ヒダマリ草(仮) ──ああ、ここは私の知っているハイラルではないけれど、やはり同じハイラルなんだわ。
爽やかな初夏の風が、ゼルダの髪を撫で、吹き抜けていく。
ゼルダは目を閉じて、大きく息を吸った。
湿り気を帯びた朝の空気の匂いも、風のそよぎも、同じハイラルなのに、ゼルダの知っているものとは違う。
それはゼルダの目の前に広がる景色も同じで、池の向こうに見える山はまだ双つに割れていないし、その山を割ったと言い伝えられている龍が空を舞う姿も、ゼルダはまだこの世界では見たことがない。
青空の下で食す朝食のテーブルに載せられた、知っているようで知らない果物を摘み、周囲に咲く、知っているようで知らない花々を見つめながら、ゼルダはほう、とため息をついた。
そんなゼルダを見て、ハイラルの王妃・ソニアが、小さく微笑んだ。
「勉強家の貴女の目から見て、ここには珍しいものはたくさんある?」
ソニアの問いかけに、ゼルダは顔を上げてソニアを見つめた。ゼルダの隣の席に座るソニアは、優しい眼差しでゼルダを見守っている。
そうやってソニアの優しい深い緑色の眼差しで見つめられ、その優しい声でおっとりとした様子で尋ねられると、つい色々なことを話したくなってしまうから不思議だった。まるで、初めて世界の驚きに触れ、その興奮を母親につぶさに語って聞かせる子どものように。
それに──ソニアに「勉強家」と評されると、ゼルダはむず痒いような、誇らしいような気持ちでいっぱいになる。ゼルダはこれまで、自分の努力が実を結ばなかったということにばかり目を向けていたというのに、ソニアの言葉はそんなゼルダの頑なな心を溶かしてゆくようだ。
ゼルダの言葉を待ってたおやかに小首を傾げたソニアに、ゼルダは微笑み返す。
「そうですね……。
私のいた時代にもリンゴはありましたが、金色のリンゴはあまり見かけなかったように思います。
それに、私の知る限り、中央ハイラルでは針葉樹が多かったのですが、この時代の中央ハイラルには、照葉樹が多いように思います。土壌も豊かで、私のいる時代と植生がかなり違いますね。
この時代のほうが、私のいた時代より温暖のようですし」
かつて修業の際に身に纏っていた巫女服と同じくらい薄手の服を改めて見つめながら、ゼルダは答えた。この時代のハイラル人がゼルダよりやや濃い色の肌をしているのも、身に纏う薄手の衣装も、この時代のハイラルがゼルダのいた時代より気候が温暖であることの証だろう。デスマウンテンや双子山──今は異なる名前のようだが──の位置は変わっていないにもかかわらず、当初、ゼルダがこの時代で目覚めた時に見たハイラルの光景の違和感の最大の原因は、おそらく目の前に広がっていた照葉樹林だ。照葉樹は、秋になると紅や黄に葉の色が変わるが、ゼルダが知る限り、照葉樹林はアッカレ地方でよく見られた景色であり、アッカレ地方の美しさを代表するものでもあった。
「それから、この耳飾り。
モチーフとなっているアカリバナも、私のいる時代ではほとんど見かけません。
こちらの世界では、燭台の形もこのアカリバナの形をしているので、とても馴染みのある植物だと思うのですが」
ゼルダはそう言いながら、アカリバナがモチーフとなっている耳飾りをそっと触った。
閉じた蓮の花に似た形のこの花は、主に地下や洞窟といった暗所に咲いていて、実に衝撃を加えると、周囲を明るく照らす光る花が咲くという性質を持つ。そのためか、この時代ではその意匠が照明に用いられていることが多い。ゼルダがこの時代に訪れる直前に訪れた、ハイラル城の地下深くにあったゾナウの遺構でも、アカリバナを模った照明がそこかしこに配置されていた。アカリバナのモチーフが燭台や装飾品に用いられているのは、それだけゾナウの人びとがアカリバナを愛してきたためだろう。とくに陽の光が射さない地下では、アカリバナの輝きは世界を照らし出す光だ。とはいえ、天空から降りてきた種族であるゾナウ族が、地下を照らすアカリバナに特別な意味を見出したのは興味深く、また嬉しい発見だと、ゼルダは思った。
神の一族と呼ばれ、ゴーレムやゾナウギアといった高度な技術を持つ彼らが、この時代のハイラルでごくありふれた花を模した品を作り、それを愛用していた。どれほど技術が発達しても、どんな時代であろうと、ハイラルの自然とそこに生きとし生ける動植物の力強さと生命力に驚き、それらを愛おしく思う気持ちは、ハイラルで暮らす人びとにとって変わらないのかもしれない。ゼルダはそんなふうに考えたのだ。
ゼルダの言葉に、ソニアは頷く。
「そうね。アカリバナは洞窟や地下に咲く花で、今のハイラルでは馴染み深い花だわ。
ゼルダの言う通り、夜の闇を照らしてくれる、私たちにとってとても大切な花よ」
そう言って、ソニアは自身の耳を彩る、大ぶりの耳飾りに手を触れた。しゃらりと涼やかな音を立てて、耳飾りが揺れる。
ソニアのその、一つ一つの仕草さえ洗練された動作を見て、ゼルダは感嘆のため息をついた。ゼルダも一国の王女として、礼儀作法や立ち居振る舞いを学んできたが、ソニアの立ち居振る舞いは、「一国の王女らしく」と教えられた、ゼルダの型にはまった堅苦しいものとは違い、自由で奔放な美しさがあった。ゼルダの時代まで伝わる儀礼の原型ともいえる、荒削りで、しかし洗練されきっていないがゆえにもたらされる大胆さは、ゼルダが数万年前のこのハイラルの自然や人びとに対して抱く感動とよく似ていた。
ソニアの仕草に見とれているゼルダに、ソニアはたおやかに微笑みかけた。
「ハイラルの大地には、アカリバナとは対照的に、陽の光を浴びて、その聖気を蓄える花もあるのよ。
アカリバナのように様々な意匠に用いられることはないけれど」
ソニアの言葉に、ゼルダの顔がぱっと明るくなる。
「ヒダマリ草ですか?」
ゼルダの顔を見つめながら、ソニアも微笑みを浮かべて頷いた。
ヒダマリ草。黒色に縁取られた美しい金色の花びらをもつその花は、この時代のハイラルでは比較的どこにでも咲く花だそうだが、アカリバナ同様、この時代の人びとにとても大切にされている花だった。なぜなら、ヒダマリ草は、太陽の光を浴び、その輝きを聖気にして宿すという特性を持っているからだ。ヒダマリ草が聖気を宿す花だということは、ハイラルの大地に暮らす人びとも経験的に知ってはいたが、この花に瘴気を打ち消す力があると教えたのはラウルとミネア、二人のゾナウ族だった。
とはいえゼルダがヒダマリ草について記憶していたのには、瘴気に蝕まれた身体を癒す効果があるということ以外に、その花がソニアを連想させる花だからという理由もあった。ソニアはもともとハイリア人の巫女だというが、ハイリア人の特徴である長い耳の形も、肌の色も、子孫であるゼルダとは異なる。その花の金と黒の美しい色の調和や、太陽に向かって胸を張って誇らしげに、凛として咲く姿は、ソニアを想像させるのだ。
そして何より、ヒダマリ草は、ソニアが愛する花でもあった。
「瘴気を打ち消すという力があるとはいっても、どこにでも咲く、そんなに珍しい花ではないのよ。
でも、ゼルダのいる時代では、もうなくなっているのかもしれないわね」
ヒダマリ草を見つめて、少し寂しそうにうつむくソニアに、ゼルダは慌てて口を開いた。
「もしかしたら、私が知らないだけかもしれません。ハイラルは私が思っていたよりずっと広いのですから。
それに、私の好きな花も、絶滅するかもしれないと言われていました。
でも、私の騎士が……リンクが私を救い出してくれた後、その花は、ハイラルの地で時折群生を見かけるまでになったんですよ」
ゼルダがサハスーラ平原で見た、姫しずかが辺り一面に咲く光景を思い出しながら言うと、ソニアが笑みを深くした。
「ふふ、また、『リンク』さんのお話ね」
そう言って、穏やかに微笑むソニアの姿に、何だか自分がリンクに向ける特別な想いを見透かされているかのような気持ちになって、ゼルダははにかんでうつむいた。
そんな初々しいゼルダの様子を、ソニアはまるで年上の姉か、母のように優しい眼差しで見つめる。
「今度はラウルにも話して聞かせてあげてね。あの人、ゼルダのことを、歳の離れた妹みたいに思っているみたいだから、リンクさんのことが気になるみたいなの。普段は超然としているというか、それほど人に興味を示すような性格でもないのだけれど。
第一、ゼルダは私の親戚ということになっているのに」
そう言いながら、ソニアは少しいたずらっぽく微笑んだ。
「ゼルダが気になる人をこんなにも気にするようじゃ、私たちの娘がいい人を連れてきたら、あの人、きっと大変だわ」
娘離れできない夫を心配する母親のようなその口ぶりに、ゼルダは思わず笑みをこぼした。
秘石によって増大した自身の力によって、ゼルダは突然、太古のハイラルの時代に飛ばされた。どうしたら元の時代に戻れるだろうかという不安がよぎることもあるが、ゼルダの心は穏やかだった。ラウルとソニア、そしてミネル、その他のゼルダを取り巻く人たちの人柄のおかげだろう。リンクとともに過ごしているときとは別の安心感に、ゼルダは包まれていた。たとえるなら、自分より年長の家族──兄や姉といる時のような……。
ゼルダは時折ふと胸をよぎる望郷の念を抱きながら、自分の馴染んでいるものとは違うハイラルの景色を見つめた。
「一度だけ、その花が──満開の姫しずかが野原を埋め尽くす光景を見たことがあるのです。でも、その後ハイラル中を旅する機会があったのですが、姫しずかを見かけることはまたあまりなくなってしまって。
実を結ぶことも、種を残すこともまれな花なので、あれが私の見た最後の満開の光景だったのかもしれないと考えてしまうことがあります」
ぽつりぽつりとゼルダは語る。
ゼルダはかつて、姫しずかのその「絶滅するかもしれない姫」という姿を、自分の内に眠る力を目覚めさせることができず、無才と陰口を叩かれていた自分自身と重ねてきた。
だが百年の時を経て厄災が封印され、リンクと再会した後、その花は、満開の姿で咲き誇り、サハスーラ平原を埋め尽くすまでになった。それはたとえようもないくらい、まばゆく、美しい光景だった。
やがてゼルダがハイラルの植生について調べていくうちに、姫しずかが絶滅の危機に瀕するまでに至った理由が分かってきた。姫しずかは、清浄な場所でしか育たず、また実を結んで種を残す確率が低いのだ。
それを知ったゼルダは、実や種を残すことがまれなその花の姿に、寂寞の念を抱くようになっていた。ハイラル王家の唯一の末裔であり、その血を次代へ繋がなければいけない自分の身と重ねて。
元の時代に戻りたい。ゼルダはそう考えている。だが同時に、自分が帰るべき時代のハイラルに、姫しずかはもう咲かないのではないかと──姫として、王家の末裔として、自分ができることがどれだけあるのだろうかと、思い悩むこともある。
いや、そもそも、元の時代に戻れるのかどうかさえ──。
「ゼルダ」
優しく深い呼びかけとともに、俯くゼルダの手に、ソニアが優しく自身の手を重ねた。
名を呼ばれ、ゼルダは顔を上げてソニアを見つめた。
そこにいるのは、太陽に愛され、その光を浴びて、美しい大輪の花を咲かせる花に似た、美しい大人の女性だった。
「実を結ぶことが大事なのではないわ。
花を咲かせたということが大切なのよ」
「花を……咲かせたということが……?」
呆然と呟くようなゼルダの言葉に、ソニアは頷く。
「ええ。
だって『リンク』さんは、貴女にその花の咲くハイラルを見せてくれたのでしょう?
その花の名前を知っていたら、そして貴女がその花を愛しているのだと知っているなら、誰でも、その花は貴女の化身だと思うに違いないわ。
彼が貴女に見せたかったのは、貴女の化身である花が咲くハイラル。
そして、彼が見たかったのは、貴女が笑顔でいられるハイラルだったのではないのかしら」
驚きに見開くゼルダの瞳には、ゼルダにとって、この時代のハイラルを象徴する花──ヒダマリ草のような笑顔を浮かべる、美しい人の笑顔が映っていた。