さんさんと「風が止んだ」
静かな部屋で先生は背を向けたまま云った。
顔を上げて振り返ってみても生徒の答案を採点する音は止むことはなく、窓枠はガタガタ揺れている。
「もう寝ます」
立ち上がって部屋を出ると先生が「今日のは深いぞ」と“独り言“を云ったのが聞こえた。
「分かってます」
口の中で返事をして廊下を通り過ぎ、子供たちの寝ている部屋をちらと覗いてから、自分の部屋に引っ込んだ。
寝室の窓は暗く、灯りをつけない部屋はどんな光も吸い込むように思えた。
布団に入っても眠らず、子供たちの名前を1人づつ思い出していくと、1人足りない。それではいけないから、また最初から思い出しなおす。すると1人多い。少しあたりがぼんやりしてきて、そのうちにうとうとしたのかもしれない。
まとまりのないことに頭が鋭くなって澄んでくる様子で、静かな寝室の、もっと静かな所へ沈み込んでいく気配すらあるようで、それでいて瞼は重い。
部屋の前の廊下から固い何かを引き摺る音がした。床に傷はつかないだろうと思った。重すぎず軽すぎない足取りで、緩慢にも次第に近づいてきて、部屋の前を通り過ぎたと思うと、ふっつりと消えた。それからどれくらい布団の上で身を固くしていたか分からないが、ドアの前に人の気配を感じた瞬間、ハッとして身震いがした。ノブが動いてその音を聞くか聞かないかに総身の毛が一本立ちになる様な気がした。弾かれたように起き上がると気配は消えたが未だ、ノブは今にも動くかと思われた。
物凄い雨の音に驚いて気づいて見るとドアは開いていた。そのほかには何もなかった。
思い出せない子供を思い出すべきだと思った。
廊下は冷えていたが先生のいる部屋はまだ灯りがついている。
自分の席には白い髪の痩せた女が座っていて、空洞のような目をこちらに向けた。
「今何時だかお分かりですか?」
窓に雨粒が打ち付ける音は篭っているのに女の声はやけにはっきりと耳に届く。
「ここにいるものかと思ったが」
「彼は来ますよ、ただいま」
「そのはずだ。いつもここにいるんだから」
先生を見ると依然背を向けたまま、何かぶつぶつ呟いていたが激しい雨音に邪魔されてよく聞こえない。でも何だか「あの道は花が咲いている間しか開かないはずだが、まだ境界が残っていたらしい。なに、誰のせいでもない。」と云ったように思われた。
ともすると又あの引き摺る音がしていきなり柱の影から黒い子供が現れた。
1人足りなかったのも多かったのもこの子供だ。名前は何といったか。
「君、名前は」
全部で30人もいないここの子供の中で名前を知らぬ者などいないはずだった。
「―」
口だけでつぶやくその声に聞き覚えがあったが、その声の持ち主の顔を思い浮かべることはできなかった。
「まさか、違うだろう」
少しいやな顔をしたように思う。
「違わない」
―は冷たい目をして、いつまでも動かなかった。不気味な胸騒ぎがして左手で腰の辺りを探ったが、自分の腰の得物は―が引き摺っているのだと気づいた時、急に恐ろしくなって動こうとしたけれども、頭を殴られたように動けなかった。
―がひとつ瞬きすると棚の物が動いて辺りが混雑し容易ならぬ気配が迫ってくるのを感じた。何処かで雨の漏る音がしだしたのを皮切りに―は刀を抜いて構えた。
子供の鋭く短い叫び声が聞こえて、それからしきりに自分の名前を呼んでいるように思われたが、それが自分の名前とは思えなかった。
ドアが破れるくらいに叩いている音を聞きながら、どうしても目を覚ますことが出来ない。とうとうドアを壊して這入ってきた。
思っていた通り、得物を引き摺ってきて脇に立ち尽くす。青白い顔をした女も黙って立っていた。どうしたものかと迷っていると「刀は好き」と聞こえたけれど、およそ子供の声ではなかった。
「子供は増えていない。さっき聞いたよね」
「知らない」
「先生もそう云ってた。お前はなにもないところを見てる。癖なんでしょう。」
「それがどうした」
「刀も女もさ、花が咲いていないといけない。それじゃ待ちぼうけだし、擦れ違う度に無くした物が帰ってくるまで、いつまでもいつまでも」
「違う」
「馬鹿だな」
「じゃあなぜ」
「馬鹿だよ。いい加減にしたらどうなの」
今更初めて自分と同じ声をしているのに気がついた。
ガチャンと床が鳴って、―がひとつ手を叩いた。
「そうでしょ、やっぱりさ。あははは」
赤黒い歯を見せて人の顔を覗き込んだ。耳の奥ががんとして、耳鳴りがする。
「およしなさい、およしなさいよ。同じことです」
女の細い指に肩を掴まれて引き離された―の背後に窓はなく、さんさんと風の音がしている。
「俺はお前で
お前は俺で
1人じゃない
だってそうだよ、ねぇ?」
―の暗い髪と肌が、角が、境界がなくなった。