受け入れたくて受け入れ難い 晶は、この数日を思うと、ついため息がこぼれた。
晶がこの世界に来てからの記憶を、全て失ったという話は、魔法舎を素早く駆け巡った。一週間程度で戻るとのことだが、魔法使いたちは、これまで以上に晶に気を配った。知らない世界に突然、放り込まれる経験を二度もするなんて、と誰もが気の毒に思った。
記憶を失ったきっかけは、任務先で、不注意に花を嗅いだからだった。共に行った東の魔法使いたちは、人一倍責任を感じていた。中でも、顕著なのはファウストだった。僕がもっとちゃんと見ていれば……、と帽子のつばを下げる彼に、晶は申し訳なくなった。
一緒にお茶しない?と誘ってくれたのは、クロエだった。ラスティカと一緒に机を囲みながら、初めて聞く話ばかりに、目を白黒させた。気づいたクロエが申し訳なさそうに謝り、優しく、こういうことがあったんだよ、と説明してくれる。どこかぎこちない空気を変えるように、ラスティカがチェンバロを弾きだして、聞き入りながらも、どこか集中できない自分がいるのは、晶が一番よく分かっていた。
前までは、なんとなく読み書き出来始めていたらしい文字を、教えてくれたのはルチルだ。文章をなぞりながら読み上げてくれるのは、とても助かった。授業の時間になってもルチルが来ない、とミチルとリケが探しにきて、予定を壊してしまったと、居た堪れなくなるのに時間はかからなかった。
夜のキッチンで、一人ホットミルクを飲む晶を見つけたのはアーサーだった。公務が終わって魔法舎に直行で帰ってきました、と苦もなく笑う。こういうことは、ままあるらしい。ホットミルクを勧めると、アーサーはシュガーを作ってくれた。シュガーが少しずつホットミルクに溶けていくのを見ながら、色々な話をした。今日あった出来事。魔法舎の生活。最近見つけた、オレンジの美味しい食べ方。アーサーが記憶を失った晶を気にして、わざわざ帰ってきてくれたのだと知ったのは、翌朝のことだった。
彼らの善意が、いつも申し訳なかった。素直に受け取れない善意は、少しずつ重さを増していく。そんな風に感じてしまうことも、晶自身、嫌だった。早く記憶が戻ってくれないかな、と焦る気持ちは増すばかり。こういう時に限って、時間の進み方は遅く感じる。
頭上では風に流された雲が、空に何本も筋を引いている。一人になりたくて来た魔法舎の森は静かで、川のせせらぎや小鳥の鳴き声がする。切り株に座って空を見上げながら、ぼーっと筋の行き先を追っていると、突然、目の前に白い靴先が現れた。靴先はゆっくりと下に降りてきて、晶は大きな影に入った。
「初めまして、賢者様。僕はオーエン。いい天気だね。誰にも言わずに、こっそり魔法舎を抜け出して、一人で森で涼んでる気分はどう?」
軽やかに空中に浮かんで、足を組む魔法使いの随分な挨拶に面食らって、晶は黙り込んだ。加えて、オーエンの言葉で、後ろめたさが蘇ったのもあった。にや、とオーエンの笑みが深まる。
「いい気味。ずっとそのままでいればいいのに。僕は前の君より、今の君の方が好き。何も分からなくて、何も知らない、迷子みたいな君」
意地悪なひとだな、と俯く。オーエンが晶の反応を見て、楽しんでいることは明らかだった。肯定も反論もしないことにした晶は、彼が立ち去るのを待とうとした。何もしなければ、その内つまらなくなって、どこかに行くだろうと思ったのだ。
「今頃、魔法舎は大騒ぎなんじゃない?みんな、予定を後回しにして、きみを探し回ってるよ。それとも、僕以外気づいてないかな?使い物にならないお荷物の賢者様なんて、いらないから。怖い?怖かったら、僕に縋ってごらんよ。そうしたら見捨てないであげてもいいよ」
「……みんなは、探しに来てくれると思います」
ざあ、と木の葉が擦れあう音が警告のように、こだまする。つい口を挟んでしまった晶は、つむじに突き刺さる視線を感じながら、慎重に続けた。
「みんなは、本気で私に優しくしてくれました。分からないことだらけで戸惑ってたり、不安になってたら、その都度声をかけて、寄り添ってくれました。記憶が戻ったら分かるからって、いい加減に扱ったりしませんでした。その優しさを疑うことは、私には出来ません。だから、私を探しに来てくれると思います」
木々のざわめきが止むと、心臓が早鐘を打つ音が、より大きく聞こえてきそうだった。目の前の、自分よりずっと強い力の持ち主が、どんな行動に出るのか分からなくて怖かった。
内心震えながら、それでも背筋だけは気丈に伸ばす。顎をぐい、と掴まれると、その正体を知る前に、顔が強制的に持ち上げられた。
「おまえ、ムカつく」
目の前にあるのは、色の異なる瞳。酷薄で染まった瞳が細まると、背筋を悪寒が走って、逃げ出したくなった。息苦しいほどの威圧に、目を閉じたくなる。陽が陰ると、掴んでくるオーエンの手に、さらに力が込められた。
けれど、晶は謝らなかった。さっき言ったことは間違ってましたとは、絶対に言いたくなかった。
「……つまんないの」
ぱっと、あっけないほど簡単に解放される。晶の意思が変わらないのが伝わったのか、はたまた何か別の理由か。苦いものを、口いっぱいに詰め込まれたみたいな顔をして、オーエンの姿は掻き消えた。
「助かった……のかな?」
うるさい胸を力の抜けた手で押さえながら、周りを見渡しても、消えたオーエンを目に捉えられるはずもない。大人しく諦めて、膝を抱える。再び顔を出した日光を浴びながら、伸ばした指先で、そうっと首筋から顎に触れた。自然と考えるのはオーエンのことだった。
「(急にいなくなっちゃったな……。どうしてだろう……)」
手袋越しでも伝わる冷たい手があった所は、すっかり温かさを取り戻している。これで良いはずなのに、どこか納得できないのは、不自然な別れ方のせいだろうか。
「賢者様ー!いたら返事してくれー!」
大きな呼び声に、びくりと体が震える。聞き覚えのある声に、カインだ、と立ち上がった。同時に、誰にも言わずに一人で森へ来た後ろめたさが、ぶり返し始めた。オーエンのせいですっかり忘れていたが。
返事をすると、ほどなくしてカインが現れた。無事を確認して、ほっと緩んだ表情のカインの額に汗が浮いてるのに、肩身を狭くする。
「すみません、勝手に一人でいなくなって……」
ふう、とカインが息を吐く。しょうがない、と子を許す親のような、親愛があった。
「まいったな。会ったら説教の一つでもしてやろうと思ってたのに、そんな顔されたら出来ないな」
「すみません……」
「いいさ。でも、次からは言ってくれよ。俺も、みんなも心配するからな」
「はい。次は、みなさんにちゃんと相談しますね」
「そうしてくれ。さあ、戻ろう」
晶は頷いて、カインと揃って歩き始める。歩幅を合わせてくれている横顔を見上げると、髪の隙間から、熟しきった果実の色をした瞳が見えた。同じだ、と気づいて歩幅が少し乱れると、カインは首を傾げた。
「ん、どうした?」
「あ……、その、オーエンの瞳と同じ色なんだなと思って……」
「あぁ、これか」
カインはオーエンとの間にある因縁を語った。片目を奪われ、その事件をきっかけに騎士団長の地位を追われたーー。話の途中、晶はオーエンの殺気を思い出して、片肘をさすった。
「というか、オーエンに会ったのか?」
「はい、カインが来る直前に」
カインの眉が心配そうに顰められる。
「(あ、やっぱりオーエンって誰に対しても、ああなんだ)」
「……大丈夫だったか?」
「……はい。カインが心配するようなことは、何もありませんでした」
晶は穏やかに肯定した。カインの反応で、記憶を無くしても、無くさなくても、オーエンは変わらず振る舞ったと分かった。気遣いや、優しさを棚から取り出して、丁寧に包んで差し出したりしない。それが今の晶には有り難かった。
記憶を失う前から、ああやって話していたのかなと思うと、少し心が軽くなった。もちろん恐怖も感じたが、オーエンの“いつも通り”の振る舞いに、安心のようなものを感じている自分もいて。だからーー加害ばかりを取り上げるのは、なにか違う気がした。
「……分かった。でも、本当に危ないと思ったら呼んでくれよ」
カインは何か言いたげだったが、晶の意思を尊重して飲み込んでくれた。頷くと、森の出口が見えた。
魔法舎はすぐそこだった。二人の後ろの方から飛んできた小鳥が、噴水の縁に着地して、嘴を羽の中に突っ込んでいる。小鳥のそばを通り過ぎて、カインは扉を開けた。促されて、先に晶が入った。
「ともかく、あんたが一人じゃなかったことが分かって良かった。気になるところもあるが……」
「? 何がですか?」
「正直、記憶を無くしたあんたを一番に構いにいくのは、オーエンだと思ってた。でも、そうしなかった」
だろう?と流された視線を受けとめて、今日までを思い出す。親指から順に四本、指を折って「確かに」と頷く。一人になるタイミングは、眠る前や起きた直後等、色々あったのに。
「まあ、本人がいないのに考えたってしょうがない。いい方向に考えよう。一人のあんたを心配して来てくれたって」
「あはは、そうですね……」
どう考えてもあれは心配って態度に見えませんでしたけど、と乾いた笑いがこぼれる。
扉が優しく閉じられると、森とは打って変わって、魔法舎が人の気配で満ちていることが分かる。美味しそうな食べ物の匂い。晶が戻ってきたのに気づいた、魔法使いたちが階段を駆け降りてくる音。よく手入れされたミニテーブルの上の、誰かの忘れ物のハンカチは、気持ちよさそうに微睡んでいる。晶は根を下ろすように、足をしっかりと床につけて、深く息を吸い込んだ。
ーー彼らのことを、もっと知りたいと思った。
その夜。晶はパジャマに着替えた後、賢者の書を開いた。元の世界の文字まで忘れてなくて良かった、と思いながらページをめくる。本には自分の字で、それぞれの魔法使いのことが細かに記されている。意外なものが嫌いだったり、すでに知っている情報でも、改めて読んでみると新鮮に思えた。魔法にかけられたように引き込まれて、順に手繰っていると、オーエンのページに行きあたった。
ーーオーエンの意地悪は、ただの意地悪ではないのかもしれない。何か、理由があるのかもしれない。もっとオーエンのことを知れたら、仲良くなれるだろうか。
森でのことを思い出して、心なしか体を前のめりにしながら、上から下へと目を動かす。猫らしきイラストに頬を緩ませながら、その下へ目をやってーー息が止まった。
苦手なこと/もの 「おまえ」
♢
この三日というもの、オーエンはイライラしていた。キッチンから奪ってきたクッキーを、むしゃむしゃと頬張りながら、自室の空中を睨みつけている。クッキーの甘味で癒されないストレスの元凶は、女の形をしていた。
『……みんなは、探しに来てくれると思います』
『……はい。カインが心配するようなことは、何もありませんでした』
俯きながらも、はっきり否定した姿。聞いてもないのに小鳥たちが教えてきた、馬鹿な晶の言葉。思い出すと、むしゃくしゃして、無意識に奥歯を噛み締めた。
他の魔法使いたちが、賢者がいないと騒いでいたから、いい機会だと思いついた。先に見つけて、まだ一度も構ってやってない晶で遊んでやろう。傷ついて、悲しそうな顔を見て楽しんでやろうと思った。
やりたいと思ったことをしたはずなのに、現実はどうだ。記憶が無いくせに晶は歯向かってくるし、脅しにも屈しない。怯えているのに真っ直ぐに見つめてくる、あの目に見つめられると妙に居心地が悪くなった。もっと最悪なのは、晶を構いにいった理由は、あれだけだったのか己を疑いそうになることだ。
「……くそっ」
ごろり、とソファに寝転がって、最後の一欠片を口に放り込む。気に食わないことは他にもある。
森で話した日から、晶がオーエンを避けていることだ。やっと自分の恐ろしさを理解したのだと分かって、最初はいい気分だった。けれど、徐々にオーエンの心は、おもしろくないと感じるようになった。こそこそと曲がり廊下に消えていく後ろ姿を思い出すと、眉間にしわが寄る。オーエン避けのように、他の魔法使いとばかりいるところも腹が立つ。
ーーなぜ、自分がこんな状況に置かれなければいけないのか。目を瞑っても、その感情が消えない。すぐに耐えられなくなったオーエンは、むっくりとソファから起き上がった。
晶にもう一度、思い知らせてやろうと。目の前にいるのは、骨肉さえ凍る北の魔法使いだと分からせてやれば、この感情から解放されると疑わないで。
『今日中には記憶が戻ると思うよ。戻ったら一応、診せにきてね』
書き物の手を止めてフィガロは言った。診察を終えた晶はフィガロの部屋を出て、魔法舎の廊下を歩いていた。記憶が戻る時ってどんな感じなんだろう、とぼんやり考えていると、窓の外にオーエンを見つけた。
春の風が、オーエンの銀髪を踊らせる。緑を茂らせた木と、白の服装とのコントラストが美しかった。
絵になるなあ、と眺めていると、ふとオーエンの横顔が晶の方を向く。否応なしに、賢者の書に書かれていたことを思い出した。
「……っ」
オーエンの瞳の奥がきゅっと締まる。その瞬間、晶はそそくさと踵を返した。早足で窓を通り過ぎて、曲がり角に体を滑り込ませる。適当に入った部屋は、どうやら空き部屋のようだった。扉に背を預けて、思い切り息を吐き出すと、やっと人心地がつけた。
「良かった……」
「おまえ、本当に僕を苛立たせる天才だね」
「うわぁっ!」
扉をすり抜けて目の前に現れたオーエンは、晶の両頬を片手で鷲掴んだ。股の間に足を割り込ませてやると、身を硬くしたのが分かった。止めを刺すように、魔法でドアの鍵を閉めてやると、晶はさっと青ざめた。
「僕から逃げようなんて、いい度胸してるよ。愚鈍で虚弱な賢者様だけど、そこだけは褒めてあげる。で、」
額がくっつきそうなほど顔を近づけて、覗き込んでやる。自分の方が上だと、教えてやるように。
「ーー何が良かったって?」
魔法使いの気の昂りを感じ取って、精霊がざわめき出す。オーエンの髪先が、ふわりと浮かび上がり、使われてない家具の影が不穏に蠢いた。
浸潤してくるオーエンの怒りは、容易く体の自由を奪っていく。たとえ体を押さえつけられてなくても、身動きできなかっただろう。晶は震える舌に、なんとか力を込めた。
「い、」
やっとのことで発した声は、震えて聞き取りづらい。ゆっくりと胸を上下させた晶が、次に何を言い出すのか、オーエンは呪文を唱える準備をしながら待った。
「いやな気持ちにさせなくて、良かったって……」
それは、窓に当たって落ちる木の葉の音にさえ、かき消されそうなほど小さい返答だった。けれど、オーエンを冷静にさせるのには十分だった。
意味が分からなかった。一体、どんな思考回路で、そんな答えを叩き出したのだろう。一瞬、ふざけているのかと思ったが、この状況で、そう出来るほど愉快なーーあるいは不愉快な人間ではないと知っていた。オーエンは決して迎合しないし、踏み躙りもするが、崖に人差し指でぶら下がるような、晶の中の頼りなく愚かな善性の存在を認めていた。
「……どういう意味?」
晶の視界の端で蠢いていた影が、ゆっくりと落ち着きを取り戻していく。戸惑いが、怒りより勝っている証拠だった。少し警戒心を緩めた晶は、ゆっくりと打ち明けた。
「オーエンは、私が苦手なんでしょう。だから、あんまり関わると、嫌な気持ちになるかもって……」
仲良くなりたい、と思ってもオーエンに苦手に思われているのなら、自分の気持ちは迷惑なだけだ。そう考えて、ここ数日、晶はオーエンに近づかないようにしていた。
「はあ?そんなの、言ったことないだろ!」
全く身に覚えのない理由に正当性を得て、怒りの火種が再び、強く熱を上げ始める。言葉尻を食うような勢いに、晶は恐々とオーエンを見上げた。
「で、でも、賢者の書に書いてありました。苦手なもののところに、『おまえ』って」
「だから、言って……!」
勢いにのっていたオーエンは、急に言葉を切った。あ、と何かを思い出したように、一瞬目を逸らす。
『僕はきみが嫌い』
『賢者の書にはそう書いて。ごちそうさま』
掘り起こされた記憶は、怒りを消火して、一抹の気まずさを残して去っていく。再び晶に視線を戻したオーエンは、
「……………ない」
と真顔で否定した。
「……」
「……」
「今の間は……」
「うるさいな!ないったらないんだよ!」
子供のような言い分が、空き部屋に虚しく響く。オーエンは敗北感を味わいながら、晶を捕まえたのを後悔していた。最初の勢いなど、見る影もないくら項垂れる。憔悴という言葉以外、今のオーエンに当てはめれなかった。
「あぁ、もう、本当になんなんだよ。おまえ」
晶といるとペースを乱される。思い通りにならない晶を、やり込めようとするほど、自分ばかりが泥沼に、はまっていくようで嫌だった。
「ムカつくし、面倒なことしか言わないし、」
無視した気でいても、それほど時間の経たないうちに、晶の存在が気になっている。そんなことも知らないで、晶が他の魔法使いのそばで、のほほんとしていると、自然と口が曲がっていく。
「生意気だし、おまえといると、僕は僕を気に入らなくなる。僕は何も、変わってないはずなのに」
「あの……」
おずおずとした晶の声を無視して、オーエンは振り絞るようなわがままを口にした。
「だから、はやく、僕が嫌いになれるおまえになれよ」
そうしたら、安心できる気がした。どこかに行ってしまいそうな蝶を、気にしない努力よりも、蝶そのものを嫌いになれたら。これまでの“オーエン”に戻れると思った。本当にそれでいいのか、問いかける時間を与えないまま。
「……あの」
ひどく気まずそうな声を、ようやく聞き入れる気になる。顔を上げて睨みつけると、うろうろと視線を彷徨わせる晶がいた。どういう反応だよ、と眉を顰めると、晶は生唾を飲み込んだ。
「……なんだよ」
「その、すごく、言いにくいんですけど……。ついさっき、記憶が戻ったんです、けど……」
「……」
「……」
「……は?」
見開かれた目。ぽかんと空いた口。放心したようにも見える表情に、背中が粟立つ。耳鳴りが聞こえてきそうなくらい静まり返る部屋。オーエンは石のように固まって、晶を見つめ返した。
「え、えー、でも、オーエンには好都合でしたかね?ほら、前の私に戻ったから、存分に私を嫌いになれるというか……?」
オーエンがずっと黙ったままなのが怖くて、空白を埋めるように喋り倒す。まとまらない考えは、思考のハンドルを無茶苦茶に振り回して、よく分からない場所に到達する。
『僕は前の君より、今の君の方が好き。何も分からなくて、何も知らない、迷子みたいな君』
前の晶に向かってやった意地悪が、消耗して無防備な心に突き刺さる。記憶に新しいそれは、鮮やかな手腕でオーエンを追い詰める。晶が続けて何か言っているようだが、耳に全く入らなかった。頬と耳を侵略してくる熱のせいだ。
「……ろ」
「え?」
「もういい!おまえなんか永遠に黙ってろ!」
「オーエ……んむっ!」
投げつけられたオーエンの帽子で視界が塞がる。帽子を顔から離した時には、すでにオーエンの姿は無かった。代わりに、日に当たったホコリがキラキラと光りながら踊っている。十字の格子をはめられた窓からは、ペンキを塗りたくったような青空が見えた。
力が抜けて、ずるずると床に座り込む形になる。深呼吸をすると、状況を理解しようと頭が動き始めた。けれど、帽子を投げつけられる直前に見えた、オーエンの表情が何度も思い出され、思考はちっとも前進しない。
堪えきれない恥辱と、怒りで歪んだ表情。そして、どこか、もどかしそうなオーエン。目にしたものと、聞いた言葉が、まだ予感には届かない前触れを、そっと知らせてくる。
「え、えぇ〜……?そういうこと……?」
時間が止まり続けているような部屋は、誰にも話せない戸惑いを吐き出すには、最適の場所だった。色褪せた机や、破れた座面の椅子は、若者の話を昔日の自分と、重ね合わせながら聞く老人のように、黙って見守っている。晶は一人で、まさかそんなことはないだろう、と首を横に振った。
頬をしっかりと赤くしながら、無意識に帽子を抱え直す。愛しい人から贈られた花束を抱くような手つきだった。