さはん現代転生AU「師尊……?」
現世では一度も呼ばれたことのない敬称で己を呼ぶ声を、忘れたことはない。だが沈垣は前へ踏み出す足を止めるわけにはいかなかった。
頼まれた買い物のために、いつもより遠回りをした帰り道。葉を落とした木々が並ぶ公園に人影はまばらで、夕暮れの小路をマフラーに顔を埋めるようにして足早に通り抜けようとした。
四方を住宅街に囲まれた広い公園に入口は無数にある。それなのに、何故よりによってこの道を選んでしまったのだろう。街に住んで十年は経つというのに、どうして今さら再会してしまうのだろう。
相手の存在を予想をしていなかったわけじゃない。だが最悪の光景を目の当たりにした瞬間、彼らの元へ真っ直ぐに伸びている煉瓦畳が今すぐ崩れ落ちてくれればいいと願った。
「師尊! 師尊ですよね……!」
前方で足を止めていた人物が、駆け足で近付き沈垣の目の前に立つ。沈垣はわざと眉根を寄せて、行路に立ち塞がった相手をちらりと窺い見た。
「俺……私です、洛冰河です。師尊、貴方の」
そこまで言葉を続けて、洛冰河は一度口を噤んだ。出会い頭の自己紹介として、どんな言葉が適切かと逡巡したのだろう。やがて、満面の笑みで「貴方の弟子です」と大きな両手が二の腕を掴む。痛みに顔を歪めても、感動に打ち震える洛冰河は今にも噛み付かんばかりの勢いで、じっと沈垣を見つめることをやめなかった。
「洛、冰河……」
名前を呼ばれ、頬を紅潮させて期待に満ち溢れた相手の容姿を、沈垣は改めて観察する。
緩く癖のついた漆黒の艶髪と、元より輝く瞳をさらに眩しくさせる涙の膜。高く真っ直ぐな鼻梁の下には程よく肉づいた唇が、泣くのを堪えて戦慄いていた。前世で沈垣を師と仰いだ、美貌の弟子であり、添い遂げた同侶。前世の記憶の中に在る生涯の相手であることに間違いはない。
そして背後には、同じ顔をした男がもう一人佇んでいる。
「……」
「師尊?」
沈垣の視線が公園の入口を見やった瞬間、洛冰河と瓜二つの顔を持つ相手が、唇の端を持ち上げて笑う。同じ制服を身に着けているために、見た目の違いと言えば無造作に束ねられた髪型と耳元のピアスくらいだ。それでもやはり、沈垣の良く知る洛冰河とは違う。洛冰河の瞳は、相手を値踏みするような翳りを帯びたりしない。少なくとも、師である沈清秋に対しては。
すなわちあれは、と確信を持った時、沈垣は眉間の皺をますます深くして腕を掴む洛冰河の手を振り払った。
「すみません、人違いだと思います」
「え……?」
「俺は貴方達に見覚えはありません」
服を整え、荷物を抱えることで警戒を示す。訝しげな視線で洛冰河を見やり、そのまま脇を通り抜けようとした。
「そんな、師尊……!」
待ってください、と手首を掴まれる。今度は先程よりも勢いをつけて乱暴に身を捩った。
「やめてください、警察呼びますよ」
「っ……」
毅然とした態度で睨みつければ、相手も動きを止めざるを得ない。困惑と絶望に顔を歪めた洛冰河に背を向けて歩き出し、公園の入口に立つ男には一瞥も与えずにすれ違う。
背中に突き刺さる視線を感じながら、沈垣はわざと自宅とは反対の方向へ曲がって駆け出した。
整備された区画を出鱈目に走り、大きな通りに出ると目についたバスに飛び込む。どくどくと煩い心臓を押さえて深呼吸を繰り返していると、沈垣の様子を心配した小学生が席を譲ってくれそうになった。すぐに降りるから、とかろうじてお礼を言えた自分を褒めてやりたい。
そうして幾つかのバス停を過ぎてから適当な場所でバスを降り、重たい足を引きずってようやく帰路についた。
陽はとうに沈み、帰宅予定時間は大幅に過ぎている。ポケットのスマートフォンが二度ほど着信を告げて震えたが、脚と同じくらい疲れ果てた腕は動かすのも億劫だった。
見慣れた景色が広がり、明かりの灯った家々の中で、同じように玄関先を照らした自宅の門をくぐる。鍵を使って扉を開ければ、沈垣が生まれたときから共にいる兄が、リビングからひょこりと顔を覗かせた。
「遅い。何してたんだ」
「……ごめん、ちょっと寄り道」
「なら電話くらい出ろ」
まったく、と面倒くさそうに溜息を吐いて、呆れた表情で玄関へとやってくる。双子の兄である沈九は、やや強引に沈垣の荷物を奪っていった。それが疲れた顔をした沈垣を気遣っての親切だと気付けるのは、彼の性格を知るごく一部の人間だけだ。
「早く着替えろ。とっくに夕飯出来てるぞ」
「そうだね、小九もきみの帰りを心配してまだ食べてないんだ」
「七哥!」
余計なことを言うな、と微かに頬を染めた沈九が食ってかかった相手。
仕事帰りであろうスーツ姿で、上着とネクタイを外した岳清源は、穏やかに微笑みながら沈九の拳を受け止める。沈九があんな風に感情をあらわにするのは、兄弟である沈垣の他は幼馴染である岳清源に対してだけだ。更には「すまない」と宥められ、唇を尖らせてそっぽを向くなんて子供のような仕草は、沈垣にだって滅多に見せない。
双子とはいえ、沈垣に対しては兄として振る舞う沈九が甘える唯一の人なのだ。そこに沈九が心地良さを感じていることも、沈垣は良く知っていた。
「さっさと上行って来い」
沈垣の荷物の中を覗き込みながら、自身が頼んだ買い物の品を見つけた沈九が一足先にリビングへと戻っていく。二階の自室へと続く階段に足をかけた沈垣は、沈九の姿を瞳で追いかける岳清源を横目でちらりと見ることで意識をこちらに向けさせた。
「掌門師兄、ご相談したいことが」
「……分かった。あとで話そう」
一瞬で蘇った過去の関係に、ゆっくりと頷いて階段を上る。現世では片割れとも呼べる沈九の今の生活を守るためなら、沈垣にはどんな嘘でも突き通す覚悟があった。
***
前世の記憶が無いのは沈九のみ。岳清源は五歳上ですでに社会人。沈垣も沈九も大学生だけど、人嫌いな沈九は通信教育を選択して今は引き籠もり状態。たまに株を転がしてるから小遣い稼ぎくらいにはなってる。寧ろ沈垣にバイトさせないためにやってると言っても過言ではないくらいに沈垣のことは好き。両親は海外転勤中で、岳清源が仕事帰りによく夕飯を買ってきてくれたり作ったりしてくれてる。
沈垣と岳清源はそれぞれ高校生くらいで前世を思い出した。
双子冰河は現在高校生だけど、前世の記憶は幼少期から持ってた。なんなら相手が誰かを知った時に殴り合いくらいしてそう。冰妹は師尊が二人いる可能性には全く気付いていないけど、冰哥はおそらく察してる。沈垣も記憶を取り戻したときに沈九が「あの沈清秋」だって気付いて、もしかすると冰河も…と思っていたところに今回の再会。
岳清源は沈垣が記憶ありと知った時に沈九についても正体と経緯を聞いていて、それ以来やたらと沈九を甘やかすようになった。沈九もムッとしつつ嬉しそうにしてることを知っているから、二人の今の良好な関係を近くで見ていた沈垣はそれを守りたいと思ってる。むしろ前世では自分の存在が岳清源の小九を奪ってしまったから少しは償えるんじゃないかと。
だからこそ、「あの沈清秋」に執着している冰哥が存在するとしたら絶対に二人を会わせるわけにはいかないと思ってる。冰妹といるとその可能性は増す一方だろうし、現世では生まれたときから一緒にいる沈九を守りたいと思った結果、知りません赤の他人です、な態度だった。
でもきっと冰妹はしつこいだろうし、冰哥も大人しくしてるわけがないからなんやかんやで逃げ切れなくて……な現代転生AU。
これをどうすれば冰秋&冰九にできるんや…書けばいい案が浮かんでくれないかな…という淡い期待を込めて🙏