海塩のソルティココア(一部抜粋) マスターの厚意に甘えて、今晩はカフェに泊らせてもらうことにした。マスターお手製のクリームシチューを夕食にいただき、少し食休みを挟んでゆっくりと湯船に浸かり疲れを癒す。至れり尽くせりだ。
「ただいま~、お風呂いただいたね」
「おかえりなさい、おひいさん……あ」
ジュンが時折使うというバスローブを借り、タオルで髪を拭きながらリビングに戻った日和を見て、ソファで寛ぐジュンはなにやら嬉しそうにはにかんだ。うん? と日和が首を傾げると、ジュンが自らの頭を指さしながら口を開く。
「おひいさん、人魚みてぇ」
「あぁ、ひょっとして髪が濡れているから? そんなこと言われたのは初めてだね」
確かに上半身の見た目は頭のヒレ以外にはそう変わらないので、バスローブの合わせの隙間から素肌が覗く今は余計にそう見えるのだろうが、なかなか新鮮な感想だ。ここでは他に人魚を見かけることも無いので懐かしさもあるのだろう。前かがみになって顔を近づけてやると、ジュンは嬉々として髪に触れてくる。
しかし日和としては早いところ乾かしてしまいたい。日和は身を起こすと、周囲の棚などを見回しながらジュンに尋ねる。
「ねぇジュンくんドライヤーはどこ?」
「ドライヤーって何です?」
「え? あぁ、ジュンくんは使わないんだね。髪を乾かすために風を出す道具だね」
「えぇ……乾かしちまうんですか? いいじゃないっすかそのままで」
「乾かさないと傷んじゃうの。マスターは……」
「この時間だと多分、もう寝ちまってます……」
「……仕方ないね」
気にはなるが、ジュンもその方が嬉しそうなので今日は良いか、と髪を乾かすのは諦めた。
壁にかけられた時計の針は十時を指している。眠るにはまだ早い時間だ。ジュンはソワソワした様子で日和を見上げながら、キッチンの方を指さした。
「あの、ココアでも飲みません? 最近、火ぃ使わせてもらえることになったんで色々作り方を覚えたんですよぉ〜」
あぁ、そんな話もしたことがあったか。あれはクリームソーダの試作をした時だったから、もう数か月前のことだ。とうとう許可が下りたことを日和に知らせたくてたまらなかったのだろう。意気込む姿が微笑ましい。
日和は二つ返事で頷いて、ジュンを台車に乗せてキッチンへと向かう。流石に一人で使うことは許されていないらしいので、ダイニングから椅子を持ち込みそのまま隣で見守ることにした。
キッチンに置かれたハイチェアに器用に移ったジュンは、エプロンをかけると慣れた様子で道具や材料を用意し始める。
小鍋にココアの粉と砂糖、それから、以前感じた隠し味の正体だという海塩を一つまみ入れたらまずは弱火で軽く炒る。少量のミルクで練ってペースト状に捏ねあげたら甘い香りが漂い出す。残りのミルクを注いでよく溶かし、マグカップに均等に注げば出来上がり。仕上げにおやつ棚から取りだしたマシュマロを一つずつ浮かべ、夜にいただくには随分と背徳的なジュンの特製ココアが出来上がった。
再びソファに移動し、ジュンが固唾を飲んで見守る中、あたたかい内に日和はマグカップを口元へと運ぶ。
「いただきます……んっ!?」
ココアを口に含んだ瞬間、日和の舌に衝撃が走る。眉をしかめながらどうにか飲み込みはしたけれど……これは、日和の知っているココアよりも少し……いや、かなり……。
「しょっぱいね……」
「えっ!? す、すんません……。マスターのレシピ通りやったと思ったんすけど……」
「どれどれ……?」
マスター手書きのレシピを一通り眺めるが、手順や材料は間違っていないはずだ。となると。
「……よく混ざっていなかったとか?」
ジュンのマグカップを貰い試飲してみるが、こちらは異常に塩味がきついということは無い。恐らく日和のマグカップの方に味の濃いところが注がれてしまったのだろう。
おまけに今回使った海塩はマスターこだわりの逸品で、一般的な食塩よりも味が濃かった、一つまみという曖昧な表現のせいもあって、マスターが作るより塩辛くなってしまった、と。
原因がわかったことは何よりだが、格好つかなくなってしまったジュンが複雑そうに目を泳がせていたので日和はつい吹き出してしまった。
「あっはは! そんなに落ち込むことないね! 次はもっとよく混ぜればいいんだから!」
「~~っ、んな笑うことないでしょう!」
「だぁって、あんなに自信満々だったのに……! ジュンくんも成長したと思っていたけれど、まだまだ世話の焼けるひよっこだね! あははは!」
「GODDAMN!」
結局、そのままでは流石に飲めなかったので、ココアは再び鍋に戻してよくかき混ぜ、それでもまだ味が濃いためミルクを足して修正を施した。
失敗だらけのつぎはぎココアとなってしまったが、終わりよければ全てよし。今度こそマグカップを片手にソファに腰を据えた二人は、今日あった暗い出来事など忘れる程に夜更けまで笑い合っていた。
◆
ジュンがいつも眠るという寝室は、元々はマスターの息子の部屋であったらしい。何十年も前に独り立ちしてから家具だけは残して時折客間として使っていたというその部屋は、ジュンが来てからは幅を取る猫足バスタブを置くのに丁度よかったのだとか。
それに伴い増設したという蛇口からバスタブに水を溜めながら、ベッドに腰かけたジュンはぺりっと傷口のガーゼを剥がした。もうすっかり血は止まっているようでホッと表情を緩ませる。
「お、良かった。もう平気そうっす」
「剥がしちゃうの? 今日はまだ傷口を保護しておいた方がいいんじゃない? 水に浸からずに寝るのはどう?」
「あ~、流石にそんな長い時間ずっとは水から出られないんすよ、オレ。一回尾ひれが乾いちまったら元には戻んねぇんです。ガーゼもどうせ水で駄目になっちまいますし」
「へぇ……」
そういえば、時折人間のように椅子に座って過ごすことがあるが、水分をたくさんとっていたり、さりげなく水を含ませたタオルをひれに当てている姿も見たことがある。それも乾燥対策なのだろう、人魚には人魚の生態や事情があるのだ。
「っと、あぶねぇ。水が溢れちまう」
気付けばバスタブは半分以上水で満たされている、ジュンが入ってかさが増したらいっぱいになっていまうだろう。ジュンは慌てて蛇口を捻り水を止めると、静かにバスタブに入り込む。これで眠る準備は整った、日和も借りたパジャマに着替え、部屋の電気を消すとベッドに潜り込む。
ジュンはバスタブの縁からひょっこりと顔だけを出して、おやすみなさい、と告げる。日和も同じように返して目を閉じた。
けれど慣れない部屋だからか、まだ先ほどまで楽しんでいた興奮が冷めないのか、眠れる気配が全くない。しばらく眠る努力を続けてみるものの……これは駄目そうだと瞼を開く。
「ジュンく~ん……」
バスタブへ向けて声をかけてみるが反応がない。薄情なことにもう寝入ってしまったようだ。日和はサイドテーブルにあるランプを点けるとベッドから起き上がる。ひんやりとした冬の空気に身を震わせながら、スリッパをペタペタ鳴らしながらバスタブに近付いた。
たっぷり張られた水に全身浸かって丸くなって眠っているジュンの姿を眺める。上半身だけを見れば人間と大差はないのに、本当に全く違う生き物なのだなと実感する。
それにしても、あどけないジュンの寝顔が今は恨めしい。こちらは寝付けずにこんなに困っているのに。
日和は腹癒せとして、バスタブの横に敷かれたマットの上に膝をつきパジャマの袖を捲ると、ランプの薄明かりで煌めく水面に手を差し入れてジュンに触れた。髪を撫でたり、頬をつついたり。
するとやがてピクリと瞼が震えて、あの満月色が覗いた。ぱちりぱちりと何度か瞬きをして、怪訝そうに歪められる。
「……っくりした……なんすか……」
水の中から聞こえる声は、いつもより少し重たいような独特な響きをしていた。突然起こされて非難するような視線を軽くあしらいながら、日和はめそめそと鳴き真似をして甘える。
「ぼくを置いてすやすや眠ってるジュンくんが悪いね……眠れないからもう少し付き合って、ジュンくん」
「えぇ……しょうがない人ですねぇ……」
そう言いながら、ジュンは尖った牙の先端で日和の親指を軽く食んだ。咄嗟に手を引っ込めようとする日和だったが、ジュンはそれを引き止めて甘噛みを続ける。
つぷん、と牙が皮膚に食い込む感触にゾッとする。人間の犬歯よりもなお鋭い、ともすれば食い破られてしまいそうな程の牙の先は、けれど血の一滴すら流させないよう細心の注意を払って優しく触れてくれているのがわかる。どうやら寝ぼけているわけでもないらしい。
日和はジュンの突拍子の無い行動を戸惑いながらしばらく眺めて、ハッと我に返って口を開く。
「それなぁに? 痛くはないけど少し怖いね」
「痛くねぇようにしてるんで。……秘密です」
「……もしかしてあの時の仕返しのつもり? ふふ、生意気~」
親愛のキスの意味がジュンに正しく伝わらなかったように、日和もジュンの行為の意味を正しく汲み取ってやることができない。
人間も人魚も、似ているところはあれど全く別の存在で、理解し合えないところも多くある。それでも心は伝わっていると、この行為が日和への信頼や信愛からきているものだと信じている。
「いいよ、好きなだけ噛むと良いね」
日和はその蛮行を許し、身を委ねた。それが日和からの信頼の表し方だと思うから。
ジュンが満足するまでか、日和が退屈して眠くなるまでは、不思議な触れ合いに興じてみるのもまた一興だ。