家路 東の空から徐々に迫り来る夕闇の気配に、騎士は顔を上げ、東の空を仰ぎ見た。
そんな騎士の様子に、姫も立ち止まり、彼に倣って空を見上げる。空には数多の鳥たちが群れをなし、飛んでいくのが見えた。
「鳥たちが巣へ戻って行く……。
もう、そんな時間なのですね」
傾きかけた西陽に目を細めながら、姫が小さく呟いた。
ハイラルに暮らす鳥は、地方によって色も姿もさまざまだが、多くの鳥が夜になるとねぐらに戻り、ハイラルの空から姿を消す。夕暮れ時はムクドリ、夜になればフクロウの鳴き声もわずかに聞こえるが、鳥が帰る頃が夕暮れ時で、その頃になれば広場で遊んでいる子どもたちも家に帰り、大人たちもめいめいが帰途に着く。鳥が空から姿を消し始める頃、それがハイラルの夜の始まりの目安だった。
ゆっくりと、しかし確実に迫り来る闇の気配に、姫は小さく吐息を吐いた。
「鳥たちも巣に帰るのですから、私たちもそろそろ、帰らねばなりませんね」
姫は、騎士を伴い、ハテール地方にある古代遺物の調査に訪れていた。ハテール地方にあるブレッド台地、その西側の谷間には、古くから小さな石像が林立している場所がある。そこは街道から外れた先、崖の隙間の奥まった所にある場所で、静かに佇む数多の石像がどことなく不気味に思われて、訪れる人もまれな場所だった。さらに、夜には石像の目が光るのを見たという人もいるという。不思議な場所であることは昔からよく知られていて、姫もおそらくこの場所は古代シーカー文明と──ひいては古の勇者と何らかの関わりがあるのではないかと踏んで訪れたのだが、立ち並ぶ石像が何を語るわけでもなく、何の収穫も得られなかった。
落ち込んだ気持ちを切り替えるように、姫は谷間の入り口で待たせていた愛馬のもとへ戻って行った。これから陽が落ちた夜道を歩いてハイラル城まで戻るのは危険なため、今晩はカカリコ村に宿泊する予定だ。姫と騎士はそれぞれ愛馬にまたがると、カカリコ村へと向けて歩を進めた。カカリコ村は姫と親しい執政補佐官のインパと、その姉の古代シーカー文明の研究者・プルアの故郷でもある。長いこと帰郷していない二人に、何かカカリコ村特有の、つまりは二人のふるさとの物でも持って帰ろうか──そんなふうに考えた矢先、姫はふとあることに気づき、自分より少し後ろを歩くリンクのほうを振り向いた。
「そういえば、リンク。
貴方の故郷は、ここから東にあるハテノ村でしたね」
姫の問いかけに、騎士リンクは「はい」と言葉少なに答えた。関所としての意味合いが強いハテノ砦より東側は、ハイラル人の暮らす土地でもいわゆる「地方」「田舎」に属していて、そこから中央ハイラル──ハイラル城下町を目指して上京する若者も多い。ここへ来る途中、ハテノ砦をくぐった時、リンクが馬上からハテノ砦をしみじみ見上げているのを見ていた姫は、彼がハテノ砦を潜ったことに、何かしらの感慨を抱いているのかと考えたのだった。それはつい先般、ハテノ砦より東側出身の人びとにとってはハテノ砦を潜って西へ向かうことは立身出世の門出であることを意味しているのだと、姫が侍女たちから聞いていたせいでもある。
カラカラバザールでの一件を経て、姫は騎士リンクと打ち解け始めていた。姫は騎士のことをもっと知りたいと思った。だが、それまで騎士に対してすげない態度をとっていた手前、騎士自身に騎士の詳細な経歴を聞くことが、姫には躊躇われた。年頃の少女らしい複雑な心中を持て余して姫に、今は亡き姫の母と同じ年頃の侍女長は、娘に対するような気持ちで、微笑みながら彼女が知りうる限りの騎士のことをつぶさに教えてくれたのだった。
姫が、騎士の出身がハイラルの東にあるハテノ村であると聞いたのはその時だ。彼の父も代々続く由緒正しい近衛騎士の家柄だが、騎士もおそらく立身出世のために早くから故郷を離れ、上京してきたのだろう、と侍女長は語った。彼の両親はすでに亡くなっていて、彼が天涯孤独の身であると姫が知ったのも、侍女長が騎士の故郷について姫に教えてくれたのと、ちょうど同じ頃だった。
彼が宮仕えを始めてから、より正確には、彼が姫付の近衛騎士となってから、騎士が故郷に里帰りしたという話を、姫は聞いたことがない。非番の日であっても、姫は城内のどこかしらで──訓練所か、あるいは食堂で、騎士の姿を見かけるか、その動向を人伝に聞いていた。そのたび姫は、勤勉で忠実な彼の姿に感心したものだが、同時に彼は、もはや家族のいない故郷へは、帰りたくないのかもしれないと考えもしたのだった。それはちょうど、母が亡くなってから、姫が母とよく行っていた城の片隅にある庭園に行かなくなったのと同じように。かつてそこにいた人の、そして今はそこにいない人の面影を探しては、見つけられずに落胆することの、やり切れなさがあまりにも耐え難いからだ。
だが久々に、姫のお供として訪れたハテール地方の風景や、風の匂いや空気の冷たさに、彼も郷愁を覚えているのかもしれない。東の空を見つめながら、ねぐらへと帰っていく鳥の姿を見上げる彼の横顔に、どことなく物悲しさが滲んでいるように見えて、姫は思わず口を開いていた。そして姫の口からこぼれ出たのが、先の騎士への言葉である。
故郷について問うたきり、話の継穂を失い黙り込んだ姫を、騎士は不思議そうに見つめた。帰りたいですか、たまには帰ってみてはどうですか、と、ありふれた会話は思い浮かぶのに、そのどれもが相応しくないように思えて、姫はしばしの沈黙の後、苦し紛れに口を開いた。
「その──貴方の故郷は、どんな所ですか」
姫の問いかけに、騎士がわずかに目を見開いた。騎士のその様子は、その問いかけが思いがけなかったというふうでもあるし、自分の生地について、改めて考えてみたこともないというふうでもあった。姫は慌てて言葉を重ねた。
「あの、どんなことでもいいんです。どんな些細なことでも。
ハテノ村に伝わる染色方法や、雪深い地域特有の建築について、興味がないわけではありませんが、私が知りたいのはそういったことではなく──いえ、もし、貴方が知っているならぜひ教えて頂きたいですが──私が知りたいのは、貴方が故郷についてどう思っているか、貴方の目に映る故郷の景色がどんなふうなのか、つまり──」
──私は、貴方のことを知りたい。
小さく、風にさらわれそうなほどにか細い呟きに、改めて自分が放った言葉の意味を噛み締めて、じわじわと体の熱が上がってきて、姫はいたたまれなさにうつむいた。
姫の言葉に対する騎士からの答えはなく、お互いの間に横たわる沈黙に耐えきれなくなった姫が視線を上げると──そこには、手綱を握っていないほうの手で口元を覆い、先ほどまでの自分と同じように俯いている騎士の姿があった。
姫が顔を上げた気配を感じた騎士も、顔を上げ、姫を見つめた。二人の視線が合う。お互いに、相手に何かを伝えたいような、それでいて相手に何かを告げて欲しいというような眼差しでいて、そんな二人の視線が絡まり合う。
懸命に言葉を探しているように、小さく口を開いた騎士を、姫が促すようにじっと見つめた。先ほどまで感じていた正体不明の羞恥心よりも、好奇心のほうが優ってしまった姫の、いつかのバーチ平原でカエルを見つけた時のような好奇心と探究心に満ち溢れた視線に見つめられ、根負けしたように騎士が口を開いた。
「姫が先ほどおっしゃった、私の故郷に伝わる染色や、独特の建築について、私は姫に説明できるほど詳しくはありません。
あの村のことについて私が知っていることといえば、どの木に生るりんごがアップルパイにすると一番美味しいか、誰が作ったアップルパイが一番美味しいか、どの場所から見るラネール山が一番綺麗か、どの牧場の牛乳が一番美味しいか、ということくらいのものです」
ほとんどが食べ物に関することばかりで、彼らしい。小さく笑みをこぼした姫を、少し困ったように見つめ返しながら、騎士は言葉を続けた。
「幼い頃はよく、生家の庭にあるりんごの木に登りました。そのまま食べるには酸っぱいので──私は平気でしたが──、母がよく、アップルパイを作ってくれました。村の目抜通り、というほどのものでもないですが、村で唯一の通りに沿いもりんごの木が生えています。そしてその木になるりんごは、村人でも旅人でも、誰でも自由にとって良いことになっています。
村の外れの高台には灯台があって、そこへ行く途中にある牧場の牛乳が一番美味しいです。牧場主が、その牛乳で何か、村の新しい特産品を作ろうとしているのだと、ちょうど村を出る頃に聞きましたが、その後どうなったかはまだ聞いていません。
生家の裏には山があって、そこに父と二人でよく登っては、いつでも雪をかぶったラネール山を眺めながら父と一緒に、母の作ってくれたアップルパイを食べたり、父のお勤めの話、武勇伝を聞いたりしたものです」
──生家の庭には小さな泉があって、夏には睡蓮が咲いて綺麗でした。父が帰ってくると、庭の馬屋で馬の世話をするのが自分の仕事でした。秋になると村の田んぼでは稲穂がいっせいに実って、まるで黄金色の海のようでした。姫のおっしゃるように、冬は雪が深いので、高い高い煙突の下の暖炉に火を焚べて、その前で母は繕い物や編み物をして、私は母の語る昔話に耳を傾けていました。
そして、春は……春は、一番好きな季節です。ハテノ村の春は遅いです。ですが、ちょうど春の訪れを知らせる花がハテノ村で咲くころ、一年で一番待ち侘びている知らせが村まで届いて、……。
騎士はふるさとのことを、彼の思い出を訥々と語っていたが、そこまで言いかけて言葉を止めた。それは、饒舌な己を恥じているようでもあり、その先に続く言葉を言うのを迷っているようでもあった。
いつの間にか二人が乗っている二頭の馬の足並みは揃い、二人はほとんど並ぶようにカカリコ村への道を歩んでいた。今はすっかり陽も落ちて、少し前まで鳥が家路を急いで飛んでいた空には、数え切れないほどの星が浮かんでいるばかり。
二人の間に沈黙が横たわる。まるで星の瞬くさやかな音さえ聞こえてくるようだ。口をつぐんでしまった騎士に、姫は静かに吐息を漏らした。
「先ほど貴方が東の空を見つめていたので、もしかしたら、故郷のことを思い出しているのかもしれないと思いました」
姫の言葉に、騎士はまた、言葉少なく「そうですか」と答えた。
「この道は、貴方の家路だったでしょう」
これまで歩んできた道を振り返りながら姫が言う。ちょうど二人の歩はカカリコ村方面と、ハテノ村方面への分かれ道に差し掛かっていた。丁字路を東に戻ればハテノ村方面、右手──北がこれから向かうカカリコ村方面、左手──南西がハイラル中央方面へと続く道になる。
姫の言葉に、リンクは思いがけない言葉を聞いた時のように目を丸くした。
家路、帰路。同じ一本の道でも、人によって意味合いが全く異なることの不思議さについて、騎士は考えた。この道を左手に曲がり、川に沿っていけば道はやがて舗装された石畳となり、ハイラル城下町へと続いていく。かつて故郷を出立したリンクが辿った道だ。このハイラルで、城へと続く道を迷う者はいない。石畳の道は、ラネール山へと続く参道、始まりの台地とそこに建つ時の神殿へ続く道、そして要塞と名高いアッカレ砦へ通じる道を除けば、ハイラル城へ続く道以外にないからだ。
幼い頃、リンクは時折、父に連れられて村を出た。ハテノ村へ続く道は一本道で、逆に言えば、ハテノ村から外界へ通じる道も一本しかない。その一本の道を通り、リンクは父と共に、ゾーラの里やアッカレ方面へと出かけたことがある。そのたびハテノ砦をくぐり、この道を歩いた。そして帰りはこの道を東へ進んだ。岩の切通を抜ければ木立の道が続き、その向こうがハテノ村だ。道はそのまま村の目抜通りへ続くが、父とリンクは連れ立って村外れの家へと帰っていく。吊り橋の向こうで自分たちの帰りを待つ、母と妹のもとへ──。
「そう……ですね」
心の奥底に燻る火のように湧き出た感傷に、騎士はほろ苦い思いを抱えながら頷いた。
母と妹を亡くし、宮仕えのために生家を後にした日。わずかな友人が見送る中、感傷を振り切るように、振り返ることもせずに前だけを見つめて西へ、西へと進んだ道。生き急ぐように兵士に、そして近衛騎士となり、退魔の剣を抜いた勇者と称賛を受ける中で感じていた追い立てられるような焦燥感。重くのしかかる重責と、得られぬ周囲の理解と、故郷を後にしてからずっと自分の心を追い立てていたものがいつしか消え失せ、心が軽くなったのは、一体いつの頃からだっただろう。そんなことをリンクが考えていると。
──私は、貴方のことが知りたい。
ふと、先の姫の言葉が、羽根のように軽やかな響きでリンクの胸を打った。姫の声は柔らかで美しく、震えながら祝詞を述べていたあの偽りの儀式の時でさえ、リンクはいつまでも聴いていたいと思うほどだった。そして、姫がその甘い声で告げた先ほどの言葉は、その声以上に甘く、心惹かれる響きを持っていた。……