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    MT24429411

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    MT24429411

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    ラーヒュンでヒュン先天性TS
    少女小説を目指したような目指さなかったような

    #ダイ大(腐)
    daiDai
    #ラーヒュン
    rahun
    #先天性TS
    congenitalTs
    #先天性女体化
    congenitalFeminization

    ダッチアプリコットパイ「オメー、コーヒー淹れんのマジ上手いよな」
    しみじみとポップは呟いた。ふくよかで芳醇な香りが鼻腔を満たし、自然と落ち着いた心持ちにさせる。こんな繊細な特技があるとは意外なもんだ、と目の前の顔を改めて見遣った。
    「ああ、ラーハルトが拘っていてな。教えてくれたんだ」
    「へぇ~…あいつが自分の好みをね~…」
    煎れた当人のヒュンケルは微笑みと共に返した。この姉弟子と魔族の血を引く戦士は、最近一つ屋根の下で同居を始めたと聞く。ポップはとうとうこの堅物な姉貴分にも春が到来したかと、ニヤつきながら含みのある言葉を呟いた。
    ――が、その想像はあっさり裏切られることになる。
    「あいつは信頼のおける親友(とも)だ。感謝してもしきれん」
    あっさりとした、しかし万感込めた言葉に、ポップは肩透かしを食らった様に目を瞬(しばたた)かせた。
    「はあ?お前ら仮にも男と女が一つ屋根の下で暮らしてんだろ?友ってどーゆーこったよ?」
    「どう、とは?」
    心底不思議そうに聞き返す姉弟子に、もどかしげにポップが突っ込む。
    「だーから、オメーら同棲してんだろ?そりゃよろしい仲なんじゃねえのかって事!」
    我ながら随分と下世話な勘繰りだと思いつつ、焦れたポップは姉弟子を問い詰める。しかしながらそれは信じがたい結果に終わった。
    「よろしい…というのが男女の仲を指すのであれば、生憎それはない。俺達は友で、それ以上でも以下でもない」
    「ウッソだろ!?オメーら一つ屋根の下で同じ飯食ってて、何の関係もない!?有り得ねー!!」
    面食らってポップはヒュンケルを問いただす。年頃の男女が同じ屋根の下で同じ釜の飯を食う仲でありながら何もない、という状況はおよそポップの理解の範疇を超えていた。そんな弟弟子の反応を、ヒュンケルはころころとよく変わる百面相のようで飽きないな、と思った。
    「うー……、ああほら、友とかじゃなくてさあ、もっと何かこう、あんだろ……?」
    「真実だ。師と父に誓って嘘偽りはない」
    「ええー……マジ有り得ねえ……いやでもアイツも堅物だしなあ……そんなこともあんのか……」
    今ひとつ腑に落ちていない様子で自分の中の常識と照らし合わせながらラーハルトの方をチラチラ窺う弟弟子の姿を見ているのはヒュンケルにとって楽しくもあるが、正直色恋を探られるのはどうも苦手だった。曖昧に言葉を濁すよりも明朗な誠実さを好むヒュンケルは、弟弟子の煩悶を打ち消すように、目の前にコーヒーの代わりと茶菓子を饗した。

    ヒュンケルとラーハルトが一つ屋根の下で暮らすようになったのは、ダイが地上に帰還してからだ。
    「お前、パプニカの城で暮らすのではないのか?」
    いかにも以外と言わんばかりの表情でヒュンケルがラーハルトに問うた。
    ダイは女王として即位し戴冠の儀を済ませたレオナと近々婚礼を控えている。彼が先の大戦の勇者でありまた亡国アルキードの王族の末裔に連なる血統であることをレオナが強調して公言したことにより、ダイは王配としての立場の正当性を確固として認められた。また、パプニカの家臣達の中でも王宮の内政や地位権威に拘る者は――ヒュンケルにとっては耳の痛い話だが――魔王軍侵攻のの際ほぼ例外なく命を落としている。
    「ああ、勿論ダイ様にパプニカ城へお招きいただいたが、あいにくオレは人間の多いところは息が詰まるのでな。それに人間だらけの城の中ではオレの容姿は目立って仕方がないし、珍奇な生物を見るようにじろじろ眺め回されるのもごめんだ」
    「で、お前は宮仕えを断ったと」
    「竜騎衆が仕えるのはあくまで竜の騎士だ。他に従う道理はない。ダイ様のご命令があれば別だがな。――畏れながら、必要とあらばいつでも推参すると申し上げたところ、あのお方は聞き入れてくだすったよ。何とオレのような木っ端のために“大切な忠臣のためになるべく静かな場所を”と、家までくださった。益々あのお方の部下として恥じぬ働きをせねばな」
    ラーハルトが主であるダイのことを語り出す時、聞き手は長時間を覚悟せねばならない。「本当にあのお方は慈悲に溢れた寛大な素晴らしいお方だ」だの「この世を遍く照らす太陽のごとく輝かしい」だの「オレはダイ様に仕えることが出来た運命を誇らしく思う」だのとダイへの賛美に飾辞の限りを尽くし、しかもそれが小一時間ほど続く。一度その場に同席させられたポップなどは、途中からうんざりした表情で飲み物のグラスをスプーンでかき回し始め、終いには退屈そうに欠伸を噛み殺していたものだった。
    だが、ダイについて語るときのラーハルトの姿が、ヒュンケルは好きだった。おそらく彼がダイ個人への敬意は元よりその後ろに養父バランの姿を見ている為でもあろうが、その時の彼の誇りと喜びに充ちた声と表情、そして恍惚と潤んだ綺羅綺羅(きらきら)しい瞳に、何故かどうしようもなく惹き付けられるのだ。そして朗々と詩吟を詠い上げるように淀みなく澄んで流れる彼の声は、聞いていて心地が良い。だが同時にヒュンケルは、形容しがたい一抹の寂しさを感じてもいた。
    ヒュンケルはその快くも不思議な時間を惜しみながらも、今は敢えて話を戻した。
    「で、ダイとは離れて暮らすと」
    「……ん?あ、ああ。」
    表情を見るにまだ語り足りなさそうだったが、どうやら彼も今はそれ以上に語るべき事があったらしい。刹那の後に真顔へと切り替わった。
    かと思えば、何やら居心地悪げに目を端に逸らし、やや俯き掛け、ややあってから意を決したように顔を上げつつも、また視線を方々へと逸らし始めた。一体何なのだと呆れつつも、いつになく言葉を詰まらせる友の珍しい姿に興味をそそられたヒュンケルがその顔を覗き込もうとした時、その形良い青紫の唇が、奥歯にものの挟まったよう、今一つ言いにくそうに言葉を紡ぎだした。
    「……その、オレと一緒に住む気はないか?いや、お互い行くところがなければ、一緒に住んだ方が何かと便利だろう。お前さえよければ、だが……」
    決死の覚悟に等しい申し出に、ヒュンケルは目を丸くして見つめ返した。
    「何を言い出すかと思えば……まあ、オレとしてはそれでも構わんが、むしろお前にとって迷惑ではないのか?」
    「迷惑なものか!」
    心外だと思わず大きな声を上げたラーハルトにヒュンケルは驚いて目を見張り、それに気づいたラーハルトはまたばつが悪そうに唇を歪めた。
    「……すまん。お前にとって嫌だったら本当に断っていい。オレの都合でしかないからな。いつでも言ってくれて構わん」
    「いや、少し驚いただけだ。そうだな。お前の好意、有り難く受け取ろう」
    ヒュンケルの返事に、ラーハルトの表情があからさまに明るくなった。
    「そうか!では早速準備しておこう。二人で暮らすには色々と物入りだからな」
    「いや、オレにはそんなに大荷物は必要ない。生活するなら旅で使っていた程度のもので十分だ」
    「……旅の道中でも思ったが、お前は身の回りのものが余りに必要最低限過ぎる。もう少し気を遣うべきだと思うぞ」
    「……オレも旅の道中で思ったが、お前は案外拘りが強いな……」
    「誇り高き竜騎衆としていついかなる時も身辺は整えておかねばならんからな。ダイ様やバラン様のご尊顔に泥を塗るわけにも行くまい」
    後半はやや誇らしげな色を帯びたラーハルトの言葉にヒュンケルは苦笑いする。
    「しかし、先程のお前のしょげ返った表情というのも珍しいな。面白いものを見せてもらった」
    愉快げに微笑む想い人の言葉に、ラーハルトは頬に血を上らせ「やかましい」と呟いたのだった。

    五年前、大魔王が勇者の剣によって敗れ、地上には平和が訪れた。人類が喝采と完成に沸き返り、各国合同により設けられた戦勝記念の祝宴で労いと安堵、喜びの言葉が交わされた。そうして勝利の喜びも覚めやらぬ中、各国の王侯は、戦後処理と復興に着手し、国体を整え始めた。それは若きパプニカの王女レオナとしても例外ではなく、戦場跡地や都市部の視察、治安維持及び復興計画の策定に産業整備と、連日多忙な日々を送っている。
    さても真に地上にとって安寧が訪れたかと言えばさにあらず、大魔王封印後、世界各地で魔界に住まう低級の魔物や良からぬ妖魅魑魅魍魎怪異の類が地上を徘徊し、時折人を襲うという事件が発生していた。というのも、残存する主要各国の調査部隊による調査結果を総合した結果、どうやら魔界と地上を繋ぐ旅の扉――次元の歪んだ個所を魔道力学的に別の場所へ繋いで固定したもの――を通って地上に出没しているらしい。かつて魔界から地上へと向かう扉はその大半が大魔王バーンの超魔力によって制御されていたが、バーン封印後は魔力の供給が途絶えたまま新たに管理する者もおらず、物質であり同時に歪んだ波動的性質も併せ持つ極めて不安定な状態にあった。
    事態を重く見た現カール国王アバンは、軍を用いて危険度の高い魔物の駆除にあたりつつ、世界首脳会談において議案を掲げ、これへの対応を呼びかけた。軍による危険性の高い魔物の駆除及び出没区域の視察調査、対処法が判明次第速やかに各国へと周知し、情報共有と国家間の協定を図った。また、人口が少なく武力を持たないテランにおいてはベンガーナが派兵を申し出た。かくて、戦後復興や難民支援等相次ぐ財政出動と人材不足の国難諸問題に頭を痛める間もなく、共通した国家間の驚異の前に再び世界は一丸となって対処する羽目になった。
    傾いた国体を立て直すのは王の手腕如何だが、まったく戦争そのものよりもその後の始末のほうが余程労力を要するものだ。それでも各国諸王侯政務官は尽力を重ね、浅くはない傷を残しながらも復興に心血を注ぎ続けた。

    また、帰還後のダイの処遇についても問題が山積している。アルキード王族の血統を主張することがおしなべて各国王族民草を黙らせるのに最も早いが、忌まわしい事件――アルキード王国が一夜にして消失した――を思い起こさせるという新たな懸念材料も浮上する。できれば活躍のみを伝説としてこのまま常人の訪れぬパプニカ領怪物島の少年として大人しくしていてもらいたい――というのが実際のところ本音でもあろう。アルキード跡地へ迫害の種となる異種族との混血や寄る辺のない難民を入植させ、ダイを新生アルキード王として祭り上げるという凡そ荒唐無稽にも思える案もどこからともなく出されたが、いずれにせよ地固めの最中というわけだ。


    -----------------------------------------------------------------------------------


    今日も今日とて新たに入手した情報の共有にと現れた弟弟子は、どうやら師からの手土産も預かってきたらしい。
    「ほら、これ先生からのプレゼントでドライハーブとお茶。ジニュアール家秘伝の調合で滋養強壮に効果満点!だってよ。そんでこっちは何と有り難くも女王様からな。ルームフレグランスにって、ポプリと香油だってさ。オメーらん家っていっつも殺風景だもんなあ」
    部屋の中に視線を巡らす弟弟子に、いかにも心外と言わんばかりの表情でヒュンケルが問う。
    「そうなのか?そんなに居心地が悪いだろうか」
    「まー、らしいっちゃらしいがよ。せっかくのお心遣いだ、ちゃーんと活用しときな」
    部屋の隅で槍の手入れに勤しむふりをしながらこちらを伺っているラーハルトへ、ポップは揶揄(からか)うように、ニッと悪戯っぽい笑みを向けた。
    「後はこっちも。二人でどうぞ、てよ」
    差し出された鳶色の瓶の中で液体が揺れる。貼られた黄金色のラベルはカール王室御用達の由緒正しい製造所のものだ。
    「これは…酒か。しかし随分と…」
    いかにも高級品でございます、と言わんばかりのそれを、ヒュンケルは目を丸くして見つめる。そんな彼女の戸惑う反応をあらかじめ察していたように、彼女の言葉にポップの揶揄いの色を混ぜた声がかぶさった。
    「何だよ、嫌だっての?」
    「いや、そうではない。オレ…達にはむしろ勿体ない位だ。しかし、ここまでしていただくような事など……」
    「あ――、いいんだよ。先生はおめーのこと気にかけてんだから。あ、言っとくけど気を煩わせたとかそんな辛気臭え方向に考えんなよ?あの人は他人の世話焼くの半分趣味みてえなもんだって分かってんだろ」
    ともすれば鬱屈した自責に陥りがちな姉弟子の思考をポップは慣れた予感で引っ繰り返した。 まったく自己評価の低さも考えもんだな、と胸中で独り言ちつつ、それでも戦闘じゃ割かし自信満々だっけと不思議なことを思い出す。
    「先生、偶には顔出して欲しいって寂しがってたぞ?心配掛けたくねぇなら尚更会いに行けよ、テキトーに用事作ってさ」
    「ああ……すまない。お前にも気を使わせてしまったな、礼を言う」
    アバンは現在カール王国女王の伴侶として政務に勤しむ日々を送っている。その立場と多忙ぶり故においそれと会いに行ける訳でもないのだが、敢えてポップは焚き付けてやった。ちなみにポップが頻繁にアバンと顔を合わせる機会を持っているのは現在彼が実質武具の仕入れ業者として王宮に出入りを許されているからだ。当然に“勇者パーティーの一員である大魔道士”であった彼とても、戦後彼を囲い込もうと画策する各国から声を掛けられていたのだが、師マトリフの境遇と身近な王族レオナの多忙ぶりを傍目とは言え見知っていたことから「そんな面倒事は勘弁」とあまたの引く手を断り生家のあるランカークス村に戻って家業を継ぎ、平行して魔術の研究を行っている。

    そんな二人を、ラーハルトは面白くなさげに横目で見ていた。姉弟弟子達の久闊を叙する光景は、気心を許した相手への特別な親密さに充ちている。
    無論ラーハルトとて親しい存在が全くいないわけではないし、ポップを軽く見ている訳でも決してない。確かに過去には周囲の人間達から冷遇を受けて育ったために、心を許す相手と言えば精々母と主君バランのみ、同僚の竜騎衆達と言えば――今にして思えば悪友と呼べないこともなかったろう――彼自身が主君の誇りを汚すまいと過剰に己を律していたこと、また互いにプライヴェートは不可侵としていたため、考えてみれば年月の割にさほど深く付き合っていたわけでもなかった。が現在、戦友ヒュンケルは言うまでもなく、新海戦騎に就任し共に魔界を駆けずり回ったクロコダイン、何かと突っかかってくるもののタッグを組めば不思議と息の合う金属生命体ヒムなど、彼らに対しては、誇り高き戦士であれと肩肘張っていた自分がいつしか砕けた対応をするようになってもいた。
    そしてポップに対しては――恐れ多くも主君ダイの側で対等な親友として振る舞っていることについては正直気に入らないが――大魔王との戦いの際、ダイの為に自分たちを利用してでもダイの勝利に貢献しようと奮闘していた姿は尊敬に値するし、正直なところ心の底では彼の魂の強さに圧倒されてもいた。ラーハルトはあの時確かにポップに見惚れていたのだ。テランで自分たちを足止めに来た時にはあれほど未熟そうに見えた彼へ。ダイに最後の最後まで寄り添い、貢献していた彼の心根の強さに。ラーハルトはポップを主君の大切なパートナーとして、そして一人の恐るべき戦略家として認めざるを得なかった。
    しかし敬意(それ)とこれ恋敵(これ)とは話が別である。我が身の大人げなさを自覚しつつも、嫉妬の意識はどうにも否定しきれなかった。

    -------------------------------------------------------------

    ある日、ヒュンケルは数日分の食料を調達しに、市場へ向かっていた。青く澄み渡る空に太陽が白光を差し向け、広い通りを大勢の商人や旅人、地元の客が行き交う。やや肌寒いながらも心地よい空気を胸に吸い込んで彼女は目的の店へと歩を進めた。
    ヒュンケルはアバンに指示していた2年間で最低限の調理法は身に着けていたが、現在のところラーハルトの方が料理の腕は遥かに上だ。彼の手ずからの料理を味わいながらも意外そうに驚く彼女へ、基礎は亡くなった母から教わりバラン様の御為に研鑽したのだと、彼は若干の照れを垣間見せながらも誇らしげに笑って見せたものだった。
    「大切な相手に手料理か…」
    彼の大切な相手、と思うとヒュンケルはバランの事が少し羨ましい気持ちになったが、他人を羨むのははしたない事だと常々敬愛する父から教えられていた事を思い出し、頭を振ってその気持ちを打ち消した。
    彼女にとっての食事は比較的良い思い出の方が多い。幼少期、地底魔城で食していた穀物と野菜のごった煮スープによく焼かれた肉――何の肉であったかは終ぞ父は教えてくれなかったが――大雑把な味付けにも関わらず、思い出の暖かさも相まってこれまでの人生の中で一番美味な記憶として残っている。その後アバンに引き取られて以降、アバンは味と栄養バランスの整った戦闘糧食や、街に寄った際の店屋の食事、たまに彼女を引き取った日を記念と言って凝った料理に真っ白なクリームを和えた焼き菓子を作ってくれたもので、彼女は素直でないなりに心の内で楽しみにしてもいた。
    後にミストバーンに拾われてからは、いかにも贅を凝らした豪勢な料理を出された。バーンのお気に入りだからという言葉はなるほど嘘ではなかったろうが、実際のところ主たる大魔王に益々以て尽くすための器を養うことに手抜かりがあってはならないというミストバーン自身の都合を薄々と察してか、彼女にとってそれらは妙に無味乾燥に感じられた。軍団長就任後、モルグ達不死者が唯一の生者である彼女のために懸命に作ってくれた料理の方が余程美味しく感じたものだった。
    故に彼女自身、ラーハルトに喜んでもらいたいが為に、アバンに師事していたあの頃もっと真面目に料理を教わっておけばと惜しく思ったし、同居の話を持ちかけられてからは料理の腕を磨こうと密かに研鑽を重ねていたのだった。

    道すがら思い出に口元を綻ばせつつ通りを真っ直ぐに進み、新鮮な青果が堆く積みあがった売り場の前に立つ。色とりどりの鮮やかさを目で楽しみつつ、鮮烈な香りを放つ柑橘に芋類、葉物野菜と根菜を買い求めた。
    商品を詰め込まれた紙袋を渡され、さて帰宅しようかと踵を返しかけた時――
    「奥さん、オマケしとくよ!」
    大粒のドライフルーツを収めた袋を手渡された。いかつい店主が快活な笑みを浮かべている。
    「あ、あ…りがとう…」
    一瞬呆気にとられたヒュンケルは、戸惑いつつも礼を言って足早にその場を後にした。
    頬が熱い。鼓動が妙に高鳴っている。
    (奥さん?妻?オレが?誰の…あいつの?)
    心の中で呟き、歩を緩める。自分達は夫婦に見えるのか。
    (――バカバカしい。あれは単なる商売人の挨拶だ)
    高揚しかけた心を抑え込み、ヒュンケルは家へ向かった。

    「いつになく遅かったな」
    戦利品をとりあえずテーブルに置いたヒュンケルへ、ラーハルトが声をかける。
    「ああ、品揃えが良くてな。つい長居してしまった」
    「お前にもそんな所があるのか」
    揶揄うラーハルトへ、
    「オレ一人なら何でも構わんが、お前は相当拘るからな」
    と嫌味でなく純粋に応えると、
    「ああ、手間をかけさせたな。だがお前の目利きはいつも完璧だ」
    穏やかな声と共に柔らかな笑みを向けられた。
    途端、ヒュンケルの鼓動が跳ね上がった。いつも見ているはずの表情だのに、先ほどの店主の言葉のせいか妙に意識してしまう。ラーハルトに動揺を気取られないよう、ヒュンケルは買い物の仕分けをするふりをして俯いた。
    (夫婦のように見られた事を今ここで言ったら、彼はどんな反応をするのだろう。驚くだろうか。喜んでくれるだろうか)
    彼女の胸中に悪戯心と仄かな期待がむらむらと沸き起こった。この心地よい空間を色づいた先に進められたなら。
    (――否、困らせるだけだ)
    ヒュンケルは即座に浅ましい期待を打ち消した。自分が他人に想われる資格などない。
    (止そう、浅ましい。現状ですら身に余る幸せなのだ。これ以上を望むものではない)
    いつものように我欲を封じ込め、ヒュンケルはかつてアバンから教わった手つきそのままに洗ったばかりの根菜と包丁を手にした。

    ----------------------------------------------------------------------------------------

    「よう、槍のあんちゃんじゃねえか、いつもの彼女はどうした?」
    酔い混じりの太い濁声(だみごえ)に、ラーハルトは顔を上げた。
    魔族の目は、薄暗い酒場(バー)の照明の仲でもよく利く。声の主は、日中の港町でたまに見かける漁夫だった。情報収集のために、ラーハルトは幾度か彼と――言葉少なにではあったが――言葉を交わしたことがある。
    「貴様には関係ないだろう」
    相手にするのも煩わしく、冷たく切って退けたが、酔いも手伝ってか絡む手を止めない。
    「いつも連れてる銀髪の美人だよ。もしかしてフラれたかぁ?」
    調子づく命知らずへ、椅子に立てかけてあった槍の石突で威嚇するよう、床を叩いてみせる。
    「もう一度言う。貴様には関係のないことだ」
    「へいへい、分かったよ。おー怖」
    睨みを利かせるラーハルトへ、大して気を悪くした風もなく、男は手をひらひらと振ってテーブルへ戻った。
    視線を目の前のグラスへ戻す。何のことはない、今夜ヒュンケルはカール王国の師の下へ行っているため手持ち無沙汰のラーハルトがこうして酒場へ繰り出しているだけである。が、今こうして他人の口からヒュンケルの話を持ち出されて、何故か妙に感傷的な気分になった。
    (彼女、か……馬鹿馬鹿しい。あいつにはとうに……)
    銀の光を跳ね返すグラスに、ふとヒュンケルの顔が重なった気がした。

    -------------------------------------------------------------------------

    しばし日が経ち、ヒュンケルは師に会うためカール王城を訪れた。一番弟子からの手紙に随分喜んだらしき現カール王配アバンはよく来てくれたと来訪を歓待し、早速手ずからの料理で持て成した。そして同席したフローラ女王にヒュンケルがやや緊張しつつも歓談を楽しんでいた最中のこと。
    「貴女、綺麗なんだからもう少し着飾ればもっと素敵になるわ」
    「へ?オ……私がですか?」
    女王陛下からの思ってもみない言葉に、ヒュンケルは目を大きく見開いてソテーを切っていたフォークを止めた。
    「貴方たちが尽力してくれるおかげで、カールは勿論、世界各国が随分助かっているわ。でも、貴方も進んで幸せになって良いのよ」
    「い、いえわた、私は、今のままでも身に余る幸せで……」
    焦ってアバンを見れば、彼も娘の幸福を願う父のような慈愛に満ちた表情で頷いている。
    顔を赤らめて下を向いてしまった彼女に二人はころころと笑い、帰りに茶菓子を手土産に持たせてくれたのだった。

    すぐにキメラの翼で帰るのも味気なく、武器屋を見て回ろうかとヒュンケルは街へ繰り出した。超竜軍団によって壊滅したカール王国だが、女王フローラ及び王配アバン、そして民の尽力により、物資の流通にもさほどの不自由はない程に生活再建及び産業復興を遂げていた。生活必需品はもとより嗜好品の類も店先で適正価格で提供されており、路上で遊ぶ子供達の笑さざめく声と母親たちの呼ぶ声が聞こえる。
    多くの人が行き交う賑やかな街並みを見るともなしに眺めつつヒュンケルは通りを歩いていたが、突然その耳に聞き慣れた声が飛び込んできた。
    「はあ、やれやれ。人使い荒いのはダイもレオナも同じだな」
    ぶつくさと独りごちながら通りを横切ろうとしているのは、魔術に長けた弟弟子ポップだ。その姿が、彼女を見留め、ぴたりと足を止めた。
    「あれ?ヒュンケルじゃん。先生に会いに来てたのか」
    「ああ。報告事項があったのでそのついでにな」
    姉弟子のついで呼ばわりに“先生が知ったらショック受けるぞ”とポップは心の中で突っ込みつつも、同時に“まあこいつはガチガチに理由作らねえと会いになんて行けるタマじゃねえよな”と妙な納得を覚えた。
    「お前は大丈夫か?随分忙しいようだが、ちゃんと休めているか?」
    「ああ、オレの方はぼちぼちやってるさ。心配要らねえよ」
    「本当ならいいんだが、お前は無茶をしがちだからな……」
    まるで母親が我が子を案ずるような姉弟子の言葉にポップは苦笑いしつつ、「世界中でもオメーにだけは言われたくねえぞ」と返し、それにヒュンケルは「そうだったか?」と笑いながら返した。おそらくこの場にマァムやラーハルトがいれば、二人とも無茶をするところはそっくりだと突っ込んだことだろう。
    「とにかく平気だって、なんも心配要らねえ。自己管理できねえほどガキじゃねえからな。そりゃそうと、そっちはあれからどうなんだよ」
    これ以上子供扱いされるのはごめんだとポップは話題を換える。が、その幾分か言葉の足りない問いかけに理解の追いつかないヒュンケルはきょとんと目を見開いた。
    「オレか?体のことならこの通り、大事ないさ」
    「ちげーって、アイツよ。ラーハルトの奴と何か進展あったのか、って」
    話題を変えるためとはいえとっさに口をついて出た言葉が下世話な詮索とは、オレもつくづく品性がねえなとポップは心の中で自嘲した。おそらく辟易した反応か叱責が返ってくるだろうと踏んでいたが、ふと見ると、姉弟子は表情を曇らせてこちらから視線を外している。
    「……前も言っただろう。あいつとはそんな関係じゃない。大体、オレのような武骨な女などそういう対象として見るはずがない」
    先日きっぱりと関係を否定してのけた時とは打って変わって沈んだ表情のヒュンケルの様子を、ポップは驚きを持って受け止めた。どうやら存外に姉弟子の中で心境の変化があったらしい。自信のなさは相変わらずだが。
    (おいおいこの反応、やっぱりアイツに気があんじゃねーか!――つーかアイツがオメー見る目、明らかに他の女見る時と熱意つーか熱烈さがちげーんだけどマジで気づいてねーのかよ……いや昔のオレも人のこと言えなかったけどよ……)
    ダイとヒュンケル以外には基本的に無愛想ないけ好かないはずの魔族の男に同情を覚えつつも、ポップは次第にこの二人の関係をもどかしく思い始めた。どちらかが思い切って踏み出さなければ、この謹厳実直と言う言葉が服を着て歩いているような不器用者達の関係が永遠に平行線のままであろう事は想像に難くない。
    やや大袈裟に溜息をついて、ポップは切り出した。
    「あのさ、気になってることあるんなら本人に直接ドンと言っちまえよ。同じ家に住んでるんだろ?ハッキリさせねえ方が気分悪ィだろ」
    「しかし……痛くもない腹を探られるのも不快だろう。言わぬが花という言葉もあるからな。――だがオレは、あいつに心に決めた相手がいるのなら、あの家を出るつもりだ。いずれ一緒に生活するとなればオレは邪魔になるからな」
    (――はああ!?何でそうなるんだよ!!)
    ポップは心の中で叫んだ。この二人は傍からはどう見ても好き合っているというのに、互いにその不器用さと勘違いから往生際の悪いすれ違いを起こしているのだ。
    「……あのなヒュンケル。アイツが、どうでもいい相手(オンナ)と、四六時中連(つる)みたがるタマだと思うのか?」
    鈍感極まりない女剣士は、弟弟子の言葉に、は、と虚を突かれた顔をした。
    「アイツ、傍から見ても超のつく堅物野郎でその上人間嫌いじゃねえか。そんな奴が同年代の、それも人間の女と一緒に暮らしたがるって、相当だぜ?」
    「…………」
    ヒュンケルは困惑したように口元へ手をやり、立ち尽くしている。弟弟子の指摘に尤もだと納得する一方、常からの固着した自己否定癖から、どうしてもそれを素直に受け入れがたい概念として認識してしまっている。
    そんな姉弟子を、ポップは少々焚き付けてみることにした。
    「おし、今度デートにでも誘ってみな。アイツ一も二もなく食いつくぜ。オレが保証する」
    「え?そ、そんな、何を急に……」
    「ほら、これくれてやるからアイツに使わせな。この大魔道士ポップ様とベルク流刀匠ノヴァ謹製のモシャス入りブレスレット、名付けて変化の腕輪だ。モニターって事でタダでいいぜ」
    慌てふためくヒュンケルに、ポップは構わず荷袋の中からブレスレットを取り出して押しつけた。見れば、それは金細工と銀細工の絡み合う精緻な紋様の施された地金の中央に、鮮やかに澄んだ貴石が填め込まれている。その石は凝縮されたポップの魔法力の強大さを示すように、光の加減でフレッシュグリーン、オリーブグリーン、ネオンブルー等様々な緑色に煌めいた。
    ヒュンケルがその美しさに思わず見入っていると、丁度昼八つを知らせる時報の鐘が空に鳴り響いた。
    「いっけねぇ、マァムからの頼まれ事あったんだった。じゃあな!まあ精々頑張んな!」
    一方的に言い残し、ポップはさっさと瞬間移動呪文(ルーラ)で飛び去って言ってしまった。
    (――デート?このオレが……あいつを?オレなどが……)
    弟弟子を呆然と見送りながら、ヒュンケルは戸惑いと共に立ち尽くす。デートなど、彼女にとっては遙か夢物語にしか思えない。どう想像してみても所詮未経験の空想には現実味がなかった。

    ――貴女、着飾ればもっと素敵になれるわ

    ふと、女王の言葉が脳裏に蘇る。今のヒュンケルには、その言葉が迷う自分の背を押す応援の言葉にも思えた。
    「着飾る……か。そうだな……取りあえずの第一歩だ」
    荷袋の中のキメラの翼をしばし見つめ、ヒュンケルはまっすぐ帰路に就くはずだった予定を変更して、カール王都の中心街へと足を延ばした。



    少しばかり予定の時刻を過ぎて帰宅したヒュンケルは、窓辺にもたれて読書をしているラーハルトに問いかけた。
    「なぁ、その……ラーハルト、明日お前、予定は……」
    ミナカトール時のポップとは比べるべくもない状況だが、なるほど想いを伝えるというのは不安と緊張が先に立つものだ。いざとなると言葉がスムーズに出てこない。
    「ん?ああ、明日は休暇をいただいている。久しぶりに羽根を伸ばそうと思っているところだ」
    ヒュンケルの胸が高鳴った。せっかくの彼の休日を邪魔してしまうのは忍びない、と思う心を敢えて押さえ込んで――自分にこんな強引さが発揮できたことを驚きつつ――申し出た。
    「よ、よければだが、一緒に出かけないか?新しい武器を調達したいんだ」
    「武器?別に構わんが……ロンの弟子が修復した魔剣では足りぬか?」
    武器の調達というのは正直なところ単なる口実だったので、焦った彼女は必死でそれらしく言い訳を並べた。
    「ああ、いや、何分にも魔剣は町中で持ち歩くには嵩張りがちだからな。それで補助用になるべく小回りが利いて持ち運びしやすいものをと思ったんだ。お前の意見も参考にしたい。ノヴァの奴もさすがに忙しいだろうし……」
    腕を上げ下げしてまで弁明するヒュンケルの姿を訝しむこともなく、ラーハルトはふ、と微笑んで応えた。
    「無論構わん。お前が戦いやすいに越したことはないからな。大いに協力する」
    その応えはヒュンケルをいっそ跳び上がりたい気持ちにさせた。まずは一緒に連れだって出かけるという第一関門は突破できた。
    「そ、そうか、すまないな。恩に着るぞ」
    「なに、気にするな。しかしオレのこの姿では街中で目立ってしまうな……ショールでも巻くか……」
    その言葉に、思い立ったヒュンケルは荷袋からポップのくれた変化のブレスレットを取り出した。
    「ああ、そのことで、実はお前さえ良ければの話なんだが……ポップがくれたのだが、この腕輪はモシャスの効果があるらしい。その、お前は嫌かも知れないが、人間の姿に化けるというのはどうだろうか」
    人間を厭う彼に対してこの申し出をする事は、ヒュンケルにとっても少なからず戸惑いがある。また、ポップの名を持ち出すとラーハルトは余り面白くなさそうな顔をすることも迷いの一因だった。
    果たしてラーハルトは一瞬瞼を伏せて逡巡するような仕草を見せ、そして次の瞬間には明朗な態度で受け入れた。
    「なるほど、面白いものを作るな。確かに被り物をするより最初から人間に化けた方が動きやすくはある。気が利くことだ」
    「ほ、本当にいいのか?無理をしなくていい、嫌ならショールを……」
    安堵しつつも気遣いを見せるヒュンケルに、ラーハルトは否定して見せた。
    「なに、お前と出歩くのに一々気兼ねせずに済むのは有り難い。オレも面倒事はごめんだ。それにオレの中にも人間の血は流れているからな」
    「そうか……ありがとう」
    安堵と申し訳なさの入り交じった表情のヒュンケルに、気にするな、と笑って告げ、ラーハルトは紅茶を煎れにキッチンへ向かった。

    浮き立つ心を必死に静めて、ヒュンケルは今日買ったばかりの衣服をハンガーに掛けた。今の自分は気を抜けば彼の前で無様に緩んだ顔をさらしてしまっていたかもしれない。頬を軽くはたいて気を引き締めつつも、ヒュンケルは先程の彼の優しい笑みに少なからぬ喜びが含まれているように見えたのは気のせいでなければ良いと願った。


    翌朝、ラーハルトはいつものように起き抜けの顔を冷水で洗い終え、腕に変化のブレスレットを装着した。
    見る間に紫苑色の肌が人間のような薄杏色に変わり、尖った耳の先端が円くなる。涙を象ったような目の下の紋様が徐々に薄れて消え、鋭く伸びた牙も短く縮む。しばしの後、ラーハルトは、綺羅綺羅しい蜜色の髪はそのままに、人間と寸分違わぬ姿になっていた。
    鏡を見て己の姿を確認し、よし、と呟く。母親譲りの人間の姿だ。これで誰が見ても魔族とは思うまい。
    会心の出来に満足したラーハルトは、何の気なしに振り返り、そして目の前の光景に呆けたように口を開けて見入った。
    目の前にはヒュンケルがいる。否、いつにない姿のヒュンケルがいた。
    上品なオリーブブラウンの、ボディラインにぴったりと添うカシュクールワンピースに、白いレースのシアーカーディガンを羽織り、一見シンプルで有りながら落ち着いた美しさを醸し出している。大きく開いた胸元にはアバンの印を下げた細いチェーンが煌めいており、また、膝丈のタイトスカートは左の太腿の半ばから大胆にスリットが入って、少し動けば白い肌が露わになる事だろう。足下はピンピールパンプスを履いているためか、いつもより目線が高く見える。派手にめかし込んでいるわけではないが、そのシックさが、彼女の凜然とした美しさによく似合っている。
    一方ヒュンケルも、ラーハルトの姿に見入っていた。濃密な黄金色の髪は変わらずとも、いつも目に馴染んでいた紫苑色の肌が、目元の紋様が、尖った耳が消え、薄い柔らかな杏色の肌に薄紅色の血色がほんのりと乗っている。魔族特有の妖しげな色気が今は一掃され、見るものに柔かく穏やかな印象を与えた。
    互いに、何もかもが新鮮な光景だった。
    しばし二人は相手の姿に呆然と見入っていたが、どちらともなく我に返り「あ、あの、おはよう」「お、ああ、おはよう」と朝の挨拶を交わした。
    「ど……どうだ?おかしく見えるか?」
    「い、いや、決しておかしくはないぞ。いつもとは違った雰囲気で驚いただけだ」
    慌てて弁解するラーハルトだが、一瞬言葉に詰まったように押し黙り、次いで頬を血色に染め、言葉を加えた。
    「美しい、と思うぞ」
    ラーハルトの賞賛の言葉に、今度はヒュンケルが、見る間に頬から耳まで薄紅に染まった。
    「……あ……ありがとう……」
    しどろもどろに礼を述べる。高鳴る鼓動を押さえ込もうとするのに、戦闘中闘気を操る時にも匹敵する精神統一を要した。
    「お前も、いつもと雰囲気が変わって驚いた」
    「そうか。お前から見て、この姿はどうだ?」
    ヒュンケルは、頬を染めて応えた。
    「好ましいと……思う」
    正直な感想だった。いつもの姿が悪いというのではない。新たな魅力を発見した、そんな喜びが彼女の言葉に入り交じっていた。
    その言葉に、ラーハルトは安堵の声を漏らした。
    「そうか、それなら良かった。お前に気に入られないのでは意味がない」
    「え?」
    「い、いや、こっちの話だ。さて、オレも着替えてこよう」



    武器屋であれこれと見繕い、結局、やや装飾性の高い儀礼用・ディスプレイ用に近いが実践を想定して造られているという、細見の剣を買い求めた。長さ・重量・予算を鑑みて最大公約数を満たすものはいくつかあったが、ラーハルトがヒュンケルにはこれが似合うと決めて譲らなかったのだ。
    正直、小回りの利く武器が欲しいというのは彼を一緒に連れ出すための単なる口実に過ぎなかったのだが、ヒュンケルは彼と一緒に気兼ねすることなく街を歩けることと、何より自分のためにラーハルトが真剣な表情で武器を選んでくれた事実が嬉しかった。

    太陽が中天に差し掛かる頃、二人は近くのオープンカフェで昼食を取ることにした。
    規則正しく敷き詰められた石畳の中央に大きな噴水を設けた広場。楽器をかき鳴らす趣味楽団や、軽食片手に談笑する若者達、買い物帰りのおしゃべりに興じる主婦。皆が思い思いにそれぞれの時間を楽しんでいた。
    しばらく歩くうち、ラーハルトはヒュンケルの歩みが少し遅れていることに気づいた。振り返ると、ヒュンケルは時折足を少し引きずるようにしながら歩いている。
    「おい、どうした?大丈夫か?」
    「――いや、大丈夫だ。気にしないでいい。慣れない履き物で歩き辛いだけだ」
    そう言いつつも、ヒュンケルは、ラーハルトに気遣われたことで脚の痛みを再認識したためか、片方の足の甲を押さえて「すまん……」と立ち止まってしまった。
    ラーハルトが歩みを止めたヒュンケルの下へ戻り、足下を見遣る。
    「ちょっと見せてみろ」
    「え?あ、いや……」
    「いいからそこのベンチに座れ」
    ヒュンケルが遠慮することは分かっていたが、いつまでも足を引き摺られていてはどうしても気になる上、何よりラーハルトは彼女が心配だった。やや強引な勢いで、ヒュンケルを抱き上げた。
    「わっ!ちょ、ラーハルト、そこまでしなくていい!自分で歩けるから!恥ずかしいだろうが!」
    「騒ぐな。余計視線を集めるぞ」
    咄嗟に口元に手を遣って押し黙るヒュンケルの真っ赤な顔に「可愛いな」とだらしなく頬を緩ませたい気持ちを必死に押さえ、ラーハルトは噴水の側に設えられたベンチへ向かった。

    ベンチにヒュンケルを腰掛けさせ、押さえていた方のパンプスを脱がせる。
    「そら、見せてみろ。……ああ、これはなかなか酷いな」
    現れた白い素足に思わず高鳴る胸を何とか鎮め、ラーハルトは怪我の具合を確認した。不自然な爪先立ちを維持させられたせいで細いストラップが甲に食い込み、擦過傷と靴擦れを起こしてしまっている。白い肌に滲む赤い傷を見つめるラーハルトに、ヒュンケルは益々情けなさと申し訳なさがこみ上げた。
    「すまない。せっかくの休日なのに……つまらぬ面倒をかけてしまった」
    「何、構わんさ。治してやるから動くなよ。後で家からお前の靴を持ってこよう」
    痛む足を叱咤して立ち上がろうとしたヒュンケルを制し、ラーハルトは回復呪文をかけようとヒュンケルの足を両の手で包み込む。ヒュンケルは不浄の場所に触れられている羞恥で頬を赤らめながらも、足の甲を辿るしなやかな長い指の感触に陶然となり、その素足を友の心地よい手に委ねた。



    その時、二人の研ぎ澄まされた鋭敏な戦闘感が不穏な予感を察知した。咄嗟にヒュンケルの背後の噴水を見上げる。
    噴水の上方、中空。その空間がどろりと淀み、その中空に黒い点の様なものが浮かぶ。それは次第に大きく円形に広がり、やがて大きな闇を湛えた穴となった。何事かとざわめく人々の眼前、その闇の奥で何かが身じろぐ。光の届かない闇の奥深くから、昆虫のような細長い指に鋭いかぎ爪を備えた腕がずるりと這い出た。その指が大きく開き、穴の端を掴む。掴んだ出口を支えに、果たして穴の中から現れたのは、頭も胴もなく、ただ鋭い牙を見せる口を持つ中心部から放射状に伸びる六本の腕を備えた怪物であった。
    見慣れぬモンスターの出現に、人々が恐怖の悲鳴を上げる。
    それらは一匹だけではなく、ぞろぞろと次々に這い出てきた。一匹、二匹、三匹……六匹。
    ラーハルトとヒュンケルは咄嗟に身構えつつ、相手を観察する。ハドラーの治める地底魔城でもバーンの率いるバーンパレスでもおよそ見たことのない、異形のものども。魔界の遺伝子改造技術による改造生物か。
    それらは最初緩慢な動きでふらつくように蠢いていたが、やがて眼前で騒ぐ人間達を獲物と見定めたらしく、途端に人間の動体視力を越えた俊敏な動きでその鋭い爪の閃く前肢を伸ばした。心の臓を過たず狙い定め、悍ましき凶器が獲物へ迫る。
    しかし、その爪が眼前の男の体を貫くかと思われた瞬間、鋭利に閃く光がその悍ましい腕を切断した。飛び散るどす黒い血と共に、切り落とされた腕が地面に転がる。いつのまにか白銀に煌めく鎧に身を包んだラーハルトが、どす黒い体液に濡れた白銀の槍を構え、化け物を睨みつけていた。身を包む特殊強化ラバースーツが、装着者の力強さを知らしめるがごとく、その筋肉に吸い付くように艶めかしく張り付いている。
    ヒュンケルが避難を呼びかけ、悲鳴と共に群衆が逃げ惑う。
    「まったく、空気の読めん化物め……」
    人々が粗方避難し終えたのを横目で確認し、苦々しく独りごちたラーハルトが、前傾姿勢をとる。次の瞬間、光が一瞬煌めいたよう、走り抜けた。
    まず一匹目が、腕の付け根の胴を寸断されて倒れた。次いで二匹目。間抜けに開いた口を槍の刃先が貫く。勢いで胴が弾け飛んだ。しなやかに鍛え上げられた肢体が美しく撓り、三匹目と四匹目を纏めて切り裂き、返す刀で五匹目を薙ぐ。六匹目――……いない。
    「っ……すまん、ラーハルト……」
    声に振り替えると、そこにはヒュンケルを羽交い締めにした六匹目がいた。買ったばかりの剣が、石畳に転がって虚しく日の光を跳ね返している。
    「ヒュンケル!」
    目を見開いて己の名を呼ぶ友の姿に、ヒュンケルは唇を噛んだ。ただでさえ全盛期の力も瞬発力も出せない上、慣れない靴のせいで動きが鈍い。剣で応戦を試みたが、石畳に履いたままのヒールを取られ、一瞬足下に気を取られれた隙に剣を弾かれ拘束されてしまった。――余りに不覚。戦士としてこの上ない恥辱。
    グランドクルスをしようにも背後から拘束されてはダメージを与えることは出来ない。いかにラーハルトが超人的技術を持つとはいえ、この怪物の弱点とも言うべき胴部分は完全に羽交い締めにされたヒュンケルの体に隠れてしまっている。
    「オレのことは構うな……!こいつを、さっさと倒せ!」
    ヒュンケルは必死に叫んだ。衰えたとは言え戦士として、これ以上彼の足手まといになるのは屈辱でしかない。
    悔しげに歯がみするラーハルトに、調子づいた怪物は手に入れた獲物を見せつけるように、なおも拘束されたヒュンケルをよく見える位置に向ける。
    「あぁっ……ぐ……っ」
    腕を締め上げられ、ヒュンケルの唇から苦悶の声が漏れた。逡巡しつつ隙を窺うラーハルトの、槍を握る手が震えている。
    ――嗚呼、柄にもなくめかし込んで浮かれていた結果がこれだ。愛する友の足手纏いになり続けて、いよいよオレに何の価値があるのか。オレはいつだって疫病神なのだ。ヒュンケルの目尻に涙が滲んだ。
    「貴様ァ!!」
    ヒュンケルの頬を伝う涙に、ラーハルトは激高した。惚れた女の悲しむ顔は見たくない。想いが叶わぬとしてもせめて悲嘆の涙など流させるものか。密かに胸に秘めていた誓いが、今目の前で瓦解した。脳が焼けつくような怒りと冷酷な殺意が、ラーハルトを満たす。ヒュンケルを拘束する、悍ましくも汚らわしい腕を見据え、狙いを定めた。
    刹那、銀の光が閃き、次いで空気を切り裂くような音が後を追った。
    ヒュンケルを拘束する腕が弾け飛んだ。解放されてぐらりと傾ぐヒュンケルの体を、白銀の鎧に包まれた腕が支える。
    「大丈夫か?ヒュンケル…」
    「ぅ…あ……すまん……」
    無事を問う言葉にヒュンケルの口から咄嗟に謝罪がまろび出る。
    「……いや、大事ない。すまない……お前の手を煩わせてばかりだ……」
    改めて言葉を付け加えるが、己の不甲斐なさへの悲嘆は拭えない。語尾に向かうに連れ、徐々に声が沈む。情けないと思いながらも、ほろりと涙が落ちた。一粒落ちると止める術もなくはらはらと続けて流れ落ちる。ああ駄目だ、これではまた優しい彼に気を使わせてしまう。
    晴天であったはずの空はいつしか薄暗く曇り、ぽつりぽつりと雨が降り出していた。雨の雫が、ヒュンケルの頬に落ち、涙に混じって滴り落ちる。
    「何を言う、オレは……」
    「……ッラーハルト!!」
    宥めようとするラーハルトの背に、引き裂かれるような衝撃が走った。ヒュンケルが悲鳴のような声でラーハルトの名を呼ぶ。
    先程の――とどめを刺し切れていなかった六匹目だ。今度はラーハルトの体がヒュンケルの膝へ倒れ込んだ。咄嗟に抱き留めるヒュンケルの手が、指が、見る見るうちに青い血で染まる。次第に勢いを強める雨が、背中に滲む血を益々広げて地面に滴り落ちる。
    片腕を飛ばされた六匹目が、ニタニタと口元を歪めながら、ラーハルトの血に濡れた鋭い爪を掲げていた。
    「――きッさまぁあ!!」
    ヒュンケルが涙に濡れた目を剥いて激昂した。
    肩に凭(もた)れ掛かるラーハルトが、掠れた声で“逃げろ”と言いかけるが、ヒュンケルの細い体が発する熱にビクリと肩を震わせる。
    彼女の体を、ほの白い光が包み込んでいた。――闘気。かつてラーハルトを討ったその激しい力が、今また彼女から発せられているのだ。
    傍らに転がる、先程買ったばかりの――ラーハルトが選んでくれた剣を拾い上げ、ヒュンケルはあたかも悪霊を祓う退魔師のように、前方へ向けて威風堂々と剣を構えた。目標に照準を合わせ、十字の刃先に光が集束する。眼前に高まりゆく圧倒的な力に異常事態を察した六匹目が、口元を強張らせて後退る。次元を歪ませんばかりに破壊的な力を持って凝縮されゆく膨大なエネルギー。眩しいほどの白光の中、彼女の魂の色そのままの、濃紫の闘気が放射される。濃紫冥府魔道を象徴するとも言われるその色が、ラーハルトの目には酷く美しく映った。

    「グランドクルス!!」

    咆哮が、迸る光の奔流と共に、叩きつけられた。獰猛な海嘯にも似て、目映く輝く光の大嵐が全てを食らい尽くさんと襲いかかる。
    哀れな六匹目は、圧し潰される様に光に飲み込まれ、やがて跡形もなく消滅した。
    降りしきる雨の中、後に残ったのは、肩で息をしている女一人と、倒れ伏す男一人。

    --------------------------------------------------------------------------------------

    雨の中、地を蹴立ててヒュンケルは走る。片方残った靴は走るのに邪魔だととうに脱ぎ捨てた。
    その背には背中の傷にカーディガンで止血処置を施されたラーハルトが負ぶさっている。取り急ぎ止血処置を行ったものの、傷は浅くはない。回復力の高い魔族の肉体をもってしても余談は許されない状況にある。
    白い素足に、爪先に、血が滲むのも構わず、ヒュンケルは目的の場所を目指しひた走った。
    気力と焦りと確たる希望を胸に、ただ走った。

    --------------------------------------------------------------------------------------

    夜半、激しく扉を叩く音にポップは魔道書から顔を上げた。
    「……ったく何なんだよこんな時間に……」
    扉の向こうの人物はよほど焦っているのか、ひたすら乱暴に扉を叩き続けている。
    近所迷惑だろうがと苛立ちながらもポップは戸口の前に立ち、誰何の声を投げた。
    「はい、誰ェ?今営業時間外なんだけど……」
    「ポップ!!オレだ、開けてくれ!頼む!!」
    覆い被せるように、聞き慣れた姉弟子の声が響いた。その吼えるような勢いに尋常ではない状況を悟ったポップは瞬時に表情を引き締め、扉を開けた。
    「ああポップ!すまない!頼む、どうか、こいつを助けてくれ!!早く、ベホマを!!」
    果たしてそこには、血と汗と泥にまみれていつもの相棒を背負ったずぶ濡れの姉弟子がいた。普段の冷静さなどかなぐり捨てたように、縋るような目をポップに向け、唇を震わせている。
    「落ち着け、わかったわかった。とにかく入んな」
    急く姉弟子の肩をポップはあやすように叩き、部屋の中へ導いた。

    「ほら、シーツ敷くからそいつの鎧引っぺがして寝っ転がらせてくれ。腕輪も外すぞ。……と、呪いの類いを喰らったわけじゃねえんだな?オレは医者じゃねえから完璧な診断はできねえが、まぁ一応毒消しにキアリ―もかけといてやるさ」
    てきぱきと指示をする弟弟子に、ヒュンケルは言われるがままラーハルトの体から魔槍の鎧化を解除し、変化の腕輪も外す。見る間に、人間そっくりの薄杏色の肌が――いまや土気色ではあったが――魔族らしい紫苑色に染まり、耳と牙が尖って伸びる。目の下にも、流れ落ちる涙のような紋様が浮かび上がった。本来の姿を取り戻したラーハルトを、ヒュンケルは肩を支えて抱え上げ、床に敷かれた白いシーツの上にその身を横たえた。
    不意を突かれて喰らったダメージは幸い致命傷には至らなかったが、ラーハルトの容態は決して良くはない。汗にまみれ血の気の引いた紫苑色の頬を強ばらせ、凜々しい眉を顰め、食いしばった歯列からふうふうと苦痛を堪える息を漏らしている。
    取り急ぎ汗と泥にまみれた服をポップはむしり取るように脱がせ、ヒュンケルに台所の薬草を囓ってから水を張った桶と手拭い布を持ってくるよう言いつけた。冷静さを欠いた相手には他者がなすべき必要な行動を指示する方が効率が良いし、混乱した当人にとっても思考を落ち着かせる余裕が出来るというものだ。
    「待たせた、これでいいか」
    「おお、サンキュ。こっちは心配ねえよ。この大魔道士サマのお力に掛かれば明日には全快だぜ。念のためもう少し休ませといた方が良いだろうけどな」
    ヒュンケルを振り仰いだポップが明るく応える。見れば、ラーハルトはあれほどの荒々しい呼吸がすっかり落ち着き、穏やかに和らいだ表情で眠っていた。弟弟子の心遣いと友の回復に、ヒュンケルは安堵と己への不甲斐なさで改めて涙の出る思いだった。
    「オメーも薬草だけじゃ何だしホイミかけといてやるよ。ついでに風呂使って良いからさっぱりしてきな。着替えはオレの法衣(ローブ)貸してやるよ、あれなら体のサイズある程度自由がきくだろうし」
    「本当に、何から何まですまない……この礼は改めてさせてもらう」
    「気にすんなって。いつまでもそんな汚れた格好でいられちゃ掃除の手間が掛かるってだけだ。それにオメーだって一応女だしな」
    ふ、とヒュンケルの唇が穏やかに和らぐ。今は何よりも弟弟子の軽口が不安と苦悩を拭い去ってくれた。

    「しっかしまた随分と派手にやられやがって。まさかコイツがねぇ……どんなヤベェ奴なんだか」
    ヒュンケルが洗い髪を拭きながら部屋に戻ると、ラーハルトの体の清拭を済ませた弟弟子が溜息と共に訝しむように呟いた。床でなくベッドに寝かされているところを見るに、おそらくポップはバイキルトで筋力増強し、ラーハルトを寝台に担ぎ上げたのだろう。
    今後の対処のために情報共有は重要だ。ヒュンケルは、自分たちも見慣れぬ怪異なモンスターが出現したこと、何者かが何らかの明確な意図を持って地上に改造生物を送り込んだ可能性があること、自分を庇ってラーハルトが倒れたことを掻い摘まんで伝えた。
    「なるほどな。何モンだか知らねえが、まぁたヒマな奴が地上侵攻企んでる可能性アリってか。……ったく迷惑な話だぜ」
    「いずれにせよ油断はできん。オレは明日にでもカールとパプニカへこのことを報告するつもりだ」
    「ああ、頼んだぜ。にしてもこいつがこんな重症(ヘマ)するなんてなあ」
    ポップはラーハルトを見下ろし、次いで何の気なしにヒュンケルを見やる。今の言動に特段含むところはなかったのだが、自身もかつては恋に悩んだ経験のある大魔道士は、ヒュンケルの表情が曇るのを目敏く察知した。
    「やれやれ、お熱いこって。まーったくオメーらはホンット手ェかかるんだからよ。ちゃあんとハッキリしときな。これは“センパイ”からのアドバイスだぜ」
    「ポップ……」
    これ以上付き合ってられるかとばかりにポップは大仰な欠伸を一つし、手をひらひらと振って自室へと足を向けた。
    「後はお二人でごゆっくりどーぞ。明日はそんな辛気臭ェ面見せンなよ」
    気怠げな言葉が終わるか終わらないうちに、ドアはポップの背中を飲み込んで閉まった。部屋には、ヒュンケルと、いまや全ての傷を癒やされ昏々と眠りにつくラーハルトだけが残された。

    「ん……う……」
    ラーハルトの意識が薄暗がりの微睡みから緩やかにと浮上する。瞼の裏を仄かに透かして見える灯りの色を追うよう、ゆっくりと瞼を開けた。
    「ラーハルト……!」
    聞き慣れた声が名を呼ぶ。ぼやけた視界の中で声の主は次第に明確な像を結び、やがてそれは友の姿となった。
    「ヒュンケル……」
    「ああ良かった、目を覚ましてくれたか……」
    両手でラーハルトの手を握り込み安堵の涙をにじませるヒュンケルの姿に、また泣かせてしまったかとややばつの悪い気分になりつつ、ラーハルトは問うた。
    「ここは?」
    「ここはポップの家だ。重傷を負ったお前を担ぎ込んで治してもらった」
    「そうか……どうやらまたヤツに借りを作ってしまったようだな」
    ばつが悪そうにも、敬服したようにも見える複雑な表情をラーハルトは浮べた。主君への献身といいヒュンケルへのフォローといい恋といい、まったく敵わぬものだ。
    一方で、物思いに耽るラーハルトの横顔を眺めるヒュンケルの胸中にも、再び彼にむざむざ傷を負わせてしまった事への罪悪感が暗雲のように差し掛かった。
    「……今日は本当にすまない。オレのせいでお前の手を煩わせた挙げ句、あんな大怪我を負わせてしまった。詫びのしようもない」
    ヒュンケルは頭を下げた。自分が彼を連れ出さなければ、あんな雑魚に不覚を取らなければ――後悔しても仕切れない。自己満足と言われようと、とにかく彼に誠心誠意謝罪しなければ気が済まなかった。
    そんなヒュンケルを静かに見つめ、ラーハルトは安心させるように優しく微笑んだ。
    「顔を上げろ。お前は倒れたオレのために涙を流して戦ってくれただろう?あの凄まじい闘気、初めてお前と刃を交えた時を思い出したぞ」
    伸ばされた紫苑色の指が、ヒュンケルの片頬を包み、親指で目尻に溜まった涙を拭う。その手の暖かさに、ヒュンケルは凍える手が暖かなものに触れるよう、喰い閉めていた歯を緩め、恐る恐ると己の手を重ねた。
    「これだけは言っておこう。ヒュンケルよ、オレはお前の優しさと闘志にずっと救われてきたんだ。初めてお前に出会ったあの日から、ずっとな」
    紛う事なき本心だった。ヒュンケルという人間には、一度決心したら必ず貫き通す不器用なまでの直向きさがあった。そして、燃え盛る恒星のような烈しい闘志をも併せ持っていた。初めて彼女の闘気を喰らった瞬間、あれが彼女の魂が生み出した力なのかと愕然とすると同時に、どこか奇妙な――穏やかな安堵を覚えてもいたのだ。
    彼女ならば、妄執の怨嗟に狂う養父(ちち)を、敬愛する主君を救ってくれるかも知れないと。
    そして彼女は、その通り傷だらけの体を押してまで、彼の新たな主君のために尽くしてくれたのだ。嫌えるはずがなかった。礼を言うべきはむしろこちらだというのに。彼女の持つ恐るべき闘志、贖罪のために己を容易く擲(なげう)つ危うさ、健気さと情け深さ、鋭利にして折れそうな細身の剣のような繊細さ――それらが自分をこうも強く惹き付けた。
    「ラーハルト……」
    ヒュンケルの胸に熱いものがこみ上げた。自分はただ、己の贖罪と、仲間達への貢献、そして彼の魂とも言うべき魔槍を預かる身として彼の高潔な魂に相応しくあろうと、我武者羅に戦い続けてきた。彼は傍らでずっと見ていてくれたのだ。ヒュンケルは、静かに瞼を閉じ、頬を包むラーハルトの手を己の手で包んだ。

    意を決したようなヒュンケルの様子に、ふとラーハルトは頬を撫でる手を止めた。
    涙に潤むヒュンケルの黒檀色の瞳が、しっかりとラーハルトを見据えている。その美しさに、ラーハルトは思わず息をのんだ。
    喰い閉められていた唇が、開く。
    「ラーハルトよ。オレはお前が好きだ。友としてではなく、女としてお前を愛している」
    一瞬、これは夢幻かとラーハルトは呆けかけた。だが己の手は相変わらず彼女の手の温もりを確かに伝えている。
    「え……あ、オレ……を?」
    「そうだ」
    柄にもなくしどろもどろになるラーハルトをヒュンケルは依然強い眼差しでしっかりと見据える。
    「お前、あの魔法使いのことは……」
    衝撃のあまり、心に秘めておこうとしていた疑問がぽろりとまろび出た。
    「魔法使い?ああポップか。そのポップに発破を掛けられてな、いつまでもウジウジしていないではっきりさせろと」

    「――だから、卑怯かも知れないが、今この場で言った」
    ラーハルトの心の中の冷えた重しが、じわりと氷解し、温かく溶け崩れていく気がした。思わず口元がだらしなく緩んでしまいそうになるのを慌てて堪える。今この場にいるのが自分一人であったなら、自分の今までの馬鹿馬鹿しい取り越し苦労をいっそ笑い飛ばしたい気分だった。
    「そう、か。ならばオレも応えねばなるまい」
    告白の応えと聞いて居住まいを正すヒュンケルへ、ラーハルトもまっすぐに見つめ返す。
    「ヒュンケルよ、オレもお前を愛している。焦がれてならん」
    次はヒュンケルが大きく目を見開いた。
    「嘘、じゃない、のか?」
    「このオレがこの場でそんな冗談を言うと思うか。紛うことなく、お前に惚れている」
    ヒュンケルの顔が歓喜に綻び、その瞳に新たな涙が滲む。
    「お、おい、泣いてくれるな」
    慌てたラーハルトがベッド周辺を探ってハンカチを探すが、生憎すぐに手の届く範囲にはない。思い余った挙句、身を起こしてヒュンケルを抱き寄せた。
    「……ッ?」
    頬から耳まで仄かな薄紅色に染まったヒュンケルの目元に、濃紫の唇が寄せられ、涙を吸った。我ながら随分大胆な行動だとラーハルトは思ったが、腕の中のヒュンケルの様子を窺うと、ヒュンケルはラーハルトに身を預けたまま陶然と目を細めている。耳が更に赤く染まり、儚げに揺れる瞳が、じっとラーハルトを見つめ返した。
    「ヒュンケル……」
    ラーハルトの形よく整った唇が、言外に「いいか?」と訴えている。それに対し、ヒュンケルは目を閉じ、唇を差し出すことで応えた。
    ゆっくりと互いの唇が近づき、重なる。柔らかな温もりと粘膜同士の接合。舌こそ触れ合っていないものの、ぬめる感触はさほど快いものとは思えなかったが、それが好いた相手のものであると意識した途端、興奮材料に変わった。互いの背筋に熱いものが走る。恐ろしいほど鼓動が高鳴り、耳障りなほど脳に響く。
    女性ながらに強靭かつしなやかに鍛え上げられた体が、男の腕の中で助けを求めるにしがみ付いた。その仕草に、ラーハルトは先ほどまでの遠慮や見栄をかなぐり捨て、両腕の中にヒュンケルを強く抱き込む。ヒュンケルも負けじとラーハルトの背に回した腕で爪を立てんばかりに縋り付く。鼓動を伝え合おうとするかのように、互いに強く抱き締め合った。
    しばしして重ねた唇を話し、互いに相手の顔を改めて見つめる。潤む瞳が互いを映す。
    「……あ、おい、あまりそう見つめてくれるな」
    最初にラーハルトが根負けした様、ふいと目を逸らした。その長い耳は魔族特有の血色に艶めいて染まっている。
    「ああ、すまない。見とれてしまっていたんだ」
    「まったく、お前はつくづくとおかしなところで大胆だな」
    喜びの入り混じった苦笑いがラーハルトの唇に上った。初心に恥じらったかと思えば大胆な言動に出たりと、彼女は自分を飽きさせてくれない。
    その胸元へ、ヒュンケルが先程の温もりの名残を惜しむように、手のひらを当てる。
    「ヒュンケル?」
    「お前、すごくドキドキしているな」
    「言うな。ガキみたいにみっともなく胸を高鳴らせて、まったく我ながら酷い有様だ」
    自嘲するラーハルトの手を取り、ヒュンケルは己の胸元へ導いた。
    「ひ、ヒュンケル!」
    思わぬ行動と手の中の柔らかな感触にラーハルトが狼狽える。放そうとするラーハルトの手を、ヒュンケルはさらに強く力を込めて胸元に抱いた。
    「オレも同じなんだ。ドキドキして胸が痛いくらいなのに、ものすごく心地いい。もっとお前に触れたいし触れられたい。――ああ、オレはおかしくなってしまったのか?こんなことを考えてしまうだなんて……」
    大胆な告白を連ねるヒュンケルの体を、再び力強い腕が包み込む。
    「まったく、男冥利という奴だな」
    赤く染まったヒュンケルの耳元で、溜息のような感慨深げな呟きが零れる。彼女の視界の端に映る長耳も、同じように歓喜の血色に染まっていた。



    ――そうだ、昨日アバンから焼き菓子を土産にもらってきたんだ。一緒に食べないか。
    ――ああ、そうだな、有難くいただこう。
    ――紅茶は何にする?お前の好きなダージリンはこの間買い込んであるが……
    ――いや、コーヒーがいいな。お前の淹れたコーヒーは馥郁とした香りがする。
    ――お前に教わった通りに淹れているだけだぞ?
    ――好いた相手の作ってくれるものは格別だからな。
    ――まったく、言ってくれる……だが、同感だ。


    ――しかし、ポップにも随分世話になってしまったな……礼をしてもしきれん。
    ――まったくだ。おかげで今後しばらくはあの魔法使いに頭が上がらん。
    ――お前、案外嫌そうじゃないな。以前なら苦虫かみつぶしたような顔していただろうに。
    ――あいつには心底感謝しているのでな。さすがにオレとてそこまで恩知らずではないさ。
    ――そうか。……そうだな。ははっ、良かった。あいつの素晴らしさを分かってくれて嬉しいよ。あいつと同門であることが、オレには堪らなく誇らしい。
    ――お前の口からあいつを褒められるのはやはり悔しいが……まあ、同感だな。ダイ様やバラン様程ではないが。

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