さはん現代転生AU② 警察に通報されたら面倒だからと、連絡だけは入れることにしたらしい。道中で見かけた公衆電話を前に立ち止まった沈九は、決まりが悪そうにちらりと洛冰河を見上げた。言いたいことはわかっている。彼はスマートフォンも、財布も持っていないのだ。
だが、残念ながら洛冰河も小銭は持ち合わせていなかった。少し待っているよう言い残して最寄りのコンビニに入り、適当に店内を物色して紙幣一枚を店員に渡す。お釣りを細かくしていただけますか?と微笑みかければ、恐らく学生であろう、アルバイトらしき女性は慌てながらも喜々として洛冰河の手に小銭を握らせてくれた。ついでに二つに折られたメモもひとつ。両替金を用意すると言って暫くパタパタと動き回っていたのは、このメモを書くためだったようだ。
「ありがとう、助かりました」
「いえ……」
頬を染めて俯いた彼女に手を振って店をあとにする。外で待っていた沈九は、店内でのやり取りには目もくれていなかった。
洛冰河が手渡した小銭を受け取り、「必ず返す」と小さな声で呟いて電話ボックスに向かう。なんだ、つまらない。助けてやったというのに、沈九は洛冰河に全く興味を示していない。
後ろを振り向けば、先程の女性はまだこちらを見ていた。再びにこりと微笑んで、彼女によく見えるよう、わざとゆったりとした仕草でメモをポケットに仕舞い込んだ。
◇
小九から連絡があったと電話越しの岳清源に告げられたとき、沈垣はその場で腰を抜かしそうになった。無論、安堵の気持ちからである。しかしその安心は長くは続かなかった。
「それで、阿九はどこに……!?」
『それが……今日は知り合いの家に泊まる、と』
「……知り合い?」
電話の向こうで岳清源が戸惑うのも無理はない。沈垣も、心の中でありえないと呟いた。
学校でも常に人を寄せ付けず、今は家からほとんど出ない生活をしている沈九に、突然の宿泊を頼める知り合いなど存在するのだろうか。仮にオンラインでやり取りをしている誰かがいたとしても、警戒心が人一倍強い沈九が見ず知らずの人間の家に泊まるはずがない。
まさか、と考えてしまうのは、数日前にもう一人の洛冰河と接触したせいだと思い込みたい。アレが沈九を連れて行ったと、まだ決まったわけではない。
直前までこの話題を共有していた岳清源もまた、沈垣と同じ想像をしてしまったらしい。沈黙ばかりが続く受話器から、やがて岳清源の声が静かに響いた。
『一度、戻っておいで。今後のことを話そう』
「……今はそんな必要は」
『師弟、雨が降りそうだ。戻ってきなさい』
いいね、と促されて、反論する前に電話を切られた。確かに、どこかの建物に入られてしまえば見つけようがない。頭では理解している。
しかし、先ほど電話があったばかりだと言うことは、今なら探せば見つけられるかもしれない。たとえ誰かが一緒にいたとしても。寧ろ遠目にでも、その相手が「あの」洛冰河以外だと分かれば、それだけで充分なのに。
会わせてはいけない。きっと酷い目に合う。あいつがどんな手段で、どれほどの時間をかけて「沈清秋」を殺したのかを今でも覚えている。確かに、あの物語を読んでいるときは殺されて当然だと鼻で笑った。復讐の仕方が生温いと作者をなじったこともあった。
でも今、沈垣の隣りにいるのは、生き方が少し不器用なだけの兄の沈九だ。沈清秋は惨い拷問の末に死に、物語は完結した。沈九は「洛冰河に憎まれるべき沈清秋」ではない。彼を大切に想う人と、今を幸せに生きる権利を持っている。
だからどうか、この胸騒ぎが気のせいであってほしい。
再び駆け出した沈垣の頭上に、一粒、二粒と冷たい雫が降り注ぐ。それらはあっという間に無数の雨粒となり、アスファルトを濃い色に染め上げた。
道行く人が傘をさし、軒下へと避難する様子を必死に見渡しながら足を動かし続ける。背格好が似た人を見つけるたびに振り返り、追いかけて傘の中を覗き込んでは訝しげな視線を投げかけられて頭を下げた。
やがて、今日の沈九はどんな格好をしていただろうと朧気な記憶に頭を振った沈垣は、前から来る人に気付かず勢いよくぶつかってしまう。その人がさしていた傘の下に入り、一時的とはいえ真上からの雨が止んだ。
「すみません……」
相手は沈垣よりも背が高い男だった。顔を上げず、脇を通り抜けようとした沈垣の腕が不意に引き止められる。
「あの」
知っている声だ、とぼんやり相手を見上げた。
あの時は溢れんばかりの喜びで光り輝いていた瞳が、今は心配そうに沈垣を見つめている。情けなく眉尻を下げた顔が、なんだかとても懐かしかった。
「あ……違います、偶然なんです。この前も偶然でしたが、今日もたまたま貴方をお見かけして……あの、ひどく濡れておられます。お風邪を召したら大変ですので、良かったらこの弟子、いえ、私の傘を」
「……冰河」
話を遮って、つい名前を呼んでしまった。口を噤み、ますます大袈裟に眉を寄せた相手は今にも泣き出してしまいそうだ。
以前は警察を呼ぶなどと言ったから、今日のこの子はこんなにも怯えているのだろう。不審者ではありません、と全力でアピールする姿が、身体の大きさに似合わずになんとも健気で、縋れるものに、つい助けを求めたくなってしまった。
「冰河」
もう一度名前を呼ぶと、潤んだ瞳がそっと伏せられる。頬を伝う涙を指先で拭えば、彼は「師尊」と控えめに声を震わせた。
◇
目的地に着くまでに、空は平穏を保ち続けられなかった。
土砂降りに等しい雨の中をなんとか走り抜け、マンションのエントランスをくぐる。
「ここは親の持ち物なので、自宅ではありません。安心して身を隠せますよ」
聞かれてもいないことを先に口にして、オートロックを解除する。きゃあきゃあとはしゃぐ女性ばかりを連れ込んできた洛冰河にとって、これほど静かな相手とエレベーターに乗るのは初めてだった。父親が会社を経営していること、所有する物件はいくつかあるが、ここが一番静かなので気に入っていること。エレベーターを降りるまでにいくつか話をしてみたのだが、沈九の反応は薄い。
玄関の扉を開けて案内すると、人気のない室内を警戒しつつも「お邪魔します」と洛冰河の前を横切った。きちんと鍵をかけながら、借りてきた猫のようですね、という感想は思っても言わないことにした。
「先にシャワーどうぞ。濡れたので寒いでしょう?」
「後でいい、家主だろう」
「ええ、その家主は少し部屋を掃除したいので」
「……」
にっこりと笑って、廊下の途中にある洗面室に立ち寄る。洗濯乾燥機の場所を教えてタオルを手渡すと、途端にそれ以上何も言わなくなった。
扉を閉め、暫くすると控えめなシャワーの音が響き渡る。中を確認すると、浴室のくもりガラスの向こうに細身のシルエットが浮かんでいた。沈九の服の上に濡れた自分の服も脱いで入れ、便利な家電のスタートボタンを押す。これで、少なくとも突然気が変わって帰ってしまう可能性も低くなるだろう。
寝室へ移動し、適当な服を見繕って自身も乾いた服へ袖を通す。部屋の掃除などもちろん嘘だ。数日前にちょっとした集まりをしたが、その後はハウスキーパーによってモデルルーム同様に部屋を整えられている。
あとは適当に時間を稼いで、沈九が浴室を出るタイミングで再び突入してみるのも面白い。あの沈清秋が大人しく洛冰河に従っている。これほど新鮮で楽しいことはない。
たとえ前世の記憶がないとしても、それがどうしたというのだろう。彼が沈清秋であったことは疑いようのない事実だ。
「……」
けれど、前世と同じように痛めつけるのは正しい行いとは言えない。少なくとも今の彼は一度も洛冰河を虐げてはいないのだから。
面白いほど従順な沈九を、ほんの少しからかって、思いつくままに遊んでから後のことを考えればいい。
シャワーの音が止まり、浴室の扉が開く。身体を拭いた彼は、着替えがないことに戸惑っているはずだ。それをあたかも「まだシャワー中だと思っていました」という体で、ノックもせずに扉を開ける。同性とはいえ、知り合ったばかりの人間に全裸を見られて慌てない奴はいない。単に彼が戸惑い、驚く姿が見たかった。
「着替え置いときますねー?」
「っ、待て……!」
待てと言われて、待つはずがない。今の洛冰河は形式的に声がけをしただけで、沈九はまだシャワーから出ていないと思っている設定なのだから。
聞こえないふりをして扉を開ける。案の定、肩を震わせた沈九は身体の前でタオルを広げたまま固まっていた。その瞳には困惑が滲み、微かな怯えさえも感じられる。想像していた通りの光景が広がっていた。
あとは軽く謝って着替えを渡し、何事もなかったかのようにそこを出ればいいだけ。そのはずなのに、洛冰河の視線は沈九の姿を見つめたまま、一向に逸らされる気配がない。
「の、ノックぐらいしろ。いくらおまえの家でも……おい、洛冰河?」
手にしたタオルをどうにも動かせず、伸ばされた髪も相まって、沈九の体格が丸みを帯びていたら華奢な女の子が恥じらっているようにしか見えなかっただろう。もし沈九が女性で、そういう目的のために連れ込んだのだとしても、洛冰河はこの場で衝動的に行為に及ぶほど経験値が低いわけではなかった。それなのに、ついその肌に目を見張り、手にしていた服を投げ捨ててまで沈九の元へと近寄ったのには理由がある。
「……何ですか、それ」
「え……?」
洛冰河の瞳の先、タオルから覗く肌には、四肢の付け根をぐるりと囲むような痣があった。まるで、千切れた手足を繋ぎ合わせたかのような傷痕だ。
「あ、ああ、これか」
目を見開いて近寄ってきた洛冰河に、沈九は彼の質問の正体に気付くと寧ろほっとしたように肩の力を抜いた。
「言っておくが、別に事故や病気じゃない」
生まれつきだ、と沈九が溜息をつく。
「生まれつき……?」
「そうだ。おかげで両親は弟と区別がつきやすかったらしい。まぁ、動かすのに支障もないしな」
「……では、目は? どうですか?」
「おい、何を……っ」
洛冰河は無意識に沈九の二の腕を掴んでいた。親指の先が腕の痕をなぞるが、両の瞳は沈九を見つめたままだ。覗き込んでくる双黒がやけに必死で、沈九は不快さをあらわにしつつも再び深く息を吐く。
「阿垣……弟からなにか聞いたのか? 目も生まれつき片方の視力が弱い。だからと言って」
「では、口は? 舌はどうです?」
「ッ、何なんだ、お前は……! 味覚が鈍いのも生まれつきだ、だからなんだ!」
お前には関係ないだろう!と叫ぶように告げられる。指が食い込むほどの力で腕を掴まれているのに、苛立つ沈九は怯むことなく洛冰河を睨みつけた。
「……もういい。服が乾いたら出ていく」
「どうしてですか」
「借りた金は弟経由で返す。理由は知らないが、この身体がお前にとって不快なんだろう。こっちだって見せたくて見せたわけじゃない」
手を振り解こうと身を捩る。とはいえ、あまり大きくは動けない。最悪蹴り上げるか、と眉根を寄せる沈九の耳に、洛冰河のか細い声が届いた。
「……嫌です。行かないでください」
「はぁ?」
「どうして、貴方は覚えてないんですか。俺は全部覚えてるのに」
それきり、洛冰河は黙り込んだ。
これには沈九も困り果ててしまう。自宅にいる弟と幼馴染の様子もおかしかったが、弟の知り合いだという目の前の男も相当おかしい。だが今夜行くところがないのは事実で、今の自分は服も着ていない状態だ。
出ていくにしても留まるにしても、とりあえず服は着なければならない。
「わかった。わかったから、手を離せ」
「離しても、ここに留まってくれますか」
「……行く場所もないしな」
「あの、」
何かを言いかけた洛冰河の声を遮ったのは、部屋に響いたインターホンの呼び出し音だった。
顔を見合わせると、沈九の瞳には僅かな動揺が浮かんでいる。違いますよ、と首を振り、洛冰河はその場を後にした。