「こんばんは、美しい人。今宵あなたを攫いに来ました」
舞台の上、仮面をつけた男がそう言って、窓枠に見立てた舞台装置の上に立ちながら、手を伸ばす。伸ばされた先、美しいヒロインは、パチクリと目を瞬かせ、男を見遣る。
客席の中、少年は、ふと己の横を見た。娘が一人、目を輝かせ、舞台の上に釘付けとなっていた。
*
ガヤガヤと人の声が穏やかに騒めく店内。劇場近くのカフェの中、僕は窓際の席で、その娘と向き合って座っていた。
「すっっっっごくよかったね!!!」
キャイと燥いだ声を出す彼女はクリームの付いたフォークを片手に目をキラキラとさせている。僕は喉から出しにくい声を絞って「そうだね」と言った。彼女は「あそこの展開がよかった」「あの時の演出が凄かった」と、次々目に焼き付いたのだろう部分を語る。それを聞きながら僕はチョコレートケーキを食べていた。
「特にヒーロー役がヒロインを攫いに来たところ! 滅茶苦茶格好よかった!! いいな〜、あんな格好いい役……」
うっとりと、まるで恋をした乙女のような顔で、彼女はショートケーキを一口食べて遠くを見る。頭の中では例のシーンが繰り返し上映されているのだろう。確かにあそこの演出はよかったし、僕自身あの時の衣装が目に焼き付いてもいる。然し……
「……でも、僕はああいうのは苦手かも」
「え、なんで?」
「昔からそうなんだよ。こう、王子様の迎えを待つお姫様、っていうの? 何処か行きたいなら自分で行けよって思う」
「え〜、なにそれ。それも確かにいいけど、迎えによってはじめの一歩を踏み出すのがまたいいんでしょ! それに、そのあとはヒロインも自分の足で歩けるようになるもん」
僕の主張に、彼女は堂々と反論する。彼女には彼女なりの自論があるのだ。
「怖がって踏み出せない人間なんてたくさん居るでしょ。あのヒロインの凄いところはね、手を引いてもらったり背中を押してもらったりしたら、あとは自分で努力して前に進めるところなの! なんの努力もせず身を任せるだけじゃない! 勿論それが魅力のキャラクターも居るけど、あのヒロインは初めの勇気が足りなかっただけってキャラ造形だから——」
ペラペラとヒロインの魅力を語る彼女の話を聞きながら、僕はチョコレートケーキを食べ進めていく。正直、キャラ造形等の話に興味はない。僕は劇が好きだが、特に好きなのは衣装であり、その他の要素は衣装を美しく魅せる為の演出として見ている。逆に彼女は人間がストーリーの中でどう動くかに注目しており、つまり同じ劇を観覧していても、其々見ているところが違うのだ。それでも、彼女の話を聞くことは嫌いではない。
「——だから、あのヒロインを鳥籠から連れ去ったヒーロー役がまた輝くってわけ! 分かる?!」
「分からない」
「そんな!」
「つまりただの臆病だったってだけだろ。鳥籠なんて、それを作ってるのは自分で、出ようとしないのも自分だ。なのに『誰か此処から出して』なんて言って待ち続けるのは馬鹿らしい」
「冷たい男だナ……分からずや」
ぷん、と拗ねた顔をした彼女はストローを咥えてリンゴジュースを飲む。窓際の席、日の光を浴びてカップの中がキラキラと輝いている。ジッと見上げてくる大きな瞳に一つ鼻から息を吐いた、その時、ブーブーとスマホが鳴った。チラと彼女を見てからパッとスマホを取り出す。どうやら誰ぞがメッセージを送ってきたようだった。
「……どしたの? 連絡? 遠慮しないで返していいよ」
「……いや、父さんからだから」
そう言うと彼女は「嗚呼……」と納得の表情をした。僕はスマホを戻して、一度置いていたフォークを再度手に取る。一口分ケーキを切り取って口に入れると、チョコレートの程良い甘味と苦味がなめらかに舌の上で踊った。
「……お父さん、まだ反対してるの?」
窺うような問い方に、僕は苦々しい顔を隠しもせず頷いた。
「時代の古い男だよ、本当……」
衣装を作りたい、と僕は常々思っていた。デザインから制作まで、興味は尽きない。いつか、役者の着る衣装を作る仕事に就けたら、と考えている。故にそれに関連する大学へ行きたいと親にも言ったのだが、父は酷く反対してきた。もっと、堅実な勉学に励み堅実な仕事に就きなさい、と。
「親としては路頭に迷う息子の姿なんて見たかないんだろうけど……考え方が古いんだよね」
「だね〜。分かるよ、私のお母さんもそうだもん」
そう、彼女も彼女で、脚本を書きたいという夢を母に否定されていた。
「でもお前は大学、行くんだろ?」
「うん! 無事合格もしたのでね、出ますよ、東京に」
ぶい、とピースサインを見せ、彼女は愛らしく笑った。母の反対を押し切り、夢を叶えるべく、自分で自分の道を切り拓いたのだ。「楽しみだな〜東京」と目を瞑りながら何やら夢想している様子の彼女は、窓からの光を受け、キラキラと眩いようにも見えてしまい、僕は目を細めた。
「……怖くは、ないの?」
「へ?」
ぱち、と目を開いた彼女に見つめられ、僕は視線を外してしまう。
「東京なんてそんな、行ったこともないのにさ」
「あー。マァ、確かにちょっと怖いかも」
えへ、と笑う彼女は、「それでも」と前を向き、キッと僕を見据えた。
「私、書きたいから」
窓からの日光が、彼女の黒目がちな瞳を随分と輝かせている。まるで宝石が埋め込まれているような、然しそれにしては生命力が溢れているような、そんな輝きだった。
「ま、それに。楽しみでもあるよ。ワクワクしない? 未知の街! きっと怖いこと以上に面白いものがあると思うんだよね」
だから絶対行くよ、と目を細めて彼女は笑った。目の前に座っているというのに、なんだか遠くに感じて、僕はココアを一口飲むことで少し顔を背けた。
「……凄いね、お前は」
「え、そう? ただ書きたくってがむしゃらなだけだよ」
「それだけがむしゃらなのが凄いだろ。僕は夢を見つけるのも一苦労したってのに……」
ココアで温まった口内が、喋るために口を開くごとに少しずつ冷えていく。目を細めた彼女は「そんなことないと思うけど」と呟くように言った。
「昔から好きだったじゃん、衣装とかそういうの」
「それは、そうだけど。でも東京に行くとか、親の反対振り切ってとか、やっぱりお前は凄いと思うよ。僕はまだ大学をどうするかすら迷ってる」
どうしようもないね、と目を伏せながら囁いて、すっかり小さくなったケーキを切り崩した。
「——じゃあ私と同じところは?」
ふ、と顔を上げる。彼女は小悪魔みたいに微笑んでいた。
「芸術系に強いところだからさ、衣装関連のことも学べるよ。どう? 楽しそうじゃん、一緒にキャンパスライフ」
「そ、んな……急に」
吐き出すように苦笑って、ケーキを一口食べる。彼女は「ダメかな〜」と笑っている。
「いいと思うんだけど。今日観に行った劇だってあそこの卒業生が手掛けてるんだよ。脚本も衣装も!」
その言葉に、頭の中で、ヒロインが一回転した。ふわり、と、美しいドレスが広がる。
あんな物が、作れるように、なるのだろうか。
「……いや、でも。父さんが“いい”って言わないだろうし」
「無視すれば?」
「無理だよ、お前じゃあるまいし……」
笑って、最後のケーキを食べた。妙に苦味が強い気がした。
*
暗い自室、パタリとノートパソコンを閉じて、肩を回す。先程まで画面に映っていた、大学のサイトが目に焼き付いていた。
昼に観た劇と、夕方にカフェで話した内容を思い出す。馬鹿らしいのは僕の方だ。此処から出ようとしないで、飛び立ち方も分からないままで、ただ外への憧憬ばかりが募って、どうしようもない。結局鎖の切り方すら覚えようとしないのは僕の方で、最初に手を伸ばされたとはいえ、その手をキチンと掴むことのできたヒロインの方が、その後自らの足で駆け出すことのできた彼女の方が、余程僕より勇敢だった。馬鹿らしい、臆病め、と嘲笑う対象は、鏡の中の自分であった。自虐を、卑下を、キャラクターにぶつけるという醜い行いを、あの時の僕はしていたのだ。
「大学、か……」
暗い天井を見て呟く。父には地元の、金が掛かる堅実なところを奨められている。衣装作りに関することなんて微塵も学べなさそうなところ。そこを出て、父が前に働いていたところに就職するのが、父の言う『堅実な道』だった。然し僕は、そんな未来を、どうも輝かしくは思えないでいた。
はあ、とひとつ溜息を吐く。もし此処に王子様でも来てくれれば、僕は手を掴めるのだろうか。もしかしたらそれでも臆病で、掴めないのかもしれない。ああでも、僕の好みの衣装であれば、もしかするかも。ある意味素直な人間だった。
そんな事を考える頭に、ふと、ガラリ、と何かの音が差し込んだ。そちらにバッと顔を向けると、風が吹いて髪が後ろに靡いた。窓が開いていた。狭っ苦しいバルコニーへ続くそこ、柵を足で踏み締めた彼女は、夜風に吹かれて笑っていた。前に請われて作ってやった、僕好みの衣装を身に纏っていた。
月明かりが、演出のように彼女を照らし出していた。
「やっぱり、思うんだよ。あんたは此処で終わっていいわけない、衣装を作らなきゃいけないって」
独り言のように彼女はそう言って、片手で窓枠を掴み、片手をこちらに差し出した。
「こんばんは、美しい人。今宵あなたを攫いに来ました」