ある日の3人日も傾きかけた頃、モリィは買い物袋を抱えて家路についていた。突然この世界に放り出された身ではあるが、一度飛び込んでみれば空飛ぶ脳みそも走る壺も日常になり得るもので、後はこの辺りでは頭上スレスレを飛んで首を攫おうとしてくる鎌コーモリに注意するだけで意外とやっていけている。我ながら順応力に長けている、とモリィは鎌コーモリを避けた反動で目玉虫の群れに突っ込んでも悲鳴を上げなかった自分を内心褒めた。
「…お?」
小さな門をくぐって階段を上がると、玄関前の狭い廊下で2人が地べたに座り込んで固定電話(入居者共有の、小さな公衆電話みたいなもの。みんながみんな携帯電話を持っているわけではないのだ)を睨んでいた。
「ーーいや、どうしようか迷ってるんだ」
相手と話しているのはナイン。スピーカー(またどこかで拾ってきたらしい)に繋いで会話がルッツにも聞こえるようにしている。自分が帰ってきたことに気づいたナインとルッツはこちらを一瞥してすぐまた彼らの作業(なにしてるんだろう?)に意識を戻した。こっち側(魔界)にきてから廊下の固定電話なんて使ってるところを見たこと無かったものだから、いったい何の話だろうかと立ち止まって物音をたてないように努めつつ耳を澄ますと、音質の悪いスピーカーから雑音と共にセールスマンらしい人物の声が聞こえてきた。
「頭金は全額の三分の一になります。」
げ、また大きな買い物しようとしてる…?
「そうでなければ1年ローンのお取扱ができます。限界まで利子を安くさせていただいて月々のお支払いはーー」「でもさ〜」セールスマンの言葉を遮って「あとたったの千五百ペボまけてくれたら一括現金で払うんだけどな〜」とナイン。間を置かずに「お客様」とセールスマン。ナインの陽気な声と違って抑揚の無い声は感情を読み取りづらく、関係無いはずのモリィを無駄に不安にさせる。「カタログはお持ちですか。我社の全魔力小型種は総じて相場より一万ペボもお安いのです。」あぁ、バイク購入の交渉をしてるのか。そういえば今持っている小型バイクはこの前のクエストで派手にぶつけて、それから走りが悪くなったと言っていたっけ。
ナインがよれたカタログをポケットから引きずり出そうとしたところで、それまであぐらをかいてじっと聞いていたルッツが首を振って立ち上がった。
「いかがです。ただでさえ魔力小型種は他よりお値段も安くー」「もう一度考えてからまたかけるよ」ナインは受話器をおこうとした。
「お客様のお名前は?」セールスマンが抜かりなく尋ねる。
「ボイラー・アイスマン」とナイン。
「わお、あのボイラー・アイスマンと同名ですか?凄いですね。ご住所もお聞かせねがえますか、アイスマンさん?購入後の手続きがスムーズにいくように。」
初めて感情を現したセールスマンに気を取られるでもなくナインはでたらめの住所をでっちあげ、受話器をおいた。
「高けぇよ」
廊下の窓を開けてルッツが毒づく。彼女は以前から新しく2人乗りのバイクを欲しがっていたから苛立っている様子だが、あいにく僕は『大きな本を買う金を数ヶ月貯金に回せば手が届く範囲では無かろうか』などと言い出せる立場ではなかった。
「2人乗りはなかなか難しいね〜ん」
いつものらりくらりとしているナインはバイクを買えなかったことをさして気にした様子もなく、スピーカーを廊下の端に脚で寄せた(後で固定電話を棚の上に戻し、狭い物置に無理矢理場所を作って壊れかけのスピーカーをしまい込むのは誰の仕事だと思ってるんだい)。そもそも僕らは3人で行動するのに2人乗りを買おうとするのはどうしてなんだろうかと思ったが、「走れってことかな…はぁ…」その思考を適当に流した。
こっち側(魔界)での生活が楽で楽しいかと言ったらその真逆であるが、こうして「ぱちぱちアィス買ってきた?ルッツも食べたいってさ」「やべ、溶けてるかも」なんてこんなに自由で他愛のない会話がはたしてあっち側(人間界)で出来ただろうか、と考えると、今の生活もそこまで悪くないように思うのだった。