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    okusen15

    まほ晶が好き

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    okusen15

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    晶ちゃんwebオンリー 本編 現パロフィ晶♀

    エンドロールにきみの名を腐れ縁Tの証言

     だらしない顔つきに向かって、これ見よがしにため息をついた。気に食わなかった。顔つきにではなく、都合のいい話し相手に選ばれたことが、だ。

    「どっちでもいいんじゃない?」
    「ちょっと。真面目にやってくれる?」

     タブレットに表示されているのは二種類のカーテン。豪華な草花の刺繍が施された、ミントグリーンとオレンジベージュ。いかにも春っぽく、部屋の雰囲気を明るくしてくれそうだ。明るすぎて、多分、フィガロの好みじゃないだろうなと察しがつく。

    「だって、どうでもいいし」

     手持ち無沙汰に、カフェオレに突っ込んだスプーンをかき回す。ルチルたちの習い事の、迎えまでの時間が余っていなければ、“お茶しない?”なんて誘いに頷かなかったのに。そうしたら、フィガロの未来の同棲生活についての“相談”を受けることもなかった。

    「いいから。参考に聞かせてよ」

     諦めの悪い営業が浮かべるような愛想笑いに辟易する。もうなんでもいい、と適当にミントグリーンを指さした。

    「あぁ、そっち?良いよね」

     ひくりと眉が寄った。機械音声みたいな平坦さと、タブレットをさっと取り下げる仕草が気に入らなかった。わざわざ答えてあげたのに、その態度はなに?思わずマグカップを掴むと、まだ熱かった。

    「ちょっと、俺にかけようとしないでよ」
    「あんた次第よ」
    「おっかないなあ」

     大袈裟に肩をすくめて、フィガロは両手を腹の辺りで、ゆるく組んだ。遠くを見るように目を細めて、肩を落とした姿はとてもリラックスしているように見えた。
     マグカップから手を離して、時計を一瞥する。迎えまであと十五分。

    「選んでくれたのもいいけど、もっと落ち着いてる方がいいと思うんだよね。晶はあんまり派手好きじゃないし、やっぱり家って心を休めれるのが大事だろ?素朴な柔らかい雰囲気が好みだと思うんだよね。パステルイエローとか、生成色とか。柄も、もっと控えめでーーねえ、どう思う?」
     
     微笑みを、突き詰めた合理と正論を押し通すための道具として、使ってきた男の笑みとは思えなかった。誰かを一心に想うことが、この男にもあるらしい。けれど、私がそれに真剣に付き合う義理はない。

    「知らないわよ」
    「冷たいな」
    「うるさいわね。相手してあげただけでも感謝しなさい」

     最初からこれは、フィガロが満足と優越を満たすためだけの“相談”だった。俺の方が、あの子をよく知ってるんだよ。他の誰よりもね、という。カーテンの色なんか、本当はもうとっくに決まっていて、何も知らない他人の意見なんかで変える予定など、はたから無かった。
     ほとんど何も知らない『晶』に対しての知識を一方的に試されて、くだらない遊びに付き合わされて、どうやったら愉快な気分になれるって言うんだか。
     私の不機嫌すらも、面白そうにしているフィガロを睨みつけていると、ふと意地悪な考えが落ちてきた。唇に人差し指を添える。

    「ていうか、同棲する気満々だけど、断られたらとか考えないの?」

     大きな瞳が、きょとんと見つめ返してくる。ああーーこれ、あれだわ。外出の準備をするミチルに、今日は雨だからピクニックに行けないよって言った時と同じ反応だ。

    「なんで?断られるような要素、俺にある?」

     フィガロがゆったりと首を傾げる。瞳が柔和に弧を描くと、さっきからテーブルの横を頻繁に行き来している、店員の頬が赤く染まった。

    「うざ……」

     馬鹿らしくなってカフェオレを飲み干す。すっかり冷めていたカフェオレは苦味が強くて、嫌な雑味を口内に残してくれた。

    「もう迎えの時間だから行くわ。会計、あんたがしてよね」
    「もうそんな時間か。うん、分かったよ」

     フィガロは頷くと、すぐに端末に視線を落とした。私が来るより先にいたフィガロのコーヒーは全く減っていない。
     花を選ぶように女を選んで捨てていた男が、随分とまあ、変わるものだわ。

     生ぬるい記憶を俯瞰しながらカフェを出る。意識を少し別に割いていた私は、真向かいにいた女の子と、すれ違う拍子にぶつかってしまった。

    「っと」
    「あ……、す、すいません!」

     女の子が深く頭を下げると、胸あたりまで伸びていたココアブラウの髪が垂れ下がる。きっちりと着込んだコートの下からは、綺麗にアイロンのされたシャツの襟が覗いていた。

    「いえ、大丈夫。ごめんなさいね。あなたは平気?」
    「へ、平気です」
    「そう。じゃあ」

     冬の空は少し曇ってきていた。雨が降る前に帰りたいと早足になりながら、人差し指で肩にかけた鞄の持ち手をトントンと叩く。 
     頑張り屋さんで可愛らしくて優しい子。私が『晶』について知っている情報は、それくらいしかない。あの男の女の遍歴を少なからず知っている身としては、驚きしかない。正直言って、女遊びが激しかった二年前のフィガロなら、まず選ばないタイプだ。
     けれど、この世の誰も、誰に出会うかなど選べない。選べるのは、出会った中の誰と深く繋がりあうかだ。フィガロがこの人だと思え、選べ、選ばれたこと。腐れ縁としてーーまあ、祝福してあげてもいいかな、と思った。
     


    恋人Fの証言

     有名な別荘地の物件を参考に建てたデザイナーズハウス。繊細な刺繍が入った生成色のカーテン。高くて手が出せないなあと、晶がテレビを見ながら呟いていたティーセット。足を伸ばして入れるバスルーム。その他もろもろ、全て晶のために揃えたものだ。知れば申し訳なさそうにするのが、目に見えているから、知人から安く借りれたと誤魔化す。
     あとは晶に言って、頷いてもらうだけだった。案内は多分こんな感じだ。ここがリビングで、二階には部屋が四つあって……。晶が嬉しそうに、でもこわごわとした手つきで、物に触る。その様子に、これから君と俺の家になるのにって、扉に寄りかかる。俺たちのいる場所を照らす灯りさえ、はっきりと想像できた。

     “一緒に夕食でもどう?”という誘いに応じてくれた晶が、デザートを食べ終える。「どうだった?」「とても美味しかったです。連れて来てくれて、ありがとうございます」ほっと晶には分からないように、胸を撫で下ろす。
     レストランのBGMに紛れるように、こっそり息を逃して、さりげなくおしぼりで手のひらをぬぐう。無意識に手がグラスに伸びそうになったのを、押しとどめて「晶」と呼びかけた。何を言われるのか見当もついてない晶は、カシスシャーベットのせいで唇が少し赤く染まっていた。

    「実は、提案があるんだけど……。そろそろ俺たち同棲してみない?」

     晶は目を見開いて、ぽかんとしていた。それが喜びからのものなのか、それとも全く違うものからなのかは、判別がつかなかった。ただ、俺の思っていた反応とは違っていた。

    「ほら、もう付き合って大分経つし。いい物件見つけたんだよね。駅から近いし、一緒に住んでる方が何かと便利でしょ」

     状況を理解するのに、時間がかかってるだけだと言い聞かす。けれど、そんな顔をされるくらい、俺の提案は突拍子もないことだったのかという不安が募る。言う予定のなかった言葉が押し出されて、止まらなかった。
     晶と目が合って、ゆっくりと逸らされた。

    「……、ごめんなさい……。少し、考えさせてください……」
     
     踏み出した先の、階段が無い気分だった。晶の弱々しい、けれど確かな拒絶に笑みが固まったのを自覚する。正面に座っている晶は顔を伏せていて、俺の舌は錆びついた、からくり人形みたいにしか動かなかった。

    「……そっか!まあ、ゆっくり考えてみてよ」

     それでも、なんとか『晶の恋人のフィガロ・ガルシア』をやり切る。席を立つ晶を、ワインでも飲みながら、なんでもない風に見届ける。理由を尋ねたり引き留めたりして、また拒絶されたらと考えると、体が動かなかった。

     どうしてこうなる?
     晶が完全にレストランから居なくなるのを待ってから、額に手をついた。何か、知らないうちにヘマをしていたのか。同棲は時期尚早だったか?でも、もう二年も付き合ったのに。一度だって喧嘩をしたことがない、穏やかで良好な関係を築けていたのに?

     レストランを出てタクシーに乗ってからも思案は続く。携帯を握りしめたまま、晶からの連絡を愚かにも待っている自分がいた。そのうちタクシーは海岸沿いのハイウェイに差し掛かった。
     月光が黒い海面に、おぼろげな道を作っていて時々、魚が跳ねて小さな飛沫があがった。月が落
    とした光は、波に攫われて揺れている。車の後を引くエンジン音に、携帯の通知音は混ざらない。

    「お客さん、着きましたよ」

     何が悪かったのかなあと振り返っていた俺は、ゆっくりと目を開けた。会計を終えて車から降りると、同棲のために建てた家がひどいボロ家に見えた。
     門を開けて家の中に入る。ひどく疲れていた。リビングに向かう間、晶が心地よく暮らせるようにと差配した家具が、いやでも目に入って、足が重たくなった。なるべく見ないようにして、リビングに辿り着き、二人がけのソファに寝転がる。目を瞑っても、まったく安らかになれなかった。

     この想いは報われると固く信じていたのだと、今更になって実感する。晶を信じ切っていた心は、裏切られる準備など、出来ているはずもなかった。
     


    恋人(?)Mの証言

     やめときなよ、と言われた。まだフィガロの名前なんて知らなかったころだ。
     フィガロを初めて見かけたのは、会社の忘年会が開かれる、ホテルのエントランスでだった。綺麗で、頭が切れそうで、けれどイヤミっぽさがなくて。思わず、かっこいい人だなあと漏らした私の袖を、同僚が引いた。

    『やめときなよ。あの人ーーフィガロって言うんだけど、相当遊んでるらしいから』

     同僚の話によれば、フィガロには常に複数の恋人がいて、最初は遊びのつもりでも、本気になってしまった女の子が、手酷く捨てられてしまう。そんなことがよくあるそうだ。他社のフィガロのことを、どうしてそこまで知っているのか尋ねると、その女の子というのが、同僚の先輩にあたる人だった。

    『そういうのじゃないですよ。本当に、ただかっこいいなって思っただけです』
    『ええ〜?』
    『本当ですってば』

     私は怪しむ同僚の背中を、見栄を張った会社が借りた、一番小さな会場の方へ押しやった。
     忘年会シーズンということもあって、ホテルが貸し出している会場は全て埋まっていた。一際大きな会場には、大企業の名が連ねてある。もちろん私こと真木晶は、そんな大企業に勤める身ではない。だから、談笑しながら堂々とした足取りで、一番大きな会場へ入っていくフィガロを、視界の端にとめただけだった。
     
     当時は、本当に言葉通り以外の意味はないと、自分を疑っていなかった。だからフィガロから「付き合わない?」と言われ、頷いた。フィガロが勤める大企業との契約をもぎ取り終え、書類の角をあわせていた時のことだ。本当は違ったのだと気づいた時には遅すぎた。

     フィガロに対する恋情を自覚すればするほど、あの話が、毒のようにまわっていく。捨てられたくない。たくさんの恋人の内の一人でもいい。そう思うほど私はがんじがらめになった。私の望むことは、フィガロの望むことじゃないと言い聞かせ続けた。二年間、ずっと自分を殺し続けて来た。
     決定的な瞬間は、営業帰りにカフェを通りかかった日にやってきた。ガラス張りのオシャレなカフェは、外からでも中の様子がよく見えた。フィガロと、ブロンドの長い髪が綺麗な女の人が二人きりで座っていた。あの人と一緒にいるフィガロは、とてもリラックスした表情をしていて、楽しそうで、お似合いで……。あの人こそが、フィガロが本当に好きな人なんだと直感した。
     フィガロが笑うたび、心臓が痛かった。そして分かった。これまで私が耐えられてきたのは、フィガロが唯一をもたなかったからだ。唯一が出来たフィガロにとって、私なんかがどれほどの価値を持つと言うのだろう。たくさんの中の一人でさえいられなくなる日はすぐそこだ。



    “一緒に夕食でもどう?”
     カフェで二人を見かけてから数日、鬱々と生きていた私は、連絡を受け取ってさらに目が澱んだ。
     正直言って、行きたくなかった。本当の恋人さんのために、別れるべきだとは分かっていても、別れを切り出されるのは怖かったから。
     それでもフィガロの誘いを断れない自分が憎かった。最後くらいはいつも通りでいたいから、気合を入れて、一緒に食事を取って、私はさらに自分を軽蔑することになる。

    『実は、提案があるんだけど……。そろそろ俺たち同棲してみない?』

     表には出さなくとも、戦々恐々としながら会話を繋ぎ、冷たいくらいしか分からないデザートを食べ終えたあと。一呼吸置いた後の申し出は、私の脳みそのシワを真っ直ぐにアイロンがけしてくれた。

    『ほら、もう付き合ってだいぶ経つし。いい物件見つけたんだよね。駅から近いし、一緒に住んでる方が何かと便利でしょ』

     私は私を軽蔑した。この後に及んで、あの女性に対する罪悪感よりも、付き合いの長さや、利便を理由に提案されたことを悲しいと、一番に思ってしまったから。自分の醜さを理解して、顔もあげられなかった。どうして私に、なんて考える余裕なんかあるはずもなかった。
     胃の底で行き場のない負の感情と、BGMのクラシックが下手なステップを踏んでいる。ぐるぐる、ぐるぐる。机に飾られた薔薇の香りは、あの女性とぶつかった時に漂ったものと似ていて、今の私には、あまりに刺激が強すぎた。
     なにか答えなければ。なにかって、何を?

    『……、ごめんなさい……。少し、考えさせてください……』

     それ以上話せそうになかった。フィガロがあっさり解放してくれたのが、有り難かったし、悲しかった。席を立っても、フィガロはワイングラスを手に平然としていて。やっぱり、と見えないように唇を噛んだ。



     帰って体を縦から横にして、しばらくしたらまた縦にして。睡眠不足の頭で仕事をして、風呂場で気絶しそうになりながら一週間を生きのびた。七三〇日間、太陽が昇り沈んでも、受け入れなかったことを、七日目のパックご飯を温めている時に認めると、自然と涙があふれた。
     愛されて選ばれたわけじゃない。自覚している以上に傷ついていた。私がいなくなっても、フィガロはどうとも思わない。
     ご飯も食べずに泣いて、泣き疲れて、ゴミ箱が丸まったティッシュで一杯になると、天啓のように私は思った。終わらせないと、と。フィガロの幸せを心から祝えず、自分も誰かもずっと傷つけるような関係を。
     深呼吸をして、何も考えないようにしてメッセージアプリを開く。注意しながらメッセージを打ち込む指は震えていた。山のような分量のメッセージを削除して、書き足してを繰り返していると、いつの間にか三時間ほど経っていた。出力されたのは随分ちんまりとした、ありきたりなもの。何度も読み返しているのが、未練を残している証拠のように思えて、自分に向かって呟いた。

    「こうしなくちゃいけないんだよ」

     同時に送信ボタンを押した。ぽん、と浮き上がるメッセージを最後まで見ずに、連絡を拒否する。
     もう、これから先美しいものを見ても、なんの情動も湧かないのではないか。そんな風に思えるほどの無気力が体中に満ちる。体を横にするとラグが頬にあたって、ちくちくした。……もしも。
     もしも、フィガロの人生が一本の映画だったら。私はきっと、エンドロールに名前も載らない端役だろうなあ。
     もう枯れたと思っていたはずの涙腺が、また復活しそうになる。ティッシュ箱に手を伸ばした私は、ゆっくりと瞼を持ち上げた。幼馴染からの通知が一件、やって来ていた。



    恋人(まだ)Fの証言

     断られたわけじゃない。
     少し考えさせてくださいと言われただけだ。同棲なんてそう簡単に即決できるようなものじゃない。
     でも、連絡が来ない理由が最悪の想像と重なっていたらと思うと、いつの間にか通知を確認していた。アプリを開いて、文字を打ち込んでは消して、毎日毎日、そんなことの繰り返しだ。この苦しみと苛立たしさから解放してくれる、ただ一人の女の子からは、ずっと音沙汰がない。SNSもずっと更新がない。
     一人きりのオフィスは静かで、連絡がくればすぐに分かる。一息つこうと、ゆっくりと椅子を回すと、窓から地上の建物が、レゴブロックのように立ち並び、その隙間を車や人が行き来しているのが見えた。晶も今頃、あんな中を駆けずり回っているのだろうか。
     いつだかお酒に酔った晶が、仕事に疲れたと打ち明けた夜。
     そんなに辛いなら、やめちゃえばいいのに。晶を養うことくらい、俺には訳ないのに。半分寝かかってる顔を見ながらそう思った。でも、言えなかった。そんなことはいくらでもある。慎重に距離を測って、一ミリでもずれた発言をしないように心がけたのは、ひとえに、晶と別れたくなかったからだ。
     携帯が突然震えて肩が揺れた。すぐに取り出そうとするも、ポケットの深くに落ちていて、ようやく取り出せた頃には、画面は真っ黒だった。通知には、待ち望んでいた人の名前があった。

    “フィガロへ
     連絡が遅くなってすみません。
     別れましょう、私たち。同棲の件も、お断りさせてください。せっかく言ってくれたのに、ごめんなさい。
     今更でしょうが、本命の彼女さんにも、今までずっと申し訳ないことをしてしまって、すみませんでした。直に謝るわけにもいかないので、ここで謝らせてください。
     今までフィガロの貴重な時間を割いてくれて、ありがとうございました。フィガロにとって私は、たくさんいる恋人の一人にすぎないでしょうけど、フィガロといた時間は、私にとってはかけがえのない大切な思い出です。
     お元気で”

     携帯を取り落としそうになった。内容が、あまりにも意味不明すぎて。 
     頭の中が真っ白になる。意味不明の言語で話しかけられたみたいだった。もう一度読み直してみても、やっぱり理解できない。理解不能なことが書かれすぎていて、別れを切り出されたショックの方が、軽くすんでいるくらいだった。

    「一体、どういう……いや、」

     書いてあることは半分事実だった。複数の女の子と付き合っていた時期もある。けれど、それは晶と付き合う前の話だ。本命の彼女については本当に謎だ。本命なんて過去にいたことがない。正真正銘、晶だけが俺の誠実と優しさを捧げる相手だった。
     表面張力でぎりぎり保っている水面みたいな心持ちで、すぐに返信する。間を置かずに電話をかけるけど、どちらにも応答はない。退勤時間になっても沈黙は守られたまま。
     ーーあっそう。
     頭の中で、コップが割れたような音がした。手早くコートを着込んでオフィスを出る。すれ違った顔見知りの部下が「お疲れ様です」と挨拶しようとして、さっと廊下の脇にはけた。虫の居所が悪いのが出てるのかもしれない。今はそんなこと、どうでもいけれど。

     会社を出て、すぐタクシーを捕まえて乗り込み、マンションの住所を告げる。マンションに近づいて行けば行くほど、腹立たしさは加速していく。だって、あんな唾棄するような勘違いのせいで、俺の気持ちは全く伝わっていなかったってことだろう。
     この二年間ずっと優しくして、ずれた発言をしないようにして、頼れるところをアピールしてきたけど、もういい。その振る舞いの結果がこれなんだから、今から行く先でも同じようにする必要はない。俺をこうさせたのは晶の方だ。
     マンションの少し手前で降りて、晶の部屋の窓を確認する。マンションの三階の角部屋。電気はついていない。好都合だった。
     ひび割れたボタンを押すと、ぼろくさいエレベーターが到着する。安っぽい鈴の音に、はずれかけたエレベーターマットが貧相だった。オートロックもなく、エレベーターひとつで住人の部屋に行けてしまうマンション。こんな、ろくなセキュリティーもない建物より、俺が用意した家の方が、何倍も上等に決まってる。
     エレベーターの可動音が止まる。扉が開ききらないうちに出て、角部屋へ向かう。内緒で作った合鍵で扉をあけると、やはり晶はいなかった。玄関には、仕事用らしき実用性重視の黒い靴が、端に寄せられている。「ふーん」靴箱を開く。俺とのデートに、最近買ったばかりだと言って履いてきていた靴が一足消えていた。
     俺を手痛く振ったひとは、どこかに遊びに行っているらしい。いいご身分だ。
     靴を脱いで、部屋に上がり込むと、カーテンを閉めて、電気もつけないままソファに座った。カチコチと進む置き時計の針が、足を組んで待つ俺を見ていた。
     

     針の二周目までは怒っていられた。時々、俺が晶に送ったプレゼントが、まだきちんと飾られていたり、使われていたりするのを見ると、虚しくなりもした。三周目には事故にあってないか不安が入り始め、晶の友達にでも行き先を知らないか訊こうとして気づいた。そういえば、晶の友達を紹介されたこと、一度もない。四周目ーー二十三時を指す頃には、部屋を出ていた。
     暗闇になれた目には、廊下の蛍光灯は眩しすぎる。俺は晶が行きそうな店を頭の中でピックアップしながら、足早にエントランスを出た。
     冬の夜の風は、夕暮れ時とは様変わりして、どこか鋭利だった。いっそ考え事ができなくなるくらい冷たければいいのに、雪も降らない空模様では難しい。近くの飲食店が集まる通りに入ると、人混みの、まとわりつくような油っぽい熱っぽさに、お呼びじゃないとそっぽを向かれた気がした。ここでは誰もが誰かといるから、一人歩きが目立って仕方ない。

     晶の別れ話の原因は、俺を嫌いになったからじゃない。勝手に思い込んで、未来に希望が持てなかっただけだ。だったら誤解をといてしまえばいい。君こそが、俺の大切な人なんだよって言えば、何もかも解決する。晶は、勘違いとはいえ恋人の一人という立場に我慢してまで、二年間、俺と付き合っていたのだから、お互いを想う気持ちは十分にある。見慣れた女の子の姿を探して歩きながら、そう考えていた。

    「きみがフィガロ?初めまして、僕はオーエン。晶の新しい恋人だよ」

     耳が痛くなるまで歩き回って、通りがかった閉店間際のバル。そこから出てきた、晶から腕にしがみついている、知らない男に宣告されるまでは。



    幼馴染Oの証言

     水を注いだグラスを酒だと偽って渡すと、晶は首を傾げた。「あれえ?なんかすごく透き通ってますねえ」「日本酒だよ」「へえ……。おいしい!」
     酔いすぎだろ、おまえ。
     「う〜ん」と呻きながら、机に突っ伏してしまったつむじを見下ろす。「まだ飲みますよお」眉を顰めても、また酒が入ったグラスを掴もうとしているので、水のグラスとすり替えてやる。晶はごくごくと飲み干した。

    「おいし〜い!これなんてお酒かしってます?」
    「水道水じゃない」
    「へえ〜変わったなまえですねえ。どこで買えるんですかあ?」
    「蛇口ひねれば?」
    「え〜?おさけは蛇口から出ませんよお?」

     限界を超えたアルコールを摂取した晶は、陽気を通り越して無邪気になる。もっと直裁に言えば、バカっぽくなる。実際、グラスを伝い落ちる水滴を指で追って、けらけらと笑っている。今更な後悔が、僕を襲ってくる。

    “今日暇?”

     全ては四文字から始まった。たまには晶で遊んでやろうという、幼馴染の優しい気遣いだった。

    “予定は無いですけど、今日は遊べるような気分じゃないです……。すいません”

     気になっていたバルをチェックしていた手を止める。僕からのありがたい誘いを断った晶に、ちょっとカチンときたからだ。

    “なんで?”
    “ちょっと色々あって……。人様にお見せできるような顔じゃないというか……”
    “へえ。見せなよ”
    “嫌です”

     突っ込んだことを聞いても答えないのに、返信は早いのが余計に腹が立つ。

    “おまえの意思なんか関係ないよ”
    “何があったのか聞かせなよ。僕は暇してるんだ。笑ってあげる”

     それまで小刻みに返ってきていた通知が急に途絶える。嫌がらせにスタンプを連打してやろうと思った瞬間、新しい吹き出しが浮かんだ。

    “お酒の飲めるところがいいです”


     それでこうなったわけだ。ストローの包み紙をくしゃくしゃにして遊んでいる晶から、ゴミを取り上げつつ、肺の空気を全部吐き出すようなため息をついた。
     話を聞くに、晶をこんな風にした原因はフィガロだった。最初は、一言二言零すばかりだった晶が、グラスを傾けるごとに饒舌になり自分から全てを吐露した。
     だから早く別れろって言ったのに。二年前に恋人ができたと打ち明けてきて、どんなやつなのか聞き終えた時も、僕はそう言った。時々、勝手にしてくるフィガロ関係の相談の時にも、何回も言った。でも、晶は僕の言うことなんて、一つも聞かない。昔からそうだ。
     「僕の言うこときかないからだよ」と宣言通り鼻で笑ってやったら、「そうですね」って痛みを隠すみたいに無理やり笑うから、調子が狂う。あーあ、何だよこれ。思ったより全然楽しくない。

    「早く歩けよ。タクシー呼んでやったんだから、感謝しろよな」
    「かえりたくない……」
    「わがまま言うな。僕はもう帰りたいんだよ」
    「じゃあオーエンの家にかえる……」
    「どういう、じゃあ、なんだよ。意味が分からない」

     店を出ても、晶はまだ駄々をこねている。こんな状態の晶が会計なんて、極めて理性的な、人間的行為を行えるわけもなく、全額僕が払う羽目になった。明日、正気に戻ったら、全額返金させる。タクシー代と、僕への迷惑料も込みで。
     話さないと言わんばかりに腕にしがみついてくる晶。意地でもついてこようとするその図太さを理性に回せよ。ひっぺがそうと手をやっても、首を振って拒否してくる。めんどくさい!

    「ーー晶」
     
     僕らに降り注いできたのは、月光のように冴え冴えとした響きだ。突然、晶の体がしゃんとして、僕を見上げていた顔から、サーッと血の気が消えていっている。晶が頑なに見ないようにしている方へ目をやると、写真で見るより、ずっと冷酷そうな、真冬の海にいるのが似合いそうな男がいた。
     へえ。なるほど、こいつが。

    「きみがフィガロ?初めまして、僕はオーエン。晶のーー」

     コートの襟元を引っ張られて、えづきかける。なんだよ、と晶を見下ろすと目力だけで訴えかけてきていた。どうか何も言わないでください、と。にんまりと目を細めた。
     お前は僕の性格をよく知ってるくせに。晶の頭を強く引き寄せて、胸元に顔を押し付けさせた。

    「新しい恋人だよ」

     告げた途端、歪んだ顔を嘲笑う。こいつ、全然晶を諦めてないと確信する。でも僕は言ってやらない。だって楽しい夜はここから始まるんだから。



    渦中Mの証言

    「何言ってるんで……んぐっ」

     心からの叫びは空気を震わせる前に、オーエンのコートに吸い込まれた。黙ってろとでも言うように抱き寄せられた後頭部には、音がしそうなほどの力が込められている。くだをまいた制裁も含まれているんだろう。痛みと混乱で一斉に活性化した脳細胞は、目まぐるしく働き出した。

    「君の話は聞いてるよ。優しくて、とても頼もしいひとだって」
    「……それはどうも」

     フィガロの聞いたことのない、明らかに機嫌が悪いと分かる静かな声と、反対に、新しいおもちゃを見つけたみたいな、楽しげなオーエンの声に、心の中で絶叫した。火のないところに煙は立たずというけれど、オーエンは関係ないところに自分で火をつけて、油を注ぎまくるタイプだ。一斗缶とか、そういうレベルで。そして手のつけられなくなったところで放置する。なんならその足でカフェに行って、知らん顔でスイーツを頬張るくらいする。

    「で、一体なんの用?僕らはこれから、行くところがあるんだけどーーあ、晶をよろしくって挨拶なら間に合ってるよ。僕は幼馴染だから、晶のことはよく知ってるんだ。きみよりもね」

     どうしてそんな嘘をついて、マウントをとっているのか、さっぱり分からないけど、とりあえず初対面の人に対してやっていいことでは無い。不穏な雲行きを止めたかったけど、オーエンに抑え付けられている私では、どうすることも出来なかった。

    「ーーきみは、何か勘違いしてるみたいだね」
    「は?なにが?」
    「俺と晶は別れてないよ。少なくとも、俺は了承してない。俺と晶は好き合ってるし、優先権は俺にある。君が割り入ってくる隙なんて、どこにも無い」

     不意を突かれたオーエンの力が弱まるのを待っていたのか、背後から伸びてきた手によって、オーエンから引き離される。力が強すぎて足元がふらつく。白魚みたいな指のどこから、そんな力が湧いているのか、不思議だった。

    「幼馴染だから、晶の一番近くにいるとでも思ってたの?関係が必ずしも、その人のことを、どれだけ知っているかを示す、ものさしであるとは限らないって、気づいてないんだね」

     肩に添えるように置かれたフィガロの手は、どっしりと根付いた大木のような存在感があった。オーエンは不愉快そうにフィガロを睨め付けていた。一触即発の空気の中、私はひとり、呆然としていた。だって、さっきからのフィガロの発言をまとめると、どうしても疑問が残ってしまう。

    「ーーフィガロって私のこと好きだったんですか……?」

     正面と背後からの視線が、息ぴったりに私を串刺しにする。オーエンが呼んだタクシーが、今頃になって到着した。ガードレール越しに横付けした時の、微かなブレーキ音をきっかけに、私が口を抑えたのと、オーエンが「馬鹿らし」と悪態をついたのは同時だった。

    「帰る。いつまでも付き合ってられない」
    「あっ……、オーエン……!」

     オーエンがタクシーに乗り込もうとすると、急激に心細くなった。つい追いかけようとすると、肩に力を込められた。冷や汗が背中を伝う。怖くて振り向けなかった。
     この空気で二人ぼっちにしないでほしい。そんな私の甘えは、勢いよくドアを閉める音で真っ二つにされる。遠ざかっていくテールランプ。今すぐパンクして止まってくれたりしないだろうか。邪悪な考えを感じ取ったのか、後頭部座席のオーエンが振り返る。もう米粒みたいなサイズだけど分かる。下瞼を引っ張って、あっかんべーをしている。……オーエン!

    「晶」

     本当に恐ろしい時、人は声を失うらしい。面接官の前でこけた時も、新社会人時代にやらかした時も、こうはならなかった。

    「歩こうか」

     凪切った海みたいな声。深夜二十四時のくらやみに、あぶくがひとつ打ち上がる。
     私は息を止めながら、フィガロを見つめ返した。


     もう人はめっきりといなくなっていた。目的地も分からないまま、前を行くフィガロに手を引っ張られて歩く。聞きたいことはたくさんあるのに、そのどれもが適切では無い気がして飲み込むのは、もう何度目だろう。

    「あの男は晶にとって何なの」

     コンクリートの歩道ばかり見つめていた顔をあげる。フィガロは真っ直ぐ前を向いたままだ。表情を窺えないせいで、緊張の糸が千切れそうなほど張り詰めていた。

    「お、幼馴染です。普通の……。昔から仲が良くて、一緒によく遊ぶんです。今日も、話を聞いてもらっていて……」
    「へえ。俺は知らないんだけど、幼馴染って腕にしがみついたり、抱き寄せたりするものなんだ」
    「……」

     戸惑って口を引き結ぶ。私の知っているフィガロは、こんな風に皮肉をぶつけてくるような人ではなかったはずだった。
     オーエンのついた嘘のせいだろうか。けれど、 私たちは別れたはずで、だったらフィガロが私とオーエンの関係を気にする必要はない。フィガロが何をどう考えて、何を言いたいのかさっぱり分からなかった。

    「……本当は、早く俺との関係を終わらせたいって考えてた?」
    「……えっ?な、なんで……」
    「たくさんの恋人の内の一人だって思い込んでた君は、幸せばかりじゃなかったでしょう?……俺は、違うけれど」

     関係が必ずしも、その人のことを、どれだけ知っているかを示す、ものさしであるとは限らないなら、正しくこれは、距離を測るための言葉だった。

     私たちは別れたはずだった。でも、さっきからのフィガロの態度も、まだ繋がれたままの手も、現実で、事実だった。掛け違えたボタンを、直そうとしてみても、許されるのだろうか。

    「……そう、ですね。嫌われたくなくて、必死で……」

     本音を打ち明けるのは、まるで暗い森に迷い込んだように怖かった。そっと茂みをかき分けるように、自分の気持ちを探して、慎重に紡いだ。
     私が今、怖いように、フィガロも今、怖いはずだから。『恋人』でありながら、心を開き切らなかった私たちに、剥き出しの感情は刃物そのものだ。

    「別れたら楽になるかもって思ったことはあります。でも幸せになれると思ったことはありません。別れ際はいつも、引き止めてくれないかなって考えてました……」

     駅の改札口で、マンションのエントランスで、レストランで、私は振り向かなかった。出来るだけ長く隣にいるためには、そうしなければいけないと信じていた。

    「私は、本当は、ずっとあなたの恋人になりたかった。たった一人の。……でも、カフェでブロンドの女の人といる時のフィガロは、とても楽しそうにしていて……。あの人が、フィガロの本当に好きな人なんだって」

     相手の背中ばかりを見つめていた私たちは、お互いを見つめ合っていた。いつも完璧にセットされているフィガロの髪は少し崩れていて、覗いた耳輪は赤く染まっていた。フィガロは面食らった、幼い顔をしていた。

    「すごく、嫌な気持ちになったんです。フィガロの幸せを祝わなきゃいけないのに、そんなこと思えなかった自分にも嫌になったんです。ここで別れるのが一番、フィガロの迷惑にならずに済むって、だから……」

     ぽろり、と鱗がはがれるように涙が落ちた。ぼやけた視界では、フィガロがどんな表情をしているのか、もう分からなかった。

    「あのね、晶」

     冬の夜が静かなのは、聞かなかったふりをさせないために違いない。フィガロが私の頬に触れて、優しく顔を持ち上げた。今から大切なことを言うから、よく聞いてねと、先生が生徒に言い聞かせるように。

    「きみは俺の、世界で一番大切なひとだよ。出会った時から、ずっとそう。きみ以外の特別なんていないんだよ」

     それは、ずっと望んでいた夢だった。夢見ては諦めて、目を閉し続けてきた、たったひとつの。

    「証明できるよ。きみが見かけた女は、チレッタっていう腐れ縁だし、きみ以外の恋人もいない。俺が楽しそうに見えたのなら、それはきみのせいだよ。どうしてか分かる?」

     真実だとしたら、とても幸福な答え合わせを、現実だと認めてもいいのか当惑して首を振ると、フィガロは呆れたみたいに眉を下げた。仕方ないなあって、そんな感じだ。

    「君と一緒にいる未来の相談をチレッタにしていたから。信じられないなら、今すぐチレッタに電
    話して確認してもいい。望むなら、連絡先を見せて、上から順に俺とどういう関係なのか君に説明したって構わない。君にはその権利がある。ねえ、だからーー離れないで。俺にも、きみの一番でいる権利をちょうだい」

     フィガロの背後で、息を飲むほど美しい満月が雲に隠れる。街灯の頼りない光では、夜はますます闇を深める。私の手を最後に残った道標のように取りながら、項垂れるフィガロは嘘なんて、ついてるように見えなかった。いつになく弱々しく、怯えていて。フィガロに拒絶されるのを恐れていた私と重なった。
     どうしてもっと早く、言葉を尽くして、真実を確かめようと思わなかったんだろう。灯りをともせば、暗い森を歩いていけることを、どうして忘れていたんだろう。

    「私も、フィガロの一番がいいです。ずっと、ずっと……」

     涙がフィガロのコートに跡をつける。フィガロがずっと優しく背中を撫でてくれたから、しばらく涙を止められなかった。



    恋人Mの証言

    「終わったあ……!」

     両腕を上げて、大きく伸びをする。ずっと座った姿勢で荷物の整理をしていたから、凝り固まっていた筋肉が悲鳴をあげた。う。つりそうだ。

    「お疲れ様。じゃあ、そろそろ夕飯にしない?」

     開けっ放しの扉を叩かれて振り向くと、フィガロが首を傾げていた。時計を見ると、八時を指している。

    「もうそんな時間だったんですね……!すみません、つい夢中になってしまって……」

     慌てて立ち上がると、ふくらはぎの筋肉が痛んだ。ちょうどいい位置にあった本棚に手を添えて堪える私を見て、フィガロは肩を揺らした。

    「しびれたの?」
    「はい……」
    「ちょっと触ってもいい?」
    「絶対だめです。……ちょっと!フィガロ!怒りますよ!」
    「あはは!」

     だめと言っているのに、フィガロは片手を伸ばしながら近づいてくる。ちょん、と指先が触れると電流が走ったみたいに、びりびりした。

    「ひゃっ……!もう、怒りましたよ!」
    「ごめんごめん!もうしないから」

     クッションを手に取って二、三度ぶつけるとフィガロはすぐに降参した。整理と掃除を終えたばかりの部屋に、埃を撒き散らすのも可哀想だ。やめてあげると、フィガロは部屋を見渡して「いいね」と感慨深げだ。
     案内したい所があると、この家を見せられてから、はや一ヶ月が経った。一度は辞退した同棲を受け入れたものの、引っ越しやら、住所の変更やらには、それなりに手間と時間がかかった。
     知り合いから安く借りれたらしいこの物件には、大抵の物が揃っていたから、身ひとつで来ても特に問題は無かったのだけど、思い入れのあるものは私にもある。服とか下着とか生活必需品だって必要だ。
     持っていくものを選んで段ボールに詰めている間、催促の連絡がことあるごとにあったのは記憶に新しい。そういう時、決まってフィガロは新しいもの買ってあげるから、と財布の紐を緩めようとした。困りもしたけど、フィガロも楽しみにしてるんだと実感して、嬉しかったのも事実だ。
     ともかく。一週間ほど前に、この家が私の帰る所となった。地道にやってきた荷ほどきも今日で終わり。紐で縛っていた段ボールを取ろうとすると、フィガロが当然のように、それをさらっていく。なんだか少し、気恥ずかしかった。

    「何を作ってくれたんですか?」
    「カルパッチョにムニエル。パンと野菜スープだよ」
    「お魚づくしですね」
    「嫌いだった?」
    「知ってるくせに。好きですよ」

     一緒に一階へ続く階段を降りながら、なんてことない会話を交わすのが楽しかった。
     明日、廃品回収にでも出すのだろう段ボールを玄関に立てかけると、「ん」とフィガロが携帯を取り出して、渋い表情を浮かべた。

    「どうしたんですか?」
    「チレッタから」

     見せてくれた携帯を覗き込むと、『知らないわよ』と一言だけあった。その前の文章はフィガロからで、一ヶ月前の日付で記録されている。『お前のせいで大変な目にあったよ』と。
     関係を壊しかけた勘違いは、今や立派な黒歴史だ。後から聞いた話によると、チレッタさんは既婚者でお子さんがいらっしゃるそうで、申し訳なさに胃が縮む。

    「本当に申し訳ないことを……」
    「別にあいつは気にしてないから大丈夫だよ。どっちかっていうと、気にしてるのは俺の方」
    「その節は、ほんとうに、本当に申し訳ありませんでした……!」
    「うん。だから今日は俺のわがままをたくさん聞いてね」
    「任せてください!なんでもやります!」
    「本当?楽しみだなあ」

     ニコニコしてるフィガロに腰を抱き寄せられ、自然と体が密着する。あれ、早まったかもしれないと、思うものの、フィガロが楽しそうにしているから、なんとなく撤回は憚られてしまう。まあいいか。無茶なことはフィガロも言わないだろうから。

    「じゃあ早速。俺と一緒に夕食でもどう?晶」
    「もちろん、ご一緒させてください!フィガロ」

     笑い合いながらダイニングへ向かうと、入居祝いに贈られた花が優しく香る。
     私たちの家。窓から溢れる灯りは、人並みの幸福に混じって、街を照らしている。

















    エンドロール

    チレッタ
    フィガロとは大学の頃からの知り合い。腐れ縁。
    ミチルとルチルの二人の子供と夫の四人家族で幸せに暮らしている。

    オーエン
    今作の放火犯。油を注ぐだけ注いで家に帰った。
    晶のことは、おもちゃで、幼馴染で、友人だと思っている(言わないけど)
    晶に対する感情は親愛。
     
    フィガロ
    同棲生活を満喫している男、2022第一位。
    物件を新築したことや、家具も買い揃えたことを晶に黙っているがそのうちバレる。
    オーエンを全然気に入ってないので、友人関係見直しを晶にどう切り出そうか考えてい
    る。目下の悩み。

    真木晶
    家具も家の外装もとても好みで、一目で気に入った。
    フィガロはどうやってこの物件を見つけたんだろうと不思議に思っている。
    後日、オーエンにはちゃんとお金も返したし、謝罪もすませた。今度またご飯食べましょうって連絡したら『フィガロと別れたらね』と返信があった。

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