濡れたラジオ 「あ?」
雨の音で目が覚めた。ソファで寝落ちていたらしい。
目の前では内職をしていて活動限界をむかえた居候男の黒い髪が机に散らばっている。
ザーザー、、ばちばちばち
振り返ると全開の窓から振り込んだ雨がばちばちと床を打っていた。
「めんどくせぇ」
タオルを取りに立ち上がりかけた時、目の端に何者かの気配を感じて息を詰める。
床にできた小さな水たまりが足跡の形をしているのを見とめて体が緊張に強張るのが分かった。
「ナインか?」
いや違う。ナインは変な時間に帰ってくることはあるがこんな悪戯をするタイプではない。特殊魔法を使った侵入?魔法陣はどこの研究所の…それも違う、光を屈折させて姿を消すには膨大な魔素とそれを変換するだけの魔力が必要だ。そうなると国家魔術級だしそこまでするならどうして足跡を残すなんて初歩的な――
じっと動かないその足跡の何か、なにかが、頭の中のどこかに引っ掛かる。なのに思考が白んであと一歩で繋がらない。
「……何しに来た」
やっとで喉から出た声は自分のものではないような気がした。この質問さえ自分の意思でしたものだろうか。
静かな足跡はどこか物言いたげに佇んでいたが、やがて音も無く動き出した。するすると滑るようにして机の横を通り過ぎて短い廊下を進み、玄関横の小さな物置の前で動かなくなった。自分はといえば、緊張したまま首だけ動かしてあの足跡が次いつ動くか注視していたが、やがて雨が床を打つ音以外の音に気がついた。半開きの物置から何か機械音がする。
ザザ、ザァァー
注意して聞いてみると、音を立てていたのは先日ナインが拾ってきた壊れかけのラジオのようだった。金属で継いだ破損部分が月明かりを反射して存在を主張している。
ザー、ザザ、ザ、、、
ノイズの合間に何か声が聞こえる。
「―の―――ぃ、―――」「い――、―も――から―」
足跡はいつの間にかただの床の染みになっていた。
「ッチ、何だってんだよ」
自分はなにを姿もない音なんぞにビビっているのか。苛立ちを振り切るように足ばやに廊下を抜け乱暴にラジオを手に取ると、途端に声は鮮明になった。
「いいかい、ルッツ――」
「な…ッ」
突然呼ばれて一瞬思考が止まる。
「――こっちも頑張る――きっと大丈夫――」
ノイズに篭もった男の声。後ろで流れる水の音で危うく聞き逃しそうになる。
「酷なことをさせてすまない――黒い瞳の彼がお前を助けてくれる―あともう少しだから――」
黒い瞳の?助ける?何だ?このラジオはなにを言ってる?どうして?自分は、この声をどこかで…
水の音が近づいて男の声が聞こえなくなって、ラジオから溢れた水が手を伝って、床を濡らした。
騒がしいドアの音で今度こそ本当に目を覚ました。目の前では変わらず居候男の黒い髪が机に散らばっている。
「た〜だいま〜〜」
奇妙でつかみどころのない相棒、ナインが帰ってくるなり機嫌よく持っていた小包を開けている。おおかた新作ゲームを手に入れたとかだろう。
「友達と対戦してたら朝まで熱中しちゃってサァ」
ナインの言い分はどうでも良かったしそれより今見た夢のことで頭がいっぱいだった。落ちている本を拾おうと身を起こすと、夢でラジオを掴んでいた方の手から水滴が一筋こぼれ落ちる。
「…おいモリィ」
「んン…何ぃ?」
小突くと頬に跡のついた間抜けな顔がのっそり持ち上がって、その黒い目を瞬いてうわもう朝じゃんと勝手に慌てている。
「昨日、雨降ったか?」
答えは分かっているけれど。濡れた様子もない窓は鍵までかけて締め切られている。
「えー?昨日は朝から快晴だったし今日も雨の予報はないけど…もしかしてなんかあった?」
「……何もねーよ」
物置を覗くと、壊れかけのラジオは水に浸されたように湿って今度こそ壊れてしまっていた。
『黒い瞳の彼を頼るんだ――』『あともう少し――』『すまない―』
思い出したくても思い出せない声が頭にこだまする。
多分、何か大事なことを忘れている。