□ □ □
何気なく視線を向けたテレビ画面に映し出されたのは、ふたりの少年の姿だった。
ひとりは愛嬌のある大きな瞳が印象的で、これでもかと、とびきりの笑顔をカメラに向けている。大きく開いた口から覗く白い歯は彼をとても健康的に見せた。細身の身体を大胆に動かすが、手足の先まで意識しているのだろう。微塵もぶれることのない動きが幼い表情とは裏腹にとても妖艶だった。
もうひとりは正反対に射るように鋭い目をしていた。その視線が向けられると思わず呼吸を止めてしまいそうな吊り上がった目をすこし長い前髪の隙間から覗かせた彼は、小さな口を薄く開き甘い歌声を音に乗せる。近づくカメラを一瞥することもなく、曲の世界を表現するために長い手足を動かす。額に浮いた汗が顔のラインをなぞるように滑り落ち、やわらかそうな黒髪がそこに一筋張りついた。
ふたりの少年は背中を合わせ、スポットライトが落ちるとそっと曲が終わった。数秒の後に軽快なジングルが流れ出し、CMに入ろうとする。カメラに笑みを向けた少年は、隣に立つ少年の肩に腕を回し揺れる手のひらを向けた。肩を組まれた少年は相変わらずカメラに視線を向けようとしない。思春期らしいそのトゲトゲとした行動が青い芽のようだった。CMのあとは海外からきたアーティストが曲を披露する、とアナウンサーが言う。
その画面が切り替わる三秒前。
それまで厳しい表情しか見せなかった少年が破顔した。なぜ急にそんな表情をしたのかはわからない。その笑顔はカメラのほうを向くことはなかったが、でも確かに長い前髪の隙間から見える鋭い吊り目がやわらかな弧を描いていた。小さな口の端が持ち上がり、ジングルの向こうにある笑い声が聞こえてきそうだった。
家電のCMが流れても、弟が風呂が沸いた旨を知らせに来ても、テレビから視線を外すことができなかった。
たかが数秒、自分に向けられたわけでもないその笑う横顔が脳裏から離れない。
彼は誰――?
それが藍曦臣が江澄をはじめて見た日だった。
瞬く刹那を切り取られる。
バチバチと音を立てて焚かれるフラッシュはまるで戦場の銃声のように何度も響いた。午前九時から始まった撮影は午後七時半を過ぎたところでやっと終わりを迎えようとしていた。藍曦臣はぬるくなったペットボトルを持ち、お疲れ様でしたと頭を下げ挨拶をする。リラックスした表情の藍曦臣とは別に、このスタジオにいる人たちはまだ慌ただしさをまとったままだ。それでも藍曦臣に挨拶を返し「とってもカッコよかったです」「また特集組ませてくださいね」と笑顔を向ける。藍曦臣より二時間も早くからスタジオに入ってセッティングをしていたスタッフや、重たいメイク道具を抱えた女性、両脇いっぱいに服を持ってきた男性、何パターンもの撮影をしたカメラマンに一万字を超えるロングインタビューが今月号の売りなんですと意気込んでボイスレコーダーをテーブルに置いたインテビュアー。大勢の人が限られた時間のなかですべてを完璧にこなすのは、それこそ戦場のような忙しさだった。その中心にいた藍曦臣はもちろん疲れていたが、達成感のあるそれはどこか心地良さすらあった。
高身長を生かし、モデルを生業としている藍曦臣はその甘いマスクと穏やかな物腰が世の女性の心を射止め、多くの雑誌やファッションショーに出演している人気モデルだ。雑誌の表紙を飾れば増刷に増刷を重ね歴代最高の部数をたたき出し、モデルとして起用されれば着用したものは売り切れと入荷待ちを繰り返し、ファッションイベントに出演が決まればこちらもチケットは即完売となる。最近はテレビにも出演するようになり、実はすこし天然なのかもしれない、ということがトークの端々から露呈し藍曦臣の知らないところでまたファンを増やしていた。
「あ、お疲れ様です!」
「やぁ、お疲れ様。久しぶりだね金凌。元気にしていたかな?」
スタジオを出て楽屋に戻ろうと階段を降りると、そこに金凌の姿があった。金如蘭――いま若い世代から人気を集めている歌手だ。SNSに投稿された短い動画が拡散され、最初は顔をさらすことはなかったが、一枚の写真がアップされるとその整った容姿がさらに人気を呼び、大手レコード会社と契約、瞬く間にスターダムを駆け上った。
栗毛色の髪をひとつに結び、毛先が遊ぶように巻かれている。いまにもこぼれ落ちそうなほど大きな瞳は髪の毛と同じ色をしていて、目尻は印象的に上を向いていた。黒いスタンドカラーのシャツにジャケットを羽織り、ゆるいシルエットのテーパードパンツはベージュのセットアップだ。
「今日はどの雑誌の撮影?」
「音楽雑誌です。来月新曲出すんで、それの取材で」
雑誌社が所有しているこのスタジオは、朝から晩までなにかしらの撮影が行われている。藍曦臣はファッション雑誌や生活雑誌への出演が多いが、金凌は音楽雑誌、ファッション雑誌、美容雑誌、果ては旅行雑誌にと幅広くその名を載せていた。
「ああそう言えば景儀がそんなことを言っていたな。今回も懐桑に曲を書いてもらっていてずるい、と」
「そっちは思追と二人でどっちも曲書けるんだから、他人に曲を書いてもらわなくてもいいだろって伝えておいてください」
わかったと笑うと、なにかを思い出したかのように金凌は「あ」と声を上げた。
「いまサンプル盤持ってるんで、それ思追と景儀に渡してもらってもいいですか?」
そう言って金凌は返事も待たずに楽屋に消えた。真っ白な廊下に一人取り残された藍曦臣は自由勝手な行動に小さく笑い、ペットボトルのなかのぬるい水を飲んだ。
「一枚はあいつらに、もう一枚はよければもらってくれますか?」
忙しなく藍曦臣の前に再び姿を現した金凌は、そう言って二枚のCDを差し出した。ありがとうと礼を述べながら受け取ったCDは金凌の横顔が映っていた。差し込む光に正面から照らされて、壁に影が落ちる。まるでモノクロのようなジャケット写真は金色のタイトル文字がよく映えた。
「いい写真だね」
「カメラマンの腕がいいんですよ」
前作のジャケットは確か、色とりどりの花に囲まれている写真だった。目に痛いような色の花と、金凌の強い視線が相まって美しさと格好良さがあったことを藍曦臣は覚えていた。そう告げると、それも今回の写真を撮った人と同じなんです、と金凌は言う。
「ていうか、そのカメラマン、俺専属なんで今日の撮影も――」
「金凌!」
どたどたと騒がしい足音とともに、まるで怒号のような声が金凌を呼ぶ。
「あ、外叔上」と軽い調子のままの金凌とは裏腹に、藍曦臣は自分の名が呼ばれたわけでもないのに、その怒号に怯える様に脈を速くした。
「荷物を置きっぱなしにして帰る奴があるか!」
上着にペットボトル、携帯電話までスタジオに置き忘れた金凌は、言われてはじめてそれらが手元にないことに気がついた。投げつけるように渡されたものを受け取って、金凌は相変わらず外叔上は怒りっぽいなと舌を出す。その様子にますます外叔上、と呼ばれた男は声を荒げた。
「さっき言ってたカメラマンが、これです」
「金凌! 叔父に向かってこれとはなんだ、これとは!」
急に紹介された藍曦臣は、まだ大声に驚いたままの心臓を落ちつけようと一度深く息を吸った。それから名前と職業を告げて、会釈をする。すると男はバツが悪そうに嘘くさい咳ばらいをして、藍曦臣に向き直り会釈を返した。
「甥が世話になっている。俺はカメラマンで――」
髪を後ろでひとつに結び、まとめきれなかった前髪が長く落ちる。その前髪の隙間から、金凌よりも鋭く吊り上がった目が覗く。すこし下のほうからじっと射るように見てくる視線が藍曦臣の胸を鮮やかに貫いた。はじめて会う人なのにその目の鋭さは懐かしく、けれど一瞬たりともそれを忘れたことがない。藍曦臣はあの日のように、胸が痛いほど脈が速くなるのを感じた。
「江澄……?」
藍曦臣の口からこぼれる様に出た名前に男の――江澄の肩が震えた。なんで、と小さな声が聞こえた。江澄の目が鋭く細められ、藍曦臣を痛いほど睨みつける。
その視線に藍曦臣は思わず呼吸を止めた。
昔、テレビのなかで見た彼の視線が目の前にある。あの視線が自分に向いている。自分を、見ている。
藍曦臣はあの日テレビに映し出されていたアイドルの名前をもう一度呼んだ。
「江澄」
それはあの日から呼ぶことを夢に見ていた名前だった。