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    独歩とハマの森

    #ヒプノシスマイク
    hypnosisMike
    #観音坂独歩
    kannonzakaDokpo
    #毒島メイソン理鶯
    busujimaMasonRiyui
    #有栖川帝統
    ArisugawaDaisu

    観音坂、森へ

    「お疲れ様でした。おっ、お先に失礼します⋯⋯」
     お疲れ様でしたぁ、と間延びした上司の声を背中に受けて足早にエレベーターへと向かう。下の階への行先を示すボタンをカチカチと数回押しながら大きく息を吐く。
     明日は休みだ。六連勤明けの、休みだ。やがてポンと柔らかな音と共にエレベーターが到着し、一階のボタンを押す。
    「待って待って!乗りまーす!」
     手を上げて駆け込んできた同僚に会釈をする。
    「やっと金曜日ですねえ。今週もハードだったあ。ってかなんか観音坂さん、元気に見えますね!」 
     そう言って顔を覗き込まれたため曖昧に笑って受け流す。同僚はそれきり黙って携帯を見始めた。
     明日は休み。休みなのだ。一二三に怒られてもいい。今日は贅沢にコンビニでアイスを買ってしまおう。マイリストに入れたままの海外ドラマの続きを一二三と観て、酒を飲んで、昼まで眠ろう。
     一階です、と到着を知らせるエレベーターの声を聞き、扉から一歩踏み出す。鞄から携帯を取り出すと一二三からのメッセージが届いていた。

    『急に店の子が来れなくなったっぽくて俺が代わりに入ることにした!ご飯つくんの間に合わなかったわマジでごめーーーん!』

     メッセージの後にはゴメンネ、と何かのキャラクターが頭を下げている絵文字が添えられていた。
     鈍い光を放つ携帯の画面をぼんやりと見つめながら一二三の足のことを考える。
     唯一無二の友人は、川で流された時の怪我が治ったばかりだ。出勤は二日後だったはずなのに、夜の仕事も大概がブラックだな。いや、きっと他のスタッフが申し出たのに「俺っちが出るから大丈夫!いっぱい休んでメーワクかけちったしね〜」なんて言ってジャケットを羽織って出向いたのだろう。ハハ、と乾いた笑いが漏れる。

     別に、何が悲しいわけでもない。何が苦しいわけでもない。こんなことはこれまでに何度も経験してきたことだ。一二三とゆっくりと食事することができなくなったことも、酒を飲みながらテレビを観ることができなくなったことも。
     さて、晩飯だ。あいにく冷蔵庫の中身は把握していないし家に帰れば二度と外へは出たくない。コンビニに寄ろうと思っていたので丁度いい。
     その場から一歩踏み出そうとしたその瞬間、吐き気に似た何かが腹の中からせりあがり咄嗟に手で口を覆う。立ち止まって何度か小さくえずく。前から歩いてきたスーツの男性と肩がぶつかり小さく舌打ちをされる。口からは何も出ない代わりに涙が滲んだ。
    「大丈夫、大丈夫、大丈夫」
     頭の中で唱えて大きく息を吸う。ビルの傍の人気のない場所によろよろと向かい、うずくまる。やがて吐き気は治まり手の甲で目を擦った。
     今より激務だった数ヶ月前、出勤前や休日の終わりによくこうして吐き気と闘っていたことを思い出す。勤務中はなんともないし、実際に吐くこともないのだが、仕事のことを考えると胃から不快感が込み上げてくることが続いていたのだ。
     ここ最近は仕事内容も随分と緩和されたためか自然と吐き気は治っていたのに。
     鞄から水筒を出してお茶を流し込み、しばらく目を閉じ心を落ち着かせる。いつまでもこんなところにいるわけにはいかない、と決心し目を見開く。




    「う、嘘だろ……」



     それから約三十分。驚いたことに一歩も足が動かなかった。いやいや嘘だろ、ともう一度頭の中で繰り返す。それでも身体が言うことを聞かないのだ。まるで、晩飯をコンビニで買って、一二三の声のしない部屋へ帰ることを自分自身が拒んでいるようだと思った。
     途方に暮れて人が行き交う通りへ目をやる。街はだんだんと灰色と青を混ぜたような色に覆われていく。子どもを抱えた女性が、明るい笑い声を交わし合う学生が、背中を丸めて電話をしているスーツの男性が足を止めることなく歩いている。

     早く帰りたい。
     それでも伽藍堂のマンションへは帰りたくない。帰りたい。ここではないどこかへ行きたい。ひとりきりのマンションではないどこかへ行きたい。行かなければ。
     膝に力を入れて立ち上がり、右足を踏み出す。そしてそのまま夢中で歩く。行きつけのコンビニを通り過ぎ、駅へ向かう。止まらずに足を動かす。歩く、駆ける。行先が流れる電子版に目をやる。歩く、歩く。
     




     
     気がついた時にはシンジュク・ディビジョンから遠く離れた場所にいた。眼前に広がるのはかつて外来の鳥を捕まえるために奔走したヨコハマの森。
     ガサ、と樹の葉が揺れる音がして我にかえる。自分の行動に理解が及ばず思わず頭を抱えた。駅に向かってからのことは正直よく覚えていない。とにかくどこか遠くへ、それだけを思い巡らせ歩き続けていると、何故かこの森の入り口に立っていたのだ。
     夏とはいえもう八時を過ぎた頃だ。辺りは薄暗く独特の雰囲気を醸し出している。森の奥にはヨコハマ・ディビジョン『MAD TRIGGER CREW』の軍人、毒島さんの生活拠点があるはずだが、突然押しかけるなんて迷惑極まりないだろう。しかし、せっかく来たのだから挨拶だけでも、いやでも無事に森の奥まで辿り着けるだろうか。ありとあらゆる不安がどっと押し寄せ首筋に汗が伝う。
    「や、やっぱり帰ろう」
     暗い森の入り口に背を向けようとしたその瞬間、観音坂?と森の中から名前を呼ばれた。ギャァ、と情けない叫び声が喉から飛び出る。
    「ぶ、ぶ、毒島さん!」
    「やはり観音坂か。なぜ貴殿がこの森に?」
     毒島さんはまるまるとしたウサギを手にして不思議そうにこちらを見ている。なぜ、ここに。先ほどまで自問していた答が己の口から出ることはなく「ええっと、ですね」と鞄を抱える腕に力が入るばかりだった。理鶯さんは「ああ」と何か思いついたような声を上げた。
    「そうか。貴殿もカレーを食べに来たのだな?」
    「は、はぁ、カレー?」
     返事の代わりにごぅ、と腹が鳴った。毒島さんにもその音が届いていたらしく、ふっと口元を緩めて「付いてくるがいい」と森を指さされた。慌てて毒島さんの後ろを追って歩きはじめる。曲がり道、狭い道、葉っぱと枝の道。毒島さんは難なく進む。歩き始めてから数分後、見覚えのある場所が見えて来た。そして、そこには同じく、見覚えのある男がいた。
    「おかえりなさい理鶯さん!肉は調達⋯⋯あーっ!リーマンてめっ何しに来やがった!」
    「お前はシ、シブヤのクソジャリ」
    「はーん!分かったぜ!さてはてめぇも理鶯さんのカレー目当てだな?」
     毒島さんのベースキャンプに着くや否や、人差し指と罵倒を向けられ、思わず顔をしかめる。シブヤのクソジャリもとい、有栖川帝統は猫よろしく牙を剥き出しにして、こちらを威嚇している。あまりの剣幕にたじろいでいると毒島さんが間に入り、ギャンブラーを制した。
    「有栖川、カレーは多めに出来たのだから心配はいらないぞ。観音坂、荷物はそこに置くといい」
    「んん、まあそーっすね!そんじゃリーマン、お前はこっち手伝え!働かざる者食うべからずだぜ」
    「お、俺、今日十時間労働を終えたところ」
    はぁ?ンなもん知るか!とシブヤのギャンブラーに追い立てられた先には、黒い入れ物が火にかけられていた。
    「これ、キャンプでよく見るやつだ」
    「飯盒っつーんだよ。俺、飯盒でメシ炊くの超うめーんだぜ!っと、もうそろそろいいな」
    ギャンブラーは慣れた手つきで飯盒を火から下ろし、逆さまにして近くの台の上に置いた。しばらく飯盒を放置して蒸すらしい。
     その間ギャンブラーに着いて近くの沢へ水を汲みに行った。二人でタンクを抱えてキャンプ地に戻ってきた頃には、辺りにスパイスの香りが漂っていた。
    「二人ともご苦労だった。ちょうど出来上がったぞ」
    「めちゃくちゃうまそーな匂い!お、メシもいー感じっす!リーマン、そこの皿よこせ」
     それぞれカレーが盛られた皿を手に、椅子がわりだという丸太に腰掛ける。いただきます、と手を合わせてカレーを一口口へと運ぶ。スパイスの独特の香りのあとにじわじわと辛みがやってくる。一二三は日頃さまざまな種類のカレーを作ってくれるが今まで食べてきたどれとも違う。おいしい。おいしい。おいしい。辛みのせいか額と首筋に汗が伝うのを感じ、スーツを脱いでシャツの袖を捲る。
    「うめーよな、理鶯さんのカレー」
    横からギャンブラーの笑いまじりの声が聞こえ、はっと顔を上げる。
    「あ、あ、わあ、すみません。俺、つい、美味しくてがっついちゃって」
    「何を謝る?うまそうに食べてもらえるのであればそれが何よりだ」
    「お、これさっき採ってきたウサギっすか?やっぱカレーには肉がねーと始まんないっすね」
    「一羽しか捕まえられなかったのであまり量はない。よく味わうといい」
     それから各々おかわりをし、三杯目を食べ切ったところで皿を置いた。腹八分目を優に超えてしまった。ベルトを少しだけ緩めて息を吐く。
    「ああ⋯⋯。すごくうまかった。毒島さん、ごちそうさまでした」
    「良い食べっぷりだった。作った甲斐があったな」
    「ご飯もすごく美味しかった。お前メシ炊くのうまいって、本当だったんだな」
    「ったりめーだろ!理鶯さんに教えてもらったんだからな」

     
     食器を片付けたあとにふたたび丸太へと腰掛ける。辺りはもうすっかり暗く、焚火だけが明るく燃えている。ふとギャンブラーが思い出したように声をあげる。
    「そういえばよー。お前んトコのホスト脚は治ったのかよ。幻太郎が心配してたぜ」
    「一二三か?一応、治りはしたけど予定より早く仕事に出てしまって。悪くならないといいんだけどな」
    「なんと、伊弉冉は怪我をしたのか?」
    「あ、はい。この間、山の日に川釣りへ出かけたときに」
     一二三と寂雷先生から聞いた事の顛末を毒島さんにかいつまんで話す。災難だったな、と労るような視線を向けられ思わず俯いた。
    「俺はあの場にいませんでしたから⋯⋯。それに、仮にあの場にいたって一二三みたいに何かできたかどうか」
    「伊弉冉も夢野も無事で何よりだった。その事実を喜ぼう」
     はい、と返事をしてふと隣を見るとギャンブラーも何故かぎゅっと口を結んでいた。視線はまっすぐ焚火へと向けられていて、その瞳には揺れる炎が映り込んでいる。何か声をかけようと思ったが、思うだけで口の中からは何ひとつ言葉が出てこない。ぱちぱちと枝や薪が爆ぜる音だけが静かに辺りへと響いている。
     それからしばらく三人とも口を開くことはなく、静かに、ただ静かに、時間だけがヨコハマの森の中を流れていった。気まずい静寂ではない。ゆらゆらと薪や枝を燃やし続ける炎をゆっくりと見つめるなんて人生の中で今日が初めてかもしれない。
     ぎゅう、と膝を抱える。胸に硬いものが当たり、社員証をかけたままでいたことに気付く。赤いストラップを首から外してぼんやりと社員証に写る覇気のない男の顔を見つめる。
    「これも、燃えるんでしょうか」
     小さく呟いたはずが静寂の中ではやけに響いたらしく、二人は顔を上げてこちらを見た。
    「おーおー燃やすか?ついでにそのネクタイとよれよれのスーツも燃やそうぜ」
     揶揄うような声に一瞥を向ける。すると向こうもこちらを見ていた。先ほど炎を見つめていたものと同じ鋭い瞳。「それでも」と低い声が届く。
    「それでも、結局変わらねーよ。社員証燃やしたって、ネクタイもスーツも燃やしたって、お前はお前でしかねぇけどな」
     彼の声をなんと形容したら良いだろう。怒りや苛立ちに似て非なる、諦めのような声だった。何も言えずにいるとギャンブラーは口角を上げ「所詮てめーはリーマンってこった!」といつかのバトルで聴いたような言葉を笑いまじりに寄越した。
     それから勢いよく立ち上がり懐から何か大きな袋を取り出した。
    「燃やすっつーかよぉ、焼くならうまいもん焼こーぜ!」
    「マシュマロか。デザートを用意しているとは気が利くな、有栖川」
    「へへ、乱数んトコに置いてあったんでかっぱらってきました!しかもビッグサイズっすよ」
     ふたりは手際良く竹串にマシュマロを刺し始め、そのうち一本を毒島さんに渡された。
    「え、ええと⋯⋯。これをどうすれば?」
    「ウッソだろリーマンお前マシュマロ焼いたことねーの!?ああ、苦手か?」
    「苦手なわけじゃない。シ、シブヤでは、若者の間ではメジャーな食べ物かもしれないけど俺は見たことないし知らないんだよ」
    「いや別にシブヤで流行ってるわけじゃねーよ。んーまあ、じゃあ今日来てよかったな!うめーんだぜ」
     ふたり真似てマシュマロの串を火に近づけくるくると回転させる。じわじわと表面が茶色くなったかと思うと一部がぷくりと膨れ上がった。
    「ああっ!こ、焦げてしまった⋯⋯!こんな簡単なことも満足にできないなんて俺は、俺は⋯⋯」
    「その程度なら食しても大丈夫だろう。それに火で直接炙るのは案外難しいものだ。気にするな」
    「あちーから気を付けて食えよ」
     アドバイスに従い、そっと歯でマシュマロを噛んでみる。ふかふかの表面の一部がぱりぱりと固くなっていてマシュマロ独特の甘みが口に広がる。
    「は、ふぁ、おいしい」
    「うめぇよなぁ。俺も久しぶりに食ったぜ」
    「有栖川、観音坂、コーヒーはどうだ?」
     お礼を言って毒島さんからステンレスのカップを受け取り一口飲んだ。マシュマロの強い甘みの後にコーヒーの爽やかな苦味。あまりの充足感に大きく息を吐く。それから袋が空になるまでマシュマロを焼いて食べ、話し、飲んだ。毒島さんが先週つくったヤモリの丸焼きの話をし終わったと同時に隣のギャンブラーが大きくあくびをし、ぐっと伸びをした。
    「理鶯さーん。今日泊まってっていいすか?幻太郎、締め切り前だからって家に入れてくんなくて」
    「ああ、構わない。観音坂も今夜は泊まっていくといい」
    「そ、そんな、申し訳ないです」
    「申し訳ないも何ももう一時過ぎてんだぜ。タクシーでシンジュクまで帰んのかよ。バカ高くなるだろ」
     確かに、と躊躇している間にバサリと毒島さんが地面に何かを敷いた。
    「こちらは小官の寝袋とマット。そちらは観音坂、貴殿が使うといい」
    「あ、ありがとうございます!寝袋、初めてだ⋯⋯」
    「理鶯さぁん!俺、テントの中で寝ていーっすか?」
     テントの中からくぐもった声が聞こえたかと思えば、数分後には地響きに似た寝息が届いてきた。その音につられて眠気がどっとやってきて目を擦る。
    「観音坂、小官は火の始末をする。貴殿はもう眠るといい」
     手伝いますと言いかけたがもう眠気が限界まできている。靴を脱いで寝袋の中に入ると、毒島さんが側に来てこちらを覗き込んだ。
    「よく眠るがいい。観音坂」
     おやすみなさいと答えたつもりだったがちゃんと声に出ていただろうか。そんなことを考えながら目を閉じた。



     しかし、そこで朝までゆっくりと眠ることができないのが観音坂独歩という男なのだ。普段寝ているベッドとの違いに慣れず、うう、と唸りながら目を開けた。体感では目を閉じてから一時間も経っていない。
    「どうした⋯⋯観音坂⋯⋯。具合でも悪いのか?」
     隣から毒島さんの声が聞こえた。声が掠れている。きっと毒島さんも寝ていただろうに申し訳ない。いいえ、大丈夫ですと答えて仰向けになると、樹々の間に輝く星々が目に飛び込んできた。目を見開き、思わず「すごい!」と叫んだ。
    「ん⋯⋯星か?美しいだろう。この森の自慢のひとつだ」
    「シンジュクじゃまず見れません、こんな⋯⋯すごい」
     青白く光る大きいもの、オレンジや薄く黄色に見えるもの。目を細めてやっと見えるくらい遠いところで瞬くもの。無数に散らばる星々を眺めていると、耳の中が濡れる感触がした。一度だけまばたきをすると両目からすっと涙が落ちてゆくのがわかった。三十路近い男が星空を見て泣くなんて、と自分を恥じたが毒島さんなら気にも止めないだろう。
    「毒島さん、今日は、ありがとうございました」
     囁くような声でさえ、震えているのが自分でわかった。鼻をすすり目を閉じる。毒島さんが小さく何か答えてくれたが、その言葉が何だったか分かる前に眠りへと落ちていた。






     首元に規則的な振動を感じ、はっと目を開けた。その瞬間、緑のまぶしさが目に飛び込んできて「は?」と間抜けな声が出る。ここはどこだ。固まったまま数秒が経ち、ここはヨコハマの森であること、昨晩寝袋を借りて眠っていたことをじわじわと思い出した。鳴り続けている携帯のアラームを止める。朝の六時。いつも通りの起床時間。辺りは明るい。寝袋から這い出すと身体の節々が痛むのを感じた。
     帰ろう。
     靴を履きジャケットを羽織る。
    「戻るのだな」
     振り返ると毒島さんが立っていた。彼の髪も服装もいつも見ている姿と何ら変わりない。それに比べて自分はきっとひどいいでたちに違いないと少しだけ恥じて髪を撫でつけると顔を洗ってくるように促された。昨晩タンクに汲んだ水で顔を洗うと幾分かすっきりとした。
     毒島さんの元へ戻ると昨晩と同じステンレスのカップを渡された。コーヒーが湯気を立てている。丸太に腰掛けてカップに口をつける。テントの中からシブヤのギャンブラーのいびきが聞こえてきた。
    「毒島さん、急に押しかけてすみませんでした。いろいろとご馳走になってしまって。すごく⋯⋯楽しかったです」
    「そうか、それは幸いだ。本日は休日なのだろう?もう少し滞在しても小官は構わないぞ」
    「いいえ、もう俺、帰らなくちゃ」
     コーヒーを一気に飲み干して立ち上がる。
     帰りたい、と思う。
     シンジュクへ帰りたい。あのマンションへ帰りたい。帰らなければ。どうしようもなく一二三に会いたい。会いたくて仕方がない。
    「忘れ物だ、観音坂」
     森への出口へと一歩進んだところで呼び止められる。振り向くと毒島さんが目の前にいて、そっと何かを首にかけられた。
    「ああ、社員証⋯⋯!」
    「何もかも燃やしたくなったらまたこの森へ来るといい。小官と有栖川と一緒にマシュマロを焼こう」
     はい、と自分でも驚くほどの大きな声が出た。毒島さんはやわらかく目を細めた。そんな毒島さんに背を向け、森の出口へと歩みを進める。森の中は存外明るい。
     
     目を閉じてひとつ呼吸をする。
     それからゆっくりと目を開けて走り出す。枝と葉っぱの道を走る。分かれ道を迷わず選択して走る。ウサギ肉のカレーのことを、膨れたマシュマロのことを、森から見える星空のことを話したくて走る。
     夜の街から帰ってくる、幼馴染におかえりを言いたくて、朝に向かって走り続ける。


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