い声さえ聞こえてくる始末だ。
「帰ってきたら覚えていろよ。…………そういえば、お前はクラフトビールを知ってるか?」
『クラフトビールですか? 聞いたことはありますが、飲んだことはありません。それが何か?』
「今日、最近人気が上がっていると教えられてな」
フルーツが入っている物が特に。ビールを苦手に思っていた人にも、飲みやすいと話題らしいと付け加える。降谷は、熱心に身振り手振りまで付けて説明してきた、アルバイト先の女性の姿を思い浮かべた。
『それでは、それも二人で飲むものに加えておきましょう』
「そうしてくれ」
一段落ついたらアルコールの入った酒を飲み交わそうという、二人の約束の厚みはこうして増していく。いったい実現する頃には、どれだけの酒を食卓に並べることになるのだろうかと想像して、降谷は一人未来を夢見るように目を細めた。
「明日にはこっちに戻ってくるんだったか?」
『はい。降谷さんは暫くあちらでしたか』
ようやく立ち上がる気力の出た降谷は、食卓の上へ投げていた財布を手に取ると、尻のポケットへねじ込む。
「あぁ。僕が留守する間、頼んだぞ」
降谷はそう告げると、返事も聞かずに回線をぶつりと切る。玄関で靴を履き、傘を手に取るか一瞬悩み、結局愛車の鍵が入ったキーケースだけを手に取ると、外へと脚を踏み出した。
【コンビニエンスストアと麦酒】
キーケース片手に外へ飛び出した降谷は、最寄りからは離れたコンビニエンスストアへと車を走らせていた。真夜中とも言える時刻に差し掛かっているにも関わらず、道の上には赤い洋灯が列を作っている。ちらりと上へ目を向ければ、風見から電話越しに伝えられた「麦星」が見えた。
闇の中で輝くそれを打ち消すように、コンビニエンスストアが掲げる看板の強い光が目に入る。降谷はカツンとウィンカーを表示させ、駐車場へと車を滑り込ませた。
入店時に流れる独特の音楽を耳に入れつつ、降谷は一番奥へ配置されたビールのコーナーへと一直線に向かう。
なんとなく青いラベルの物を飲みたい気分で、棚の中からそれを選び出しレジへと向かった。未成年か否かの確認ボタンをタッチし、小銭で支払いをした降谷はビニールに包まれたビールを受け取る。
再び車を走らせ帰宅した降谷は手を洗ってから、コップと共に卓袱台へ缶を置き、その上でプルタブをプシリと開けた。コップへと中身を注げば、明るい黄色が泡と共に弾け、上部へ白い泡の布団を作る。
ぐいっと一気に煽ると、腹の底へ溜まっていた見えない疲れがはじけ飛ぶ感覚がした。
「はー……彼奴の言うとおり、本当にビールのいい季節になったな」
降谷はそのまま後ろへバタリと倒れると、一人ハハと笑った。