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    8nagi87

    @8nagi87

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    8nagi87

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    現代AU転生曦澄

     □ □ □


     天気がいい。暖かい。コートから薄手のジャケットに変えて、靴もブーツからスニーカーに履き替えると、身体がふわりと軽くなった。
     江澄は慣れた道を歩き、駅へと向かう。その間に通り抜ける公園は、桜並木があるがまだ花は咲いていない。噴水の周りをぐるっと通り、右の遊歩道を行くと大きな白い花をたくさん咲かせた木が一本だけ生えている。遠くから見ると、綿毛をつけたようなその木は、周りよりも頭ひとつ分高く、なのに桜の木より幹が細く、その飾り気のない潔さが江澄は好きだった。
     公園を出て、住宅街にある細い階段道を下ると駅はもうすぐそこだ。てかてかと輝く黒い車に信号のない横断歩道を譲ってもらい、コンビニの角を曲がると駅に着いた。スマートフォンで時間を確認すると、乗りたい急行電車があと五分でやってくるところだった。
     改札にICカードをかざすと、嫌な警告音が鳴り行く手を阻まれる。ICカードの残高が82円と表示されていた。江澄はひとつ舌打ちをして、券売機へと足早に向かう。投げるようにチャージ専用機にパスケースを置いて、千円札をぐしゃぐしゃにしながら投入口に押し込んだ。
    「チャージが完了しました」という無機質な女の人の声を最後まで聞くことなく、置いたときと同じようにパスケースを取ると、ホームからアナウンスが聞こえた。
     ぐっ、と踏み出した足に力を込めた江澄は、まさか振り返ったそこに人が立っているとは思いもしなかった。足音も、気配も感じなかった。それよりもなにより並ぶ位置が近い。床に貼られた『ここでお待ちください』という黄色いテープが見えないのだろうか。くそ、と思ったが前に進もうとする身体を止めることはできなかった。
     江澄は顔面から見事に背後に立っていた男にぶつかった。衝撃とともに軽い金属音が足元で跳ねるように鳴る。タイル貼りの地面に何枚かの小銭と黒い財布が落ちていた。
    「……悪い」
     俺がぶつかったのはお前の立っている位置が悪いせいだけどな、と江澄は半分はそこに立っていた男のせいにして、小銭を拾う。くるくると駒みたいに回っている硬貨を捕まえて、財布を拾い上げた男に渡した。
    「ありがとう」
     江澄の手より一回り大きいそこに小銭を乗せて、顔を上げた。思わず惚けてしまうほど美しい顔がそこにあった。
     淡い琥珀色の瞳。透けそうなほど白い肌に、それを際立たせる艶のある黒髪はさらさらと流れるように春風に揺れている。まっすぐと顔の真ん中を通る形のよい鼻の下には、穏やかな微笑みを浮かべる唇があった。
     男は、江澄がいままで十八年間生きてきたなかで、一番美しいと思える顔をしていた。テレビに映る芸能人や雑誌の表紙を飾るモデルですら、こんなに美しい顔の人はいないはずだ。
     惚けたまま、男につられるようにして立ち上がった江澄は、聞こえたアナウンスに意識を引き戻されると、軽い会釈をひとつして立ち去った。
     江澄が乗りたい電車が来るのは二番線だ。この西口改札から二番線ホームへは、地下通路を通り抜けなければならない。駆ければ一分もかからない。電車が来るまであと三分はある。余裕だ、と思った。
     改札にICカードをかざそうと手を伸ばした江澄は、ふと視線を券売機の前に戻した。
     あんなに美しい顔を見ることは、二度とないかもしれない。名残惜しさから盗み見るように振り返る。
     別に男が好きなわけじゃない。ただ、美しいと思えるものは男だろうが、女だろうが、ものだろうが風景だろうがなんでも好きだった。そのなかでも特別興味を惹かれるのは絵画だ。なぜだか小さい頃から油彩、水彩、水墨画問わず絵というものが好きで、絵画集を与えられれば一時間でも二時間でも黙って見ているような子供だった。けれど江澄の画力はいわゆる画伯というやつで、自ら筆を持ちなにかを描こうという気持ちには一切ならず、専ら鑑賞専門だ。
     江澄はもう一度見た男を、ああやはりいつ見てもきれいだ、と思った。
     男は券売機の上に掲げられた路線図を指差しなぞり、小首を傾げている。一歩進み、券売機の前に立つと今度は腕を組み、片手で顎を撫でる。唸る声が聞こえてきそうだった。男は券売機の画面をじっと睨むように見つめると、そのままの態勢でまた一歩戻ろうとした。
     後ろには、まだ一歳にも満たない赤ちゃんをベビーカーに乗せた親子連れが立っている。
    「おい」
     ホームに電車が入ってくるアナウンスと車輪の音が響く。
    「またぶつかって小銭をばらまくぞ」
     一歩、下がろうとする男の腕を掴み、強く引き寄せた。
     これで待ち合わせには間に合わない。別に、三十分でも一時間でも待たせていい相手だが、待たせるとぎゃんぎゃんとうるさいのが面倒臭い。ジュースの一本でもおごって黙らせればいいか。
     江澄と、後ろに並んでいた親子連れに気がついた男は、ベビーカーを押す親に頭を下げると、腕を引かれたまま券売機の前から離れた。
    「すこしは周りに気をつけろ。子供に怪我でもさせたらどうする」
    「すまない」
     江澄のため息に男は申し訳なさそうに眉をさげた。
     ふ、と男の手が伸びて江澄の鼻筋を撫でる。驚きに身体を震わせた江澄に、男は眉をさげたまま言った。
    「これは私とぶつかってしまったせい?」
     撫でる指先に、鼻がひりっと痛む。さっきこの男とぶつかったときに打ったのだろう。擦ったような痛みに赤くなっているかもしれないと思った。
    「すまない、痛かったね」
    「平気だ」
     その手を払い退けて、江澄は半歩引いた。
    「本当に?」
     けれど男は一歩踏み込んで、江澄の顔を心配そうに覗き込む。急に目一杯近づいた美しい顔に慄いた。心臓が破裂しそうなほどばくばくと音を立てる。
     別に怪我をしようが、傷が残ろうが構う顔じゃない。そう、男を安心させる言葉を並べようとするが、琥珀色の瞳に見つめられると声が出なかった。なにか言わなくては。なにか。そう急くとますます言葉は胸のなかでつかえる。江澄はどうにか「……平気だ」と振り絞るように声を出した。
     江澄の言葉にやっとさげた眉を元に戻した男は、路線図を見上げた。鼻筋を撫でた長い指が空をなぞる。その口からこぼれた、えっと……という独り言すら美しい。
    「行きたい駅はどこだ」
     そう聞いてしまったことに江澄自身が驚いた。自分は、こんなお節介な性格をしていただろうか。
     それ以上に、江澄は驚いた。
     この男と離れがたいなどと思ってしまったことに、死ぬほど驚いた。



     平日の昼間の車内には乗車客の姿はまばらだった。買い物袋を隣の座席に置いた人と、スーツ姿のサラリーマンがふたり。制服姿の高校生はスマートフォンをいじり、優先席に座る老人は窓から差し込む日差しの暖かさに気持ちよさそうに瞼を閉じている。
     規則的に揺れる車内は誰の声も聞こえず、車掌の停車駅と到着時間を知らせるアナウンスが響いていた。
     江澄は手に持った冷たいカフェラテの入ったプラスチックカップをじっと見つめていたが、そっと視線を上げて、ひとり分空間を開けて隣に座る人を盗み見た。
     均等のとれた唇が紙コップのふちに触れている。ただそれだけなのに、絵になるほど美しいと思った。思わずまじまじと見てしまったその視線に気がついたのか、男の瞳が江澄に向いた。ふ、と不意打ちのように目が細められ、それがますます造形を際立たせ、江澄は顔が熱くなるのを感じ、逃げるようにカフェラテに視線を戻した。
     男が告げた駅名は江澄が行きたい駅と同じだった。聞けば切符を買ったことも、電車に乗ったこともないと言う。そんな人がこの世にいるのか、と江澄は男の素性を訝しんだ。けれどこの美しい顔面もこの世のものではないからなと勝手に納得すると、この男は恐らくとんでもない金持ちか、驚くような地位の持ち主で、庶民がする暮らしとはかけ離れた生活を送っているのだろうと、これもまた一人勝手に納得をした。
     江澄は路線図を指さし「その駅までは二百七十円だ。金を入れて、二百七十円の画面を押せば切符が出てくる。電車は二番線に来るから、改札を入ったら右の階段を下りて地下通路を通って、向かいのホームに行く。各駅だとか、急行だとかいろいろあるが、どれも行きたい駅に止まるから来たやつに乗ればいい」
     言われた通り、男は券売機に二百七十円を入れて光る画面を押した。吐き出された切符を取ると、まじまじとそれを見る。ICカードをかざして改札のなかに入った江澄に続いて、男も切符をかざす。警告音とともに扉に阻まれた。
    「あんたはそっち。切符を入れるところがあるから、そこに入れて、そう、出てきた切符を受け取るのを忘れるなよ」
     まるでアミューズメントパークのアトラクショに乗ったようなリアクションで、男は改札を通る。地下通路は秘密の探検でもしているかのように、きょろきょろと辺りを眺めながら歩いた。
    「そうだ、お礼とお詫びをしなくては」
     次にこのホームにやってくる電車は急行電車だった。ふたつ手前の駅にもうすぐ到着する、と案内板が光る。
    「は?」
    「ぶつかってしまったお詫びと、切符の買い方だけでなく、乗り方まで教えてくれたお礼を」
     そう言って男はライトグレーのスプリングコートから財布を取り出し、はい、と一万円札を数枚重ねて差し出した。その一連の動作が、まるでそれが正解だと言わんばかりに流れるように行われて、江澄は外見が規格外だと頭のなかもそれに比例するんだな、と新たな数式を発見した学者のような気持ちになった。
    「受け取れない」
    「なぜ?」
    「なんでも糞もあるか。普通こんなことで三万も渡さない」
    「では二万円なら受け取ってもらえると」
    「金額の話をしてるんじゃない。普通は金なんか渡さない。ぶつかって悪かった、教えてくれてありがとう。その言葉で詫びと礼は終わりだ」
    「それでは私の気が収まらない」
     江澄はしわを刻んだ眉間を押さえ、ため息をついた。
    「随分世の中を知らないみたいだな。まあ、切符の買い方も電車の乗り方も知らないんだからそうなんだろうな。こんなガキに周りに気をつけろだの、世間知らずだのと説教されて恥ずかしくないのか? あんた、自分が思ってるよりヤバい行動をしてるぞ。俺が女だったら、痴漢だ、変態だって騒いで駅員に突き出している。自分のその浮世離れした行動を補う顔の良さに感謝するんだな」
     一気にまくし立てる様に言い終えた江澄は、はっ、と大きく息を吸った。
     ベタベタと胸に張り付いていた不快感を言葉にすると、気分がよくなった。代わりに男が項垂れる。よろよろとした足取りで一歩後ずさり、片手が顔を覆う。肩を震わせる男に、怒らせたか? と江澄も一歩引いた。いや、でも悪いのはこの世間知らずの男だ、と手に力を込める。
     けれど男の口から出てきたのは、罵声でも怒号でもなく、ころころとした笑い声だった。
    「お、おい……」
     予想だにしないその声に、江澄はついに男の気が触れたのかと思った。
    「ははっ、すまない。昔、同じようなことを言われたのを思い出してしまって」
     止まらないそれに、男は涙まで浮かべている。ひとしきり笑い続けた男は、浮かんだ涙を人差し指でぬぐう。爪の先に乗った涙が小さく光った。
     なぜだか急にそれに絆されてしまった。理由はわからない。けれどその涙が江澄の心を震わせる。そんな風に涙を浮かべるのなら、この男の不器用な感謝を受け取ってもいいと思ってしまった。
    「……喉が渇いた」
    「うん?」
    「あなたのせいで喋りすぎて喉が渇いた」
     わざとらしく喉元に手を当てて、芝居がかった声で言う。あ、と口を開けた男は辺りを見回して、ホームにぽつんとあるドリンクスタンドを見つけると「あれ」と指をさす。
    「よければ君にコーヒーを一杯贈りたいのだけれど」
    「カフェラテなら」と言うと、男は嬉々とした笑みを江澄に向けた。
     そうして奢られた一杯を手に持ち、江澄は電車に乗った。注文を待っている間、待ち合わせ時間に遅れるとメッセージを飛ばせばぺろっと舌を出したうさぎのスタンプとともに『悪い! いま起きた!』というメッセージが送られてきて、江澄はスマートフォンの画面に向かって悪態をついた。
    「いまってもう十一時過ぎているけれど、お友達はこんな時間まで寝ているの?」
     午前中に起きただけでもマシだと言うと、男は江澄の言った言葉の意味が理解できなかったのか、困ったように顔を歪ませた。
     停車した電車に数人の乗客が乗ってくるが、車内は相変わらず静かだった。氷が溶けてすこし味が薄くなったカフェラテは、淡い茶色をしていた。その色は隣の男の瞳と似ていた。
     さっきは琥珀色に見えたはずなのに、気のせいだったのだろうか。
     そっと男を見る。やはり淡い茶色の瞳が見える。きっとあれは光の加減だとかで琥珀色に見えただけだろう。きれいな色の瞳だったのに。
     ぐるぐると勢いよくストローを回し、音を立ててカフェラテを飲む。がしがしとストローを何度か噛むと、心がすこし落ち着いた。
    「君は大学生?」
    「四月から」
    「入学おめでとう。私にもこの春から大学に通う弟がいるんだ」
     弟はどこの大学の、何学部で、と男はぺらぺらと話を続ける。個人情報だとか、プライバシーという考えはないのだろうか、と江澄は興味のそそられない話に、へえ、と適当に相槌を打った。
    「君はどこの大学に通うんだい?」
    「F大」
     向かいの中吊り革広告に載っている大学の名前を言う。この時代、誰が見ず知らずの人に本当のことを教えるだろうか。
    「あんた、仕事は?」
     学生にとっては春休みだが、今日は平日の真昼間だ。まともな社会人なら仕事をしている時間だ。男は仕事、と呟いて「ボディーガード、かな」と言った。
    「へえ、随分珍しい仕事をしているんだな」
     嘘だ。絶対に、嘘だ。
     確かに男の体躯はよかった。高身長に見合った長い手足、服の上からでもわかる厚い胸板に、広い肩幅。柔らかく、しなりのある筋肉がついていることがわかる。だけれど、映画でしか見たことのないその職業に就いているとは到底思えない。
     それから男はこれから向かう先が美術館であること、音楽鑑賞が趣味であること、犬を飼いたいからペット可の物件に引っ越しをしようか考えていることなどを話した。犬、と聞いて江澄はすこし興味を持ったが、それにも「ちゃんと面倒を見ろよ」と短く答えるだけに留めた。
     どうかこいつの周りに犬の世話ができる常識人がいますように、とそっと願った。
     目的の駅に電車が着くと、江澄は待ち合わせている場所へと向かうため、男に別れを告げた。
    「美術館はこの先のC1出口を出て、道なりに進めばある。わからなかったらすぐ人に聞け。だが、礼だと言って金なんか渡すなよ。今度こそ本当に通報されるか、逆に変な勧誘に捕まってカモにされるぞ」
     俺はこっちだから、と逆方向を指差す。
    「すまない。色々ありがとう――最後に名前を聞いても?」
    「先にそっちが教えてくれたら」
    「ああ、すまない。私は曦臣、藍曦臣と言う」
    「俺は魏無羨、だ」
     これは寝坊した友への密やかな仕返しだ。無駄に身支度に時間のかかる魏無羨は、きっとあと二十分は江澄を待たせるだろう。待ち合わせに遅れる罰に昼飯は魏無羨におごってもらおう。ラーメンかローストビーフ丼か、それとも粗挽きハンバーグ定食か。
    「ありがとう無羨くん」
     江澄が告げた名前を偽名とは微塵とも疑わず、咲いた花のような笑みで礼を言う男は、けれどその場から動かない。ちゃんと教えた通りに目的地に向かうか見届けるつもりだった江澄は、立ち去らない藍曦臣に痺れを切らし「じゃあ」と背中を向けた。もうこの男と離れがたいなどとは思っていなかった。
     さっきまでの電車内とは違い、都心のターミナル駅は昼間でも人が多い。改札に向かう人、駅から張り巡らされた高層ビルや商業施設に向かう人で溢れかえっている。それぞれの喋り声や足音がいくつも重なると、それはただの形のないBGMになる。
     まるでゲームのように向かってくる人を避けながら、地上に向かって歩く江澄のその足が急に止まった。
     やばい。なんでここで。
     つ、と一筋の汗が江澄の背中を滑り落ちた。
     視線の先にスーツ姿のサラリーマンがいる。それは通路のど真ん中で周りの迷惑なんか省みず佇んでいた。
     振り返って走り出そうかと思ったが、まるでその場に縫いつけられたように足が動かない。
     いつものあれなのに、なんで。
     はっ、と引きつるような呼吸を繰り返す。江澄はできるだけ冷静にと自分に言い聞かせながら、そっと動かない足に視線を落とした。影がある。自分の影だ。真っ直ぐ前に伸びたその影を追うが、終わりがない。まるで一本の筋のように前に、佇むそれに向かって真っ直ぐ伸びて、そうして反対側から伸びたその影と重なって、――途端、ぐにゃりと動いた。
    「ッ!」
     人の影がこんなに長く伸びるだなんてあり得ない。ましてや、重なった影がひとつに繋がって、生き物みたいに動くだなんて。
     上半身をひねるが、まるでなにかに掴まれたように足が持ち上がらない。重りがついているというより、地面に引っ張られているかのようだった。
     どうする、どうすればいい。
     江澄は影の先の、サラリーマンの姿をしたそれを見た。
     ゆら、と黒いもやのようなものが滲む。
     それはいつも見るものより濃く、あっと言う間にサラリーマンを包み込んでひとつの塊になった。
     無理だ。逃げられない。
     江澄は恐怖から目を閉じてしまいたかったが、それすら恐ろしくてできなかった。
    「君はあれが見えるんだね」
     不意にとん、と肩に手が置かれた。振り返り、顔を上げると、そこにさっき別れたはずの世間知らずの美しい男が――藍曦臣が立っていた。
     琥珀色の淡い色の瞳が、あれと言った黒い塊を見据えている。
    「なんで、あんた美術館に行ったんじゃ……! それに、あれが、あんたもあれが見えるのか? あれは、なんなんだ? あいつが、あ、足が動かないんだ。なにかに掴まれてて、影みたいなのが、なんで俺が、あれは……ッ!」
     言いたいことが溢れ返ってうまく言葉にならない。江澄は詰まりそうになる言葉をどうにか吐き出しながら、藍曦臣の腕を両手で掴んだ。そしてもう一度「見えるんだね」と問われた言葉に強く頷いた。
    「大丈夫」
     藍曦臣の手が江澄の頭を撫でる。まるで子供にするみたいに、そっと。
    「今度は私が守るから」
     大丈夫。
     そう微笑んで、藍曦臣の手が江澄から離れる。
     藍曦臣は黒い塊と対峙するように江澄をその背中に回す。大きな背中がそれを遮り、視界から見えなくなると、たったそれだけのことなのに安堵に包まれる。大丈夫、と根拠のないその言葉にやっと息が吸えた。
     一歩、藍曦臣が前に進むと行き交う人々がまるで海を割ったように左右に散った。途端、黒い塊からぬっとふたつの手のようなものが生え、藍曦臣を目がけて伸びる。
    「……っ!」
     危ない! そう叫びたかったのに縫われたように唇が開かない。どんなに力を込めても声が出せず、江澄はうめき声を上げることしかできなかった。
     藍曦臣は左手に持った鞘から剣を抜く。
     どこから取り出したかわからないそれを振るうと、だらしのない音を立てて黒い塊が切り捨てられた。
     光るそれは、どうみても剣だった。おもちゃやハリボテではない、鉄の輝きを持つ凶器を慣れた手つきで扱う藍曦臣の表情は穏やかだ。まるで、さっきまで電車内で雑談していたときのような顔で、音もなく振るう。
     訳がわからない。
     なんで剣なんか持っているんだ。どこから出したんだ。そんな危ないものを。それって法律違反じゃないのか。
     江澄は叫び出したいのにそれができない喉を振るわせた。
     柄を握り直した藍曦臣は、穏やかな目を細めて、黒い塊に剣を突き立てた。そのまま深く差し込んで、勢いよく振り上げるように抜くと、黒い塊が砂の山が崩れるようにして消えた。
     高い音がして、剣を鞘に収めると光の粒となって音もなく藍曦臣の手から消えた。
     一拍置いて、まるでなにもなかったかのようにそこにいた人たちが動き出す。音楽プレイヤーのボリュームを上げるように、都会の喧騒が戻ってくる。悲鳴のような声が聞こえると、そこにサラリーマンの男が倒れていた。
     いつの間にか動くようになっていた足で一歩その人に近づこうとすると、藍曦臣が江澄の手を掴んだ。
    「大丈夫、あの人は死んでない。いまは邪祟が抜けてすこしばかり呆けているだけ。すぐに気がつくよ」
     そう言って流れる人の波に逆行するように江澄の手を引いた。
     あんな風に剣を突き立てられ、斬られたのに、倒れているサラリーマンのスーツは破れることもなく、ましてや血の一滴すらそこには流れていなかった。
    「んん! ッ……!」
    「ああ、なにも言わずに禁言術をかけてしまってすまない。君の声に邪祟が反応しているようだったから、すこしだけ喋れなくさせてもらった。大丈夫、それはしばらくすれば勝手に解けるから」
     藍曦臣の言う言葉がなにひとつ耳慣れなくて理解できない。
     人工的に作られた緑の溢れる広場に連れてこられた江澄は、木陰になっているベンチに腰掛け、藍曦臣が買ってきたペットボトルを受け取った。キャップに手をかけるが、唇は相変わらず開く気配がない。
    「あれは邪祟と言ってね」
     隣に座った藍曦臣は、そっと汗で額に張りついた江澄の髪を剥がした。
    「簡単に言うと怨念の塊のようなものだ」
     怨念、と聞いて江澄は血の気が引くように足元が震えた。それと同時に納得もした。
     あの感じた恐怖は、怨念という形だったのか、と。
     あれをはじめて見たのは幼稚園のときだった。公園で遊んでいるときに、ぽつんとブランコに座るそれは人の形をしていた。ゆらゆらと、ゆっくりブランコを漕ぐそれに近づこうとした江澄を魏無羨が呼び止める。振り向きざまボールを投げられて、顔面で受けるようにしてボールを取った江澄を魏無羨は下手くそと馬鹿にした。ブランコに変なのが、と振り返るとそこにはもうなにもいない。見間違いだったのだろうか、と思ったが無人のブランコは確かにゆっくりと揺れていた。
     次に見たのは小学校の体育館で、それはステージの上にいた。黒く丸いもやのそれは、校長先生にまとわりついて離れない。じっと校長先生を見ていた江澄に、いつものように魏無羨が悪ふざけをした。なんであんなつまらない話を真面目に聞いてるんだ江澄は。いや校長先生がカツラかどうか見極めてるのか⁉ 全校集会の最中に騒いだふたりは担任教師に怒られ、罰として教室の掃除をさせられた。様子を伺いにきた校長先生には相変わらず黒いそれがまとわりついていたが、当の本人は気づいていないようだった。それ、と言いかけた江澄にまたも魏無羨がほうきをぶつけてきて、殴り合いの喧嘩になった。気づくと、止めに入った校長先生にまとわりついていた黒いそれは消えていた。
     中学生のとき、それが江澄を呼んだ。実際それは声も音も出さないのだが、江澄は呼ばれたような気がした。横断歩道の向かいに立つそれが、心地よい声で江澄の名前を呼ぶ。誘われるように横断歩道に一歩出た。赤信号なのに、車は来ているのに、頭の隅で危ないと理解しているのに、江澄の足は止まらない。
    「江澄!」
     魏無羨が江澄の腕を掴んだ。クラクションが鳴り響く。車が風を切る圧に江澄は我に返った。
    「江澄、お前ついに車に轢かれても死なないほど強い身体を手に入れたのか? 俺に腕相撲で勝てなかったのに?」
     中学にもなって俺に手を繋いでもらわないと帰れないなんて江澄はお子様だな、と言う魏無羨の顔を江澄は忘れることができない。ぎゅっと握られた手を振り解いて、江澄は悪態をついた。いつものように「気色悪いことを言うな」と、吐き捨てた江澄は、横断歩道の向こうで散るように消えたそれにはじめて恐怖を覚えた。
     それから、名前も実態もないそれを見たときはできるだけ意識しないように気をつけた。意識しなければ、それは江澄に近づいてこなかった。しばらくそこに佇んで、音もなく消える。誰かに、両親や姉や、魏無羨に相談しようという気には一度もならなかった。どうせ、言ったところであれが見える人などいないとわかっていた。実害がなければ、ちょっとした恐怖を数分感じているだけで終わる。ただ、それだけだ。
     軽快な電子音が鳴った。江澄のスマートフォンがメッセージを受信したことを知らせる音だ。駅についたけど、どこにいる? というそれは、盛大に寝坊をした魏無羨からのものだった。
    「お友達も来るようだし私は行こう。禁言術も、もう解けそうだね」
     藍曦臣の指が江澄の閉じた唇を撫でると、そこにわずかな隙間ができた。
    「ああ、最後にこれを」
     そう言って立ち上がった藍曦臣は江澄の手に白い小さな巾着を握らせた。
    「これは私の家に伝わる匂い袋で霊力が宿っているんだ。下等な邪祟なら君に近づくことすらできない。お守り代わりに持っていて」
     握らされたそれはどこか懐かしい香りがした。田舎の祖母の家のような、寺で焚かれている線香のような、凛とした静かな場所にあるあの人の部屋で嗅いだような――
     信じていないようだけれど、と明らかに訝しむ江澄に藍曦臣は困ったように笑った。
    「それじゃあまた、江澄」
     藍曦臣はライトグレーのコートの裾を翻し去っていった。ただ歩いて行くだけの背中なのに、それすら厳かで美しい。
     江澄はもう一度匂い袋に視線を落とした。白い巾着を藍色の紐が縛っている。手触りのよいそれは、よく見ると雲のような刺繍が施されていた。手の込んだ作りだな、とジャケットのポケットに突っ込んだ。
     もらったペットボトルの蓋を開けて、はたと気づく。
    「あいつ、俺のことを江澄って呼んでなかったか……?」





     駐車場に停められた車から、人が降りてくる。
     黒く、てかてかと輝くほど磨かれたその車から降りてきた男は、辺りを見回すと、探していた人物を建物の入り口に見つけてそっと近づいた。
    「兄上」
     喧騒にかき消されてしまいそうなほど、ささやかなその呼び声に振り返った男は柔らかな笑みを浮かべていた。
    「忘機」
     差し出された車のキーを受け取って、運転は慣れたかい? と問う。それに小さく首を振ってまだ慣れませんと、やはりささやかな声で返す。
    「兄上は、電車には無事に乗れましたか?」
    「いいや。切符を買うのに手こずってしまった」
     建物に入り、エスカレーターを登る。
    「けど、江澄が切符の買い方も、電車の乗り方も教えてくれた」
     その言葉に忘機と呼ばれた男の顔が険しくなる。エスカレーターの手すりを掴む手に力が込められた。
    「……やはりあれは、江晚吟でしたか」
    「ああ。だが、魏の若君が言うように彼に前世の記憶はない」
     三階についたエスカレーターを降りると、目の前に大きなポスターが掲げられていた。色鮮やかな調度品の写真に、古代中国美術展という黒い文字が並んでいる。
    「兄上と江晚吟が接触したことを魏嬰が知ったら、きっと怒られます」
    「邪祟が現れたんだ。魏の若君には不可抗力と言うしかないだろう」
     ガラステーブルのレセプションに声をかけると、責任者であろうスーツ姿の男性が現れ、深々と頭を下げた。
    「お待ちしておりました、藍曦臣様、藍忘機様」
    「お伝えしていた時間より遅れてしまって申し訳ない」
    「いえいえ、藍様にお越しいただけるだなんて、どれだけ有難いことか」
     恭しくこちらへ、と案内をする男性に続いて入り口をくぐる。
     今回のこの美術展は私共が力を尽くし集めた貴重な品が展示されています。清河聶氏が集めた貴重な絵画や、美術品はもちろん、なんとあの蘭陵金氏の品もお借りすることができたんです。金氏はなかなかこういうところに貸し出してはいただけないので、本当にこのタイミングで藍のお二人に来ていただけたのは喜ばしいことです。
    「私も今回の展示はとても楽しみにしていました」
     藍曦臣がガラスのケースに収められたそれらを見ながら言う。
    「蘭陵金氏は雲夢江氏と繋がりが深かったと文献で見たことがありますが、その品も今回は展示されているだとか」
     ええ、と大きく頷いた男性が言う。
    「ご存じかと思いますが、雲夢江氏の品はあまり残っていないんです。金氏と江氏は他の世家よりも繋がりが深かったので、幾つかその品を譲り受け残していたようですが……」
     そう言って通された部屋の真ん中にガラスケースが、ひとつ。
     夜のように深い紫色の壁紙に囲まれた小さな部屋に、橙色のスポットライトが落ちている。その光に照らされた、小さな展示品。
    「あれが、雲夢江氏が扱ってきた仙器で、名を――」
     藍曦臣は、悲しいほどに愛しい彼の仙器の名を呼んだ。
     紫電、と。


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    8nagi87

    DONE曦澄ワンドロワンライ
    『手紙』
     ■ ■ ■


     姑蘇藍氏歴代宗主のなかで、一番筆忠実なのは藍曦臣だった。どんなに些細な、返事を要しない書簡にも時季の香を焚きつけた書簡箋で一筆返し、またその字も大変美しく、いつの間にか「藍曦臣から届いた書簡を懐に入れておくと文字が上達する」という迷信まで生まれていた。
     その迷信が仙門百家の間で広まると、藍曦臣の元にはさらに多くの書簡が届き、酷いときは三日も寒室にこもり、ひたすら返事を書き綴っていることもあった。見かねた藍啓仁が門弟を検閲の役につけ、返事が必要なものだけを藍曦臣に届けるようになったが、それでも雲深不知処には毎日多くの書簡が送られてきた。
     唯一、検閲されることなく藍曦臣の元に届けられる書簡は、共に四大世家と呼ばれる雲夢江氏、蘭陵金氏、清河聶氏の宗主たちから届くもので、だが、清河聶氏聶懐桑から届く書簡のほとんどは返事が必要のない、いわゆる愚痴と泣き言が綴られたものだった。しかし、返事をしなければ聶懐桑の情緒はますます不安定になるものだから、検閲を務める門弟は聶懐桑からの書簡が送られてくると急いで藍曦臣に届け、藍曦臣もまた、急いで返事を書き綴っていた。
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