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すれ違う人に「お疲れ様でした」と「ありがとうございました」を繰り返しながら、江澄は白い廊下をすこし速いペースで歩く。ホテルのように同じドアがいくつも並ぶなか、迷うことなくひとつの部屋に入ると、テーブルの上に投げるように置いてあったカバンに手を入れた。時刻は午後六時十分。スマートフォンの画面に並ぶ通知から、目当ての名前を見つけると急いでメッセージアプリを立ち上げる。
『いまおわった』
変換する時間も惜しくてメッセージを飛ばせば、すぐに既読マークがついた。紫のカーディガンをひっくり返すように脱いで、無理やり頭をとおしたパーカーの上にライダースジャケットを羽織る。鈍い音を立てて、テーブルに置いていたスマートフォンが震えたころには、江澄はダメージ加工の施された細身のデニムからスウェットパンツに履き替え終えていた。
「俺は先に出るからな」
丁寧にセットされた髪の毛をぎゅうぎゅうとバケットハットに押し込んで、カバンを肩にかけた江澄は、入れ違いに部屋に入ってきた魏無羨に言った。脱ぎ散らかした借り物の衣装は、テーブルの上に乱雑に置かれている。
「もう着替えたのか江澄? 俺もいま着替えるから、ちょっと待ってよ」
「待たない。先に出ると言っただろ」
「なんでだよ。今日の仕事はこれで終わりだろ? なんでそんなに急いでるんだ?」
「仕事が終わったから急いでるんだ」
手に持っていたスマートフォンがまた震える。ちら、と片目で画面を確認すれば、スキップをするキャラクターのスタンプが見えた。魏無羨の肩を掴み、力いっぱい退かすと江澄はエレベーターホールに向かって駆けだした。背中から「江澄! おいっ、この野郎! 痛いじゃないか!」と怒る魏無羨の声が聞こえたが振り返りはしなかった。
タイミングよく開いたエレベーターのドアから人が降りてきた。江澄は持前の反射神経で、降りてきたADに顔面から突っ込む前に半身を翻し、悪いと謝罪の言葉をつぶやきながらエレベーターに乗り込んだ。早く早くと急く気持ちで最下階のボタンを連打すると、ゆっくりとした動きでドアが閉まる。
時刻は六時二十分。ポーン、と軽い音が頭上で響きドアが開く。首から下げていた入館証を守衛に渡し、薄暗い駐車場に出る。自販機飲料の補充配送車から、スモークフィルムを貼られたハイエースまで何台もの車が停められている。ホンダやトヨタという馴染みのあるメーカーから、ベントレーにランボルギーニ、メルセデス・ベンツにアウディとコンスタントに高級車が並ぶこの駐車場はオートサロンみたいだ。江澄は急ぎ足で教えられた柱番号に向かった。大量生産された車はどれも一緒のはずなのに、その一台はなぜか特別なオーラに包まれていて江澄の目に留まる。黒いレクサスの窓ガラスを叩いて、江澄は後部座席に乗り込んだ。
「すまない、遅くなった」
忙しなくシートベルトを締める江澄に向かって「お疲れ様」と運転席から声をかけた男は、どこか不服そうにバックミラーに映る江澄を見つめていた。ねじれたシートベルトを直していた江澄は、いつまでも聞こえないエンジン音に顔を上げると、不服そうな男――藍曦臣の視線とミラー越しにぶつかった。
「なんだ?」
「まだ助手席には座ってもらえないのかと思って」
「誰かに見つかったら困るだろう」
「誰かとは?」
「週刊誌とか、ファンとか」
「困るようなことはしていない筈だけど」
「……いまはそうでも、そのうち困ることになる」
話は終わりだとでも言うように、江澄はカバンから取り出した黒いマスクで口元を隠した。座席に投げ置かれていたスマートフォンに指先が触れて画面を明るく照らす。六時二十五分を過ぎていた。
「曦臣、時間は? 間に合うのか?」
江澄の言葉に腕時計を見た藍曦臣は、おや、とひとつ唸り、なにか考える素振りをみせると静かな駐車場にエンジンを響かせた。
「十五分で着くようにしよう」
そう言い終わる前にアクセルペダルが強く踏まれ、江澄はなめらかな革張りのシートに深く沈み込んだ。
隙間という隙間を縫って立ち並ぶビル群を後部座席の窓から眺める。すっかり日が落ちて空は紺色の上に黒を塗り重ねていく。薄金色を放つ星が装飾を施すが、その数は少ない。代わりにビルの明かりや、街灯や、看板のネオンがケバケバしく光っている。流れる窓の外の景色をぼんやりと目に映していた江澄は、ふとビルに冠されたポスターに目を止めた。
一人の男と、二人の女が写っている。男は椅子に座り、一人の女がその身体を背中から抱きしめている。もう一人の女は座る男の足元に項垂れるように寄り添い、細い腕を男の脚に乗せていた。どちらの女性も顔は反対側を向いていて表情はわからない。椅子に座る男はまるで置物のようにそこに座り、背中の女にも、膝にまとわりつく女にも視線を向けず、こちらを見ていた。しっかりとピントの合わされたその顔は、柔和な雰囲気を醸し出しつつも、色味も感情もない唇がどこか不穏な気持ちにさせる。しばらく流れる景色のなかでじっとポスターを見つめた江澄は、ドラマ、とつぶやくように言った。
「来月から始まるんだな」
ポスターのなかの男は、後部座席からの声にバックミラーに視線を向けた。柔和な雰囲気は変わらないが、不穏さは一切なく、むしろ常よりも上がっている口角に親しみやすさが出ていた。
藍曦臣。その名前を知らない者はいないのではないか、と思うほど彼は有名な俳優だ。三歳のときにテレビCMに出てから、二十年以上第一線で活躍し続けている。次から次へと若手がデビューする芸能界で、年齢を重ねても人気は落ちるどころか上がり続け、去年はドラマ出演二本、映画は三本公開され、一昨年は公共放送のドラマに半年間出演し、その評判から来年は同じく公共放送で一年間かけて放送される歴史あるドラマシリーズに主演として出演することが決まっている。飛ぶ鳥を落とす勢いを維持し続けた結果、向かうところ敵なしの人気だ。
けれど藍曦臣はそんな人気を鼻にかけることもなく、江澄が愛想のひとつもなく頬杖をつきながら外を眺めている姿にもなにも言わなかった。むしろそんな態度を取る江澄に目を細め、名残惜しそうに視線を前へと戻した。
「見てくれるのかい?」
「面白そうだったら」
どんなストーリーなのかと問えば、藍曦臣はそうだなとすこし言葉を探し「インモラルな話かな」と言った。
「とある高校で教師として働いていた男性は自分の教え子である女子生徒から好意を寄せられていた。聖職である教師という立場から、はじめは女子生徒からの想いに一切応えるつもりはなかったが、彼女の純粋な想いに次第にほだされていった。そして何より、女子生徒は彼の初恋の人に似ていたんだ。程なくして、交際をはじめたふたりだったが、そんなときに男性はとある女性と出会うことになる。その女性は駅前の弁当屋でパート勤めをしている笑顔が可愛らしい人だった。一人暮らしの男性はよくその弁当屋を訪ねていたが、ひょんなことから彼女が中学時代に家庭教師をしてくれていた女性だと判明した。彼女は結婚し、子供もいたが、二人の距離は縮まりついに一線を越えてしまう」
「不倫か」
「女性と一線を越えてしまったが、男性は女子生徒との交際を終えることはなかった。そんなある日、面談で女子生徒の母親としてやって来たのが、その不倫関係にある女性だった――というところから物語がはじまっていくのだけれど」
「最低だな」
最近はそういうのが視聴率が取れるらしい、と藍曦臣は言う。もう一度見てくれるかと問われたが、江澄はバックミラーを睨みつけ、遮るように面白くないと吐き捨てた。
「ああ、江澄。これ来週発売の新曲だろう?」
交差点の赤信号で止まった藍曦臣は、ほら、と総合商業施設の壁面に埋め込まれた大型ビジョンを指さした。
極彩色のなかにふたつの影が立つ。目元、口元、指先、首元とアップに映し出したカットがテンポよく続き、一度画面がブラックアウトすると、再び目に痛いほどの極彩色が画面を覆いつくした。流れ出したアップテンポなダンスミュージックに合わせて、ふたつの影だったものは持て余しそうなほど長い手足を自由に動かす。一人は地を蹴り高く飛ぶと、くるりと宙を舞う。着地と同時に笑みを浮かべ、挑発するかのように赤いマニキュアを塗った指を動かす。その指のマニキュアが紫に変わったかと思うと、銃を模した指先が画面を打ち抜いた。その手が艶めかしく自身の首元を撫でると、近づいたカメラを冷たく睨みつけ、また画面は暗転した。四桁の数字と、Don′t miss it という文字が浮かび、もう一度だけ極彩色のなかに二人が映し出される。
それが江澄と魏無羨の二人が組むアイドルグループ双傑の新曲ティザーだった。
「今回の曲もとても素敵だ」
その言葉に嘘偽りがなければ、世辞もへつらいもない。藍曦臣は心の底から思ったままに言葉にする。それが江澄にとって身じろぎしてしまうほどくすぐったくて、嬉しいはずなのに、天邪鬼な性格が邪魔をして素っ気なく鼻を鳴らしただけだった。
信号が青に変わり、車は再び走り出す。
双傑は二年前にデビューしたばかりのアイドルグループだ。主に十代、二十代の女性に支持され、これまでにシングル五枚、アルバム一枚を出し、冠番組をひとつ持っている。来月に新曲を引っ提げてのアリーナツアーも決まっており、音楽番組、バラエティ、CM、雑誌にと、その姿を目にしない日はない。今日も朝から雑誌の取材を受け、来週から立て続けに出演する音楽番組に向けてリハーサルを行い、予定より押してバラエティ番組の収録を終えたところだった。連日深夜まで続く仕事に若いとはいえ体力を奪われ、うっかり気を抜くと心地よい揺れに誘われて眠りに落ちそうになる。
「着いたよ」
マスクの下で大口を開けてあくびをしていた江澄を、微笑ましそうに見る藍曦臣と目が合った。今度はバックミラー越しではない。時刻は六時四十分。言っていたとおり、十五分で目的の場所へと車を着けた藍曦臣のあとを、江澄はひな鳥のように追う。
上昇するエレベーターの扉が開くと、朱色のカーペットが敷き詰められたホールに出た。二階までの吹き抜けは解放感があり、天井にはクリスタルガラスを何千もと散りばめたシャンデリアがぶら下がっている。大理石の柱と、金色の手すりが施された階段はまるでおとぎ話のなかに出てくるお城のようだ。そしてその場にいる人たちも、みな普段とは違うよそ行きの服に身を包んでいる。見るからに高そうな毛皮のコートに、曇りひとつなく磨かれた革靴、黒や紺色のスーツ姿の人の胸には高確率でハンカチーフが添えられている。なにが入るんだと思うほど小さなバッグを持った女性たちは艶のあるワンピースに華やかなドレス、着物姿の人もいた。
江澄は自分の服装を省みた。ライダースにパーカー、スウェットパンツにバケットハットなんて場違いも甚だしい。気まずさに尻込みしながらエレベーターを降りると、毛足の長いカーペットに足が沈み、江澄の緊張感はさらに増した。
「正面の席でなくて悪いのだけれど」と案内されたのはステージを横から見るような二階席だった。席に着くまでの間、ちらちらと視線が刺さる。マスクをして顔の半分を隠しているとはいえ、藍曦臣の体躯もオーラも常人とは圧倒的に違う。これが藍曦臣だとわからなくても、目が自然と引き寄せられて離れない。けれど当の本人はそんな周りからの視線に慣れているのか、気づいていないのか、辺りをちらりとも見ずに江澄をエスコートする。それにますます肩身を狭くした江澄はただうつむいて、椅子に深く腰掛けるしかなかった。
半円形のステージを囲むように客席が組まれている。すり鉢状の客席は一階席、二階席とあるが、天井は二階席までの高さより一・五倍以上高かった。天井からはいくつものシャンデリアと照明が連なっており、会場全体を温かい光で照らしている。それを淡い色の木目の壁がさらにやさしく受け止めるものだから、圧倒的な広さのなかにぬくもりがあふれている。最奥の壁には太さの違う銀色の筒が何本も並んでいた。まるでオブジェのようなそれはパイプオルガンだと、藍曦臣が教えてくれた。
「……場違いな気がする」
気がする、のではなく実際にそうなで、江澄はいますぐ帰って魏無羨とテレビゲームをしたくなった。くだらない言い争いをして、耳までチーズの入ったピザを食べて、コーラが飲みたい。手渡されたプログラムに並ぶ曲名はどれも聞いたことがないものだし、ステージに出てきた人たちが手にしている楽器にもなじみがない。江澄はプログラムに書かれている『藍啓仁』という名前に視線を落とし、そっと息を吐いた。
藍啓仁は世界的に有名な指揮者だ。クラシック音楽に興味のない江澄でさえ音楽の教科書に載っていたその名前を憶えている。無口で完璧主義者だが、高い知識を備え、最近では指揮者としてよりも、次世代の奏者を育てる音楽教育家としての活動に力を入れていた。そんな藍啓仁が十年ぶりにタクトを振るうとあって、名前を知っている程度の江澄でも驚いたものだった。こういう高貴で芸術的なものに興味があるだろうなと藍曦臣に話を振ってみれば、まさか「ああ、藍啓仁は私の叔父で」なんて言葉が返ってくるとは誰が思うだろう。興味があるのかい? 耳なじみのあるものではないかもしれないが、もしかしたら貴方の仕事に役立つかもしれない、叔父以外にこのバイオリニストもとても有名で、彼の演奏するストラディバリウスの音色は一度聞いたほうがいい――と、あれよあれよと言ううちに席を用意されてしまい、今に至る。
クラシックのコンサートなど、人生で一度も観たことのない江澄は、そのマナーもルールも、愉しみ方も知らなかった。生で音楽を聞いたのは勉強と称して連れて行かれたアイドルのコンサートか、好きなバンドのライブくらいだ。それも片手で足りる程度。こんな格式高い会場で、いかにも上品そうな人たちと、最高級の楽器と、有名な指揮者の演奏を、藍曦臣の隣で聴くなんて緊張でどうにかなってしまいそうだ。これならぶっつけ本番でアリーナのステージに立つ方が絶対にマシだ。
そう、絶望にも似た緊張感に包まれている江澄を置いて、会場から沸き上がるほどの拍手が響いた。
時刻は午後七時。定刻を迎えたステージの上に黒い燕尾服を着た藍啓仁が現れた。その顔は迎えられる拍手に笑みひとつなく、むしろきつく口を結び、眉間には若干のしわが刻まれている。噂通り堅物そうな人だ、と江澄はステージを見下ろした。
指揮台に上がり、客席に向かって一礼すると右手に持っていたタクトを軽く持ち上げる。それが合図だと言うように、あんなに沸いていた拍手がぴたりと止まった。藍啓仁がひとつ息を大きく吸うと、タクトが振られる。
江澄は全身を震わせた。何層にも重なった音が会場を爆発させるんじゃないかという勢いで埋め尽くす。ビリビリと肌を震わせていくのは空気じゃない。バイオリンやチェロ、コントラバスにヴィオラが放つ音だ。弦楽器の音をさらに軽やかに運ぶようにフルートやオーボエなどの木管楽器が、逆にしっかりと支えるようにティンパニの音が響き、ホルンやトランペットなどの金管楽器のやわらかいけれど芯のある音がさらに層を厚くしていく。
江澄は思わず全身に力を込めた。そうでもしないと、ステージから放たれる音に飛ばされてしまいそうだったからだ。
音は耳から入ってくるはずなのに、あまりに圧倒的なそれは全身の毛穴から江澄の身体のなかに入ってくるようだった。身体のなかに入ってきた音は江澄の臓器を楽器のように震わせて、さらに反響していく。呼吸を忘れてしまいそうなほど、響き合う音が血管のなかをとおり、全身が沸騰しそうになる。
一曲目が終わり、再び拍手が会場を包み込む。江澄は口を開けて呼吸をした。はっ、と声が出た。いつの間にか握りしめていた手のひらに、じわりと汗がにじんでいる。
「楽しい?」
言葉はないが藍曦臣の目がそう尋ねてくる。江澄はうんと小さく頷いたが『楽しい』とは違う。ただただ生のオーケストラの演奏に圧倒されていた。大きな音は自身のコンサートや、ライブで体験してきた。だが、これはただの大音量からくる圧ではない。幾重にも重なった音と音が、ひとつに溶け合い、会場をまるで無重力にして音だけを詰め込んだような圧だ。鉄の塊のような、一滴の水滴のような音のハーモニーに、否が応でも興奮させられる。
これを創っているのが、ステージの真ん中に立ちタクトを振るう藍啓仁だと思うと、天才とは本当に存在するのかと畏怖の念すら覚えてしまう。
二曲目が終わり、三曲目はゆったりとした穏やかなテンポの曲が演奏された。ゆるやかに伸びるオーボエとファゴットの心地よさに、まばたきの速度が遅くなる。まるでゆりかごのなかにいるような錯覚を覚えた。襲い来る眠気を断ち切ろうと、江澄は隣の席に視線を向けた。するとなんということだろう。藍曦臣は両目をきれいに閉じて寝ているではないか。連日、早朝から深夜まで続く新ドラマの撮影に、回復する間もないほど疲労が溜まっているのだろう。そこにこの子守唄のような音色と、眠りを誘うふかふかと座り心地のよい椅子。目を開けていろと言うほうが無理だ。
けれど、あの藍曦臣がオーケストラのコンサート会場で眠りこけていた、などニュースサイトの見出しに出てしまえば彼の品位が損なわれてしまう。
江澄はそっと藍曦臣の服を引っ張った。
「曦臣、起きろ」
身体を寄せて耳打ちをする。するとすぐに目が開かれて、すこし驚いたような表情を見せた藍曦臣は、寝ていないよと笑った。
「目を閉じて聴くと、また違った風に聞こえるんだ」
そう言ってまた目を閉じる。その顔はどう見ても寝ているように見えるのだが、この世にこんなに美しい顔で寝る人がいないことを思い出し、江澄も習うように目を閉じた。
目からの情報がなくなると、神経がすべて耳に集中した。音の輪郭がはっきりとし、ひとつひとつの音の粒が手に取るようにわかる。音に奥行きという立体感が増したように聞こえた。左右上下からやってくる音に全身が包み込まれると、あたたかな繭に覆われたかのようで、意識が途切れそうになる。完璧に眠気に引きずり込まれる前にはっ、と目を開けた江澄はしっかり聞いていましたとアピールするように拍手を送った。
藍啓仁はこれだけの拍手に包まれても、相も変わらず険しい表情のままだ。変化があるとすれば、タクトの振り方が力強かったり、撫でるようにやさしかったり、時に風に揺れる草花のように小さかったり、闘牛士のように荒々しかったりするだけだった。
あっという間に一時間半が経ち、プログラムに載っていた全曲の演奏が終わる。会場はこれでもかという拍手をステージに送っていた。奏者は自身の楽器を片手に順々にステージを降りていく。藍啓仁に賞賛をと手を伸ばす者がいれば、客席に深々とお辞儀をする者もいる。拍手は鳴りやむことがなく、会場から出ていく人の姿もない。
「このあと、アンコールがある」
いつまでも終わりのない拍手の渦のなかで藍曦臣が教えてくれた。クラシックのコンサートにもアンコールがあるらしく、どれも三分から長くて十分程度の短い曲を二曲程度演奏してくれるらしい。へえ、と驚嘆しているところに、楽器を持った奏者がステージ上に戻ってきた。
アンコール一曲目は弦楽器すべてが弓を遣わず、指で弦をはじくように弾く不思議な曲だった。メロディは可愛らしく、まるでリスが餌を運んでいるかのような、小鳥が切り株の上でダンスを踊っているかのようだった。
次に演奏されたのは、江澄でも聞いたことのある曲だった。スネアドラムとシンバルからはじまるそれは、運動会の入場で使われることが多い曲だ。不意に、それまでステージに向かってタクトを振り続けていた藍啓仁が客席に身体を向けた。そしてタクトを持っていない手を、猫をおびき寄せるかのように二度揺らした。するとどこからともなく音楽に合わせて手拍子がはじまった。あっという間に会場は楽器の音と手拍子でいっぱいになる。メロディが小さく、穏やかになる部分では手拍子の音を押さえるようにと藍啓仁の左手が諭し、また勢いをもって演奏される部分では大きな手拍子をするように合図が送られる。クラシックに手拍子など、江澄は想像もしたことがなかったが、リズムに合わせて手を叩くのは無条件にワクワクしたし、まるで自分もオーケストラの一員になったような気分だった。そして何より、いままで険しい表情でいた藍啓仁が曲に合わせて手拍子をする観客たちにやわらかな笑みを向けている。その表情だけで、このコンサートがどれだけ素晴らしいものかは明白だった。
江澄はステージから藍啓仁の姿が見えなくなるまで、惜しみなく称賛の拍手を送り続けた。
「最高だった……」
後部座席に座った江澄は、もう何度その言葉を繰り返しただろう。
藍啓仁の十年ぶりのコンサートは大盛況のうちに終わった。クラシックのクの字も知らないような江澄だったが、その凄まじさと素晴らしさに感銘を受け胸がいっぱいだった。挨拶をしに行くという藍曦臣に無理やり連れられて、藍啓仁の楽屋を訪ねた江澄は、拙いながらに感想を伝えると「宜しければ記念に」とその場でサインを入れられたCDを受け取った。これはもう家宝だ、と大切に手に持ち、さっきからサインを眺めてはうっとりとしたため息を吐いている。
「楽しんでもらえたようでよかった」
「やっぱり生音は違うな。いまだに耳の奥で音が聞こえる気がする」
慣れない雰囲気のなかで縮こまっていた身体は凝り固まっていた。両腕をぐっと伸ばし、窓を開ける。興奮して火照った身体に心地よい冷たさの風が当たった。
「俺も生演奏で歌ってみたい」
聞いているだけでこんなに満たされる気持ちになるんだ。その上に歌を乗せたらどんなによい気持ちになるか想像に難くない。
「コンサートで演奏してもらえばいいのでは?」
「バンド形式ならできなくもないが、オーケストラとなると話が違うだろ? そもそも俺たちの方向性と違うし、運よくバラード曲を提供してくれる人がいたとして、それだけのために人を集めるのも申し訳ない。でも、絶対バイオリンに合わせて歌ったら気持ちいいに違いないんだ。今日のあのバイオリン、なんて言ってたか……ストリ、ストラ、リバディ?」
「ストラディバリウス」
「そうそれ。あれの音が頭のなかでずっと響いてる」
バイオリンの最高峰と呼ばれているストラディバリウス。力強く芯のあるその音色は、艶があり、深い余韻を残す。その音色に魅了されたバイオリニストは数多く、一挺二千ドルという価格がついたものまである。今日演奏されたのは、ストラディバリウスの黄金期と呼ばれる一七一〇年代に作られたもので、雑味のない深い音が特徴的だった。例えるなら、円熟した赤ワインのような音色だ。もちろん、そんなことが江澄に聞き分けられるはずもなく、ただ『普通ではないなにか』を素晴らしいものだと体感していた。
「じゃあ、私が手配しようか?」
出前でも取ろうか? というような気軽さで藍曦臣が言う。冗談めいた口調ではあったが、藍曦臣はやると言ったら本当に実行してしまう行動力も、人脈も、経済力も持ち合わせている男だ。
「……あなたが言うと、冗談が冗談に聞こえないからやめてくれ」
江澄がげんなりしつつ藍曦臣をあしらうと、ぐう、と腹の虫が鳴った。時刻は十時を迎えようとしていた。バラエティ番組の収録前に軽く食事をしてから、七時間以上なにも口にしていないことを思い出した江澄は急に耐えがたい空腹感に襲われた。主張するかのようにぐうぐうと腹が騒ぐ。その軽快な音に笑い声混じりに藍曦臣が食べたいものを尋ねてくる。江澄は騒がしい自身の腹をなだめながら、耳までチーズの入ったピザが食べたいと言った。