おやすみ先生また明日プロローグ
わたしは誰?
霧の大地を抜けて、私は逃れる。
ここはどこ?
追っ手が近づいてくる。
見覚えのある柱を右に折れて、わたしは大きなドアを押し開ける。
痺れる足を持ち上げて、もういくつも階段を登ったはずなのに、いくつもの屋上へ続くはずの扉を開いたはずなのに、一向に地上にたどり着けない。
わたしはここでなにをしているの?
ウィラの町の眼鏡橋が見えたらすぐに左の路地へ、二つ目の扉を開けたら通りを南へ進み、階段を一気に駆け登る。
アラタス教徒が祈りを捧げる尖塔を目指して、声を張り上げて商品の宣伝をする者たちで溢れるデッカード広場を突っ切ると、腰くらいの高さのある鉄柵を飛び越えて、その先にある鉄扉に体当たりするようにして外に転がり出るも、やはり空は見えない。
「起きなさい!」
ヒステリックな叫び声が追ってくる。
叫んでいるのは誰?声はしだいに近づいてくる。
階段を二段飛ばしで駆け登り、入り組んだ廊下を、何かを探して走り抜ける。
わたしは何を探しているの?わたしを助けてくれる人?
廊下はだんだん狭くなっていき、今や自分ひとりが通れるかも分からない。
「帰ってきなさい!」
すぐ後ろまで迫ってきた声が叫ぶ。
「いや!!」
声は音にならなかった。
最奥にあった細い扉を押し開け、滑り込むようにして後ろ手で閉める。
扉の先は一寸先も見えない暗闇で、今自分が目を開けているかどうかさえ定かではない。
「開けなさい!あなたは甘えているだけよ!」
自分を追い詰める叫び声はやまない。
しかし暴れる心臓の音を聞きながら、何をすべきか、努めて冷静に考える。
わたしには時間が無い。
わたしには助けが必要だ。
導かれるように暗闇を進むと、何か硬いものに触れた。
奥から漏れる光に白く縁どられたそれは扉のようだった。
背後で細い扉が破られる音が聞こえる。
わたしはふらつきながらノブを探し出し、回した。
1
声を聞いた気がして、閉じていた目を開く。
まだほんの子供、のように見える影。
ガイヤ・フウゲツは小川越しに影を見つめた。
小川の流れは静かで音もない。その影は対岸で揺らめいている。輪郭はぼやけて空気に融けていきそうになりながらも、しっかり両の足で地を踏みしめていた。背の低い草が地平線いっぱいにそよいでいる。白い太陽の心もとない光に空気はどんより曇って、他には何も無い。
影が囁く。苦しい、助けて、と。
「君は誰だ」
ガイヤの、深みのある声が風に溶けた。影はじっとして、動かない。
ガイヤは影に向かって一歩踏み出したが、綺麗だった小川は土色の濁流に変わっていて、渡れそうもなくなっていた。
鳥がギャアギャアと不快な音で鳴いたのを合図に、空が赤く濁っていく。
まずいな、と思った直後、どこからか叫び声が聞こえてきた。耳の奥に直接干渉される感覚に顔を顰める。闇の中から湧き上がり神経を責め立てるような、鋭く切実な叫び声は、空気を震わせて不安と緊張をもたらした。
ふたたび影を見やると、怯えたように、助けを求めるように身を乗り出している。
「名前は!」
声を張り上げるも、近づいてくる叫び声に暴れる水の音が重なりもはや自分の声すら聞こえない。いくら目を凝らしても顔の判別はつかないが、それはこの影のことを知らないから、今まで会ったこともないからだ、とガイヤは直感した。
「おいで!」
だからこそ、危険な状態にあることは間違いない。ガイヤは腕を広げて、こっちに来いとジェスチャーした。飛び越せない距離じゃないはずだ。
水かさが目に見えて増していく。時間が無い。
影はためらっていたが、一度後ろを振り返るとすぐこちらに向き直り、勢いをつけて飛んだ。
ガイヤが小さな影を受け止めると同時に、耳が潰れそうなほどの轟音は一斉に止んだ。
この場に存在するのはガイヤと影と、背の低い草と、白い太陽のみ。
震える影はしばらく細い腕でガイヤの胴にしがみついていたが、ふと気づいたように顔を上げた。
そして小さな指で空を指さして、囁く。誰かが呼んでいるよ、と。
2
めまいがするような浮遊感。
霧が晴れるように、意識が徐々に形をとる。
ベッド脇に置いてある携帯端末の呼び出し音によって、ガイヤは今度こそ目を覚ました。
「もしもし」
ぼんやりしたまま応答する。
『先生朝早くにすみません、私一人ではどうしようもなくて…』
申し訳なさそうな女の声。この声はよく知っている。いや、自分はさっきまで…まだ腕に感覚が残って――
『あの、先生?』
「はい―――わたしが…フウゲツですが」壁掛け時計は午前四時十分を指している。
『それは知ってますよ!寝ぼけていらしゃるのは分かるのですがとにかく来てください、先生でなければダメなんです。』
ガイヤはベッドに起き上がり、頭をはっきりさせようとつとめた。ここは自室のベッドであり、仕事場でもある。つまりさっきのは夢で、これは現実だ。
特殊な身体事情から、まるで現実で起こったことのように感じられる明晰夢を見ることはガイヤにとって日常茶飯事だ。では今自分がすべきことは――
「分かった。今行く。」
通信を切って、ガイヤはまずベッドを降りて服を着て、手短に身支度した。
鏡には普段通り、図体のでかい男が写っている。顔を洗って長い髪を一つにまとめると、椅子にかけてあった白衣を身に着けた。
静かな部屋を後にし、足早にかつ慎重に廊下を進む。
ガイヤ・フウゲツはしがない街医者である。その昔に縁あってこの街にやってきて、個人で小児科を経営し始めてもう日が長い。
街にいくつかある内科のうち、子供専用の入院病棟があるのはここだけだ。日中は診察、薬の処方もしているため受け入れられる量には限りがありベッドは指で数えるくらいしかないが、この街でやっていくにはそれで十分だった。
夜が明ける前の入院病棟は静寂に包まれている。暗い廊下を照らすのは転倒防止のための小さなライトのみで、ファンシーな模様が散りばめられた壁紙を薄く淡く照らしている。
病院特有の幻想的な雰囲気のなか、唯一明かりのついている個室でガイヤは先ほど携帯端末にかけてきた看護師、アデラインと合流した。
「ほら先生が来てくれたよ…あっ」
「せんせい!」
ガイヤを見るなり起き上がった子供は、ベッドを軋ませて飛び降りその腰に飛びついた。
「元気そうだな。どうした、こんな時間に」
ガイヤは軽々と子供を抱き上げてその様子を確認した。健康状態に異常はなさそうだ。
「あのね、眠れないの」
「怖い夢を見たんだそうです」
ベッドわきに椅子を用意しながらアデラインが補足する。
「どんな夢?」
夢と聞いて、つい今しがた見た光景―草原に立ちすくむ小さな影―を思い返し、子供をベッドに降ろしてやりながらガイヤは尋ねた。
「暗いところにね、置いていかれる夢」
暗い所。置いていかれる…。
「夢で私を見なかったか?」
「先生を?ん-ん、見なかったよ。」
「そうか」
記憶と違う。自分が今朝見た夢とは関係がないらしいとガイヤは判断した。それに夢で見た影は――
「ね、よみ聞かせしてほしいの。先生じゃなきゃいやなの。」
子供は枕元に置いてあった本を取り出して見せた。
そいうことだったか。ガイヤは自分が呼ばれた理由に納得した。
「今日はね、さいごまで起きておくからね」
「では先生、そういうことで」
アデラインは優しく微笑んで、読書用スポットライトをつけた。そして部屋の明かりを落とし、音も無く部屋を出ていった。
3
小さなライトに薄く照らされた暗い廊下を、アデラインは患者を起こさないように慎重に歩いた。
建物のほぼ中央に位置している小さなスタッフルームにたどり着くと、カルテなどの記録を整理して、交換用の点滴を準備する。前の職場と比べると仕事は増えたように感じるが、患者が少ない分、一人一人に丁寧に向き合うことができるのでアデラインはこの仕事が好きだった。
コーヒーでも淹れようかしら。立ち上がると同時に扉がスライドして、この病院の院長、ガイヤ・フウゲツが現れた。
「早かったですね。今日も途中で?」
「ああ。四ページだった」
「うふふ、やっぱり先生の声には敵いませんね。コーヒー要ります?」
「もらおう」
小児科医という仕事をするにあたって必要な素質は多く存在するだろうが、この男には読み聞かせの才能は確かにある。
「先生、砂糖は三つでしたよね」
「ああ」
ガイヤはなんとなく、といった感じでアデラインの手元を眺めている。まだ寝ぼけているのかも。
「はい、コーヒーです」
「ありがとう。…休まなくて平気か」狭いスタッフルームの小さな椅子に窮屈そうに腰かけてガイヤが言う。
「平気ですよ。夜勤には慣れっこですし、定期的に仮眠をとってますから」アデラインはコーヒーをすすりながらウインクをして見せた。
「そうか」
短い返事をしたきり、ガイヤは窓の外の白んでいく山際に視線を移した。
お世辞にも愛想が良いとは言えず、仏頂面であることから厳格な人物だと誤解されやすいが、十年も共に働けばこの男が誰よりも優しくて、そして臆病な性格をしていることくらい理解できて当然だった。なにより子供に好かれることが彼の人の好さを表していると、アデラインは思う。
「十年、十年か…。私も年を取ったものだわ」しわは増えたし体もあちこち痛い。考え方も家族構成も変わった。
「でも、あなたは一切お変わりないのね」
面接の際に初めて会った時となにも変わらない広い背中に向かって言葉を投げかける。
「私はそれが羨ましくもあるし、気の毒でもあるの」あなた一人だけ、私たちとは違うものね。
そんなこと、あなたはもちろんのこと、ここのスタッフだけじゃなくて、あなたを知っているこの街の誰もが知っていることだけれど。
ガイヤは何も言わず、ただ窓の外を眺めている。
窓の外で山際はますます白んでいく。早起きした子供たちの足音が、新しい一日の始まりを知らせていた。
「今日は」ガイヤが会話を嫌っているわけではないことを知っているアデラインは、一日の予定表を見ながら続けた。
「診察のほうは休診日ですけど、研究所に呼ばれているんでしたね」
ガイヤは小さく伸びをした。
「八時には迎えがくるそうですよ」アデラインがそう伝えると、いつもの調子で「ああ」と応えた。
手元の時計は午前五時を指していた。
4
時は流れて午前七時三十分。
ガイヤ・フウゲツはスタッフルームの小さな椅子に収まって、明日来る予定の患者のカルテを予習していた。予防接種の注文をし洗濯物を畳み、掲示板を張り替えて入院している子供たちの健康チェックをしていればあっという間に時は過ぎる。
夜勤明けのアデラインが後から出勤してきた日勤の看護師に申し送りをして退勤していったのを確認して、ガイヤは一度自室へ戻った。
約束の時間まであと三十分。シャワーを浴びて軽食をとった後、改めて髪を梳かす。
患者の母親からもらったヘアミルクなるものを手に取ってみるも、もったいない気がして、髪の先に少しだけつけるにとどめた。
おもむろに、ガイヤはバスルームの鏡に映った自分の姿をまじまじと見つめた。しかし、今にも鏡の中の自分が独りでに動き出すような、嫌な予感がしていつもすぐ目を逸らしてしまうのだった。
「先生、正面にお迎えが」日勤の看護師が顔を覗かせる。
「分かった」
持ち物はそう多くない。ガイヤは白衣を外套に替え、用意しておいたバックを手に部屋を後にした。
静かな住宅街の一角にひっそりと佇む石造りの病棟を出ると、木々の葉が色づき始めているのが目に入った。オレンジの葉が枝に揺れ、地面には散った葉が積もっている。これからの季節、患者はまた一段と増えるだろう。ガイヤは冷えた晩秋の風に吹かれ、小さく震えた。
路肩には見慣れたロゴの付いた車が停まっていた。
―BEHOOLE―
今から出向く研究所が所属している、貿易商社兼人材派遣会社の名称だ。
本来の業務である貿易や人材の派遣以外にもさまざまな活動をしており、ガイヤはそのうちの特殊な病気の治療法を研究している研究所に、コンサルタントとして今まで何度も出向いていた。
「先生、私です。こちらにどうぞ」
車の窓から陽気な顔をした髭面の男が覗き、明るい声が響いた。
この小柄な男は前回も運転手を担当していた。BEHOOLEの社員の一人として、制服をきっちりと着こなしている。
前回迎えに来た時とは違って、外装はスポーツカーのようで車内は革張りの高級な装いだった。平べったい見た目とは裏腹に広々としていたが、空調が効きすぎて少し暑い。
「今日は交通局に許可を取ってありますのでひとっ飛びですよ。いやぁ前回は見事にやられましたからね」
ガイヤが後部座席に座ったのを確認した運転手がキーを捻ると、車は僅かな駆動音と共に滑らかに地を離れた。凹凸のないつるりとした曲線に形どられた車底からは微細なエネルギーが発散し、周囲にささやかながら蜃気楼を作り出している。
「まさかラスターズとピッチバングの試合に、CLAUD111のライブが被るなんてなぁ!あれは酷かったですねぇ」
予期せぬ渋滞に巻き込まれて予定していた到着時刻を一時間も過ぎてしまったことを、この男は忘れていなかったようだ。
「あぁ先生、忘れずにシートベルトを。最近規制が厳しくって」
男はラジオを付けると、静かに車を発進させた。街の通りではたくさんの車がスムーズに交わり、上昇と下降を繰り返している。
「どうですこの車、ズーガリプトン社が『大陸獣人向けクルーザータイプ』なる車両の開発中らしくてですね、それのプロトタイプを頂戴して、我々のほうで内装を整えたんですよ。これくらい足元が広ければ先生も乗り心地が良いでしょう」
飛び出してきそうな箒通勤者を滑らかな動作で避けながら車は進む。
「そうだな」なるほどたしかに図体のでかい自分でも十分に足をくつろげることができる。「しかし、なにも私だけのためにここまでしなくても…」そもそも毎日乗るわけでもなしに申し訳なく思ったが、男は犬歯を見せて笑った。
「いいんですいいんです。メカニックの趣味ですよ、こういうのは。」
「――そうか」どこの世界でもメカニックというものは自分の力を試したがるものらしい。
高低差の激しい土地柄上、乗り物は宙に浮くのが普通である。―タイヤによって地を走るタイプの車は使える場所が限られるうえ、高価な素材がたくさん必要なために高級品だ―
どうやって車ほどの重い物質が宙に浮くのか?それは魔法の力によって、である。
魔法。
それはこの世界において火の次に原始的なエネルギーであり、日常そのものだ。
車が浮くのも、箒に乗って空を舞うのも、傷を癒すのも、人を壊すのも、携帯端末で通信しあうのも、ドアの先をここから百km離れた部屋に指定するのも、物質の瞬間転送すらも、ひとえに魔法の力があってこそ成されるのである。
魔法に満ちたこの世界を、人々は太古の昔から「魔界」と呼び、魔法をもってしてその激しい気象や過酷な大地と向き合ってきた。
民家の屋根を見下ろしビルの合間を抜け、街の喧騒が遠ざかる。上空五十メートル、一番混雑する層を抜けると一気に交通量もまばらになり、車はスピードを上げた。
「これだけ出力を上げても静かでしょう。これでも助力式なんですよ、最近本当に魔動式と区別がつかなくなってきて。技術の進歩は著しいですね」
車好きらしい男が語る間にも風を切って進む車はあっという間に街を抜けた。
「資料はご覧になりましたか?研究所の連中、なんでか朝から焦った様子でしてね。少し変更点があるそうなので、こちらをどうぞ。目的地まではまだ時間がありますから、寝るなりなんなり自由によろしいですよ」
「ありがとう」
ガイヤは板状の端末を受け取り、シートに体を預けた。
午前八時四十三分。
車は道なりに海の上へ滑り出た。魔界では海の上であろうと道は続く。
この時間、この道を使う他の車両はおらず、水平線の向こうから昇ってくる朝日は二人を乗せた車の側面を赤々と照らしている。
国道六十三番海上線はおよそ百五十kmの間、直線が続く。運転手の男はいくつかボタンを操作して自動操縦モードに変更し、一息ついた。そうして何となしにバックミラー越しに乗客の様子を見やると、特別なんでもないように端末を眺めている。
男にとってガイヤ・フウゲツは例外に例外を重ねたような、奇妙な人物だった。自分の運転する車に仕事とはいえ客として乗っているのが今でも不思議でならない。
彼は〈竜人〉だ。
この広い魔界には、様々な種族が混在共存している。
世界中のどこへ行っても目にする〈魔法使い〉とは違って竜人は絶滅危惧種で、今まさにこの魔界の大地から姿を消そうとしている。平均寿命は魔法使いやその他魔界の種族とは比べものにならないくらい長く、魔法以外の技術を駆使して魔界全土を統べていた時代もあったらしい。らしい、というのも、なにせ世界の覇権が魔法使いのものになってからすでに七世紀半もの時が経っていて、竜人文明なぞ眉唾物の伝説にすぎなくなっているからだ。その伝説の竜人の生き残りが本当に存在していたなんて、この目で見るまで信じられなかった。
この口数の少ない竜人の自然光に照らされた整った顔は目を引くものがある。特徴的な二本の黒い角、金の長い髪、切れ長の鋭い目と感情の読み取りづらい無表情が、端正な顔をしているためにいっそう彼を気難しそうに見せている。
年齢は三桁を越えているらしいがしかし、話をしてみると意外に、かび臭い年長者の威厳のようなものは感じられない。子供っぽいのかと言われればそうでもなく、なんといえば良いのか、同世代と接しているかのような不思議な感覚がするのだった。周りに聞けば、老若男女問わず彼には親しみやすさを抱くらしい。
前々回、車に乗せた時、男はガイヤにいくつか質問をしてみた。
「医者にしてはしっかりした体つきをしておられるが何かスポーツでも?」と聞けばガイヤは「昔剣術をやっていた」とすんなり答えるし、思い切って「角が片方欠けているのはなぜ?」と聞いても嫌な顔一つ見せず「ずいぶん前に、不注意で」と答えた。彼との会話は柔らかいボールを投げ合っているようだ。
しかしミスリルの剣でも傷一つ付かないという竜人の角が、どうやったら不注意で折れるというのだろう?
長く生きているだけあって謎は多く、医者になる前は何をしていたのか、どうして医者を志したのか、竜人の仲間は他にもいるのか、剣術は竜人式なのか魔法使い式なのか…自ら語らないガイヤからはまだまだ聞き出したいことが山ほどあったし、根掘り葉掘り聞いたって一つ一つ答えてくれるに違いなかった。
しかし男はそうはしなかった。だって次があるじゃないか。彼といると急ぐ気持ちが削がれるような気がする。
どこまでも呑気な男は大あくびをして窓の外を見やった。既に日は昇り、海は眩しいくらい輝いている。
ふいに警告音が鳴り、前方の乱気流を検知した車が事故を避けるために大きく迂回した。車内の空気が混ぜられ、男はある匂いを察知した。
「先生、今気づいたんですが。ミミンの香りのヘアミルク、使うならボディソープも同じ香りにしたほうがまとまっておしゃれですよ」男がにこやかに言うと、思った通り、ガイヤは顔を上げて、「それは知らなかった。参考にしよう」と、愛想は良くないものの十分親しみを感じられる物言いで返事した。
「へへ、獣人の鼻は正確でしょう」
男は誇らしげに両の耳をピンと張って鼻をピスピスと鳴らしてみせた。
午前九時三十分
「先生、そろそろですからね」
そう言って運転手が手動操縦に切り替えると、車は一度大きく揺れた。
「おっと、こっちはまだ結構揺れるってメカニックに言っておかなくちゃ」
角を窓ガラスに強かにぶつけたガイヤはそうしてくれと思いながら前を見た。
果てしなく続く水平線の先に、目的地が見えてきた。周りに増えてきた他の車両も一点に同じ場所を目指している。
「プロメテウス側にはちゃんと連絡してありますからね。今日は保安所をスルーできます」男はまたも得意そうに言った。
エンドルフィン海に建設された、BEHOOLEが所有する海上倉庫基地〈プロメテウス〉。
楕円型で、外縁は全長十km、中央を貫く道は全長約五kmで車でも約十分かかるほどの巨大建造物だ。
今から五十五年前、突如として―空間にぽっかりと開いた穴―「ホール」が出現した。高さ八十mのホールがエンドルフィン海上に一つ、テンタロン大陸の大谷間に一つ、ミトラセトル上空に一つの、合計三つ。いずれも宙に浮いている。
魔法反応は確認されず、自然発生したものなのか人工的なものなのか、誰がどうやって、なんのために出現させた物なのか、全くの謎だった。
様々な憶測が飛び交う中、ホールの先に、人間という種族が支配する世界、「人間界」の存在が見つかり、世紀の大発見に魔界中が沸いた。
長い時間をかけて二つの世界を安全に行き来できるような技術の開発に成功してからはや十年。近頃は街でも人間界の情報を多く目にするようになった。
しかしホールは依然として多くの謎を残す。
BEHOOLEは技術の開発に合わせて人間と魔界人が共同で設立した、ホールの研究をしながら世界間交流を先駆けて行う民間会社だ。どこかの国の政府が独占するのではなく、あくまで国家無所属の一貿易会社が管理することになったのは、ひとえに国同士の争いを避けるためだった。
さてその姿形だが、魔界と人間界とはあらゆる事情が異なるため、ホールの管理は怠れないし、だからこそ一般に目が付くのもいただけない。ではどうするか?巨大な建築物でホールを覆ってしまえばよいのだ。
中央にホールを丸ごと覆う巨大なドーム型倉庫を据える〈プロメテウス〉は、遠くから見ると目玉焼きのように見えることから「フライエッグ(空飛ぶ目玉やき)」と呼ばれていた。「空飛ぶ」というのは魔界では海洋国家との土地利用の兼ね合いで、海底に柱を突きさすことはできず、基地は海上三十mの位置に浮いているからである。(余談だが、人間界側には海洋国家は無いらしい。なんとも羨ましいことだ。)
この海域は荒れると五十mを越す大波を作り出すこともあるが、各地から集められた指折りの魔界人らが技術を結集させて作った魔法障壁はそれらをものともしない。
保安所に並ぶ車両を追い越し、職員に許可書を見せると、車は研究所のある西側のポートに進んだ。
「前回よりも警備が多いようだが」
肩に青の円形の徽章をあしらった制服姿の警備員があちこちに立っている。
「ああ、今日は人間界から人間がやってくる来る日でして」着陸の準備をしながら男が言う。「いるんですよ、人間を一目見ようってんで基地に忍び込もうとするやつが」
両世界は未だに人の出入りに関して慎重な姿勢を崩さないので、ホール周辺以外で人間を見る事は滅多にない。好奇心旺盛な一般魔界人としてはもどかしいのだろう。
「人間も魔法使いも見た目はまったく同じなんですから珍しくもないと思いますけどね。むしろ人間の方が私らみたいな獣人を見て興奮してますよ」男はふさふさの耳を動かした。
午前九時五十分
予定通りに、車は指定された駐車場に静かに降りた。
「じゃまた帰りに連絡してください」
「ありがとう」
車から降りると、ガイヤは海上であることを忘れさせるような巨大建造物に囲まれた。
暑すぎた車の中で少し汗をかいたガイヤは冷えた外気に身震いしながら、建物の一つに入っていった。
5
〈プロメテウス〉ではホールを通じて物資や人のやり取りをするため、巨大な倉庫や研究所が展開されており、さらに外側には宿泊施設や保安所、研究所など様々な設備だけでなく、基地職員の住居や娯楽施設までもが揃っている。
人通りのまばらな廊下は白く明るく、見知らぬ素材や加工技術に溢れ、魔界のどこにも見られない近代的なデザインをしているが、これも人間界の技術や考え方の流入が影響しているのだと説明を受けたのを思い出す。
たった十五年ちょっとで魔界はずいぶん変わった気がするがそれは人間界も同じだろうか。
窓の外を見るとまだ年端も行かない子供たちが人工芝の上を走り回っている。基地職員の家族だろう。ここで生まれ育った子供らは将来、自らの故郷はあの名高いホール基地だと言うこと間違いなしだ。
目的地を通り過ぎそうになったガイヤは三歩ほど後ろ歩きして戻ってきた。
脳科学電子医療研究センターの表札が下げられた白いドアをノックするとほどなくして扉が開き、ガイヤのよく見知った人物、ノィリが現れた。
「ガイヤ!どうも、毎回お休みの日に呼びだしてしまって申し訳ないです」
あたたかい笑みを浮かべたノィリの頭部は一本の大きな角がついたヘルメットで目の下まですっぽり覆われており、両側面にはまた大きな眼球が出っ張っている。胴からは華奢な腕が四本伸び、それぞれを器用に使い分けている。
魔界でこのような体構を持つ知的生命体は〈蟲人〉しかいない。
「中へどうぞ」
中は薄暗く、たくさんのモニタや光、電子音に満ちている。それに、研究員全員が蟲人で構成された研究所は、無機物を熱したような不思議な匂いに包まれていた。机の上のモニタから大小形さまざまなコードがたくさん垂れ落ちて、それぞれがどこに繋がっているのか見当もつかない。研究員それぞれが熱心に端末に向かって話しかけたり指示を飛ばしたり、いつになく雑然とした様子である。
ノィリはガイヤを奥の小部屋の前に連れていった。
「早速お仕事の話なのですが」
ガラス窓から見ると白い部屋にはベッドが一つあり、その上に一人の少女が寝かされている。周囲にはいくつもの電子機器が並び、生命維持装置に生かされている様子が痛々しい。
「資料の通り、彼女は重度の夢閉病です。手を尽くしたのですが治療が間に合わず…」
夢閉鎖覚醒病、通称夢閉病(むへいびょう)
それは魔界特有の精神疾患である。
発症すると患者は夢に閉じ込められてしまう。目覚めないまま身体は弱っていき、最終的に死に至る。過度なストレスが主な原因とされており性別年齢種族関係なく発症のリスクがある危険な病として魔界では広く認知されている。
「こちらとしてもデータが欲しいので、あなたに確実に治してもらえることを条件に、ご両親に無理を言って大陸の病院からこちらのラボへ移ってもらったのです」
魔界最先端の技術でも、夢閉病の症状を抑えることしかできない。確実に治すことができるのは竜人だけだ。しかもそれが何故なのか、今現在分かっていない。
しかし竜人という種族は遅かれ早かれこの地上から姿を消す。魔界の医療としては、治せる者がいなくなる前に治療法を確立させたいと考えるのは当然のことだった。ガイヤとて断る理由などなかった。
「一度診てみよう」
「はい。ご協力お願いします。僕達も色々改良を重ねましたから」
そう言ってノィリは小型の装置を差し出した。電波と呼ばれる特殊な技術を用いて、脳波を検知する機械だ。これでガイヤの夢を解析して、竜人でなくとも実践できる夢閉病の治療法を探すらしい。最初に渡されたとき詳しい説明を受けたがガイヤにはさっぱり分からなかったがつまりは、ノィリの研究所では、今まで魔界では下火であった「機械」の技術を使って科学的な病気の解明や治療を試みているというわけだ。
ガイヤとノィリが小部屋に入ろうとしたその時、目の前を急いだ様子で通り過ぎていった研究員がコードに躓いてよろけ、その先のモニタに接触した。
「ああ!!それ、壊れたら大変なんですから――わああ!」
慌てて駆け寄ったノィリもコードに躓き今度こそモニタを倒した。
派手な音がして、現場は騒然とした空間に変わった。
6
午前十時二十分
ガイヤは崩れたモニタの山に埋もれたノィリを助けようか迷っていた。機械について全く知識のない自分が触って壊しでもしたらことである。
「そうだな、機械にはうかつに触らない方が良い」
声のする方を見ると、研究所の扉が開いてひとりの女が入ってくるところだった。
「よォ竜人先生。もうついてると思ったぜ」
夏空色の豊かな髪を首の後ろで自由に跳ねさせた女、ルッツ・リックマンだ。小柄で、服装は派手柄のTシャツに短パンとカジュアルであるのに、堂々として威厳を感じさせる。
切りそろえられた前髪の隙間に覗く双眸には虹色の虹彩が輝いて、初めて見た人なら誰でも不躾にそれを見つめてしまう。
そしてそんな双眸に見つめられては心を読まれている気分になる。
「おい、何考えてる。さすがのアタシだって許可なく心読んだりしないから安心しろってば」
やっぱり読んでるじゃないか。
ルッツは十七歳という若さで会社を立ち上げてから、十年でここまで巨大企業になったBEHOOLEを率い続けている。
社長という立場上、常に多忙を極めるようで基地に訪れても顔を合わせないことがほとんどだったが、今日はどうしたわけかあちらから出向いてきた。
知り合った時はあんなに小さな子供だったのに――見ないうちにずいぶん大人らしくなった。
「そっちは相変わらず強面だなぁ、子どもの前でもそうなのか?」
不遜な態度はやはり変わっていなくて、なぜかそれがひどく安心できる。
「君が社長を務める会社がこんなに続くとは思っていなかった」
「ハハ、このあいだ二十七になったんだ。ま、センセーにとっては赤ちゃん同然か」
目の前ではモニタが研究員たちの器用な手で立て直されていた。
「あれっルッツさん。今日は確か大事な用があるとかって…」やっと戻ってきたノィリが意外そうにルッツを見る。ルッツとノィリも旧知の中で、現在も協力関係にある。
「ちょっとくらい抜けたって大丈夫だ。朝から客続きでもう鬱陶しくてさぁ!」
「ふふ、さすがマスターキーですね」
マスターキー。この世に存在するありとあらゆる全ての魔法を扱うことのできる最強の魔法使いに与えられる名誉ある称号。
もしルッツが、マスターキーが、その日の気分でこの星の半分を焼き尽くしたとして、それで超大な犠牲が出たとして、世界中が束になって抵抗したってとても敵わないような相手だ。世界がルッツという超級危険人物を、一企業の社長にとどめておく理由はただ、「マスターキーが悪いやつなわけがない」という信頼のみである。
魔法が持つ力は計り知れない。使いようによっては世界を本当に滅ぼすこともできるなんてことはこの世界はとっくに知っているというのに、このような儚い信頼の上に成り立つ「最強」の称号があって良いものなのだろうか。ガイヤはそんなタフな感性も嫌いではなかったが。
「ちょっとセンセーとノィリの仕事覗きに来たんだ。いいだろ?」
「いいですけど、くれぐれも機械には触れないようにお願いしますよ」
ノィリが横目でルッツを見る。
一般的に「機械」と魔法は相性が悪く、機械に何かしらの魔法をかけると、必ずと言っていいほど機能しなくなってしまう。もしこの場で誰かが魔法を使いでもしたら、この研究施設の電子機器は全滅である。
「つい一週間前にも基地で働いてる魔法使いがうっかり百万もする機械を壊したんだったな。こわやこわや」
ルッツが「やっぱり外で待っててください」と言い募るノィリの肩を抱いて患者の眠る小部屋に入っていくのでガイヤもそれに続いた。
その白い小部屋では、魔法道具と機械の入り混じった複雑な生命維持装置による規則的な電子音が少女の時を止めているようだった。
資料によると少女はもう一か月も目覚めていない。生命維持装置がなければとっくに死んでいるだろう。
「それで?今回の患者は機械じゃどうにもならなかったんだろ?」生命維持装置に影響が出ることを考慮して、少し遠巻きに患者を覗きながらルッツが言う。
「はい、悔しながら…。しかも――」
「夢に本人が見当たらないと…」
今朝未明、少女は夢から姿を消したらしい。
ガイヤは二つあるモニタのうち、電源が入っている片方のモニタに映った景色を見た。
暗い石造りの町並み。視点は低く、厚い雲も植木も、時が止まったように動かない。これはきっと彼女自身の夢だ。
「そう。それで、僕達は少し焦ってるんです。夢は消えていないのですが」
―苦しい―助けて―
ガイヤは今朝聞いた声と、飛び込んできた小さな影を思い出した。
よかった。鍵を開けておいて。
今やガイヤには彼女がどこに消えたのか見当がついていた。
「何がいけないんでしょう。出力コード?いや、それをいじるにはもう少しデータが必要ですし――」
上腕の二本のうち一本を顎に当て、下腕の二本の腕を器用に組んで考えこんでしまったノィリをよそに、ガイヤはベッドわきに腰掛け、小さな機械を耳に掛けた。まだ電源の入っていないもう片方のモニタにはガイヤ自身の夢が映るのだろうか。
「あの、ガイヤ、本当に大丈夫でしょうか。不安定な夢に入ると危険では…」
夢に干渉することは危険な事でもあった。
「心配すんなってノィリ。夢歩きは専門家に任せて、あとはデータのことだけ考えときゃいいさ」
ルッツは椅子を持ち込んで居座ろうとしている。
「それは…そうでしょうか」
まだ心配する声を聞きながらガイヤは目を閉じた。
7
背の低い草。白い太陽。
わたしはなんでここにいるんだっけ。
追いかけてきた叫び声はどこに行ったんだろう。
助けてくれた「さっきの人」は?
どこを見ても、鈍い色をした草原。
なだらかに盛り上がったりへっこんだり、地平線の果てまで続いている。
―なぁんにもない―
足の裏が痛いのを思い出して、ついに座り込んだ。
「なんにもなくはないさ」
声のした方を見ると「さっきの人」が立っていた。
髪が長いから女の人かと思ったけど、落ち着いて見ると男の人だった。
誰だろう。知らない人だけど、怖くは無かった。
「あそこでひと休みしよう」
指さした方、遠くに小屋がある。さっきまであんな小屋あっただろうか。
男の人は小屋に向かってさっさと行ってしまうから急いで立ち上がって着いていった。
―ねぇ、あなたはだれ?―
「ガイヤ。ここの主だ」
静かな声と風が草を撫でる音が心を落ち着ける。ガイヤはここに住んでる人なのかな。
「君は?」
自分?自分は誰なのだろう。なぜかどうしても思い出せない。
―わかんない―
「いいさ」
それからは黙って歩いた。
小屋の中は狭くも温かかった。どこか懐かしい石造りの暖炉に小ぶりな鍋が掛けてあるのが目に留まって、なんだか腹が減った。もうずっと何も食べていない気がする。
懐かしい匂いがする鍋を見て驚いた。
―キリエのスープ!―
どうしてここにあるのだろう。もうこの世にあるはずが無いものなのに。
住んでいた土地の固有種でありアラタス教の象徴でもあったキリエの木は異教徒たちに一本残らず燃やされてしまったから。
「食べても良いだろうか?朝ちゃんと食べていないんだ」
ガイヤは腹が減ったとジェスチャーした。
―どうしてわたしに聞くの?―
たしかにキリエのスープは好物だけど。
「ここは君の家だろう」
わたしの家?そんなばかな。
でも部屋を見回すと、確かにそうだ。
玄関を入ると石の柱があって、小さな窓の下には大きな棚が置いてあって、壁には学校で描いた家族の似顔絵も飾ってある。
食卓には三人分の椅子が用意されていた。
「意外と酸っぱいんだな」
スープをすするガイヤは、お客さんだからか浮いて見えた。
―うん、お母さんはいつもレモンを刻んだのを入れてた。これを飲むのが毎日の楽しみだったの―
他の二つと違って埃をかぶっている椅子を見る。
そう、いつものように家族三人でここに座って、キリエのスープを飲んでいた時。
知らない人たちがたくさん家に来て、お父さん、連れていかれちゃった。
お父さんはすぐ帰るって言ったのに、全然帰ってこなかった。
わたしが毎晩「お父さんを返して」って、神様にお願いしているあいだに、お母さんは違う男の人と結婚した。お母さんはもうお父さんのことを忘れてしまったのだろうか。
―あの男の人、嫌いなの―
わたしの好きだったお父さんとは似ても似つかない。
―新しい学校はうるさくて好きじゃない―
またいつもの皆で遊びたかった。
お母さんと新しいお父さんとで新しい家に引っ越しもしたし、いい加減立ち直らなきゃ
って思ってはいるのだけれど。
―わたしって弱い?―
誰にも言ったことがなかった言葉が、空になった椀に染みた。
久しぶりに胃を動かしたからか、ガイヤが話を聞く姿勢になったからか、とりとめもない思い出話をたくさんした。どれも大事な思い出なのに、話すまで忘れていたような気がした。
思い出せるだけ話したと思ったら急に眠くなって、瞼が落ちる。
ガイヤに促されて、眠い目をこすりながら階段を上った。途中にある窓からは見慣れた街並みが見えた。
寝室も記憶通りで、嬉しくなって大きなベッドに滑り込む。
ふかふかの枕を引き寄せて力を抜く。ガイヤはベッドわきに腰掛けて、布団を掛けてくれた。
―寝ちゃいそう―
「眠ったまま起きなければ良いと思うか?」
わたしにだけ聞こえる声で、ゆっくり話す言葉に眠気を誘われた。
―そう思ったこともあるよ―
一度だけ、夢でお父さんに会った。夢で会えるなら、ずっと夢にいたかった。
だから逃げ続けたのだ。わたしを起こそうとするあの叫び声から。
「ずっとここにいても良いと言ったら?」
大きな手が、布団の上から規則正しいリズムで撫でる。
―魅力的だね、でも―
ほんとうはお父さんは帰ってこないことくらい知っていた。
あの叫び声は自分の声だ。現実を生きようとしない自分を責めている。
―もう夢を出てくつもり―
だって、自分もアラタスの神も、まだ死んでいない。
キリエの木をまた植えよう。お母さんとお出かけしよう。
―わたしはまだ生きていたい―
ここではできないことがたくさんあるもの。
ちゃんと声になっていなかったと思うけど、伝わったみたいだった。
「おやすみ、レナ」
それは、取り返せない記憶の中の声だったのか。ガイヤの声だったのか。
8
内臓の浮くような浮遊感。
ガイヤは電子音に満ちた白い部屋で目を開けた。デジタル時計は午前十一時三十五分を示している。
「お疲れ様です」
薄緑のカブトが視界に入った。
「まさかあなたの夢にいたとは…。相変わらず夢の世界は複雑怪奇です」
「明日には目を覚ますだろう。どうだ、結果は」
「夢にカメラを持って入れたらどんなに良いことか…。」耳に掛けた機械を外して手渡すとノィリはそれを大事にケースにしまって言った。
「ガイヤの夢はモニタに映りませんでした。でも音声は撮れましたよ!」
これは大進歩です!と興奮した様子のノィリは大きな目を輝かせて研究メンバーに報告しに走って出て行ったので、また転ぶのではないかとガイヤは小さな後ろ姿を目で追ったが、その姿が見えなくなると立ち上がって伸びをした。
見ると、ベッドで眠るレナは最初に見た時より心なしか楽な表情をしているような気がした。
「さすがだな」椅子の背を抱えるようにして座っていたルッツが声を上げた。「センセーが助けなきゃ死んでた」
レナに繋がれたモニタには何も映っていなかった。無事夢から脱出し、本当に深い眠りについているようだ。
「大したことはしていない」
本人に生きる意思がない限りは夢閉病から救われることはない。
レナは強い子供だ。辛くても諦めず、自ら助けを求めて飛び込んできた。ガイヤはただそれに寄り添っただけだった。
「―生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ。―だろ?昔どっかで読んだぜ」
死ぬことは―眠ること、それだけだ。
死ぬ、眠る。
眠る、おそらくは夢を見る――
「人は一体、死という眠りの中でどんな夢を見るんだろうな?」
こういう質問をしてくるとき、ルッツのその虹色の虹彩はどこまで人を透かし見ているのだろうか。
「……さぁ」
いくら夢に干渉できる竜人といえ、夢の主が死ぬとその夢からはじき出され、最後まで見届けることはできないのが常だ。
ルッツの問いに対して、竜人はついぞ解明できずに滅びる。真相は自分が死ぬときにのみ分かることだろう。
ルッツはやにわに子供っぽく歯を見せて笑うと、息をついて椅子から立ち上がった。
「今日のところはそろそろ行く。もうじき人間を乗せたワネコンが来る時間だ」
ワネコン?確かホールを使って両世界を安全に行き来するための乗り物で、数人乗りしかなかったのが最近貿易用が開発されたと聞いていたがそのことか。
「ワールドコネクションコンテナ(世界を繋ぐ入れ物)。通称ワネコン。安直なネーミングだろ?アタシじゃない、あいつが考えたんだからな」
あいつ、というのは十五年前、ルッツと協力してBEHOOLEを設立した一人の人間のことだが、その話はまた機会がある時に。
ルッツは今日これから、ワネコンに乗って人間と人間界の生き物、貿易の品が多数やって来ると説明した。
「そいつらと大事な会議があるからな、今頃マネージャーが血眼でアタシを探してるはずだ」
朝から詰まった予定をめちゃくちゃにされた挙句、破天荒な社長の捜索をする羽目になったマネージャーをガイヤは気の毒に思った。
「久しぶりにセンセーの仕事見れてよかったぜ。このあと暇だろ?ワネコンが到着する様子は誰でも見られるから、ぜひアタシらの仕事も見てってくれよ。じゃな~」
本業は小児科医なのだが、と言う暇も無く、小部屋の入り口で入れ違いになったノィリにも軽く挨拶をしてルッツは研究所を出て行った。
軽快に靴音を響かせて歩いていくルッツは人々の信頼を背負うマスターキーにふさわしいとガイヤは思う。そうでなければ、瞬間移動の魔法を使わずにわざわざ徒歩で移動するのは道中会う人との繋がりを大切にしたいからなのだなんて、しかも小声で打ち明けたりなんかするものか。
戻ってきたノィリは、研究所の入り口に置いたままだったガイヤのバックを手にしていた。
「今回、僕らでは彼女を治すことができませんでした」眠るレナを見てノィリが言う。
「機械」や「夢」についての研究は道半ばであり、結果が出ないことも多い。この健気な蟲人は日頃から研究所のリーダーとしての自身の力不足を嘆いていた。しかし今、「でも、きっと治せるようになってみせますから」そう言い切った目には闘志が輝いて、昔の優柔不断さや普段の気弱さはすっかりなりを潜めていた。こういう時、ガイヤの中では素直に彼の成長を喜ぶ気持ちと、彼がどこか遠いところに行ってしまったような寂しい気持ちがせめぎ合う。
「――強かなんだな」なんとか言葉を継ぐと「当たり前ですよ。蟲人は一人前になった証に父を殺すんですから」と返す。
忘れていたが彼ももう大人だ。蟲人に生まれてきたことを下卑ていた子供時代はもう遠い過去の話だった。
「細かい報告は一週間以内にまとめて提出しよう」
「はい、よろしくお願いします」
ガイヤは受け取ったバックが少し重い事に気づいた。見るとゼリータイプの栄養食が入れられていた。色のついたパックの先に飲み口が付いている。
「ささやかながら僕からのお礼として差し上げます。人間界の栄養食を元に魔界人用に改良したものでして、食べやすくて良いんです。ガイヤも毎日忙しいでしょうからぜひ。研究所から出る公式の報酬はまた後日、そちらの病院まで送らせていただきますね」
ガイヤは礼を言って、今一度研究所を見まわした。
相変わらず急いだ様子で駆け回っている者、一つのモニタに寄り集まって意見を交わしている者、機材にかじりついて操作している者。ノィリに集められた蟲人たちはそれぞれ志を持って研究にいそしんでいる。
彼らは近いうちに夢閉病を克服するだろう。そうなればもう竜人の助けは必要なくなる。しかしガイヤはこれもまた自然なことなのだと思う。
「ではまた」今度、と言うのは、また頼られる日を期待しているような気がして、憚られた。
9
暗い研究所のドアを開けて外に出ると、魔界の強すぎる日差しがガイヤを包んだ。
手元の時計は午前十一時五十分。
朝ちゃんと食べなかったガイヤは当然空腹を覚えた。
夢で食べたキリエのスープは味は好みだったが現実のガイヤの腹にはたまらない。
ノィリに貰った栄養食で済ませても良いが、今日は時間もある。ここから近い食堂に行こうと廊下を歩きだした時、
「待ってください!」研究所のドアが開き、さっき別れたはずのノィリが現れた。
「どうした」ガイヤが言い終わらないうちからノィリは顎ベルトを外してヘルメットに手をかけた。
ヘルメットがゆっくりと外され、緑色の肌が明るい光に照らされると、一瞬にして雰囲気が変わった。
「やあ竜人くん!すまないね呼び止めて」
この呼び方、自信に満ちた微笑み、ハキハキとした喋り方は。
「リン、もう会えないかと」
「私もそう思っていたさ」
ヘルメットの下はツルリとしていて、人についているような鼻の代わりに三つ連なった赤目が並んでいる。両脇の二つの単眼と中央の三つの複眼が、一点にガイヤを見つめる。
「だがノィリにぜひ友として共にいてくれと懇願されてな。ま、これでも父と祖母の間の子だ、大概はなんとかなるのものさ」
朝起きてから寝るまで分刻みのタイムスケジュールを作るようなノィリの性格上、なんとかなるなどと言うはずがない。彼の中には二つの人格が同時に存在していた。それはヘルメットの着脱と共に入れ替わる。
「ノィリには私はもう必要ないと思うんだがね」
表人格であるノィリを支える存在だったリンはノィリの成長と共にその姿を見なくなっていった。
「しかし君と会えるなら話は別さ。時間が合えば今度また演劇でも見に行かないかい。前に言ってた―地の上に住い、脚は二つ、四つ、三つと、変化はすれど―ってやつさ」
リンは明るい窓際に体重を預け、ヘルメットを小脇に抱えたまま、空いた三本の腕であちこちポケットを触り、やっと取り出したチケットを差し出した。
「―汝の謎、そは人間なり―人間界から輸入したやつだったな」
ガイヤは素直に受け取った。もともと演劇に興味はなかったが見てみると面白いもので、リンとはよく劇場へ足を運んだ、数少ない趣味仲間だった。
「いや用はこれだけなんだが、ノィリに自分で伝えろと言われてしまってな!」
三つの赤目がせわしなく瞬く。
「これから蟲人の技術は魔界中に必要とされるはずさ。忙しくなるに違いないよ。また顔出してくれたまえ」
未来ある蟲人は蛍光色の口内を隠さず、廊下に響き渡る声で、また来いと言った。
「まぁこの私は医療も機械もさっぱりだがね!」相手が竜人だろうと遠慮なくその小さな手でバシバシとガイヤの腕を叩いてウハハと快活に笑った。
10
午後十二時四十五分
海上三十mに浮かぶ〈プロメテウス〉の大きなドームには太陽が燦燦と照り付けている。
ガイヤはドームにほど近い食堂にやってきた。そろそろ昼休憩が終わるこの時間は人もまばらで静かだった。メニューは豊富で、初めて見るものもある。
〈プロメテウス〉の食堂は、コックも研究者だと聞いた。人間界から仕入れた食材や調味料を使って料理の幅を広げようとしているらしい。魔界人も食に関しては熱心なもので、訪れるたびに新作が出ている気がした。
ガイヤは出来たての「カレーライス」なる人間界の大衆食を受け取り、窓ぎわのカウンター席に座った。カレーライスの見た目はグロテスクだがスパイスの良い香りが食欲をそそる。一口食べてみると程よく辛くて舌ざわりが良い。
食べ進めようとしたところ、
「トカゲちゃん!久しぶりね」聞き覚えのある声が広い食堂に響いた。
ガイヤは振り返らなかった。正面のガラス面に映った女は、一目見てセシリア・セルベリアだと分かったからだ。
桃色の長い巻き髪。綺麗な形をした四肢を存分に空気に晒し、豊かな胸が零れ落ちそうな、際どい恰好をしている。
「あら、もう混ぜちゃったの。ルーの上に生クリームをかけてねぇ、ご飯に絡めて食べると面白い味になるのよ」セシリアはガイヤの隣に腰掛けた。
鳥が囀るような声で、人好きのする笑顔を振りまく彼女は魅力的な女性だと思う。しかしそれは彼女のことを一切何も知らずに接した場合に限る。
ガイヤは眉をひそめた。「今日は何の用で?」セシリアは基地職員ではないはずだ。
「人探しよ!彼、今日来てるみたいなの!」嬉々として答えるセシリアは赤らんだ頬を手で包み、想い人に思いを馳せている。
ああまた追われているのか。ガイヤには彼に心当たりがあったが、あいにく遭遇していなかった。それに、遭遇していても黙っているだろうと思う。
正直ガイヤは彼女が苦手だった。その正体を知ってなお、彼女を警戒しない者がいるだろうか。
実際、その容姿や声、態度に嫌悪感は無いし、彼女が良心に満ちて誰に対しても協力的であるのが、いっそうたちが悪いのだ。
「そうだわあなた、退屈してない?もっと楽しいこと知りたいと思ったりはしてない?」
この女は既に正体を知っているガイヤ相手に本気になることは無いだろうが、日頃こうして姿を変え声を変え雑踏に紛れて、基地職員を食いものにしているのだろうか。
「許されることに限度があることは分かってるんだろうな」ガイヤは黙っておきたい気持ちを抑えてしぶしぶ口を開いた。
「まァ、そんなこと!社長さんに怖い顔で『大事な取引先に粗相したら魂ごと祓う』って脅されちゃってるもの。いくら私でもマスターキーにはかなわないこと、知ってるでしょ?」
社長のルッツと面識がある、というのは、基地職員でも、その家族でも、関係者でもない彼女が管理の厳しい〈プロメテウス〉に平然といられる理由でもある。が、ルッツも知り合いだからといって見境なく基地に入れたりしない。
「不法侵入者が一人のホール関係者を攫おうとしていると、ルッツに連絡してやってもいいが」
「ああイヤだわ、イヤよ。そんなことは聞きたくないの」
白々しくしおらしいふりをしながらも得物から目を離さず続ける。
「――悩んでるのね。分かるのよ、私」
そう囁いたセシリアは微笑みながら体を寄せ、深みのある真紅の瞳がやさしくきらめいた。
思わせぶりな態度はまったく場にそぐわないが、これが自分ではなく一般の魔界人であったならば、ホールの静かな食堂で、女以外の全ての時が止まったように感じることだろう。
「楽しい時間の先にある別れを今から恐れてどうするのよ」
いきなり本質を突かれてガイヤは僅かに目を見張った。些細な動揺もお見通しらしい女は愉快そうに相手の出方を伺っている。
手足が冷える感覚に流されまいと、顔を見ないように努めて「あなたとは感覚が違う」と言えば「あなたと同じ感覚の持ち主なんてもっといないでしょうね」と返ってくる。
「別れが嫌なんだったら、山奥に籠るなり島を買うなり、いくらでも他人との付き合いを断ち切ったらいいわ。でもそれじゃあ寂しいんでしょう?だから人と関わるんでしょう?医者なんて、人から必要とされる立場を求めたりしちゃって。難儀よねぇ」
腹の底がカッと熱くなって、お前に何が分かる、と言おうとして女に向き直ったのが間違いだった。
そこには桃色の美しい悪魔がいた。全てを知っておきながら極悪人をも愛する神のような微笑をたたえ、目の前の哀れな竜人を―見えもしないものを恐れる臆病な人類を―慈愛の表情で眺めている。底の見えない瞳に抵抗の意思を削がれ言い返す気も失せ、ガイヤはため息をついて手元のカレーに視線を落とした。〝こんなの″に想われる〝彼″は毎度どうやってこの魔の手から逃れているのだろうか。
「これからあなたは、あなたが診た子供たちが大人になって、老いて死んでくのを見届け続けるの」
セシリアは気まぐれにも突然緊張した空気を解き、明るく言い放った。
そのまま滑るように席を立ち机に腰掛け、流暢な仕草で厨房へウインクをよこす。ガイヤの背後で派手に食器の割れる音がした。哀れなコックだ。三日間は夢にこの悪魔を見て苦しむだろう。
「ま、あなたのお葬式をするとしたら、会場はここ(プロメテウス)より広い方がいいかもね。人と、そうでないのとで溢れちゃうわ」
強い日差しに包まれた彼女の表情は逆光で見えず、それがゾッとするほど美しい。
「ウフフ、―大先生には御機嫌よろしゅう―じゃあね。また今度」
そう言って、悪魔は桃色の長い髪を後ろへやり、音も無く窓の向こうに消えた。いつの間に空いていたのか。寒いわけだ。
しばらく動かずに外を眺めていたガイヤは、思い立ったように窓を閉めて、冷えてしまったカレーを胃に入れた。おや、冷えていてもおいしい。
11
午後十三時三十五分
〈プロメテウス〉の中心、ホールドームでは大きなホールが何にも支えられずとも静かに宙に浮いている。
動きのないホールとは対照に、ドームの職員たちは来客の準備に追われているようだった。
直接的な仕事――荷物の積み下ろしや人間の接待――が無い者はホールの近くまで行くことはできないが、代わりにホールを上から見下ろせる空間、バルコニーシートがドームの壁に沿って一周している。
ガイヤはその一角で、渋い顔をして胃もたれに耐えていた。後からズッシリくると知っていたなら、カレーをおかわりしたりしなかったのに。
周りは年齢性別種族身分問わずたくさんの人で賑わっている。コーヒー片手に雑談に花を咲かせている作業員、ホールを背景に自らの研究について熱く語る記者を撮るカメラマン、ホールをめぐって白熱した議論を繰り広げている集団、双眼鏡を使ってホールを細部まで観察しようとする若い研究者…。彼らは一同に同じ方向を向いている。
というのも、ホール周辺はドーム天井に張り巡らされた照明に眩しいくらいに照らされているにも関わらず、このバルコニーシートには照明らしい照明が設置されていない。そのため人々は自然と明るい方、ホールを見ながら話をする。すると相手の容姿や種族といった余計なことは自然と思考の外にはじかれる、というわけだ。
この場所にいる時、ガイヤはホールに興味のある一人類にすぎず、竜人がいると指をさされることは無かった。話し相手がいるわけでもないのに心地良いと思える空間というのもガイヤにとって珍しいもので、この空間を作り出したホール及びルッツの手腕に関心した。
ガイヤがホール付近にいるはずのルッツの姿をそれとなく探していると
「おお!そこにおわすは辻斬り殿ではないか!」
ざわつく空間の中に懐かしい声を聞いた。見るとひとりの男がこちらに歩いてくる。
【辻斬り殿】とはその昔、ガイヤが医者になる前に愛用していた刀という武器のスタイルからとった愛称である。
「ワシだ、ギルウッドだ!覚えているだろう?」
大柄な体が大げさにポーズをとる度に、全身に纏った古めかしいプレートアーマーがガチャンガチャンと音を立てる。よく目立つ銀色のボディは傷だらけながらも周囲の景色を移し込み、鈍くホールの光を跳ね返していた。
「教授、ずいぶん久しぶりで…」
「よせよせ、教授なんて…いや、なんとも良い響きだ。素晴らしい」
ギルウッド・シルバは有名な魔法大学で生物学の教授として教鞭をとる傍ら魔法生命体の研究をしている。
魔法生命体。それは太古の昔から魔界に存在している、魔法の力によってのみ生命活動を行う生き物。天然物の他に人工の魔法生命体が現れだしてから、その研究は日の目を見ることになった。
「辻斬り殿は今日はやはりツノ蟲殿の研究所に御用ですかな?」【ツノ蟲殿】とはノィリのことだ。この男は昔から人に変なあだ名をつけたがる性質をしている。「ワシも情報収集に来ましてな。いや偶然偶然」
巨大な物流ハブであるこの基地には、魔界中から情報や物資が流れてくる。人脈を広げるにも欲しい物資を効率よく手に入れるにも、丁度良いのである。
また、決められた日程で人間界の情報も入ってくることは多いに研究者を刺激する。
「今日のワネコンには人間界の生き物が多く乗っているそうだな」
生き物など特に、情報の開示には慎重を期するものはいつでも注目の的だ。
「今のフレーズ、使えそうだ。うんうん。―ちょっと書きとめとくんです。…題材が浮かんだものでね。―ってな感じでしてね」
ギルウッドはまた、著名な作家でもあった。
「いやぁ締め切りがいくつも重なっておりましてな。毎日ネタ集めに必死なんですわい」
擦れた手帳になにやらネタを書き込んだギルウッドは手すりを乗り越える勢いで身を乗り出した。
「仲間がうまいことやったらしくてですな、あの近くにいるのです。良い機会だから今夜の集まりの時にでも話を――」
時間ピッタリに鐘の音が鳴り響き、ホールは不気味に発光し始めた。
基地内アナウンスがワネコンの到着を伝えると大衆はいっそうざわついてホールを見つめる。
ほどなくして、巨大なコンテナが現れた。人用ではなく貿易用の大きなものを見たのは初めてだ。
先端にささやかな操縦席が出っ張っている以外はのっぺりしていて、倉庫がそのまま浮いているかのようだ。機能重視の飾り気のないボディの底には金属の車輪がついている。
「あの丸いのは何に使うのかね」
ガイヤの右隣に立っていた二人組が話しているのが聞こえた。
「人間界では魔法の力で浮くことはできないから、レールに乗せるんだと」
「へぇ、そりゃ不便じゃないか?歪むだろう」
「人間界の土地はうちみたいに動き回らんとさ」
「ははぁ、そりゃ便利だ」
続いて人が乗っていると見られるコンテナも現れた。日々改良されているようで記憶より少し大きい。しかし魔界特有の曲線と人間界特有の角ばった様式が織り交ぜられた芸術的な見た目をしているのは変わっていなかった。候補者が多すぎて、デザイナーの厳選にも苦労したとルッツが話していたのを覚えている。
よく見ると、そのボディには魔界の言葉と人間界の言葉でメッセージが書かれている。
ガイヤは、ワネコンがホールの目の前に展開する大型の専用ステーションに滑りこんで停止する様子をじっと見ながらその文字を読みとった。
「『探求心を忘れるな』」
この言葉はたしかBEHOOLEの社訓だ。魔界の人々は、現状に満足した者から悪魔に取って食われるので自分たちは常に探求心を持つべきなのだと教えられて育つ。それは人間界でも同じらしい。
人用のワネコンがついてすぐ、貿易用のワネコンから積み荷を降ろす作業が始まると人々は積み荷を興味深く注視する。ワネコンから積み荷を降ろす作業はすでにマニュアル化されており、作業員はテキパキ仕事をこなしている。
「魔界の生き物も多く人間界に渡ったようだが、人間はそれらをどのように解釈しているのだろうなぁ。あっあの檻、あれが人間界の犬ではないか?!いやぁもっと近くで見たいものだ」
隣で興奮した様子のギルウッドが金属音をたて続ける中、ガイヤはワネコンの傍に控える一団の中に空色の頭を見つけた。
「あれは社長殿!会議に間に合わんとお急ぎのようでしたがどうにか間に合ったのですな」ギルウッドもルッツを見つけたようだ。しばらくしてワネコンから人間が複数人出てきてルッツの一団と合流すると、ドームを横切って荷物の道に消えていった。利権の絡み合う商談の話は分からないが、ホールは次はどんな情報を魔界にもたらしてくれるのだろうか。
ワネコンが稼働を止め、降ろされた荷物の動きもあらかた落ち着いた頃、ホールドームから緊張感は消え、作業員は毎日の業務に取り掛かっていた。
一番見たかったものが終わると人々は少しずつこの場を後にしていった。
ぶつぶつ言いながら手帳になにやら閃いた言葉を一心に書き込んでいたギルウッドは、やっと落ち着きを取り戻したらしくガイヤに向き直って言った。
「そうだ、人間についてひとつ、仲間に聞いた話がある。人間という生き物は絶滅という単語に敏感でしてな、それが知的生命体の話であればなおさらなんですと。魔界では竜人という種族が絶滅しそうだという話をしましたら、涙ながらに『それはいけない!保護活動に協力しますよ』と言ったそうだ」
やれやれといったジェスチャーで肩をすくめるギルウッドに、ガイヤは皮肉っぽく片方の頬で笑った。
「そりゃ、結構なことで」
まずそんな活動をやっているかどうか確認したまえ、と投げやりに思ったガイヤは静かになったバルコニーシートを見渡した。
「教授、時間はあるか?ぜひ日頃の研究の成果を聞かせてほしい」こう聞けばお喋り好きな学者は百%断らないことをガイヤは知っていた。「今後の医療の発展のために」もちろんただの興味だった。
その後一時間、ギルウッドは喜んで最近の学問の動きについて話して聞かせた。
新種の生き物が大陸の端で見つかったとか、人間界の情報が入ってくるたび忙しくなるとか、倫理に背く研究をしている研究所の告発が相次いでいるとか、寿命を延ばす妙薬とかいうのが流行っているが手を出さないようにとか。とりとめもなさそうな話が、最後には全部繋がっているのだから毎回驚く。
それに、どこで息継ぎをしているのか分からないマシンガントークを聞く時、ガイヤは黙っていて良いので楽だった。
ギルウッドはキイキイと金属の擦れる音をたてて、変わったジェスチャーを添え話をまとめ上げると、一息ついた。「――以上!まだまだ話せる事はあるがね、ちいと時間がね」
見ると端末は午後十四時三十分を示している。
「時間は有限であるからな。あなたほど寿命が長ければまた感覚が違うのかな?」
自分と同じ感覚の持ち主などいないだろう。唐突に、食堂で見た悪魔が思い出された。
「悪魔があなたを探していたようだが」
「お!それも使えそうだ。悪魔があなたを――うんぬん。ああ、そうだ分かっているとも。朝から逃げ回っているんだからね。彼女いったいどこから情報を仕入れているのかな。あんな美人に追われるなんてワシも幸せもんだよ、まったく!」
ワハハと声高らかに笑う男の表情は分厚いヘルムに阻まれて見ることはできない。
「彼女ワシのどこが気に入ってるのだかなぁ!」
「少なくとも顔ではないだろうな」
ガイヤだけでなく、ギルウッドの素顔を知っている者などどこにもいなかった。素顔を見せることをかたくなに拒むからだ。本人はあまりにブ男だからだのなんだと言うが本当の理由をガイヤはなんとなく分かっていた。
「さぁ、今見つかっては困る。ワシはここを離れるとしよう」
コミカルに動くギルウッドは器用にポーズを決める。
「ではまたどこかで!!」
頭から足先までを完璧に覆う銀色の観賞用アーマープレート。機能性のかけらもないガントレットは動きをよくするためか少し削られていて、隙間を器用に継いである。
「お身体に気を付けて。教授」
ガイヤはいたずらっぽく口角を上げて言った。
ギルウッドの口から滑り出た西方特有のスラングはガイヤには聞き取れなかった。
魔法使いが人間界に渡っても死ぬことは無い。一切の魔法が使えなくなるだけだ。人間界に興味があるならば、教授という立場を使って機会を得れば良いのだ。それを彼はできないと言う。
魔法生命体。それは太古の昔から魔界に存在している、魔法の力によってのみ生命活動を行う生き物。そんな生き物が人間界に渡ったら、どうなってしまうかは考えなくとも分かるものだ。
12
旧友と別れたガイヤはバルコニーシートを離れた。さて、もう用は済んだし帰ろう。
そう思った矢先、携帯端末が震えて、着信を伝えてきた。小児科からだ。
「もしもし」相手は日勤の看護師だった。
『先生、まだかかりますか?ちょっと困ったことになって…先生でないとダメなんです』
聞き覚えのある文言に顔がほころぶ。
「…いや、今終わったところだ。すぐ帰る」
手短に通信を切って、次にガイヤは今朝の運転手に繋がる番号を入力した。
『もしもし―あっ先生、お帰りですか?それが…』運転手は申し訳なさそうに言った。『急発達した積乱雲の影響で気流が乱れてまして、しばらくは出られそうもないんです』
急激な天候の変化は魔界ではままあることだった。基地内は高度な魔法障壁のおかげで大した影響は受けないが、きっと外は目も開けていられないほどの暴風雨だろう。
「では…」ガイヤは少しの間思案して言った。「帰りは結構だ」
ここからだと三十分くらいだろうか。久しぶりだし少々疲れるが仕方がない。それにかなり目立つがそれも仕方ない。
「大きな音に備えておいてくれ」
不思議がる運転手にそう言い残して、ガイヤはヘリポートへ続くエレベーターに乗った。
午後十四時四十五分
突如として鳴り響いた派手な雷鳴に、基地中が一斉に動きを止めて顔を見合わせる。
音の正体を知るある者はモニタから目を離し、ある者はここぞとばかりに取引先の意識を音のした方へと向けさせ、ある者はその拍子に想い人を視界に捉え、またある者はそれから駆け足で逃れながら、各々手近な窓から空を見上げた。
空気を切り裂いた衝撃波は凪いだ海にさざ波をたて、気流をかき混ぜた。
人々は、分厚い雲が真っ二つに割れ、しけた海上にしばし強すぎるほどの日が差すのを見た。視線の先では、激しい雷鳴を引き連れた金の飛龍がとぐろを巻きながら空高く昇っていく。目の良い者には、逆鱗の奥に覗く切れ長の目が基地を見下ろすのが見えただろう。飛龍は金の鱗で光を跳ね返しながら、挨拶するように空中で一回転して、割れた雲の隙間に消えていった。
人々は世にも珍しい龍の姿をもう一目見ようとしばらく空を見上げていたが、雷鳴が遠のいていくにつれ、ひとりまたひとりと持ち場に戻り、その後はいつも通り日常が続くのみである。
物言わぬワープホールは、ただ存在していた。
13
すっかり風も冷たくなり、暖房が欠かせない季節になった。
この時期患者は一段と増え、狭い待合室は連日子供の声で溢れる。
やっとのことで忙しい一日を終え病院を閉めたガイヤは、高い背を少し屈めて、バスルームの鏡と向き合っているところだった。鏡には疲れた顔をした男が写っている。
結んでいた髪をほどいて撫でつける。親しい人たちはこの髪を綺麗だと言う。竜人の輝かしい栄光を体現していると。しかしガイヤはそうは思わない。こんなのは実もつけず刈り残されたまま枯れた哀れな草だ。
日が変わったことを知らせる鐘がどこかから聞こえてきた。
時間には勝てない。どんなに心躍った音楽もいずれ聞きなれた退屈なものになる。感動した本も何度も読むとその感情は薄れていく。
本と言えば、ガイヤはついさきほどの出来事を思い出した。
「先生、本読んでぇ」
ベッドに座る子供の水っぱなを吹いてやりながら、渡された本を見た。いつの日かにリンと隣の街の劇場まで見に行った演劇を、物語調にしたものだった。
「これねぇ、一人のお姫様をねぇ、二人の王子様が取り合う話なんだよぉ」
子供とは時に、難しい内容でも思った以上にきちんと理解するので驚かされる。
読んでやると案の定、三ページ目で船を漕ぎだした子供に毛布を掛けて、ガイヤは読書用ライトを消した。
「おやすみ先生、また明日ね~」
寝ぼけ眼をこすって手を振る、廊下の明かりに淡く照らされた顔は入院初日より成長して見えた。
皆が皆、また明日と言って、次が来ることを信じている。それが嬉しいことなのか、寂しいことなのか分からない。最後には私を置いていくのに。
「孤独だ」鏡の中の自分が言う。「私は置いていかれてばかり」
ついこの間歩けるようになったような子供がもう二児の親となり、少し見ないうちに年を取り、この手に温もりを残したままこの世を去っていく。
いつかの朝、アデラインは自分に、「変わっていない」と言った。
確かに、十年間で己の容姿は一切変わっていなかった。しかし竜人だって決して不老不死などではない。寿命は長くても一年の長さは同じだ。学んだこともあれば考え方も変わった。
と、思いたいが、友や子供らの成長した姿を素直に喜べない気持ちや、逆に変わらない一面を見て安心したりするようでは、やはり自分は本当に「変わっていない」のだと感じてしまう。
―探し求めているものと?ああ、神々よ―
アラタス神と違って、竜人の神はもういない。
自分が本当に探し求めているものとはなんだろうか。
仲間?それならすでにいる。同族?違う。別れに対する免疫力?そんなものはいらない。
いもしない神は、やはり答えてはくれなかった。
解題
8シェイクスピア『ハムレット』引用
9ソポクレス『オイディプス王』引用
10ゲーテ『ファウスト』引用
11チェーホフ『かもめ』引用
13ラシーヌ『ブリタニキュス』引用