イツキの家「え……えぇー…」
突然の出来事に呆然とする。僕はほんのさっきまでぼろアパートの小さな玄関に立っていたはずなんだ。でも今立っている場所はどう見ても和風な平家敷の廊下。振り返ったら間取りの変わる家は本当に存在する…。
「ようこそ〜」
奥の襖が開いて″僕″が顔を出した。ドッペルゲンガーすらも本当に存在する。世界は不思議でいっぱいだ。
「びっくりするじゃないですか」
圧縮魔法については散々教えてもらったけど、実際目にして凄さを実感した。ルッツに見せたら興奮するだろうなぁ。
「空間圧縮魔術師の寝屋なんですから、これくらい当たり前ですよ。」
「まぁ、天下の圧縮魔法術師サマの家があんなボロいマンションなわけないとは思ったけどね…」
それにしても変な作りの空間だ。左右は全て襖で外は見えず、前を向いても後ろを向いても先が見えないくらい長い廊下は少しというかだいぶ不気味だ。
「こっちですこっち、お茶を用意してありますから。」
襖に隠れたと思ったら今度は真後ろの襖から声が聞こえた。呑気に手をこまねく僕と同じ顔同じ声同じ名前をした彼―皆には下の名前でイツキさんと呼ばれている―はこの世界じゃすごい人らしい。
ごく普通の人間である僕と違って、イツキさんは魔界一の空間圧縮魔法術師だ。イツキさんが使う空間圧縮魔法は俗にいう瞬間移動のことなのだけど、詳しい説明は今は割愛。
イツキさんはワープホール研究の第一人者だからか顔も声も年齢だって僕と同じはずなのに喋り方や所作は僕より自信があってしっかりしている気がする。とにかくドッペルゲンガーが存在するって時点で驚きなのにまさか自分のドッペルが黒服に囲まれて生活するヤクザの若頭みたいな立場だとは思わないでしょ普通…。
「人払いはしてありますからね。のんびりどうぞ。」
突然格式のある家に呼び出されてそうのんびりできるものだろうか。少しでも粗相したら壁に埋められやしないだろうか。
案内されたのは日本の茶室を思わせる小さくて綺麗な部屋だった。掛け軸の文字が魔界の言葉であることを除けば、なんとも親しみある雰囲気だ。イツキさんはいつもの重苦しいコートは着ていないし近くに黒服もいない。気遣ってくれたみたいで何となく緊張が解ける気がした。それなのに、
「いやぁ良かった。あなたはどんな魔法も受け付けないと聞いていましたからどうなるかと思っていたのですが、少なくとも空間圧縮魔法は通じるようですね。」
「…」
座りかけて硬直する。『どうなるかと思っていたのですが』じゃないよ!え?さっそく実験体扱い?
「あの、もし失敗していたら?」
「さぁ分かりませんが、普通は失敗すると壁の一部になるか圧縮されて小さくなりますかね」
ヒエェ!壁になるのは分かるけど小さくなるって何??!やっぱり魔界の研究者は信用しちゃダメだ!そもそも僕が人間だと知っておいて実験に使い倒さない時点でかなり欲を我慢してくれているのだろうけど、研究者としては対象が自分のドッペルゲンガーならなおさら逃したくないはずだ。
実際、冒険者身分であるために根無草で住所を持たない僕たちの居場所と連絡先をなぜイツキさんは知っているのかなんてあまり考えたくはない。正直帰りたい。なんだかんだでルッツが恋しい…。この危険な世界じゃ僕は簡単に死んでしまうんだから保身に走っても非難される筋合いはないはずだ。
「あのもしかしてそれを試すために僕を呼んだんですか?」
終わったなら早いとこ帰してもらえないでしょうか…とはさすがに言えないけれど。
「はは、一番の目的はそれですね。…それとぜひ見せたいものがありまして。」
おもむろに立ち上がったイツキさんが襖を開けると当然のようにそこは廊下ではなかった。
「見てください、綺麗でしょう」
「あっ?!」
思わず立ち上がって見ると外には青い景色が広がっていた。山より高い。雲を見下ろす高さだ。こんな景色を見たのは修学旅行で飛行機に乗った時以来だ。
「この建物は浮島にあるんです。」
冷たい空気が流れ込んできて部屋を冷やしたが、手足が冷えたのはそれだけが要因ではなかった。
「じゃあ、僕は、地上から一瞬でこの高さまで…」
思い出したかのように激しい頭痛に見舞われて立っていられなくなる。人間は無力だ。まさか魔界に来て気圧に殺されかけるなんて。
「あなた方は浮島へはあまり来られないでしょうから…あれっどうしたんです、まさか気圧の変化は一気に受けると?うわぁんごめんなさい」
ちくしょう慌て方は僕とそっくりだ。あとごめんルッツ、夜ご飯は作れそうにないから外で食べてね…。