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七輪に枯れ葉と小枝をふわりと敷き詰める。そこに炭を積み上げるように入れ、火鉢からそっと火種を取る。明火符でもいいのだが、それだとなんだか味気ない気がして、江澄は火種を崩さないように慎重に七輪に火を入れた。くゆる白い煙が弱くなると、パチパチと弾けるような音が聞こえてくる。いつだか聶懐桑にもらった何処ぞの有名な絵師が描いたという扇子で上から強く仰ぐと、赤い炎が立った。網を乗せ、いざ、というところで名前を呼ばれた江澄は振り返る。
「江宗主」
「沢蕪君、丁度良いところに」
「急に訪ねてしまい申し訳ない」
手を重ね、頭を下げる藍曦臣に席を勧めた。案内をした家僕を下げ、雲夢江氏宗主自ら茶を淹れる。底が見えないほど濃い茶と蓮の実でもてなした江澄は、すこし得意気な表情で竹かごを卓の上に置いた。
「これは?」
湯気がのぼる茶杯になかなか口をつけない藍曦臣は、かごのなかをまじまじと見た。
一見するとそれは青辣椒のようだが、すこしばかりふっくらとした丸みがある。膨らむ前の青椒かと問われた江澄は首を左右に振った。
「これは獅子唐と言うらしい」
「獅子唐、ですか」
遙々、大秦のほうから届けられたそれは唐辛子の一種で、見た目は青辣椒のようだが辛くなく、火を通すと甘みが引き立つのだという。
「向こうでは塩漬けにした豚肉と、大蒜を入れて油炒めにするそうだ」
袖で磨くとてかてかとした艶に包まれて、いまにも弾けんばかりのハリが食欲を誘った。
「だが一番簡単な食べ方は塩焼きらしい」
「だから七輪なのか」
適度な炎を上らせる七輪の上に獅子唐を並べていく。焦げないように時折箸で転がしてやりながら、江澄は盃を傾けた。行儀が悪くてすまない、と卓に対して横向きに腰掛けた江澄に、藍曦臣は微笑みながらその足元に置かれている七輪に視線を向ける。パチパチと小粋な音がして灰が舞った。
「ところで、今日はなぜ蓮花塢に?」
「崇陽韋氏から怪異現象の調査をしてほしいとの書簡を受け、忘機とともに赴いた帰りに寄らせていただいた」
「崇陽韋氏? あそこは姑蘇より雲夢のほうが近いだろ? なぜわざわざ沢蕪君が? しかも仙督殿まで連れて」
そんなに深刻なことが崇陽韋氏で起こっていたのだろうか。しかし噂のひとつも耳にした記憶はない。江澄は眉間のしわを濃くした。
崇陽韋氏は雲夢江氏とそれなりに深い関係を築いている仙門だ。江澄が子供のころ、何度か蓮花塢を訪れた韋宗主は耳たぶが大きく厚い人だったことを覚えている。棒のように細い身体に不釣り合いな耳たぶがまぶたに浮かぶ。魏無羨が自身の耳をいっぱいに引っ張って「韋宗主!」と真似たこともよく覚えていた。江楓眠の死後、新たに蓮花塢の主となった江澄に、韋宗主は困ったことがあればなんでも相談しなさい、と目に涙を浮かべて両手を痛いほど握ってくれたことは昨日のことのように覚えている。確かそのころ韋宗主に女の赤子が生まれ、子煩悩に目覚めた韋宗主と、蓮花塢再建に尽力していた江澄は次第に季節の折に文を送るだけの関係になっていった。
はぁ、と深く吐き出されたそれが藍曦臣から出たため息だとは思わなかった。眉尻を下げたその悩ましい表情に、江澄は崇陽で起きている怪異は重大なのだと悟った。
ようやっと藍曦臣の舌に合う温度になった茶を一口すすり、藍曦臣は重たそうにゆっくりと口を開いた。
「韋宗主が姑蘇藍氏にしか解決できない、と」
「そんなに厄介なことが崇陽で起きていたのか?」
「いや。怪異は大事になることはなく無事解決したのだが、実はそのあとのほうが問題で……」
「そのあと?」
姑蘇双璧が解決したのなら問題が残ることなどあり得ないだろう。むしろ右から賛辞、左から感謝の盃と、宴の席が設けられ家規により酒が飲めない雲深不知処の者は断る方が大変そうだ。
「韋宗主には妙齢のご令嬢がいることはご存じか?」
江澄はうんと頷いた。あのとき生まれた子はもうそんな歳になったのか、と卓の下で指折り数えた数と自分が取った歳の数に愕然とした。なんだか急に肩が凝った気がした。
「彼女も仙師で、修為もそれなりに高い。見目も麗しく、気遣いもできる穏やかな方で、それで――」
「それで?」
獅子唐の表面の薄皮が剥がれるように膨れてきた。水分が蒸発する音が細く上がっている。
「忘機の嫁にいかがだろうかと、見合いがはじまってしまった……」
「見合い⁉」
予想だにしない話の流れに江澄は思わず箸を落としそうになった。
「いま思えば妙なところは多々あった。怪奇現象解決のために赴いて欲しいが、弟子は連れてこないでくれ、宗主と仙督だけで来て欲しい、可能ならば叔父上も、と。さすがに私たち全員が揃って雲深不知処を留守にするわけにもいかず、叔父上は来られないことを伝えたが、怪奇現象が解決したら崇陽の七色に輝く洞窟をぜひ見て欲しい、それから金木犀の里にも行ってもらいたい。そこで取れる金木犀で作る桂花糕はきっと姑蘇の方の口にも合うだろうからと、三日ほどばかり留まってみてはいかがか、と。忘機は解決したらすぐに戻ると決めていて、私も長居する理由はないと考えていたのでそのように伝えていたのだが、こちらが怪異にあたっているうちに、もう、あっという間に見合いの席が設けられていて――」
「つまり怪奇現象より見合いのほうが本命だったわけだ」
その顔に似つかわしくない眉間にしわを刻んだ藍曦臣を江澄は笑った。音を立てている獅子唐を転がして、そろそろ頃合いかと塩に手を伸ばす。
江澄は内心安堵していた。崇陽韋氏が雲夢江氏を頼らなかったのは自分が頼りないからだと、慣れた劣等感にまた苛まれるところだった。しかしそれが仙督との見合いとなると、姑蘇藍氏に頼るほかはない。図られたと知ったときの藍忘機の顔を想像して、藍曦臣と韋宗主には申し訳ないが江澄は愉快な気持ちになった。はらはらと塩を振る指先が比例して軽快になる。薄っすらとついた焼き色がますます食欲をかき立てた。
「それで、韋宗主には申し訳ないが逃げるように崇陽をあとにして、忘機とともに姑蘇に帰ろうかとしたのだが、なんだかどっと疲れてしまい、そうしたら急に貴方の顔が見たくなって、気がつけば伝令蝶を飛ばしていた」
申し訳ないと頭を下げる藍曦臣を止め、江澄はそのおかげで獅子唐にありつけるのだからよしと思えと笑う。
皿の上に並んだ獅子唐はてかてかとした艶はそのままに、水分が抜けてハリは失われていた。代わりに程よい焼き目と塩をまとっている。口に入れると適度な歯ごたえとともに、ささやかな青臭さが鼻の奥を通り抜けていく。
「これはなかなか」
「美味いな」
ぱくぱくと獅子唐を口のなかに放り込み、盃を傾けながら、江澄は再び網の上に獅子唐を並べていく。辛いものを得意としない姑蘇の人間にとって、辛くない唐辛子というのは興味をそそられるものだった。種の部分を噛んでもしびれるような辛味はなく、むしろそのぷちぷちとした触感に口のなかが愉快になる。藍曦臣は小さく開いた口で獅子唐を味わい、ふたつめへと箸を伸ばす。
「ああ、そうだ。言い忘れていたが、たまに辛いのがあるらしいから気をつけてくれ」
「そうなのかい?」
「元を辿れば唐辛子の一種だからな。たまにそういう気まぐれが起こるらしい」
そう言いながら江澄はもうひとつ獅子唐を食べ、うん美味いと言った。つられるようにして藍曦臣も獅子唐を口に運ぶ。塩気と青臭さが相まって、雲夢の濃い茶がより一層美味しく感じられた。
「っ――⁉」
「沢蕪君、どうなされた?」
「からいのが……っ」
最後、へたのほうを頬張ると舌の上にしびれるような辛味が滲んだ。驚きにはっ、と息を吸うと空気に触れた舌がさらにしびれる。藍曦臣はたまらず茶で口のなかを洗い流そうとした。
「あ、馬鹿っ……!」
温かな茶を含むと舌の上に想像もしない激痛が走る。目を白黒させた藍曦臣は口元を隠し、まるで犬のように短い呼吸を繰り返した。
「辛いものを食べたときに温かいものを口にしたら、余計に辛くなるのをあなたは知らないのか?」
急いで下女に水を持ってこさせた江澄は、たしなめるようにして湯呑を差し出した。湯呑のなかの水を飲み干すと、どうにか口のなかが落ち着いて、藍曦臣は変わらず口元を隠したま「すまない」と謝った。
「私は特段辛いのが苦手で、いままで数える程度しか口にしたことがなく……」
「いや、私のほうこそすまない、つい……」
「なにか?」
「つい、あなたのことを馬鹿などと口走ってしまい……」
気まずそうにそらされる視線に、藍曦臣は穏やかな笑みを浮かべる。昔、雲深不知処で家規を破り藍啓仁に叱られたときと同じ顔をしていた。
「気になされるな。実際そのようなことをしてしまったのは私なのだ」
ぱんっ、と空気が弾ける音に視線を向けると、七輪の上の獅子唐が破裂していた。いくつかは黒く焦げかけていて、江澄は慌てて皿に取り上げる。卓の上に先ほどよりすこしばかり香ばしいかおりが広がった。
「含光君は伴侶を得る気持ちはあるのか?」
焦げた獅子唐を口に運び、酒で流し込みながら江澄は問う。苦味がさらに酒を進めた。
「さあ、どうだろう」
「結婚しないから今回のようなことが起こるのでは? 沢蕪君も含光君もまるでその気がなければ、無理にでも婚姻させようと考える者がいてもおかしくはない」
「それは貴方も同じでは? 晩吟、先ほどから焦げたのばかり食べては身体に悪い」
藍曦臣は江澄が箸を伸ばそうとしていた焦げた獅子唐を奪うようにして口に入れた。辛くはなかったが、ざりっとした炭の味がした。
「苦いほうが酒が進む。ほら、あなたはこのきれいに焼けたやつにしろ」
無理やり押しつけるようにして藍曦臣の皿の上に置かれた獅子唐は辛かった。じんわりと目元を滲ませながら口を押える藍曦臣にまさかと驚きながら、江澄は水と甘く煮た蓮の実を渡した。
蓮花塢にやってきた行商は「十本に一本くらい辛いのがあるんでねぇ、気ぃつけてくださいなァ」と言っていた。だが、藍曦臣が食べた数は十本にも満たない。それなのに二本も辛いのに当たるなんて、運がいいのか、引きが強いのか。江澄はもう一本、焦げて破裂した獅子唐を口にしたが、やはり辛くはなかった。
「さっきの話だが、私はあなた方とは違う」
七輪に獅子唐を並べながら江澄は言った。かごは空になった。今度は焦がさないようにとじっと見張り、湯気がにじむとすぐに箸でつついた。
「私は良い女子がいれば婚姻を結ぶ気もあるし、雲夢江氏の血を絶やさぬよう子を成さねばならないことも考えている」
七輪から目を離さないように盃に酒をつぐ。すこしばかりこぼれた酒が卓の上を汚した。
「釣書に目を通しているし、見合いだって何度かしている。ああ、そうだ、最近届いた釣書がある。あなたが私の妻に合う人を選んで頂けないだろうか?」
江澄は釣書を取りに私室へと向かった。その間、焦げないように獅子唐を見張るよう藍曦臣に火の番を頼む。ついでに、またあなたが辛いのに当たるかもしれないからと水も取りに行った。
藍曦臣は江澄に言われた通り、パチパチと赤い炎を小さく揺らす七輪をじっと見つめた。時折箸で転がして、表面に薄らとした焼き色をつけていく。それはすこしの変化で、けれど確実に濃くなっていく。しばらくすると、小脇に釣書を抱えた江澄が戻ってきた。焦がさなかったか? という問に、藍曦臣は頷くと、江澄は見張りを変わった。
江澄が持ってきた釣書は十通ほどあり、藍曦臣は卓に置かれた釣書をひとつめくってみる。歳は若いが修為はそれなりに高い。だがしかしその世家はすこしばかり金遣いが荒いことで有名だった。次にめくってみた釣書には、碌に修行をしない仙門の名前があった。みっつめに目を通した釣書は家柄も修為も問題はないが、その娘は愛想がなく我が儘な性格で、とてもじゃないが江澄の妻にふさわしくないと難ありという印を押した。
「私の妻にふさわしい人はいたか?」
「いません」
間髪入れずに返ってきた答えに、江澄は「それは残念だ」と肩をすくませた。
今度はしっかり見張っていたおかげで、焦がすことも、破裂させることもなく、きれいな焼き色をつけた獅子唐が皿の上に乗っている。そのなかでも特段きれいな焼き色と、ふっくらとした実の獅子唐を江澄は箸に取る。それをすっと藍曦臣の口の前に差し出した。
言葉もなく箸を差し出された藍曦臣は獅子唐と江澄の顔を交互に見て、それから垂れてくる髪を耳にかけ、口を開いた。こんな風に人に食べさせてもらうのはいつぶりだろうか。江澄から与えられた獅子唐は、塩気と青臭さと、それからすこしの甘みがあった。辛いか、と尋ねられた藍曦臣は首を横に振る。美味しいと言うと、江澄はそれはよかったと自身もまた獅子唐を口に入れた。
「沢蕪君がよしと言わない人を娶っては、雲夢江氏は廃れてしまうな」
「そもそも、晩吟の理想が高いのもよくないのでは? 天性の美女で良妻賢母、それから倹約につとめ、口数が少なく、有能過ぎず――」
「誰に聞いた。魏無羨か」
「いえ、懐桑から」
口が軽いやつしか私の周りにいない、と頭を掻いた江澄は勢いよく盃をあおる。二甕を空にした江澄の頬は薄っすらと赤く染まっていた。
「私の理想に叶う人がいたらぜひ沢蕪君が仲人になってくれないか」
「それはいくら晩吟からの頼み事でも、叶えてあげるのは難しそうだ」
「沢蕪君でも難しいか」
「私だから殊更難しい」
残念だ、といじけたように盃を指先で転がす江澄は、口から出てきたと言葉とは比例しない笑みを浮かべていた。
皿の上の獅子唐はほとんどが江澄の腹のなかに収められていく。そんなに食べて本当にひとつも辛いのに当たってはいないのだろうか、と藍曦臣が尋ねると、江澄は全くと首を大きく左右に振った。
「私はいささか沢蕪君が辛いのに当たったという嘘をついているのでは、と疑っている」
「雲深不知処の者が家規により嘘を申さないことを江宗主はよくご存じでは」
獅子唐を口に運ぶ藍曦臣を、江澄はじっと見る。問われる前にこれは辛くないと告げると、江澄はつまらなそうに盃を空けた。
藍曦臣は口のなかの獅子唐をゆっくりと咀嚼し、味わう。入れ直された茶は相変わらず濃く、舌が火傷しそうに熱かったが強い旨味に深く息を吐き出した。
「では、私の伴侶に相応しい方がいたら晩吟が仲人に」
「そんな女人がいたら、私のほうが先に娶っているに決まってるだろう」
「そしたら私はその婚姻をよしとは言わぬだろうな」
「沢蕪君は私をずっと独り身にさせるつもりか?」
「それはお互い様と言うのでは?」
肘を付きながら盃をあおる江澄と、袖で茶杯を隠しながら茶をすする藍曦臣の間にしばし無言が続いた。七輪はもう炭が燃え尽きそうな薄灰色に変わっている。どちらともなく視線を絡ませ、耐えきれずに二人は笑い声を上げた。
「ほら、最後のひとつだ」
江澄はひとつ獅子唐が残った皿を差し出す。
「それなら晩吟が」
「あなたは食べるのが遅いから、そんなに食べていないだろう? 私はもう十分食べたから、ほら」
行儀悪く手掴みした獅子唐を小さな口に無理やり押しつけると、その勢いに諦めた藍曦臣は雛鳥のように口を開きそれを含んだ。音もなく藍曦臣の口のなかに消えていく。開いた唇の隙間から、形のよい白い前歯が覗いた。ゆっくりと口を動かす藍曦臣に合わせて、最後一口、ヘタの部分を押し込むと江澄の指が唇にわずかに触れた。指先がその柔らかさにじわりと熱くなる。獅子唐を全て見送った江澄は「美味いだろう?」と頬杖を付きながら獅子唐を飲み込む藍曦臣を見つめた。
まるで小動物のように口を動かしていた藍曦臣の咀嚼が止まる。あ、と短く言葉を吐いて、浅葱色の袖が美しい唇を隠した。いまにも泣き出しそうなほど弱々しい声で「江澄」と名前を呼ばれる。
「冗談だろう? まさかまた辛いのに当たったのか?」
潤む瞳に見つめられながら、江澄は声を立てて笑った。